≪生死は輪廻するもの≫

 

それ生はわが好むにあらず。

 

死もまた人の憎むにあらず。

 

しかれどもなお、

 

生れゆき生れゆきて六趣に輪転し、

 

死に去り死に去って三途に沈淪(ちんりん)す。

 

【現代語訳】

誰でも人は好んで生まれてきたのではない。また死を憎んだからといって死なないものではない。ただ、生まれかわり生まれかわって迷いの世界をめぐり、いくたびも死を繰り返しては迷いの世界に沈んでいくのです。(『秘蔵宝鑰』巻上)

 

輪廻転生ってなに?より拝借

※冒頭のインフィニティ(無限)の図と見比べてください

 

誰でも好きで生まれてきたのではないし、死にたくないからといって死なないものでもありません。生死は、人がそれを好きとか嫌いとか思うことと無関係に自然の必然として存在します。ただただ、繰り返し生まれ変わるのみです。(中略)

 

「荘子の名言」より拝借

 

この言葉は、一見、老荘思想を思わせます。

 

中国戦国時代の思想家で、道教の始祖の一人とされる「荘子」の、「古の真人は生を説(よろこ)ぶことを知らず、死を悪(にく)むことを知らず。その出ずるや訴(よろこ)ばず、その入るや距(こば)まず。蕭然(しょうぜん)として往き、蕭然として来るのみ」という言葉と似ています。

 

(※蕭然とは、ひっそりとして物寂しい様子のこと)

 

荘子は、生と死をどのように受けとめているかと申しますと、《たださびしくこの世を去っていき、さびしくこの世に来るだけである》と捉えています。いかなる感動もいかなる心の動きもなく、生と死を静かに無感動に受けとめています。

 

 

空海は、あくまでも六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を生まれかわる)の思想に立ち、迷いの世界を何度も何度も転生する生と死のあり様を述べています。ここでは、生死は苦の代名詞です

 

一般に人間は、生死に最大の関心を持っていますが、それは我々の知性や好悪の感情によってどうかなるものではありません。生と死は、人間の思いと無関係にやって来て、また去っていきます。この認識は、荘子も空海も全く同じです。

 

生死の現象が自然の理であり、誰もが認めざるを得ない真理であるという意味では、生死を好悪の感情でとらえることは無意味な作業でしかないでしょう。したがって、生死を受け止める生き方、あるいは死に方を考えるところに様々な生死の意味づけがあることになります。この側面から、両者の言葉を考えてみます。

 

孤独死と向き合って 板橋の遺品整理人 ミニチュアで表す人生

 

まず、生死の因縁を問うことなく、たださみしく生きるのみという荘子の方が、少なくとも主体性があるわけですから実存的です。しかし、荘子の真人(道を体得した人)は、たとえどのように生死を引き受けようと、六道輪廻の苦を免れることはできません。

 

永遠に繰り返す苦の世界に身を置き続け、ただ蕭然(しょうぜん)として生き死にするだけです。この態度は、生死の苦を本当に事実として受け止めているのでしょうか。苛烈な事実を前に何か悲観的になって逃げているように見えます。

 

【空海の言葉】生あるものは必ず滅びる(7/10)より

 

空海が問題にしているのは、この輪廻する生死という事実そのものです

 

そもそも人間の思いと無関係に存在している生と死は、蕭然と生きようと死のうと、迷いの世界を巡り続けます。生死を蕭然として受け入れようとする荘子は、実は蕭然という気分にとらわれているわけですから、生死の現実にこだわっていることになります。

 

それに対して空海は、蕭然と生死を繰り返すのではなく、そのような輪廻する迷いの世界そのものから解脱する道、いわば我々が心の深みに持っている仏心の自由な世界を指し示そうとしているのです。(『日本人のこころの言葉・空海』)

 

(過去記事)

【空海の言葉】わたしたちの心は仏心である(7/29)

 

※長くなりましたので、この章の補足は後日に・・・乙女のトキメキ