日記として気軽に書きます。


 あらかじめ断っておくと、ここでの理性は数学的な演繹法に限定して言及する。物理や社会学などとは異なり、純粋な論理を考える。つまり、矛盾なく定義がなされ、いくつかの公理を正しいという前提で行われる思考形態を取り扱う。その思考形態において、事実認識や理性に基づく理論だけからは、追求すべき価値観を導出することはできない。事実認識や理論に先んじて、正しいと位置づける価値がないと、価値判断はできない。これは善悪(利害)の問題、正邪(行為の正しさ)の問題の双方に当てはまる。


 存在と善悪

 存在だけからは、利害関係をはっきりさせることはできない。
 たとえば、台風がどのような進路をとるかを予想するのは、事実認定や因果関係に基づく推量ですが、それをよいと評価するか、悪いと評価するかは、評価する人間がどのような価値を受け入れるかに依存しています。ある者は日本列島に台風が直撃することとその結果を善と位置付けるかもしれないし、ある者は、台風が直撃したその結果を悪と位置付けるかもしれない。
 または、2+3と4+7の大小の比較する際、2+3=5,4+7=11を理性によって求めることができるが、大小の比較には、実数が順序づけられていることを必要とする。5<11ということを自明に正しいとしなければいけない。

 価値判断には、あらかじめ価値の大小の順序を受け入れないといけない。つまり、追求すべき価値が何かを無批判に受け入れなければ、価値判断をすることはできない。


 存在と当為

 観察や資料による事実の認定や因果関係の推察だけからは、いかなる当為も正当化することはできない。

 まず、このことを考えるために、思考実験をしてみよう。もし、事実認定や理論のみから導出できる価値が存在すると考えるなら、その価値を実際に論理的に導出することを試みたらいい。しかし、そこには、必ず自明に正しいとしている価値観が存在します。例えば、殺人がいけない理由に伝統であるからと答える人は、伝統を破壊してはいけない行為と、根拠なく位置付けています。では、伝統はなぜ破壊してはいけないのでしょうか?あるいは、聖書の教えだからと答える人は、聖書の教えを破ってはいけないという価値を前提としています。「殺人を否定するのが民族の法的確信であるため、殺人をしないのが民族を拘束する法となる」と答える人は、「民族の法的確信には従わないといけない」という価値を前提にしている。ほかの例では、憲法は政府を国民が縛るものという憲法観は、国民が決めたことを政府が守らなければならないという根拠なき信念に成り立っているし、王権神授説に基づく君主主権もまた、神が認めた行為を否定できないという宗教的偏見に立脚しています。
 なにか一つでも、価値を事実や因果関係から正当化できますか?できないわけである。

 「Aすべきこと」を論証するために、「BするためにAが必要である」という法則と、「Bすべきである」ということが必要なのです。


 事実解明的分析と規範的分析

 経済学では、事実解明的分析と規範的分析を区別することがある。前者は存在を扱い、後者は当為を扱う。経済学は元々は道徳哲学や倫理学と同一の学問と分類されており、公正という概念を取り扱ったりする。しかし、ある政策で何が起こるのかの予想と、どの政策を実行すべきかは、別次元のことである。経済分析を基に政策を選択するのは、一般に、政治的信念を国民に支持された政治家であって、学者の個人的な価値観ではない。

 法学は、どう解釈すべきかやどういう立法をすべきかを扱うことがある


 存在と当為の違いを踏まえて

 個人の人生の目的だけでなく、国民共通の目的や追求すべき価値も、理論からは導出できないのである。では、いったい何かがそれらを決めるのだろうか?主権者を有する君主?あるいは、主権を有する国民?あるいは、建国の理念だろうか?いずれも、特定の時代の特定の人間の意思を絶対視する考えだろう。なら、徳や生得的な美意識だろうか?しかし、徳は多元的であるがゆえに、順序づけられない事柄が存在する。


 最後に

 本当は、存在と当為の違いは、物理や化学などの思考法にも存在する。しかし、その思考法は多分に感情の影響を受けるので、人間の感情を除外するという点から、今回は扱わなかった。いずれにしても、科学的思考からは、根本的な価値を正当化することはできないし、否定することもできない。