物の興廃(こうはい)は必ず人による。

 

人の昇沈(しょうちん)は定めて道にあり。

 

大海は衆流(しゅうりゅう)によってもって深きことを致し、

 

蘇迷(そめい)は積塵を待って(周山に超え)

 

もって高きことを成す。

 

【現代語訳】

物事が盛んになるか滅びるかは、必ずそれにかかわっている人によっています。そして、人が向上するか落ちぶれるかは必ずその学び方や生き方に関係しています。大海は多くの流れが注がれてこそ深くなり、須弥山(仏教でいう宇宙の中心にある巨大な山)は塵が積もり積もって周りの山々を越えるほど高くなったのです。(『性霊集』巻第十)

 

四万十川下流

   

 

この言葉は、空海が天長5年(828)、京都に日本初の庶民学校ともいうべき『綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)』を創設するにあたって、開設の趣旨と教育思想を述べている文章の冒頭にあります。その内容は、21世紀の現在においても大きな意味を持つ、生きた教育理念です。

 

(参考) 綜芸種智院(wiki)

 

「物の興廃は必ず人による」とは、すべてに通じる普遍的な意味を持った言葉です。

 

たとえば、国家や民族の盛衰も、企業や学校のそれも、社会や文化のそれも、すべてがそれを担っている人材にかかっています。したがって、その場にその人を得るかどうかがすべてです。

 

【空海】22を超えてゆけ?!(5)より

 

「人の昇沈は定めて道にあり」は、人の才能や徳が伸びるか委縮するかは、その人が何をどのように学んだかという学び方と、学習の成果を自分の生き方にどのように反映させているかにかかっている、と述べている言葉です。

 

「道」という言葉の概念は広いものですが、空海が「道にあり」といっている意味は、知識の取得量を問題にしているのではなく、その知識をどのような過程を経て自らのものとして獲得したかを問題にしているのです。「道」とは、到達点に向かって歩んでいく過程を示している言葉です

 

過去の自分と未来の自分(8)(2018/10/15)より

 

大切なことは、到達点に立つことではなく、そこに至るプロセス、いわば努力であり、心がけであり、配慮です。それがその人の個性としての徳、強さ、勇気をつくるのです。

 

空海は、その努力の積み重ねの大切さを、「大海は多くの流れが注がれてこそ深くなり、須弥山は塵が積もり積もって周りの山よりも高くなった」と述べています。

 

やさしい仏教入門より拝借

 

大河といえども、その源流は一筋の水の流れにほかなりません。幾筋もの河が流れ流れて深い大河をつくるのです。須弥山のような巨大な山も塵が積もり積もってできあがったのです。たとえ風に吹き飛ばされ、雨に流されても、無限の時間を費やして周囲の山々を超え、仰ぎ見られる高山となったのです。

 

要するに、何事も倦まず弛まず積み上げる努力と根気こそが、人となりに大切であるということでしょう。空海のこれらの言葉の根底には、知識とは記憶しているだけではなく、身についた生きた智慧として使いこなすものであるという信念があります

 

【倦まず弛まず(うまずたゆまず)】

飽きたり気をゆるめたりしないで。物事をなす際の心がけを言う。

 

何のための教育なのか。とくに科学技術的思考に最高の価値を置いている現在の教育や学歴社会のあり方を問う上で、空海の言葉に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。(『日本人のこころの言葉・空海』)