陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -13ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●日本中の雨漏りを直す

西郷隆盛は、桂小五郎(後に木戸孝允)、大久保利通と共に維新三傑の1人に数えられています。いずれも新しい日本の土台を作るうえで多大な功績を残した3人です。

しかし西郷に関していえば、功績だけではなく、それ以上に彼の人格や器の大きさが評価される傾向にあります。

どんなに危機的な状況にあっても臆することなく悠然と構え、相手の身分がどうであれ自らの態度を変えずに同じように接する。
またどれほど偉い立場に立ったとしても、決して驕り高ぶることなく常に自分に厳しく生きるーーそれが誰もが認める西郷の人物像でした。

西郷は、薩摩藩の中でも下から二番目という下級武士の出身でありながら、藩主・島津斉彬にその器を評価され、「御庭方役」という側近に抜擢されます。

斉彬は、古い慣習に囚われずに才能ある者を活用し、薩摩藩の殖産興業・富国強兵を進めた名君でした。
西郷は、幅広い知識をもつ斉彬から数年間にわたって直接指導を受け、薩摩藩から日本へ、そしてアジア、世界へと視野を広げていきます。

しかし藩主に引き立てられても、また維新が成った後に政府の要職に就くようになっても、西郷は生涯にわたって質素倹約を貫いています。

西郷家に泊まった坂本龍馬が、次のような西郷夫妻の話を立ち聞きしたという逸話が残されています。家の雨漏りの修繕を訴える妻への西郷の返答です。

「今は日本全国どこでも雨漏りがしよるからなあ。我が家の修繕なんかしておれん」龍馬は二人の寝物語を聞きながら、「西郷って奴は偉い奴ちゃな!」と思ったという。(『西郷隆盛人間学』神渡良平 著)

日本を洗濯しようとした坂本龍馬と、日本中の雨漏りを直そうとした西郷隆盛。
その高い志と、常識や現実の厳しさに囚われない自由な発想、そして強靭な行動力によって、日本は新生への流れを一気に加速させたのでした。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『西郷隆盛人間学』神渡良平著
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●人を相手にせず天を相手に

明治維新から30数年ほど経った1900年前後、世界に向けて日本文化や日本人を紹介する3冊の本が、日本人によって英文で書かれました。

本メルマガの第1回でも取り上げた新渡戸稲造の『BUSHIDO The Soul of Japan(武士道)』もそのうちの一冊です。
次に岡倉天心の『The Book of Tea(茶の本)』。
そして内村鑑三による『Representative Men of Japan(代表的日本人)』です。

日清戦争(1894~95)と日露戦争(1904~05)の勝利によって、日本が世界中の関心を集めていた時期、この3冊の本は多くの言語に翻訳され、世界中の人々に読まれました。

前置きが長くなりましたが、その『代表的日本人』の中で紹介されている5人のうちの1人が西郷隆盛です。
ちなみに他の4人は上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮。西郷は「新日本の創設者 西郷隆盛」として第1章で紹介されています。

「われわれが西郷を「維新の創設者」と呼ぶのは、彼の心の内で育った大きな志が、のちの世のさまざまな出来事にまで作用し、それを指導し、方向づけたと信じるからだ」(『代表的日本人』内村鑑三著)

内村は、無教会主義という独自のキリスト教信仰を打ち立てた日本を代表するクリスチャン。常に神の御心がどこにあるのかということを深く尋ね求め続けた人です。
西郷もまた、たとえキリスト教徒ではなくても、同じように「天」の意志に従い自分を捨てて生きることを第一としていました。
内村はそこに深く共鳴するところがあったのでしょう。『代表的日本人』の中には次のような西郷の言葉が引用されています。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人をとがめず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。・・・天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり」

西郷の思想の根底には言行の一致を重視する陽明学がありました。
志を立てて、確信をもって行動するならば、天が味方となり必ず成し遂げられるというような陽明思想は、吉田松陰や高杉晋作など、幕末の志士たちにも大きな影響を与えています。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『代表的日本人』内村鑑三著
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●本当の意味での伝統の継承とは

淡路島の真言宗本福寺には、水御堂(みずみどう)という一風変わった本堂があります。
コンクリート打ちっぱなしというだけでも他に例を見ませんが、なんとその本堂の上には、仏教寺院風の屋根ではなく、40m×30mの楕円形をした蓮池が乗せられているのです。1991年、安藤忠雄の作品です。

「コンクリートのお寺はありえない。大事なお堂の上に水を張るなんてとんでもない」――安藤がその設計を披露したとき、住職や檀家の人たちからは猛反発を受けました。
300あまりの檀家すべてが反対したともいれています。

しかし、当時90歳を越えていた高僧・立花大亀大僧正は「仏教の原点である蓮の中にお堂が入るのは素晴らしい。ぜひ実現してください」と安藤の案を支持したのです。
その一言で状況は一変し、前代未聞の「蓮の中に入るお寺」が世に姿を現したのでした。

一般的に、宗教建築というのは保守的で、新しさよりも伝統様式に忠実であることが要求されます。
それは建築に限ったことではなく、儀式や作法、着衣、教義など、宗教に関わること全般にいえることです。
現代の文化施設ならまだしも、平安時代からの長い伝統を持つ寺院の建造物として、あのような提案をすることは、安藤にしても相当な冒険だったでしょう。

「伝統とは、目に見える形ではない。形を担う精神である。その精神を掬い取り、現代に生かすことこそが、本当の意味での伝統の継承なのだと、私は考え、自身の建築をつくっている」(『建築家 安藤忠雄』安藤忠雄 著)

本福寺のユニークさは本堂の上の蓮池だけのことではありません。
外観を覆うコンクリートの無機質なグレーと、堂内に溢れる鮮やかな朱色のコントラストは、まるで俗と聖の対比を表現しているかのようです。

ネットで「本福寺」または「水御堂」で画像検索すると、その素晴らしさの一端を見ることができます。

一見、安藤のスタイルは、クライアントや一般の人の意見、要望を無視あるいは超越して、自分の夢を追いかけているかのように見えるかもしれません。
しかし逆に、多くの人の感性を信じているからこそ、より深く本質的な構想を、勇気をもって提案できるともいえるのではないでしょうか。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『建築家安藤忠雄』安藤忠雄著
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●夢だからこそ現実の仕事の数十倍のエネルギーを

大規模な建築のコンペで優勝し、国内外多くのプロジェクトに関わってきた安藤忠雄ですが、意外にもその「勝率」は決して高くありません。実際は“1勝9敗ぐらい”ともいわれています。

現地に赴き自分の足で調査し、アイディアを絞り、コンセプトを熟考。スケッチから図面へと長い時間をかけて臨んでも、そのすべてがただの紙切れで終わることもざらにありました。
なかでも事務所開業の年に挑戦した「大阪駅前プロジェクト」と、その20年後に大阪市に対してリベンジしようとした「大阪中之島プロジェクト」は、安藤にとって大きな賭けでした。
大阪に生まれ、育ち、そこで仕事をしている安藤にとって、どちらも手掛けたかったプロジェクトだったのでしょう。

しかし、どちらも市当局の返事はNOでした。
大阪駅前プロジェクトは、当時まだ28歳の無名建築家だったがゆえに門前払いでした。
建築家として名を上げてから臨んだ中之島プロジェクトも、結果的に落選しています。
彼の案は、歴史的な建造物であった中之島公会堂(大正7年建立)の外郭を保存し、その内部に新たな卵形のホール(コクーン)を作るというものでした。
その発想があまりにも斬新過ぎたからか、賛同が得られなかったようです。

「構造技術的に可能とはいえ、非現実的な考えであり、建築家の夢でしかないことは良く分かっていた。だが夢だからこそ、現実の仕事の数十倍のエネルギーをかけて、夢らしく見せたい」(『建築家 安藤忠雄』安藤忠雄 著)

その言葉通り、安藤は、半年近い時間をかけ事務所に収まりきらないほどの大きな模型を作り、提案前に美術館で自主企画の展覧会を開催するなど、意気込みも、投入した資金も、大規模なものでした。
現実に仕事として実現するかどうかではなく、自分の夢や構想を、とにかく形にして多くの人に見せたかったのでしょう。

もちろん、しっかりと勝ちにいく仕事も必要です。その一方で、夢のあるプロジェクトも安藤は徹底的に真剣にーー現実の仕事の何十倍もエネルギーを投入してーー追い求めています。
その結果「ばかげている」と笑われようと、とにかくやり遂げて形にするーーそうした夢に向かう姿勢は、他の多くの「陽転思考の達人」たちに共通するものです。

ボツになった卵型構造は、鹿児島大学の稲盛会館や東京メトロ副都心線渋谷駅に採用されて、見事に復活、実現しています。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『建築家安藤忠雄』安藤忠雄著
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●考える自由を失わないこと

今でこそ、仕事の依頼が殺到する世界的建築家・安藤忠雄ですが、20代後半、建築事務所を立ち上げてからの1年間、仕事の依頼はほとんどありませんでした。

その間、いくつかの建築コンペに挑戦する一方で、多くの時間を「クライアントのいない仕事」に費やしています。
街を歩いていて適当な空き地を見つけると、「自分なら、ここに、こういうものを作る」とスケッチしながら、他人の土地で勝手に図面を考えていたのです。

それは、お金を稼ぐためでもなく、クライアントの意向もない、完全に自由な仕事ーーというより、遊びに近いものだったかもしれません。
自分が作りたいものかどうかという感覚を大切にするという彼の姿勢は、仕事として引き請けた場合も変わりません。

「やりたいことを見つけたら、まずは、そのアイディアを実現することだけを考える。現実問題としてどうか、というのはあとで考えればいい。
だから依頼を受けた敷地だけではなく、隣の敷地の建物まで設計して、模型をつくることもよくある」
「一歩一歩道を探しながら夢を追いかけてきた分、今でも私が大切にしているのは、“こんな建築をつくりたい”という、考える自由を失わないことである。」(『建築家 安藤忠雄』安藤忠雄 著)

現実の仕事は、クライアントの要望や予算、スケジュールなど、与えられた条件の中で進めなければなりません。
しかし、初めからそうした多くの制約に縛られていては、斬新な考えはなかなか生まれてこないものです。
まずは自由に考えることーーそれが安藤の初期の頃からの制作スタイルです。

当時の自由な発想の中で生まれた数々のアイディアは、知らず知らずのうちに安藤の頭と心にストックされていったでしょう。
その多くは、いま世界中で高く評価されている安藤の「作品」のどこかに反映されているに違いありません。

まだ何もない空き地を前にしたとき、安藤の目には、自分が作りたいと思う建物が堂々と建っている姿がはっきりと写っていたのでしょう。
同じように、仕事もなく収入が不安定な状況の中にあった頃も、やがて夢が実現し建築家として活躍している自分の姿を、安藤は具体的にイメージできていたのかもしれません。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『建築家安藤忠雄』安藤忠雄著
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