我が国には心から「何か」を信じてしまう人が山ほど住んで居る。昔はそれこそ魔術だとか宗教(これは今もそう)だとかが「心から信じる対象」だったのだろうが、現代において特に目立つのは、無闇矢鱈に「科学」を信じてしまう人たちである。

 

科学技術立国だとか言いながらも、この国の民には科学的素養の持ち主がほとんど居ない。もっとも、スマホの中身やIP通信になど1ミリの知識も持ち合わせない人々が、「auが繋がらない!これじゃ仕事にならないじゃないか!」とひたすら激オコな時間を持て余すしか無いような世の中だから、サイエンス・リテラシーなんてシロモノがますますこの国から遠ざかる一方なのも仕方が無いように思える。

 

実際「科学とは何か?」と問われると、反射的に「真理の探究です!」とか答える人がとても多いのだが、本当のことを言えば科学はどこまで行っても究極の真理には到達出来ない。何故なら、科学の本懐は「疑うこと」だからだ。仮にどこかで「究極の真理を突きとめた!」という判断が下されたら、それは取りも直さず「もうそれ以上は疑わない」ことを意味する。そのようなシーンに遭遇した時点で、科学は自ずと科学ではなくなってしまうのだ。永遠に「ブラックボックスを開け続けること」こそが科学に課せられた宿命なのである。

 

しかし現代に生きる我々には、むしろその真逆のベクトルが働いている。科学によって次々と明らかにされた法則は工業的に集約され、もはや一般人には覗き込むことすら不可能なブラックボックスが、それが無ければ一日たりとも生きて行けないような、生活に欠かすことの出来ない科学技術として運用されているからだ。

 

その結果、我々にとっての科学は、ほとんど魔術のような存在になってしまった・・・

 

 

と、ここまでは俺が数十年来抱いてきた考えを記したものだが、つい最近、そのものズバリを著わした小論文を高校生の息子の国語の教科書の中で発見した。

 

「魔術化する科学技術」 ー 若林幹夫

 

かつて人は「知り得ないこと」に宿るもどかしさと不安を、呪術や魔術、宗教を信じることによってかき消した。物事を理解し、透明性を確保する上ではそれらが重要な技術となっていたのだ。時を経て現代に生きる我々は、代わりに科学的知識とその応用である技術を用いて、「今まで知り得なかった」事柄を解体し、その透明さを手に入れることが出来るようになってきた。

 

ところが、科学の発展は物事を解き明かす度に、さらにその奥に有る「解き明かされていない領域」を増やす一方だった。それと同時に科学の応用である科学技術は、その高度な集積と進化によってブラックボックス化し、「便利だがわからない領域」を増やす一方となっている。科学の発展によって我々は、皮肉にも呪術や魔術、宗教を信じる以外に無かったかつての人々と同じような境遇に陥っているのだ。

 

魔術は人々にその不思議な力による恩恵を与える一方で、あからさまに人を欺く。魔術の仕組みを知り得ない我々はかつてない程に、「欺かれ、飲み込まれやすい泥沼」の中に立っているのである。

 

 

 

トリチウムの何たるかを見た事も触れた事も無い我々は、その線量がどう計測されているのか、果たして本当に正しいデータを見せられているのかどうかについて知る由も無い。我々に出来るのは、ただ黙って魔術師の身振りに括目し、その呪文に耳を傾けるのみである。「疑い続ける」という科学の宿命を理解しながらも、我々はもはや科学技術という魔術を疑う術さえ知らない。我々は未来永劫、魔術を魔術として受け止めて行く以外に無いのだ。

 

となれば、そんな国民の大いなる不安を解消出来るのはやはり政府自民党だけだろう。自民党には偉大な麻生太郎が居るじゃないか。まさに今こそ、ウルトラマン・タローの出番だろうよ。トリチウム水を飲み干すぐらいのこと、偉大なタローに出来ないわけが無い。