山城国一揆の持続性 | 歴史ニュース総合案内

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 戦国時代突入直前に起きた山城国一揆に関する真正の古文書が新たに124通見つかり、4月に公表された。椿井文書という江戸時代の偽文献集に冠されている椿井家が、自治をもたらした国一揆の中軸だった。

 中公新書で『椿井文書――日本最大級の偽文書』を2020年に出し話題を集めている馬部隆弘教授(大阪大谷大学→中京大学)が奈良県平群町の教育委員会に寄贈された当時の手紙を分析。国一揆で山城国南部の椿井家が指導層にいたことや国一揆の鎮圧後も戦国期を通して有力者36家と深く連携して自治を続けていたことが分かった。忍びで外敵を利用したり、渡し船の新調費用を出し合ったりと、大和国は国人が支配していたが、木津川の北の山城国南部でもしっかりと自治が継続していたことを物語る資料だ。

 

 応仁の乱後も続いた守護領主の畠山政長と畠山義就兄弟の勢力争いに辟易した山城国の国衆や地侍が、1485年に結束して領主を追い出し自治体制を築いたのが山城国一揆である。三十六人衆と呼ばれる有力者たちは宇治の平等院鳳凰堂に集って惣国という自治組織をつくり、国中掟法で統治した。黒幕の管領・細川政元の思惑もあって成立したが、やがて分裂して1493年に伊勢貞陸が守護に迎えられて国一揆はひとまず終焉した。だが、三十六人衆の血脈はその後も受け継がれていたことが、今回の古文書で示された。