トチーちゃん「まあ、キングフィッシャーさん、その手織り機、とても素敵ですわね」
おばあさん「ええ、小さくて可愛らしいでしょう
昔は糸車で、糸紡ぎもしたし、大きな機織り機で、模様入りのタペストリーや、大きなカーペットを織り上げたこともあったのだけれど、夫のフェニックスが死んでから、私自身も一度、発作を起こして…以来、少し手が震えるようになってしまってね。糸紡ぎや織物が出来なくなったので、そういったものは皆、手放してしまったのよ
でも最近、ごく簡単な、小さな手織り機を買ったの。これでも、ランチョンマットや、子供たちの帽子を縫う布くらいは、織れるでしょう」
割り箸と竹串だけで作った、小さな小さな手織り機(形だけであり、本当に織ることは出来ません)。
トチーちゃんの刺繍枠も、以前、作り方と共に登場させたと思います。
おばあさん「トチーさん。…私ねえ、クックちゃんとロビンちゃんを、ラークが家へ連れてきて、私たち母子が、あなた方のお家とお知り合いになって、ラークがアナスタシアさんと婚約して、マレットがここにやって来て…
こうして、身の回りがすっかり、賑やかになって…
それまでは、私は、夫が作った村はずれの辻の小さなベンチに、暇さえあればずっと一人で座っていたのだけれど…、いつのまにか最近、その時間がずっと減ってきたわ。
子供たちに向き合う時間や、こうして皆さんと過ごさせて頂く時間、子供たちの為に何か出来ないかと、心を砕く時間が、増えてきたせいね」
トチーちゃん「まあ…」
おばあさん「良いことよ。フェニックスが天国から、そうしなさいと、きっと私に言ってくれているのよ
…私たちの過去の愛の思い出も、素晴らしいものだったが、それにすがり過ぎて、いつまでもずっと、一人ぼっちでいるのは良くない。もっと人生を、いきいきと楽しみなさい。そして、生きたこれからの人たちの為に、残された時間を有意義にお使いなさい…って」
トチーちゃん「そうですわね」
クックちゃん「それでは、これから、人形劇の上演会を始めま~す」
ロビンちゃん「オルガン担当は、ユールニッセちゃんで~す🎹」
クックちゃん「『人食い虎に変えられたお姫様🐅』のお話、はじまりはじまり~」
マレットちゃん「む、む、昔、ある森の中のお城に、一人ぼっちのお姫様が住んでいました…」
ミニチュア人形劇場の製作記事↓
・・・・・ ユールニッセちゃん「ええっと…それでは、次は『アブラハムの子』を歌いま~す」
クックちゃん&ロビンちゃん&マレットちゃん「…はい、これで、お話はおしまいで~す」
クックちゃん「皆さんも、僕たちと一緒に歌って下さいね。…さんはいっ」
クックちゃん&ロビンちゃん&マレットちゃん「アッブラハ~ムに~は~ しっちにんのこ♪」
ユールニッセ「ひっとりはのっぽ~で あとはチビ♪」
全員「み~んな なっかよく くらしてる さ~あ おっどっりましょ♪」
ヨーデル「あうあうあう~。おうう。あう、おおう~♪」
この「アブラハムの子」の歌は「アメリカの『Father Abraham』という童謡を日本人が訳して流行らせた」らしいのですが、作詞者も作曲者も訳詩者も不明、振り付けもどこから来たのか不明、アブラハムなる人物がどこの何者かも不明(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に共通する旧約聖書に、アブラハムという人物は登場するが、子は七人ではない)彼の七人の子供たちのうち、何故一人はのっぽであとはチビなのか、日本のどの地域でどのように派生したのか、一切不明の、不思議な歌
しかも原曲のメロディ、全然違うんじゃないかい?思った以上に、面影皆無だよ…😅?
寧ろアメリカ版は「こぶたぬきつねこ」の原曲だと言われた方が「ああ、ハイ…💧」ってなる位だから、是非、お聴き比べ下さい…
JAPAN↓
USA↓
でも私の妹が園児だった時には、既に使われてました。…私も保育士だった時代、散々利用させて頂いた歌です
オルガン。100均合板&バルサ材製。鍵盤は同じ太さに刻んだバルサ材を並べて貼り付けました。
・・・・・
ロビンちゃん「クリスマスには、ナースチャもここへ帰って来るし、また、みんなで新しい歌の練習をしようよ」
クックちゃん「うん、そうだねっ…何の歌がいいかなぁ?🤔」
マレットちゃん「…や、やっぱり、クリスマスには、クリスマスの歌がいいと思いますっ
何か、良い歌があるでしょうか?」
ユールニッセ「あっ、それだったら、僕たちに任せてよ
クリスマスソングだったら、僕らサンタクロースの弟子は、大概知ってるんだから」
・・・・・
おばあさん「…フェニックスが作って、私がよく座っていたあのベンチね、長いこと、野ざらしになっていて、私以外の誰も、座っていなかったんだけど…
不思議ね、今は、多くの人があすこに座るわ。子供たちはよく、あのベンチに集まって、お話をしているわ。
それに、村の若い人達の間では、昔、幸せな夫婦があのベンチを作って、老夫婦になっても、ずっと一緒に座っていた…と、評判になっているようで、恋人同士が仲良く座って、お喋りをしている姿を、時々、見かけるようになったわ」
トチーちゃん「その噂、私も聞きましたわ。
…あのベンチに、恋人同士で座ると、その二人は強い愛で結ばれ、生涯、幸せになるんですって」
・・・・・
おばあさん「…私とフェニックスの愛し合っていた時代は、いつの間にか、美しい伝説になっていたのね
今は次世代の人たちが、それぞれの幸せを紡ぎ、愛を紡ぎ、人生を織りあげてゆく時代に、移り変わってきたんだわ」
・・・・・
これまでのお話
登場人物&設定
・・・・・
…私事ですが…
親族の子の一人に、発達障害の疑いが持ち上がりました。
久々に会ってみたら、確かにその子は、以前には全く起こさなかった、激しいパニックを、突発的に、しかもかなりの頻度で起こすようになっていました。一度起きるとそれは止まらず、まだ小さな下の子にも、掴みかかってしまう。
普通な時にはごく普通で、とても人懐っこくて可愛く、片言ながらお話もし始めてて、頭も非常に良い子なんだけど…
まだ3歳になったばかり、発達検査の診断結果は出ていません。あくまで「疑い」の段階。
発達障害は、○歳児検診と呼ばれるもの(乳幼児健診)全てを受けてからでないと、ハッキリそうと言い切ることは出来ません。
小さな子の発達にはブレもバグもあり、一時的な精神の不安定に過ぎずいつの間にかケロリと治まってしまったり、ある決まった空間だと大暴れするのに、診療時に限ってその気配すら出なかったりと、非常にぐらつきが多く、安定しないものの為、発達障害の有無の判断というのは、その手のプロにすら、とても難しいものなのです。
月齢・年齢ごとに決められた検査を全て受け、初めて、その手のプロである専門医から、診断が下りるもの。それでも、後々になるまで、判らない時もあるほど。
3歳だから、正直、暴れてようが物投げようが、
もう何してても、可愛いんですけどね…
でも、通っていた園から、余りにもクラスで大暴れし、他の子たちにも手を出してしまうので、もうお子さんを連れて来ないで下さい、と言われてしまい、
その子のお母さんは、大変なショックを受けました。
…昔、黒柳徹子さんのお母様が最初の小学校で言われたのと、同じですね。
その子のお父さんも、突然始まった我が子の激しいパニックに、どうしたらいいか判らない様子。お店や公園や遊園地、公共施設などに、突然謎の大暴れが始まる我が子を連れてゆくのを、怖がるようになってしまいました。
全ての障害の中で、一番意見を聞いてもらえず、軽んじられやすいのは、発達障害と知的障害です(精神障害も含むかな…ただ乳幼児の精神疾患の発症って話は聞いたことないです…)。
目が見えない、手足が不自由など、ハッキリ目で見て障害者だと解る身体的な障害とは違い、発達障害や知的障害は、パッと見、健常者と全く見た目が変わらない場合も多い為、周りからの理解も同情も得るのが難しく、健常ではない状態のその人の行動を見た時に「親の躾がなっていない」「本人の性格が悪い」と判断されてしまうことが、非常に多いのです。
そして親御さんや本人も「私のせいだ」と、次第に思うようになり、意見を言えなくなり、萎縮していってしまう…
私自身も、昔働いていた重度知的障害児専門児童クラブ(決まった施設を持たず、公園や公共施設等を毎日巡って遊ぶ形の)で、重度知的障害のある女の子と公園内で揉み合っていたら「喧嘩はやめなさい!」と周りから注意されてしまったことがありました。
見た感じ、絵みたいに綺麗な顔に、聡明な明るい瞳をした、普通の中学生くらいの女の子なのですが、その子は知的と発達の重度の重複障害を持ち、気分が高ぶると、着ている服を全部脱ぎ棄ててしまう癖があり、その時もそうだったので、私が必死でそれを止めてたんですね。…言葉は通じないので、物理的に。
私がまた、年齢より相当幼く見えるようなので、事情の解らない周りの方々からは、公共の場で、若い女の子二人が、突如取っ組み合いの大喧嘩をおっぱじめたように見えて、何事か!?と思われたわけです。
私は過去にそんな感じで、重度知的障害の子供たちを専門で5年間見てきたのですが、現役を離れてもう10年以上。
今の療育や発達障害、それらへの支援などのことについては、私には全く解りません。
この福祉&発達障害の分野は今、秒単位で、情報が新たなものに入れ替わっていっています。
自閉スペクトラム(私の保育士時代には自閉症、すぐ後にはアスペルガーと呼ばれてました)なんて、私が保育士資格を取るより更に10年ほど前までは、どの福祉の教科書にも専門書にも、当然のように「親の躾のせい」と書いてあったのですよと、講習を受けた先生からお伺いました。
このような用語もあったそうです。歴史ですね…↓
…あ、でも私、この用語を生んだ学者さんたちを責めてるわけじゃありません。
忘れてはいけない重い歴史ですが、こうやって誤解や過ちを繰り返し、試行錯誤しつつ、発達障害の研究が1歩1歩進められてきたお陰で、理解の進んだ今日があるわけで、この過程なしに一足飛びには、ゆきません。
過去の間違いを、後からいちいち断罪されると、ただでさえセンシティブで謎の多いこの分野を研究する研究者は、誰一人いなくなります。今、常識だと思われていることだって、僅か数年後には覆っているかもしれません。
現代人目線で、過去の研究者を断罪する被害者ビジネス屋やポリコレ、私、大っ嫌いです。
私が保育士資格を取っている真っ最中に、それまでは簿記検定みたいな単なる資格だった「保育士」が「国家資格」となり「虐待」「情報リテラシー」が、試験に盛り込まれることになりました。発達障害の子の為に、加配の先生が着くようになったのも、私が学んでいた頃が初。
ITや医療と並び、この福祉分野が今、実は一番移り変わり激しいんじゃないか?…って思いたくなるほどのハイスピード。
それまで未知の分野だったのが、今、世界中、凄いスピードで研究と理解を進めているわけです。一年離れたら、もう今の情報には、ついてゆけません。
そんな中、兎に角、そのお母さんに対して、子無しの私が出来た唯一のアドバイスは「同じようなお悩みをお持ちの親御さんたちと、一人でも多くご連絡を取り、繋がりを持ち、情報や悩みを共有し合ってみてほしい」ということ。
私自身もその為に、前の職場(重度知的障害児専門児童クラブ。知的障害に発達障害を兼ねた重複障害を持つ、障害等級A~Bのお子さんたちが対象)の方と、現在、連絡を取り、彼女と知り合いになって貰うよう働きかけるべく、動いている最中です。
この「ヘルプマーク」を胸や鞄などに付けている人がいたら、その人は、見た目は健常者のようでも、何かしらの障害や疾患を抱えており、周りの方々の助けや配慮を必要としています。
裏側に、抱えている障害や疾患と、手伝ってほしい内容、連絡先などが記載してあります。
私が福祉系で働いていた時には、まだ存在していなかったマーク。認知が広がってくれたらいいなと思っています。
また、私の友人たちのお子様のうち数人が、今現在、不登校。
こちらも、親御さんたちの悩みは尽きないです。
スクールカウンセリング、そこに通って授業を受ければ出席扱いになる教育センター、適応指導教室、学校に行かなくても自宅で受けられるリモート授業、夜学ではない、個別で授業を受けられる不登校の子供たちの為の高等学校…
コロナ禍以降、不登校の子が物凄い人数増え、選べる選択肢もそれに伴い、驚くほど沢山現れた模様…。
良いことですが、イヤハヤ、時代だなや…と思いました。
私の子供時代なんて、何あったかなぁ…
私自身は、子が授からず、そのことで長い間、嘆いていましたが…
親になれたとしても、悩みが尽きることはなかったのだと、改めて思いました。
・・・・・
仏教の逸話で、私がとても好きな話に「キサーゴータミーの物語」というのがあります。
キサーゴータミーは、若い女性。
彼女の夫は既に故人となっていましたが、可愛い坊やを生み、最愛の我が子の成長を見守りながら、母親として最高に幸福な日々を過ごしていました。
…が、ある日、そのやっとよちよち歩きを始めたばかりの坊やが、突然死んでしまいます。
悲しみのあまり胸が張り裂け、狂人となったキサーゴータミーは、我が子の死を受け入れる事が出来ず、
腐乱した我が子の死体を抱きかかえたまま、街中をさ迷い歩き「どうか、この子を治す薬を下さい」と、会う人ごとに、取りすがって頼むようになりました。
あまりの無残さ、哀れさに涙しつつも、人々は、誰の話も聞き入れなくなったキサーゴータミーをどうすることも出来ず、お釈迦様に相談しました。
釈迦は、彼女をここへ連れてくるようにと言いました。
釈迦が我が子を治してくれる薬をくれるのだと思い、大喜びでやって来たキサーゴータミーに向かって、釈迦は「では、その子を治す薬をあげよう。街に行って、白い芥子の花の種を貰っておいで。ただし、一人の死者も出したことのない家に咲いた白芥子の種でなくてはいけないよ」と言います。
そんなもの、すぐに見つかると思い、喜び勇んで街に出たキサーゴータミー。折しも街の家という家の庭には、真っ白な芥子の花が咲き乱れていました。
ところが、実際にその家々を訪ねて、話を訊いてみると、どの家の人も「つい先日、母を亡くしたばかりです」「私の下の子は、数か月前に亡くなって…」「父は10年前に…」「両親とも、私がまだほんの子供の頃に…」「姉は長患いの末…」「兄と弟は流行り病で…」「妹は事故で…」「祖父も祖母も…」「夫は…」「妻は…」
街中の、白芥子の花咲く家々を、くまなく巡り歩いた末…
遂にキサーゴータミーは、これまで死者を出したことのない家など、一軒も無いのだ…ということに、気が付きました。
ようやく我に返り…我が子が死んでしまったのだということ、人はみな、ひとり残らずいつかは死に、その死別の悲しみから逃れることは、何人たりとも出来ないのだ…ということを悟ることの出来たキサーゴータミーは、腕に抱いていた我が子の遺体を、そっと墓に葬りました。
そして釈迦の弟子となって、生涯、子の菩提を弔い続けたとか。
・・・
新約聖書には、キリストが奇跡を起こし、死んで4日も経ち腐臭まで漂わせていたラザロという男を蘇生させ、人々を驚かせた…というエピソードが出て来ます。
対し、釈迦は、そんな超人じみた「奇跡」は起こしませんでした。
「人はいずれ皆死ぬ。何人たりとも、それを避けることは出来ない」という世の摂理を、ただ迷える人が自ら悟れるように、静かに教え導いただけでした。
…何の悪いこともしていないのに、他の人たちは皆、幸せなのに、どうして私一人だけが、こんな不幸に…?とも。
でも、一歩社会に出て、心を開き、他の人々と話をしてみると、
その思いを経験しているのは、実は自分一人ではないということ、多くの人が同じような悲しみを乗り越え、受け入れて生きているのだ…ということに気付かされます。
その結果、自分自身も救われる、ということも、多くあるのだと思います。
・・・・・
「『四季 12月の性格的描写』より 11月『トロイカ』」