2018-05-30 07:00:00 【本記事は、2018年5月30日に公開した記事の再掲載です】
『Aeternvm's Basis of The SHOW BUY -商品で勝負しよう-』、商品がお店を選別する、絶対基準「X」を知ろう、「X」を知ると、商売の好循環が生まれる。
Copyright©2018 by 島田智史
数あるブログの中から、
お訪ねくださり、ありがとうございます。
5.信長、家康、光秀、そして…
6.オリンピック招致後の”O・MO・TE・NA・SHI”
7.”O・MO・TE・NA・SHI”は誰がために
第2章
現在の主流
のイメージ
突然ですが、「お・も・て・な・し」という言葉を聞いて、みなさんはどんなイメージを浮かべますか?そもそも、いつから意識していますか、「お・も・て・な・し」という言葉を?
実はわたしは「お・も・て・な・し」ということばを、つい最近まで古典文学で使う言葉かと思っていました。「もてなし候」とか。でも、「お」が頭につくことに非常に違和感を覚えます。正直、語感にモヤモヤ感があるのです。
古語辞典で調べても、「お・も・て・な・し」は見当たりません。「もてなす」という言葉自体が丁寧語なのに、おまけをつけて、「お」までつけてしまう。日本語として変なのです。正しい日本語ではないのです。
2か月前(現在は半年になります)、はからずも、徒然なるままに…を標榜して、本格的にブログをはじめましたが、実はわたし、日本の古典文学にも関心があり、吉田兼好の徒然草を当初もじっていたわけです。その徒然草の一節に次のようなことが書かれています。
「珍しきを言い広めもてなすこそ、またうけられぬ」
とあります。
現代語訳すると「珍しいことを言いふらして、ちやほやするのも、嫌なことだ」ということですが、「もてなし」であり、「お・も・て・な・し」ではないのです。
古語では、「もてなす」は「ちやほやする」という意味でした。もっとくだけたいいかたをすれば「よいしょする」となります。鎌倉時代には、「もてなす」は「こころにもなく、相手を持ち上げる」という感覚で捉えられていたのです。
歴史の視点で言えば、赤穂浪士の事件のもととなった将軍の勅使饗応役の浅野内匠頭長矩(ながのり)をイメージします。この儀式の式次第=有職故実にのっとって行うわけですが、この知識のある吉良上野介義央(よしなか)が内匠頭の指南役として登場します。そして、例の江戸城松の廊下での刃傷事件がおきるわけです。
サムライと和のイメージです。ところが、「もてなし」を誤った使い方で、あろうことか、”O・MO・TE・NA・SHI” というインターナショナルにしてしまう出来事が起きました。
その結果、商売における現在の主流は”O・MO・TE・NA・SHI”となってしまいました。
と日本文化
言わずと知れたオリンピック招致でのあの方のスピーチ
”O・MO・TE・NA・SHI”です。これを聞いたとき、正直、あ~っ、はっ? これはシラケタました。この言葉は、まさに日本文化を象徴するものであったからです。ながながと赤穂浪士の事件の端緒を書いた意味も後ほど分かります。
日本文化を象徴するものなら「いいではないか」何を言う、国賊とか言われそうです。では、「もてなし」の正体を知っているのですかと問いたいです。これは日本文化の「恥」という言葉の延長でもあります。恥すべき失態があってはならいということです。
では、だれがという主語です。だれが恥をかいてはいけないのでしょうか。もちろん、もてなしを主催する「主(あるじ)」のことです。
先に赤穂浪士の事件の話では将軍です。勅使饗応役は、勅使(やまとねこすめらのみこと(=天皇)のお使い)をもてなす役目の意味、その役目を果たすは将軍の臣下=浅野内匠頭、吉良上野介です。
具体的に現代風に言えばパーティーを開いたとき、パーティーを開いた主催者のことです。招かれた客ではありません。客に対する失態で、主催者が恥をかくことはあってはならないということです。
そして本能寺の変
もうすでに分かってしまっていると思いますが、「もてなす」という動詞の使い方を考えてみましょう。「もてなし」の意味がはっきりします(「お・も・て・な・し」は間違っている日本語なので、「もてなし」とわたしは表記します)。
普通、「客をもてなす」と使います。「主(あるじ)をもてなす」とは使いません。ここでは日本語の特徴で主語が入っていません。主語を入れると次のようになります。
正解は「主が客をもてなす」であって、「客が主をもてなす」とはなりません。
注釈:ところがこの記事を掲載した後、驚くべきことが起こりました。あるスポーツの協会会長の事件で、部下が会長(=主)をおもてなし(”O・MO・TE・NA・SHI”)をするという用法で事件の内容をマスメディアが説明したことです。日本語として、あり得ない使い方がされました。しかし、”O・MO・TE・NA・SHI”を外来語として考えれば、頷けることになります。この注釈は2018年9月26日に加筆しました。
ここまでで、はっきりしたことは、あくまでも「もてなし」の主体は主=主催者=店主=オーナー=社長で、従属物として客が存在しているのです。
当たり前のことではないかと、言われると思います。実はそれをはっきりさせたかったのです。そして、目的語となっている「客」に対して、主語の主(あるじ)はどういう態度で臨むんでいるのかが問題になるのです。先ほどのところに戻ると、主は客をもてなし、もてなしをする際、主が恥をかくことがあってはならないとなるわけです。
要は、主(あるじ)が恥をかかないために、配下の者(主の部下)たちは客を懸命にもてなすわけです。そういう意味で考えると、客の立場というものは、配下の者から見れば考量されていないに等しい存在になります。もてなしで第一に考量すべきは主に恥をかかせないことであり、それができれば成功したことになるわけです。
歴史の証明として、徳川家康のもてなしに、織田信長は恥をかいたとして、信長は明智光秀を折檻したことは有名な話です。信長は家康を安土城に招き、家康をもてなしたわけです。その饗応役が明智光秀です。信長は光秀の家康へのもてなし方が悪く、主である信長は恥をかいたと怒ったわけです。
これに恨みを抱いた光秀は、本能寺の変を起こすことになったともいわれています。「もてなし」には、こと左様にネガティブな話が多いのも事実です。
9月27日加筆:最近あったアマチュア・ボクシング協会の会長への”O・MO・TE・NA・SHI”もその一つです。きわめてネガティブな話です。
「もてなし」と「恥」は一体化しているということがこれで、納得いただけると思います。表向きは客を丁寧に扱っているように見えるのですが、内実は主(あるじ)が恥をかかないためにしている行為にすぎないわけです。
さらに「もてなし」にはそれをするに相応しい前提とする条件があるのです。主(あるじ)は無条件で客を「もてなし」ているわけではないということです。つまり、もてなしとは、見返りを前提としてなされている行為なのです。
「もてなし」は、誤ってというか、作為的に「お」を頭につけて、「お・も・て・な・し」としたことで、本来の意味が分からなくなってしまいました。もてなしは、お客様第一ではなく、主(あるじ)第一なのです。
あえて、ここからは「もてなし」と表記せず、
”O・MO・TE・NA・SHI”とします。
理由は簡単です。何度も言いますが、もてなすに、「お」は本来つけないからです。オリンピック招致スピーチまで、そんな日本語はないからです。造語であり、オリンピック用にしつらえたものですから、国際語として”O・MO・TE・NA・SHI”というのが一番相応しいです。
”O・MO・TE・NA・SHI”
オリンピック招致で堂々と”O・MO・TE・NA・SHI”をインターナショナルにした後の展開を見てみましょう。これは実に興味深いものがあります。
何が起きたか、招致の最大の功労者であるはずの都知事がお金に絡む問題で辞任、オリンピックのメインスタジアムでのドタバタ劇、オリンピック種目別の開催地の迷走劇、権力闘争、挙げればどれもまあお恥ずかしい限りの話です。
こんな醜態をさらしているにも関わらず”O・MO・TE・NA・SHI”という言葉は「大繁盛」、2013年の新語・流行語大賞を「お・も・て・な・し」として受賞しました。
やはり、「おもてなし」ではなく「お・も・て・な・し」で受賞したのが、日本語として間違った使い方をしていることを審査員も認識していたことの証左です。”O・MO・TE・NA・SHI”という言葉は、流行語のトップにまで上り詰めます。ことは前後してはいますが、とにかく”O・MO・TE・NA・SHI”が独走してしまっているのは確かです。暴走と言えるレベルです。
なんで、こんな醜態をさらしても”O・MO・TE・NA・SHI”の地位は揺るがないのでしょう?
SHI”は誰がために
醜態が起きようが何しようが、問題ない、ノー・プロブレムです。もちろん、主語が問題ないだけです。オリンピックの場合、主語、主催者を考えればわかります。いずれの醜態も主語、主催者にかかわることです。
お客様である参加国に辞任、ドタバタ、迷走劇、権力闘争の件で、主催者が恥をかくことにはなりません。主催者自身の恥であるだけです。オウンゴールとでもいいます。自爆劇ともいえます。主催者が客を招く前、しかも主催者が客から恥をかいたわけではないのです
だからこそ、いまだ堂々と”O・MO・TE・NA・SHI”を掲げ続けることができるのです。辞任、ドタバタ、迷走劇は主催者の都合の話です。主催者の都合がよくなれば、いいだけのことです。
だから、辞任、ドタバタ、迷走劇の後、主催者はニコニコ笑顔で、オリンッピクを成功させましょうと言っていられるわけです。でも、主催者の部下は大変です。主催者に恥をかかせてはならないと、必死です。
そして、話は赤穂浪士事件の端緒の話に戻ります。勅使饗応役はまさに、主催者=将軍の部下です。将軍に恥をかかせてはならないと、必死です。吉良上野介、浅野内匠頭がまさにそうです。上司、部下の関係という立場の違いこそあれ、将軍の部下であることには変わりありません。どちらもプレッシャーは物凄いものです。勅使を「もてなし」するために命懸けだったわけです。将軍=主催者に恥をかかせないために、です。
To be continued
今日はここまでです。
ここまで書くと、”O・MO・TE・NA・SHI”に対して敵意を持っているように受け取られてしまいそうです。しつこくおいかけ回しているようにも見えます。揚げ足取りともとられるかもしれませんが、わたしにはそんなつもりは毛頭ありません。
ただ、あまりにも不自然な形で、強引に古き良き伝統文化のように”O・MO・TE・NA・SHI”を利用しいるところに問題があるということを明らかにしたいだけです。
”O・MO・TE・NA・SHI”はお客様第一主義ではないということをはっきりさせたかったのです。繰り返して言いますが、”O・MO・TE・NA・SHI”は、オリンピック招致用にしつらえられた造語です。
これは、のちほど触れることになるのですが、こんな営業の上司と部下の会話を聞いたことがあったのです。
上司「あれだけこの間、もてなしてやったのに、結局、なにもなしかよ。」
部下「もてなしてやった意味ないっすね。」
この会話、どう思われますか。実に興味深いです。
ここにも”O・MO・TE・NA・SHI”に対するわたしの答えのヒントがあるのです。この会話は本音で語られているところからなおさらです。しかも、とてもネガティブな会話なのです。なぜ、こんな会話になるのでしょう。
二人の会話には、「もてなしてやったのに」の続く言葉が隠れているのです。「もてなしてやったのに、見返りなしかよ」ということです。
上司が「もてなしてやったのに、なにもなしかよ」の「なにもなしかよ」=「見返り」のことを意味しているのです。だから、二人は不満で、不満でしょうがないのです。さらには主(=社長)からお叱りを受けることへの不安もあるわけです。
つまり、「もてなし」と「見返り」はワンセットなわけです。
つきつめると、会社にとってメリットがなく、社長が恥をかいたことになるわけです。二人の会話に象徴されるように”O・MO・TE・NA・SHI”をした相手への思いやりは微塵も感じられないのです。
ここにわたしは、”O・MO・TE・NA・SHI”の本質的なあるものが現れてると断定します。
こういう棘のある話にはゆるキャラか何かをストーリーテラーとして登場させると、クッションになってよいのかもしれません。Ver2.0で試してみます。
例えば、わたしが好きな
キャラその1.![]()
キャラその2.![]()
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でも、そうなるとちょっと説得力に欠けるような。
オイッ、何か文句あるのか。
いや、ありません。
それよりお恥ずかしい話をひとつ本日10/10、何と、こともあろうか、自分に「いいね!」を押すしてしまうという、大失態、オウンゴールでございます。誠に(/ω\)恥ずかしく、大赤面です。ときどき、ありえないポカをやらかしてしまいます。
お前、頭大丈夫か?バシッ!!説得力ゼロだぞ!
「いいね!した人一覧」を見ようと思ったら…何を勘違いしてか、いいね!を押してしまいました。ギョッ、えっ!?
次回、第3回も、”O・MO・TE・NA・SHI”の話が続きます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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