学術会議の会員任命拒否問題がこの社会で放置された結果、政府は味をしめて学問の「有効利用」をさらに推し進めようとする。まぁそれはアタリマエの成り行きだろう。
この改正案は、東大・京大など大規模な国立大学に中期目標や予算を決める強力な権限を持つ合議体「運営方針会議」の設置を義務づけるもの。会議の委員の人選には文科相の承認が必要で、政府が大学への介入を強める可能性がある。
要は、儲からない学問なんて要らないということだ。政府の学問軽視の姿勢は今に始まったことではない。国立大学なんてずいぶん前から軽んじられているぞ。大体、90年代初頭の宮澤喜一以降で、国立大学出身の総理大臣は鳩山由紀夫と菅直人の二人のみだ。あろうことか民主党排出の首相だけなんだからな。あとは金さえ積めばホイホイ入れてくれるような私立大学の出身者しか居ない。森、小泉、安倍、福田、麻生、菅、岸田。自民党が金勘定しかしないのは昔からだが、いよいよ国立大学で儲けようとか言いだす始末はそもそもこいつらの顔ぶれから来ているわけだ。
およそこの世の中で最も儲かる産業は防衛・軍事産業である。政府自民党がそれを最優先するのは後ろ盾のアメリカを失いたく無いからだ。しかしながら防衛増税が大ブーイングな状況を見れば、政府が今後も滞りなく防衛利権に手を染めて行くためには軍事研究・武器開発を大学を中心に進めさせ、政・産・官・学の重量級体制を築き上げる必要があるのは言うまでもない。だからガースーはちゃっかり学術会議に任命拒否を叩きつけておいた訳で、まさに根回しに余念はなかったということになる。安倍・菅・岸田と続く政権は閣議決定を連発。今回の法案も閣議決定のみで提出されている。中央審議会の意見は聞かないというスタンスであり、すべては何年もかけてキチンと謀られた筋書きなのだ。
これまで俺は学術会議問題に関してココでずいぶん騒いだが、世の中で実際興味を示していたのは軍事研究マンセーの自称保守、「学術会議けしからん!」の短絡バカしか居なかったのではないだろうか。国民もマスコミも、どこか自分には関係の無い話というような雰囲気に包まれたまま、何故あの騒動がヤバいのか、放置すると後々どんなヒドイ目に遭うのか、そんなことは微塵も感じぬままやり過ごされてしまった感がある。
元来民主主義国家においては、こと学問研究分野を政府に弄らせてはいけないというのがセオリーだ。国民の知性が政府に操られては「民主」で無くなるのだから当然である。口は出さずに金だけ出すのが最も有能な政府であり、それが将来にわたって民主国家の土台を維持し続けることとなる。無能な政府は、金は渋るクセにやたらと口を出し、政府の言いなりになる大概のバカを輩出し続けて、結果的に民主国家を滅ぼした挙句に専制国家へと時代を導いて行く。日本の政府自民党はまさに後者の代表である。
そんな政府自民党の思惑は、既に半ば成功を収めているとしか言いようがない。「自民党をぶっ壊す」と息巻いた時点で20%、「美しい国」がどうのこうのと法螺吹いた時点で30%。学術会議の会員任命拒否理由を「総合的・俯瞰的に」などと煙に巻いた時点で40%。そして、今や国立大学に損得勘定の義務を課すに至って50%だ。天下のバカ国民がどこ吹く風でこの状況をスルーしているうちに、政府自民党はまんまと愚民政策の旨味を手中に収めているという始末である。
良くもまぁ、すっかり出来上がった作戦じゃねーかwと思うが、そんな作戦に引っ掛かる国民の知的レベルといったらお粗末この上無さ過ぎて、はなっから大学なんて無意味なんじゃないか?と思える程だったりする。最近、近所のブログ界隈で絶賛の論点だった「デマ」という問題についても、要は「誰か」「何か」みたいなモノに感動していきなり傾倒してしまう類のオツムのシンプルさが根底に有るという意味で、それこそバカ国民の素養の一つとして「デマ受け入れ体質」が必須になっているのも、まさに政府の愚民政策の念願と言えるんじゃなかろうか。
バカが増えれば増えるほど政府はやり易くなる。これほど明白な事実も他に無いだろうw
余談だが、「デマかどうかの判断には科学的エビデンスを!」というのは、確実にその通りではあるが実践はほぼ不可能だ。理由は簡単で、「もはや一般市民は科学的エビデンスを解釈してその真偽を見極める能力を持たない」から。それほどに現代の科学技術の水準は高く、ブラックボックス化している。
結局は、さまざま噛み砕いて下々に与え授ける役回りを誰かに担ってもらう必要があり、その「誰か」「何か」みたいなモノを信じるか否か、傾倒するか否かを、下々のひとりひとりが自ら選択せざるを得なくなる。だから身も蓋もない話だが、科学的エビデンスの検証は専門家(つまり科学者)の集団による民主的議論に任せるしかなく、自分に許されているのは、つまる所それを信じるか・信じないかだけなのだ。
よく居るタイプの、「簡単にデマを信じる者」というのは、信じる・信じないのストライクゾーンが元々広大な領域にまたがっており、「多数による民主的議論」だけでなく「限定的な個人の主張」にまで大声で「ストライク!」と言ってしまうジャッジの甘さがあるということになる。がしかし、正直自ら科学的議論に携わる素養の無い者は最終的に「信じる・信じない」の2択に行き着くしか無いという点において、いずれも大差は無いのだ。人は自分の信じたいものしか信じない。
ただ、少なくとも物事を慎重に判断出来る人であれば、社会的方向性を決するような重要な問題に関しては、「より多くの集団における民主的結論」に焦点を置くのが賢明であると自然に理解しているはずだ。だからこそ、何か学問のトップに居る連中は政府の影をおぼえてはダメで、完全に独立している必要があるという訳だ。
彼らが一旦政府に利用されてしまったら、我々はもはや「デマ」にあらがう術を持たなくなる。社会における最大の「デマ屋」は国家であり政府だということを、国民はしっかりと意識すべきだ。万に一つも落ちて来ることの無いロケットにJアラート鳴らしまくったり、学術会議や国立大学を自らの掌に収めたがるような醜悪な政府には、レッドカードで一発退場を突き付けてやるのが当然の義務なのである。
もしもそれが出来ないのなら、愚民国家の成立を後押しするバカ国民であると自ら証明しているようなものだ。