生きづらさ問題の不都合な真実 | 艶(あで)やかに派手やかに

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生きづらさを抱えた人には根が真面目で、社会問題に普通以上に関心をもつ人もいます。それはいいとこでしょう。
ただ、その関心の持ち方が、他人や社会はもっと自分や生きづらさを抱えた人にこうしてくれるべきだ、と主張になりやすいです。

生き辛さ界隈、少数派同士が、「あるある」「#MeToo」といって生きづらさ体験を共有し横に繋がっていくことが肝要と感じるこのごろ。

しかし、生きづらさを抱えた人が生きやすさを掴む過程では、ある不都合な真実があります。
横に繋がるためには、社会を変えるには、コミュニケーションのトライ&エラーや経験値がかなり必要ということ。

生きづらさを抱えた人が受け入れにくい急所がそこにあるのです。そこを見誤ると、しばしばおかしな方向に行きます。

生きづらさを抱えた人対強い立場の人で、それぞれが「落としどころ」にたどり着けるまでに必要な労力は、生きづらさを抱えた人対強者で、7対3くらいなんです。

こう書くと、生きづらさを抱えた側には、「もうあれだけ自分を責めてきたのに、もっと自分を責めなければいけないのか」という心理が働きます。
そういうことならコミュニケーションしませんといって、ひきこもりの道を行こうとすることもあります。

生きづらさを抱えた人に、あなたが他人や社会にこうすべきだというアドバイスをすると、いい顔をしません。
でも、他人や社会はもっと生きづらさを抱えた人にこうすべきだ、という意見は聞きたがります。

こういう人は、重度知的障害者の雇用で有名な日本理化学工業のような事例を引き合いに出して、企業に対して強い主張をしたり。でも現実は無職だったり、施設に通ってたり。
非常に言いづらいですが、「今のあなたが何を言っても 、 自分を棚に上げて周りのせいにして、とか言われちゃうんですよね…」と忠告したくなることがあります。
これが何年も続いている人もいます。

生きづらさを抱えた人が修行に向かうには、何が必要でしょうか。