わかったわかった、だったらアホ面一家の末裔は500年後に「佐藤」って表札を掲げてるってことでいいんだな?w

 

 

最後に「サザエさん」の家族構成に触れ、もしも夫婦別姓を選択した場合「磯野波平、石田フネ、石田カツオ、石田ワカメ、石田サザエ、フグ田マスオ、フグ田タラオ。表札もかけられないし、磯野一家ということもできない」と話し、最後に「不便があるのなら手を加えて多くの人が不便を感じないようにすればいい」と述べていた。 

 

今後も夫婦別姓が取り入れられない限り、磯野姓を後に繋げるのは波平の子であるカツオワカメ、および波平の双子の兄である海平の一人娘カオルしかいない。男子はカツオのみだぞ。世間一般的に女性は男性の姓に入るってことなら、おそらく磯野姓の継承にはカツオしか機能しないのが現実なんだがな。

 

こんな細~~い綱渡りみたいな道筋を抱えながら、良くも堂々と別姓批判なんかに使えたもんだなw アホ面ってやっぱアホなんだろ?

 

まぁ、大概コイツら伝統的家族観とか言ってるヤツらはよほど綱渡りが好きらしく、同じ勢いで皇統も男子のみで細々と繋いで行く方針を絶対に曲げようとしないんだな。俺に言わせりゃもう「伝統的アクロバット」だよw

 

国民はそんなアクロバットに無理やり付き合わされてるうちに、500年もすればほとんどが「佐藤さん」になってしまう!ってんだからな。せっかく細~い綱渡りがウリのアクロバットだったクセに、行き着くところがそれってマジでバカ過ぎんだろうがよw

 

いや、誰も佐藤さんに恨みとか無いだろうけどな、未来の国民のほとんどがアホ面の末裔と同じ姓を名乗らにゃイカンなんて、可哀そ過ぎて涙ちょちょ切れるってもんだぜw 表札なんてもう完全に意味成さねーし。

 

様々な要素から2つを取り出してペアにし、その際に必ず片方の要素を抹消する。それを延々と繰り返せば少数要素はより少数に、多数要素はより多数となる。「500年後の佐藤さん」問題を無視してサザエさん一家を語ろうなんて500年早いぜよw

 

てかさ、コイツらいつも伝統的家族観だとかエラそうに言ってるけど、この国での苗字必称なんて明治以降じゃねーか。

 

たかだか150年だぞ?それで伝統だっつーのか?

 

そんな伝統をあと3回繰り返したら、ほぼほぼ佐藤さんに収束して終わりってマジウケる~www

 

 

 

 

 

ホントいい加減にしろよなアメリカ人。

 

こんなキワモノ国家みたいに成り下がっちまって、まだトランプ支持だのアメリカファーストだのと言うつもりなのか?

 

 

いくら反対勢力とは言え、自国民に対して軍隊が銃を向け力ずくで抑え込むだと?

政権が堂々とそうした姿勢を見せ始めたのなら、もはや「民主」の論理など絵に描いた餅だ。

 

民主国家に相応しくない者に権力を与えると、こんな風に「民主国家ではなくなる」方へと突き進むことになる。

そんなの歴史的に充分解っているはずだろう?

 

オマエらアメリカ人は自分でその方角へ舵を切ったんだ。

まだ取り返しがつく内に逆風を帆に受けて引き返すつもりがあるのなら、そのタイミングは今しかない。

 

いいか?

これは思想の問題ではなく、やり方の問題なんだぞ?

今のやり方は、世界に冠たる民主主義国家の姿として到底ふさわしく無い。

 

どんな主義主張・考え方があるにしろ、強権力は排除すべしという基本を絶対に忘れるな。

同朋に対する政権の作為を黙認するなら、次にそれが自身に向けられても容認せざるを得なくなる。

 

ご都合主義はどう転んでも、民主主義の代替にはならないのだよ。

 

根拠もなく、誰かが放った言説を簡単に受け入れてしまう。

 

そうした社会的病理の顕在は我々の周囲に限ったことではなく、もはや世界的な潮流となっているのだ、という記事。

 

 

この世界にすべての人が合意できる客観的な真実などない。真実は、人がそれをどのように眺めるかによって、変わってしまう。そうであるとしたら、何らかの自分の主張に関して、他者からその妥当性を覆すようなエビデンスを突き付けられても、無視すればよい

 

近年、このように真実の概念そのものが相対化され、その客観性が軽視される状況は、「ポスト・トゥルース」と呼ばれる。そこでは、深刻な形で詭弁が蔓延している。 

 

なぜ、簡単に無視できるのか。

 

それは、物事をほぼ「好き嫌い」で判断し、「自分が信じたいものを信じる」というシンプルな思考パターンにすっかり慣らされてしまっているからだ。

 

2016年、オックスフォード英語辞書は、「今年の言葉」として「ポスト・トゥルース」を選出した。そこでこの言葉は次のように定義されている。

 

 “世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況”について言及したり表わしたりする形容詞。 

 

感情個人的信条に左右され、つまり「好き嫌い」に流されて形成された世論は、客観的事実をあからさまに軽視する。

 

昨今のさまざまな世相は、まさにその実態の反映と言って良いのではあるまいか。

 

もちろん、このように「ポスト・トゥルース」だなどと言われてあたかも啓示を受けたかのような瞬間には「ああ、そういえばそうだな」と素直に思えたりもするだろう。

 

しかし実のところ一番問題なのは、そもそも何が客観的事実であるかを認識する能力さえおぼつかないことであり、その結果正しい推論を導けないことだったりするのだが、たいていの人々はそれに不安を感じることもなく、むしろ堂々としている。

 

そんな「下地」の上に、その処理能力を遥かに超える情報過多の波が押し寄せているのだから、決して楽観的でいられるハズがないのだが。

 

なぜなら人々は、無自覚のうちに、信じたい情報を正しいと見なしているかも知れないからであり、言い換えるなら、自分が正しいと思っている情報が、実はそれが正しい情報であると信じたかっただけだった、ということを、そもそも自覚していないかも知れないからだ。 

 

トランプを信じる。安倍を信じる。立花を信じる。第三者委員会を信じる。SNSを信じる。オールドメディアを信じる。

 

それと自分の「無自覚」とに、果たして何の関連性も無いのか、どうか。

 

 

よく居るタイプの、「簡単にデマを信じる者」というのは、信じる・信じないのストライクゾーンが元々広大な領域にまたがっており、「多数による民主的議論」だけでなく「限定的な個人の主張」にまで大声で「ストライク!」と言ってしまうジャッジの甘さがあるということになる。がしかし、正直自ら科学的議論に携わる素養の無い者は最終的に「信じる・信じない」の2択に行き着くしか無いという点において、いずれも大差は無いのだ。人は自分の信じたいものしか信じない。