『もしドラ』からの〜〈その6・最終〉/それまくる話(48) | アディクトリポート

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ダラダラと続けてまいりましたが、いよいよ最終回。

間違いその5
バカがマネをする。


これは先日のこれともちょっとカブるが、意見を表明、公表した人物の言動自体そのものだけでなく、


その人の書いたことが他者に悪影響を与えることについての、書いた者(言いだしっぺ)の責任という意味である。

「俺は俺、マネするヤツのことなんか知ったことか!」
と責任逃れはできない。

なぜなら町山氏は、ポッドキャストTwitterと、自分からの情報発信にきわめて積極的で、
それはすなわち、
*自分の言動に興味関心を持って欲しいし、
*その言動に支持、共感を得たい
からこそである。

でなけりゃ、わざわざネットを使って情報発信なんかしないで、自分の頭の中だけで処理しときゃいいんだしね。

で、「バカがマネをしかねない」町山氏の言動というと、
1.自説の正当さを主張するための便利な道具に、映画を利用する
というのがあるけど、これは町山氏でも、よほど苦しい立場に追い込まれた場合しかやらないし、かなり高度な「論のすり替え」のテクが必要なので、バカにはマネできない(笑)から(肯定はできないが)置いとくとして、
2.出来上がった映画の上澄みをすくうように、「こうすればよかったのに」で終わりにしてしまう
やり方は、創作という行為にツバすることで、
映画のおかげで仕事をしている立場でやってはいけない
だけでなく、
バカな模倣犯を増やしかねない

ほんと、パンピーとかネトウヨ、いまだに2ちゃんがよりどころな、よどんだ意識のみすぼらしさには、すさまじいものがある。

以下は町山氏の影響ではないが、そうなりかねない例として挙げておく。

*自分では何もしないで、
他者の実行や努力を一言で否定して
終わりにしてしまえる。


これがあらゆる社会に蔓延している問題の最たるもので、誰しもがこう考えてしまったら、誰も何もやらなくなって、世の中は終わってしまう。

ところがコツコツと実行を積み重ねて完成作品まで行き着いた人に、
一生に一度もそこまで到達することのない(具体的な実行を伴わない)人が、
「言うだけ」で、優位に立てると勘違いしている人たちが多すぎる。

町山氏の言ったり書いたりしてることは、そういうものの考え方を裏打ちしてしまっているように思えて仕方ない。

*相手の言動に
何かしら欠けているところを見つけてツッコめば、
自分は勝ったと思い込み、
それに対する反論や異論を
読み取ろうと振り返らない。


ヒットアウェイ戦法のつもりなのか知らないが、自分の言いたいことだけ言い放って、一方的に「さようなら」ってヤツが多すぎるよ。
こちらが「それは違うぞ」と、じっくりこうやって説明を重ねても、相手はもう戻ってこないで、読みもしないんだから。

*一度この攻撃法を覚えると、
永遠に通用すると思って、執拗に延々とくり返す。


町山氏はmixi時代に私の『キングダム/見えざる敵』(2007)評に、えらくかみついた。
「こんな映画評、読むに値しない!」
と、かなり執拗だった。
私としては、「別に町山氏の見識と映画の見方なんか、誰も俺に期待してないんだから、俺は俺の思ったとおりに書いて何が悪いの?」
と感じて、その主旨を伝えはしたんだけど(それも表立ってやると、氏にとってもマイナスだろうと、個人メッセージに途中からは切り替えて)、そのことには一切答えず、「お前は間違ったことを書いただろ!」の一点張りだった。

偏見覚悟で言わせてもらえば、(町山氏に限らず)経験的に、早稲田大学出身の人に、この手の物言いとか、ものの考え方の人が多いんだよね。
どういう実態なんだろ、あの大学?


とにかくいきなりの攻撃に、「あれえ? 俺、町山氏に何か失礼なことでもしたかなあ?」と、不思議なぐらいの剣幕と執拗さだった。

氏の危険性とか、協調性の無さとか残忍性に気づいたのはこの時なので、後年のライムスター宇多丸氏との衝突は、さもありなんと言った感じだった。

で、これを見ていた周りのバカの中に、2人ほど「真の愚か者」がいて、一人はプロの映画脚本家なんだけど、日頃から観た映画の内容を語らない私の映画評が気に入らなかったらしく、この騒動を、「そら見たことか」とほくそ笑んでいた。

この人とは、後で別件で袂を分かつんだけど、今でも「踊る」最新作と「ロボジー」と「ひみつのアッコちゃん」の脚本を評価する基準が同じなようだし、この人の単独脚本作というクレジットは見かけたこともないので、まあいつまでたっても、所詮はその程度でしょって気がするけど。

もう一人は、この脚本家の提案で集まった、ダメ映画鑑賞会+それを肴の宴会で知り合った人だけど、ミュージシャンの記録映画に一家言あるらしく、ドキュメンタリー映画『サディスティック・ミカ・バンド』(2007)の、私の曲に関する記述が間違ってると、町山氏をまねて、ネチネチやり始めたんだよね。

で、あんまり度が過ぎるんで、さすがに牽制したら、おとなしくなったけど。

よく誤解されてるけど、
俺は「おもしろいじられキャラ」
のドMだと思われてるけど、
どっこい「隠れドS」なんだよ、バーカ!


こんなのはほんの一例で、町山式メンタリティ予備軍の、
「パーフェクト・ブルー」を見てから「ブラック・スワン」評を書け
とか、
*「Zガンダムのすごさが理解できないお前は、まだまだ未熟
みたいな、勘違いが凶器を振りかざしているみたいに、アブナイ奴がブログに寄って来るたびに、
「それで誰が得すんだよ?」
と、暗澹たる気分になった。

で、ようやく最後に町山氏に話を戻すと、何かと元ネタにこだわるってことは、「真の創作」とか、「創作(フィクション)の神髄」とかがわかってないんじゃないかと思ったが、どっこい「ダークナイト ライジング」の「こうすりゃよかったのに」を聴いてみると、なかなかクリエイティビティ(創作力)に富んでいる。

なのになぜ、実際に映画を撮ろうとせずに、たかだかポッドキャストで提案して気が済んでしまえるのかと言えば、それはもちろん、映画を撮る能力に、致命的に欠けているからに他ならない。

氏に欠けている映画制作の能力とはつまり、他者との協調性とか協力性である。
これは彼が忌み嫌う「馴れ合い」とは異なり、映画を撮るには絶対に欠かせない能力、資質である。

とまあ、話があちこちに「それまくり」ましたが、最後に元の場所に帰結したので、この話はこれでおしまい。

めでたしめでたし(どこが?)