桜田門外の変のピストル文書 | 歴史ニュース総合案内

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 江戸幕府の大老の井伊直弼が江戸城の城門で暗殺された1860年の桜田門外の変で、直弼が刀でなくピストルで殺された文書が注目され、4月10日放送分の「歴史探偵」で大きく紹介された。2010年代から長く着目されている説だが、鳥取県立博物館が2022年3月21日に発表した古文書が大きく特筆されていた。

 古文書は暗殺を指揮した「桜田十八士」の関鉄之介が、逃亡先の鳥取で水戸へ遊学していたことのある藩士の安達清一郎(清風)に救援を求めたもの。関は事件2か月後の聞き取りに応じ、直弼が「ヒストン」(ピストル)が胸に当たって亡くなったと証言した。これは殺陣の末に「井伊殿覚悟」と叫んで剣で籠ごと刺し殺す通俗の場面と異なる同時代資料となる。岡山県津山市の個人宅に一部しか公開されていない安達清風日記の原本が残っており、博物館は事件後に書かれた関の手紙と共に紹介した。

 

 番組中の桜田門外の変

 水戸浪士の暗殺隊は実のところ見世物状態の行列の中、見物人に紛れ込んで機を伺った。大雪が積もる中、井伊直弼は(武士の体面で護衛をつけぬという像とは異なり)60名近くの護衛を引き連れて旧暦3月3日に登城した。しかし、襲撃が始まると、過半数の日雇い(番組中でアルバイトという不要なドイツ語)護衛人は命を惜しんでさっさと逃げ出した。ピストルで井伊直弼はあっさり事切れ、冬の寒さで刀を抜けぬまま井伊家の直臣たちは斃されていった。それでも、井伊家の家臣団はお家断絶を防ぐため、新心流の井伊直弼が快刀乱麻で浪士たちをギッタギッタと一人で薙ぎ倒していったとの報告をつくって、豪徳寺の墓碑で死亡日時を誤魔化した。だが、武士の名誉を果たせなかった井伊家の護衛たちには厳罰が下された。

 大雪の部分以外の桜田門外の変の描写は、講談から映画どころか歴史研究の世界でもフィクションが多い。攘夷派の徳川斉昭が国産の大砲ばかりかヒストンまで作らせている部分は、前枠の歴史秘話ヒストリアの桜田門外回でも紹介されていた。