根拠もなく、誰かが放った言説を簡単に受け入れてしまう。
そうした社会的病理の顕在は我々の周囲に限ったことではなく、もはや世界的な潮流となっているのだ、という記事。
この世界にすべての人が合意できる客観的な真実などない。真実は、人がそれをどのように眺めるかによって、変わってしまう。そうであるとしたら、何らかの自分の主張に関して、他者からその妥当性を覆すようなエビデンスを突き付けられても、無視すればよい。
近年、このように真実の概念そのものが相対化され、その客観性が軽視される状況は、「ポスト・トゥルース」と呼ばれる。そこでは、深刻な形で詭弁が蔓延している。
なぜ、簡単に無視できるのか。
それは、物事をほぼ「好き嫌い」で判断し、「自分が信じたいものを信じる」というシンプルな思考パターンにすっかり慣らされてしまっているからだ。
2016年、オックスフォード英語辞書は、「今年の言葉」として「ポスト・トゥルース」を選出した。そこでこの言葉は次のように定義されている。
“世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況”について言及したり表わしたりする形容詞。
感情や個人的信条に左右され、つまり「好き嫌い」に流されて形成された世論は、客観的事実をあからさまに軽視する。
昨今のさまざまな世相は、まさにその実態の反映と言って良いのではあるまいか。
もちろん、このように「ポスト・トゥルース」だなどと言われてあたかも啓示を受けたかのような瞬間には「ああ、そういえばそうだな」と素直に思えたりもするだろう。
しかし実のところ一番問題なのは、そもそも何が客観的事実であるかを認識する能力さえおぼつかないことであり、その結果正しい推論を導けないことだったりするのだが、たいていの人々はそれに不安を感じることもなく、むしろ堂々としている。
そんな「下地」の上に、その処理能力を遥かに超える情報過多の波が押し寄せているのだから、決して楽観的でいられるハズがないのだが。
なぜなら人々は、無自覚のうちに、信じたい情報を正しいと見なしているかも知れないからであり、言い換えるなら、自分が正しいと思っている情報が、実はそれが正しい情報であると信じたかっただけだった、ということを、そもそも自覚していないかも知れないからだ。
トランプを信じる。安倍を信じる。立花を信じる。第三者委員会を信じる。SNSを信じる。オールドメディアを信じる。
それと自分の「無自覚」とに、果たして何の関連性も無いのか、どうか。
よく居るタイプの、「簡単にデマを信じる者」というのは、信じる・信じないのストライクゾーンが元々広大な領域にまたがっており、「多数による民主的議論」だけでなく「限定的な個人の主張」にまで大声で「ストライク!」と言ってしまうジャッジの甘さがあるということになる。がしかし、正直自ら科学的議論に携わる素養の無い者は最終的に「信じる・信じない」の2択に行き着くしか無いという点において、いずれも大差は無いのだ。人は自分の信じたいものしか信じない。

