陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -12ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●雪に耐えてこそ梅の花は麗しく咲く

西郷隆盛というと、上野の銅像に象徴されるように、ほとんどの人が、がっしりとした体型を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし沖永良部島にある「西郷南洲記念館」に行けば、粗末な庵の中で瞑想する痩せ細った西郷像を見ることができます。

先回述べたように、西郷隆盛は数年に渡って奄美大島や沖永良部島などでの幽閉生活を強いられます。劣悪な環境の中、身体は痩せ細り、脚も悪くしてしまいます。
しかし、西郷にとって最もつらかったのは、そうした肉体的・物理的な問題ではなく、日本の将来を左右する重要な時期に、何もできない悔しさや焦燥感だったでしょう。

西郷の遠島時代(1958年12月~1864年2月)、薩摩藩も日本も、急激な時代の流れに翻弄されていきます。
主な出来事をざっと挙げてみると、吉田松陰の処刑、咸臨丸アメリカ出航、桜田門外の変、坂本龍馬脱藩、寺田屋事件、高杉晋作による奇兵隊編成、薩英戦争ーーまさに激動の時代です。

西郷は、独り遠海の島に置き去りにされてしまったような孤独感にさいなまれながらも、自分が必要とされる時が訪れることを信じて、書物に学びつつ、その準備をしていました。
そこで彼が最も愛読したのは、本メルマガでも取り上げた佐藤一斉の『言志四録』です。

西郷は一斉から「天に与えられた使命を知り、その天命に従って生きること」の大切さを学び、離島で置き去りにされて腐るどころか、むしろより一層志を高く持つようになっていきます。
『言志四録』全1133条に及ぶ教訓の中から、西郷はとくに心に響いた101条を撰び出し、生涯、自らの指針として大切にしていました。それは西郷の死後『南洲手抄言志録』として刊行されています。

「順境は春の如し 出遊して花を観る 逆境は冬の如し 堅く臥して雪を観る」という『言志四録』の言葉には、順境だけではなく、逆境さえ楽しんでしまうような陽転思考に通じる心意気があります。
西郷の次の漢詩にも、逆境をむしろプラスに陽転して捉え、前進しようとする意志が表現されています。

「耐雪梅花麗 経霜紅葉丹」
 (雪に耐えてこそ梅の花は麗しく咲き、厳しい霜を経てこそ楓は真紅にもえる)

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『西郷隆盛人間学』神渡良平著
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●逆境の中でも希望的な言葉で気持ちを陽転させる

西郷隆盛の人気は、共に幕末のヒーローとなった坂本龍馬と二分するほど。しかしその生涯は必ずしも順風満帆だったわけではありません。むしろ、挫折と苦難の連続でした。

最初の大きな受難は、自分を引き立ててくれた薩摩藩主・島津斉彬が病死した時のこと。殉死しようとする西郷を、尊皇攘夷派の同士であった僧侶・月照らが引き止め、なんとか思い留まらせます。

しかし、その月照が幕府から睨まれ、西郷を頼って薩摩藩に逃げて来た時、藩は彼の保護を拒否し追放してしまいます。
追放とは表向きで、実際は切り捨てようとしていることを悟った月照と西郷は、共に海に身を投げ自殺を図ります。他の者がすぐに救出しますが、月照は息絶え、西郷だけが助かります。

幕府の追及を逃れるため、薩摩藩は月照と共に西郷も死んだことにして、彼を奄美大島に潜居させます。
約3年の後、西郷の人脈や力を必要とした藩は彼を呼び戻しますが、斉彬に代わって実質的に藩政を支配していた島津久光との反りが合わず、半年もしないうちにまた徳之島への遠島を命じられます。
その頃、実家のほうでも弟たちが謹慎などの処分を受け、財産も没収されています。

その数ヵ月後、さらに舟牢で沖永良部島へと運ばれ、そこでまた1年半ほど、幽閉生活が続きます。
さすがの西郷も、虚無感や焦燥感、愚痴とも取れる心を詩に託して吐露しています。

「幽囚、天地の涯に一人ぽつんといる。この、夜の物想いは何だ。想いつめる淋しさか。膝にじゃれつく子供の夢を見た」「ぼろぼろの芭蕉葉、雨が叩きつける。ほととぎすがやかましい、俺の無罪を訴えてくれるのか」(『西郷隆盛語録』奈良本辰也・高野清澄 著)

しかしそれでもどこかに希望を見つけ、それを言葉にすることで自分の気持ちを陽転させようとしているのが随所に見られます。

「山中独楽、これ以上のものがあろうか。魚はないが、要らん要らん。芹でも摘んでくるさ。独り居て独り楽しみ、どっかと極まるわが心胆。清風はあり明月はかかる。こりゃあ儲けものじゃ」「四十歳になったんだなあ。南の島に幽閉され、夜の厳寒に苦しみながら今年が終わる。己は青松、暴雪に埋もれ、己は清竹、狂風に顔もあげられぬ。だが明日は春風が吹いてくるぞ。至誠を献ずる春」(同)

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『西郷隆盛語録』奈良本辰也・高野澄 著
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●リーダーの必読書となった『南洲翁遺訓』

「決して勝者の威厳を笠に着て、高飛車に出るなよ。彼らを敗者として取り扱うのは、本当の大丈夫がすることではない。敵となり、味方となるも天命じゃ」(『西郷隆盛人間学』神渡良平 著)

これは、戊辰戦争の終盤、庄内藩(現在の山形県鶴岡市や酒田市など)との戦後処理会談に臨む黒田清隆に向けた西郷隆盛の言葉です。ちなみに黒田は伊藤博文に続く第2代内閣総理大臣を務めた人物です。

当初、庄内藩では、寛大な処分は黒田の配慮のお陰だと思われていたため、降伏の翌年(1869年・明治2年)、江戸にいる彼の元に家老・菅実秀(すげ さねひで)を遣わして感謝の意を伝えました。
ところが黒田は、
「西郷さあから、敗軍の将に対して傲岸な態度で接してはならんときつく諭されておりました。あれは自分がやったのではなか」(同)
と、すべて西郷の指示であったことを証したのです。

それを聞いた庄内藩主・酒井忠篤(さかい ただずみ)は、翌1870年(明治3年)、側近と優秀な藩士70余名を引き連れて西郷のいる鹿児島まで遠征し、5ヶ月にわたって直接教えを受けています。
それ以降も、家老の菅実秀らが西郷の元を訪れ、親交を深めています。
そうして庄内藩士たちが西郷から学んだ内容を後に編纂したものが『南洲翁遺訓』です。

軍人であると同時に偉大な思想家でもあった西郷ですが、意外なことに一冊も本を書いていません。文才がなかったかというと、決してそうではありません。手紙はたくさん残されているし、漢詩の才能も非凡なるものがありました。
ただ、後世に自分の名を残そうという名誉欲のようなものは希薄で、それが自らの名を記した著作のなかった原因の一つかもしれません。

にもかかわらず、西郷の思想が現代に至るまで伝えられ、強い影響力を持ち続けているのは、『南洲翁遺訓』という一冊の本の功績によるところが大です。
遺訓という題名からも分かるように、全編にわたって「西郷先生はこう語られた…」というような聞き書きの形式になっています。

「敬天愛人」など、『南洲翁遺訓』に記された西郷の生き方や思想は、明治維新以降、新しい日本を築き、支えてきた多くのリーダーたちに大きな影響を与えています。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『話し言葉で読める「西郷南洲翁遺訓」』長尾剛著
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●敵をも魅了した西郷の思想

薩摩藩が生んだ幕末の英雄・西郷隆盛。鹿児島には「西郷南洲顕彰館」をはじめ、西郷にちなんだ名所や記念施設がたくさんあります。
(「南洲」は、西郷が漢詩等を書く時に使った号)

西郷を「神」として祀り崇める南洲神社もその一つ。鹿児島市内にある本社のほか3つの分社があります。
その一つは沖永良部島。藩の実権を握っていた島津久光の怒りに触れ、西郷が遠島となった地です。
宮崎県都城市にも分社がありますが、ここはどちらかというと、西南戦争を共に戦った地元の戦没者を追悼するために建てられたもの。
そしてもう一つ、鹿児島から遠く離れた山形県酒田市にも南洲神社(南洲会館)があります。

酒田市は幕末の頃は庄内藩。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の一角であり、官軍(薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍)の参謀であった西郷とは敵味方の関係でした。
庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちにしており、それが戊辰戦争のきっかけとなったともいわれています。
それがなぜ、西郷を神社に祀るほど敬愛するようになったのでしょうか。

庄内藩は、薩摩軍に対して最期まで抵抗し、大きな打撃を与えています。それゆえ敗戦後、藩主・酒井忠篤(さかい ただずみ)は、恭順の姿勢を示しつつ厳しい処分を覚悟していました。
ところが結果は、それまでの常識からは考えられないほど寛大なものでした。藩主は謹慎のみで切腹を免れ、藩の体制も存続を認められたのです。

官軍代表として庄内藩との戦後処理会談に臨んだ黒田清隆は、処分を言い渡し正式な会談を終えると、先に上座の椅子から降りて、驚く藩主らに対して次のように語ったとされています。

「戦いに勝者あるは兵家の常とは申せ、ご心中推察申し上げます。拙者は大命により任に当たりもしたが、野人のゆえ礼にかなわず、失礼があったかと思いますが、その点は重々ご容赦頂きたく存じます。現下の日本の情勢を察し、これからは心を一つにして天朝様に忠義を尽くそうではありませんか」(『西郷隆盛人間学』神渡良平 著)

その黒田の言葉や寛大な処分の背後に西郷の思想があったということを後で知った庄内藩士たちは、西郷の思想を後世に残す大きな役割を担うことになります。詳しくは次回で。

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□『西郷隆盛人間学』神渡良平著
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●運を味方にする志と至誠

西郷隆盛は、常に公的なことを優先し、徹底して自分に厳しい人でした。「児孫のために美田を買わず」という家訓は有名です。

己を愛するのが善くないことの第一歩だ。修行のできないこと、仕事の完成しないこと、過失を改められないこと、功に誇って驕慢になること、これらはすべて己を愛するからおこるのである。
(『西郷隆盛語録』奈良本辰也・高野澄 著)

西郷は「己を愛する」ことを戒めているように思えますが、これは決して「自分を大切するな」ということではなく、「自分を甘やかしてはならない」というような意味でしょう。
西郷の言葉に、次のような有名な一節があります。

「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らないという人は始末に困るものだ。しかし、この始末に困るような人でなければ、艱難を共にして国家の大業は成し得られない」

これは、倒幕のために静岡に駐留していた西郷率いる官軍の元に、和平交渉のため単身命がけで乗り込んで来た山岡鉄舟を評する西郷の言葉です。
武力衝突が避けられたのは、西郷と勝海舟の交渉の成果であったとも考えられていますが、実際は、西郷・山岡会談の時点で大きな流れは決まっていたとされています。

その時の山岡の捨て身の決意、胆力に心打たれた西郷は、武力倒幕に勢いづく官軍を、彼もまた命がけで抑える決心をしたのでした。
この2人の侍の、自分よりも大義を絶対的に優先するという至誠が、江戸を戦火から救ったのです。
西郷は、山岡の中に自分と同じような武士道が息づいていることを感じていたでしょう。「命も要らず~」の一節は、まさに私心を捨て切って生きた西郷自身に相応しい言葉でもあります。

自分や家族を犠牲にしてでも、国ため公のために命を捧げることを良しとするかどうかは、それぞれの価値観によって分かれるところでしょう。

しかし、そのごとく生きた彼らが教えているのは、夢や志を立てたならば、その実現を強く願い、イメージし、他人の評価や状況に支配されずに、誠を尽くして希望的に取り組むべきだということ。
そうすれば、西郷風にいうならば「天」――が味方をして、たいていのことは成し遂げられるということです。

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□『西郷隆盛語録』奈良本辰也・高野澄 著
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