日本は、れっきとした民主主義国歌であり、“表現の自由”が認められています。
“表現の自由”とは、ざっくり言うと、精神的自由とも言い換えることができます。
派生概念として、“言論の自由”や“知る権利”などがあります。
こういった各種の“自由”を、日本的思考からめちゃくちゃ噛み砕いて言うと、
『人様に迷惑かけない限りは、(自らの良心に従って)なにをしてもいいんだよ』
となります(少なくとも僕は、そういう風に解釈しています)。
しかるに、現代日本!
“表現の自由”は、はたして護られているのでしょうか?
たとえば、言葉。
いわゆる放送禁止用語などという言葉は、星の数ほどたくさんあり、今後もますます増え続けていくことでしょう。
一例を挙げると、“浮浪者”という言葉。
“乞食”行為が法令によって禁止されているので、“乞食”をタブーとするのは百歩譲って認めましょう(納得いきませんが)。
しかし、定まった住所を持たない路上生活者を“浮浪者”と呼ぶことをもタブー視し、しかも浮浪者を“ホームレス”と呼ぶのはセーフというのは、どういうことなのでしょう。
“メクラ”という言葉は、視覚障がい者を差別し傷つける言葉として、日本語から抹消されようとしています。
“メクラ”という言葉が視覚障がい者にとって不快な言葉であれば、それを使用しないのは人として当たり前ですし、もちろん僕もそんな言葉は使いません。
しかし、その言葉を使うことが一般的であった過去の映画や小説にさかのぼってまで、その言葉を消し去るのはどうかと思うのです。
『昔はそんな言い方をしていたんだね。もういまは、止めようね』
それで良いんじゃないかと、思うのです。
他にも、おおっぴらに話すことが許されない話題、いわゆるタブーがたくさんあります。
それらのタブーは、個人レベルでは話すことができても、メディアに取り上げられることはまずありません。
これはなぜかというと、クレームが怖いからです。
メディア自身には良心もクソもなく、ただただ大衆の興味を獲得するのに躍起なのですが、メディアの主な収入源となるスポンサーは、クレームに非常に敏感です。
結果として、メディアもクレームに対して敏感にならざるを得ず、クレームが来ないような対処法、いわゆる自主規制を設けてしまうのです。
戦後、特に高度成長期以降を基準として考えると、日本メディアの自主規制は、近年加速度的に厳しくなっています。
もちろん大きな要因は大衆(?)からのクレームなのですが、クレーム自体は昔からあったでしょう。
ここ最近の異常な自主規制は、むしろメディアがクレームに対し過剰反応していることが原因だと、僕は考えます。
先にも書きましたが、日本は民主主義国歌です。
民主主義とは、基本的に多数派の意見を取り入れることが原則です。
ですから、非常に乱暴に言ってしまえば、ごく少数のクレームならば本来そこまで気にする必要はありません。
理屈の通らないクレームなど、思い切って無視すれば良いのです。
それを、事なかれ主義的に自主規制などを設け、訳の分からないクレームにまで対応するものだから、理不尽なクレームを言う人がどんどん増えていくのです。
いま、テレビのどのチャンネルのニュースを観ても、ほとんど同じ内容しか放映されていません。
メディアはもっと多種多様な観点から、世の中の事象を伝えていくべきなのです。
主流派の観点が多いのは当然ですが、少数派の観点から解釈した内容も、あるべきなのです。
それが、“表現の自由”なのではないでしょうか?
いろいろ書きましたが、僕が言いたいことはただ1つ。
『“湯けむり温泉殺人事件”というタイトルの2時間ドラマを放映するのならば、おっぱいくらい見せろ!』
ということです。
-------------
今日の映画:クロッシング キム・テギュン監督 現在公開中
まだ観ていませんが、素晴らしい映画だそうです。
“表現の自由”とは、ざっくり言うと、精神的自由とも言い換えることができます。
派生概念として、“言論の自由”や“知る権利”などがあります。
こういった各種の“自由”を、日本的思考からめちゃくちゃ噛み砕いて言うと、
『人様に迷惑かけない限りは、(自らの良心に従って)なにをしてもいいんだよ』
となります(少なくとも僕は、そういう風に解釈しています)。
しかるに、現代日本!
“表現の自由”は、はたして護られているのでしょうか?
たとえば、言葉。
いわゆる放送禁止用語などという言葉は、星の数ほどたくさんあり、今後もますます増え続けていくことでしょう。
一例を挙げると、“浮浪者”という言葉。
“乞食”行為が法令によって禁止されているので、“乞食”をタブーとするのは百歩譲って認めましょう(納得いきませんが)。
しかし、定まった住所を持たない路上生活者を“浮浪者”と呼ぶことをもタブー視し、しかも浮浪者を“ホームレス”と呼ぶのはセーフというのは、どういうことなのでしょう。
“メクラ”という言葉は、視覚障がい者を差別し傷つける言葉として、日本語から抹消されようとしています。
“メクラ”という言葉が視覚障がい者にとって不快な言葉であれば、それを使用しないのは人として当たり前ですし、もちろん僕もそんな言葉は使いません。
しかし、その言葉を使うことが一般的であった過去の映画や小説にさかのぼってまで、その言葉を消し去るのはどうかと思うのです。
『昔はそんな言い方をしていたんだね。もういまは、止めようね』
それで良いんじゃないかと、思うのです。
他にも、おおっぴらに話すことが許されない話題、いわゆるタブーがたくさんあります。
それらのタブーは、個人レベルでは話すことができても、メディアに取り上げられることはまずありません。
これはなぜかというと、クレームが怖いからです。
メディア自身には良心もクソもなく、ただただ大衆の興味を獲得するのに躍起なのですが、メディアの主な収入源となるスポンサーは、クレームに非常に敏感です。
結果として、メディアもクレームに対して敏感にならざるを得ず、クレームが来ないような対処法、いわゆる自主規制を設けてしまうのです。
戦後、特に高度成長期以降を基準として考えると、日本メディアの自主規制は、近年加速度的に厳しくなっています。
もちろん大きな要因は大衆(?)からのクレームなのですが、クレーム自体は昔からあったでしょう。
ここ最近の異常な自主規制は、むしろメディアがクレームに対し過剰反応していることが原因だと、僕は考えます。
先にも書きましたが、日本は民主主義国歌です。
民主主義とは、基本的に多数派の意見を取り入れることが原則です。
ですから、非常に乱暴に言ってしまえば、ごく少数のクレームならば本来そこまで気にする必要はありません。
理屈の通らないクレームなど、思い切って無視すれば良いのです。
それを、事なかれ主義的に自主規制などを設け、訳の分からないクレームにまで対応するものだから、理不尽なクレームを言う人がどんどん増えていくのです。
いま、テレビのどのチャンネルのニュースを観ても、ほとんど同じ内容しか放映されていません。
メディアはもっと多種多様な観点から、世の中の事象を伝えていくべきなのです。
主流派の観点が多いのは当然ですが、少数派の観点から解釈した内容も、あるべきなのです。
それが、“表現の自由”なのではないでしょうか?
いろいろ書きましたが、僕が言いたいことはただ1つ。
『“湯けむり温泉殺人事件”というタイトルの2時間ドラマを放映するのならば、おっぱいくらい見せろ!』
ということです。
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今日の映画:クロッシング キム・テギュン監督 現在公開中
まだ観ていませんが、素晴らしい映画だそうです。
