内山まもるに影響を与えたアーティスト(1)/内山まもるのウルトラマン(65) | アディクトリポート

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真実をリポート Addictoe Report

今年最後の内山まもる研究は、
この4冊に収録された、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-mamochann
ご本人の最後の貴重なインタビューを元に、内山先生が影響を受けたマンガ家やアーティストについて。

内山氏の実家は、茨城県の農家だった。

少年期には漫画の模写をし、中学時代(1961~63年頃)には漫画学院の通信教育を受けていた。
ところがその教材にヌードデッサンが載っていて、厳格な親が激怒。
学院の素性を確かめるため、農作業で日焼けした腕を包帯で隠し、わざわざ新宿まで親子で出向いた。
会社側は内山少年の絵の才能を高く評価していることを親に告げ、それから1年ほど通信教育を続けた。

内山氏の性的モラルに対して厳格な姿勢は、ファンとの清い交流(交換日記)等、生涯にわたって徹底していた。

東京オリンピックの1964年に、竜の子プロダクション(現タツノコプロ)に入社。
会社の寮にただ一台のテレビに集い、オリンピックを見たという。
Wikiによれば、本人はマンガ家になるつもりはなかったが、姉が勝手に竜の子に原稿を応募したのがきっかけで採用されたとのこと。

はじめは
宇宙エース」(1965年5月8日-1966年4月28日)

のセル彩色、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-e-su
次が動画。
しかし原画への昇格を待たずに、絵のうまさを買われて、別棟の漫画部へ異動。

当初2年だけという親との約束で上京していたため、期限が来ると(1966年頃)親戚たちが連れ戻しに来たが、
吉田竜夫社長が、内山氏の絵の才能を高く買って、親戚を説得してくれた。
それがなかったら内山氏は家業の農家を継いでいたかも知れず、吉田社長にはひときわ感謝しているという。

漫画部では『紅三四郎』(1969)の顔を久里一平氏(吉田家の三男)が、身体を内山氏が分け合って描いていたが、ここでも絵のうまさを買われて、後半は全て任されたという。

紅三四郎【完全版】 (マンガショップシリーズ 182)/吉田 竜夫

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↑この完全版には、「少年サンデー」九里一平版と「少年ジャンプ」吉田竜夫版を完全収録。
というわけで、「サンデー」版後半は、〈隠れ内山まもる作品〉というわけです!

以前に伊達直人つながりで少し触れた、アニメ版『紅三四郎』は、当時としては空前の、印刷漫画と遜色ない達者な絵柄で展開したが、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-さんし

内山まもるの画風が固まった「レオ」(1974)の頃でも、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-reo

顔の輪郭や目鼻の配置に、かつて自ら手がけたタツノコキャラ、三四郎の名残がかいまみえる。
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-れお

内山氏ご本人の述懐によれば、影響を受けたマンガ家は、
まずは「エイトマン」の桑田次郎、

ただしアニメ版(1963年11月8日から1964年12月31日までTBS系で全56話)の方で、「少年マガジン」の漫画連載(1963年5月~)は、後で知ったとのこと。

実際には、桑田氏の端正で美しいシャープな筆致の生原稿は、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-みせってい
このサイトより無断転載。

テレビアニメ黎明期の、たどたどしい絵柄など、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-しもと
足下にも及ばない素晴らしさだったが、
とにかく桑田氏は、67年にウルトラセブンを描いているから、
内山氏が「帰ってきたウルトラマン」での増刊以来、
初めて手がけるはずのセブンの描写が手慣れた感じで、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-くわた
口を四角く、スリムなプロポーションに描いたのは、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-uuji
無意識ながら桑田セブンの影響だったのかも知れない

次に影響を受けたのが望月三起也で、タツノコ時代でも、同社の吉田竜夫や久里一平の絵柄に影響を受けるより、望月氏のガンアクションに憧れたという。

時系列的に63年の「エイトマン」の次に挙げているから、作品はおそらく、64年連載開始の「秘密探偵JA」だろう。
秘密探偵JA 1 (ぶんか社コミック文庫)/望月 三起也

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あるいは「エイトマンの次の時代」と言ってるから、1969年に始まった『秘密探偵~』の次回作、ちょうど現在実写版が公開中の、『ワイルド7』も含まれていることでしょう。
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偶然だが望月氏も、吉田竜夫のアシスタントを経て、62年の竜の子創立時には、アーティストとして在籍していた

内山まもるが竜の子から独立し、「小学二年生」で円谷作品を連載するきっかけとなった、1970年10月号からの『ジャンボーグA』では、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-じゃ
そっくりそのままの望月タッチのコピーではないが、当時の一般的な劇画風に描いていた

と、ここまででじゅうぶん長くなったのと、2011年のブログは、まだあと1日残ってるので、続きはまた明日~!