〇意思の意図がどんなに強いからと言って、意思の意図を利用して魂の意図を得ることはできない。魂の意図はその名前の通り、私たちの意識の外側の魂レベルにあるものである。意図について、理性による定義づけの枠内で説明するのは難しい。私たちは、魂の意図のいくつかの現象の証言者になることだけはできるかもしれない。魂の意図は、魂と理性が一致した瞬間に発生する。魂と理性が一致するという条件が満たされるや否や、思考エネルギーの放射とあの外的な力との間にある種の共振が起こり、この外的な力が私たちをつかむと、しかるべきセクターに移動させるのである。
 魂の意図とは、事象選択、すなわち人生ライン間の乗り抱え、言い換えると、亜空間のセクターからセクターへと跨って行われる物質的現実化の運動そのものを実現する。あの力のことでもある。こんな力がなぜ存在するのか、また、それはいったいどこから現れるのか。このような疑問は、なぜ神が存在するのか、または、神と魂の意図との間に関係があるのかという事に思いを巡らすのと同様、意味の無いことと言える。それを知ることは誰にも許されてはいない。私たちにとっては、この力が存在するという事が大切であって、あとは太陽の光を浴びて喜ぶように、その力を利用する可能性があることを喜ぶだけである。
 魂の意図は、亜空間にいるセクターからセクターへと現実化を移動させる可能性を示している。これは重力があなたを家の屋根から転落させる可能性を示しているのと同じような者である。あなたが屋根の上に立っているうちは、重力があるにもかかわらず、何も起こらない、しかし、あなたが一歩足を前へ踏み出した途端、すなわち自身を重力の手にゆだねると、重力はあなたをつかみ、地面に落下させるだろう。
 我が身を魂の意図の手に委ねるためには、魂と理性を一致させなければならない。重要性があると、魂と理性の一致は達成できない。重要性は疑念を生み、魂と理性の一致に至る途中の障害となる。理性は望むが、魂が抵抗することもある。また、魂はあこがれるが、理性はいぶかり、首を縦に振らない事もある。重要性は閉じているガラス窓に理性をぶつけるが、重要性は理性を常識のかごの中に留め置く、ついには、何らかの受け入れられないことで魂と理性が一致してしまい、そこで魂の意図は私たちに不必要な品物を無理やり押し付けようとする。魂と理性のそれぞれ向かう方向が一致しないのは、理性がコマから押し付けられた先入観や偽りの目的に捕り付かれていることによる。コマは重要性の糸を引っ張って、また私たちを揺さぶる。
 そこで魂の意図を操るための二つ目の必要条件をお教えしよう。それは、重要性を引き下げることと、目的達成の願望と縁を切ることである。もちろん、逆説的に響くかもしれない。目的を達成するためには、目的を達成する願望と縁を切らなければならないというのだから。私たちは意思の意図に関係することすべて知っている、なぜなら、私たちはこの狭い枠の中だけで行動することに慣れっこになっているからである。私は意図を所有し行動する決意と定義づけた。魂の意図と意思の意図の違いは、この定義の前半と後半の部分に表現されている。意思の意図が行動する決意であるのに対し、魂の意図は所有する決意である。例えばあなたに落下する決意があるならば、勢いをつけて走り、落下すればよいし、またあなたに地上にいようという決意があるならば、掴んでいるものを話して、自分の身を重力にゆだねればいい。
 意図から願望を取り除いて鈍化するには、次のような方法で行う。あなたは目的の達成について。あれこれ考えている。すぐに疑念を抱くようなら、あなたのそれは願望だ、目的達成のために必要とされている資質や可能性を自分は持っているのだろうかとあなたは不安に思っているとすれば、あなたにあるのは願望だ目的は成し遂げられるとあなたは信じているのであれば、この場合も、あなたにあるのは願望である。願望を抱くことなく、欲しいと思い、行動することが必要である。腕を持ち上げて頭の後ろを書くという意図は、過剰ポテンシャルの取り除かれた意図の見本である。あなたに願望はあるはずがなく、あるのは頭を搔くという純粋な意図だけである。そうなるためには、内的重要性と外的重要性を引き下げることが必要である。重要性を引き下げるには、簡単で効果的な方法がある。それは、前もってうまくいかなかったときにの状態に馴染んでおくことである。これを行わずに、願望を免れる事はできない。
 意図から願望を取り除いて浄化する際に、意図そのものを失ってはいけない。目的の達成を意図し、うまくいかなかった状態にも前もって馴染んでおく。頭の中で、失敗した時のしなり顔を何回か思い描いてみて、失敗した時にはどうするのか考え、予備の方法を見つけたり、保険をかけておくのである。なぜなら、人生はこれでおしまいとなるわけではないからである。うまくいかない場合のシナリオに何度も戻るべきではない。とはいえ、失敗の場合のシナリオに馴染んでおくことは、何が何でもあなたが思い描いていた通りに目的を達成してやるぞという気持ちから、あなたを解放してくれる唯一の行為ではある。本当のところは、どのようにして目的が達成されるのか、あなたが知ることはできない。この問題は、またあとで述べよう。
 うまくいかない状態になじんだ意図は、失敗についても、成功についても、それ以上は考えずに、ただ目的に向かって進もう。売店へ新聞を買いに行くように、目的に向かっていこう。あなたは自分のポケットの中に幸運を見出するとだろう。もし幸運がそこにはなかったとしても、悲しんではならない。一度うまくいかなくでも、もし立ち上がれないほどの悲しみに打ちのめされていなければ、次の機会にはうまくいくことだろう。自分の身を魂の意図の手に委ねるというのは、意思の意図を完全に拒み、魂と理性が一致するのを待ちながら、何もしないで座っていることを意味するのではない。一般に受け入れられている方法であなたが目的を達成することは誰も邪魔しない。願望や重要性と縁を切ることにより、意思の意図が働く結果にも、好ましくない影響が現れる。さて、これであなたは、魂の意図のかなり強力な力を自分の方へと引き寄せるチャンスを手に入れた。魂の意図は、あなたが以前達成不可能と思っていたことの達成を可能にするのである。

 

〇魂の意図は、不可解で強力な力である。同時に、どれほど移ろいやすく捉え難いかという事も納得するだろう。それは、コントロールする全てもあり、同時にコントロールへの拒絶でもあり、行動する意志であり、強圧への拒絶であり、所有する決意であり、達成しようとする意欲への拒絶である。理性にとっては、何か聞きな入れずこれまで経験した事のないものである。人は意思の意図によって達成することには慣れている。世界に直接影響を与えれば、世界はすぐに反応してくる。すべては単純で理解できる。しかし、世界はやすやすと屈してはくれない。努力し、自分の主張を貫き、戦い、大変な苦労をして勝ち抜くことが要求される。ところが、魂の意図による目的達成は、積極的に立ち向かうことを放棄するようにという提案である。世界の方から両手を広げてやってくるのだという。常軌を逸したこんなやり方では、理性が途方に暮れるのももっともな話である。
 どうすれば、所有する決意と直接作用することの放棄とをバランスを取って両立させられるのだろう。答えはおのずと浮かんでくる。意図のバランスを保たなくてはならない、という事である。答えはおのずと浮かんでくる。意図のバランスを保たなくてはならない。という事である。これはつまり、望まずに欲しがる。不安にならずに心配する、夢中にならずに目指す、固執せずに行動するという事である。バランスが破られるのは、重要性が生み出す過剰ポテンシャルによってである。目的が大事であればあるほど達成はますます困難になるという事を、あなたはすでに知っている。
 「もしとても欲しいなば、必ずや達成される」という表現があるが、パニック状態になるほど欲しかったり、望むものを病的なまでに得たいケースでは、全く正反対に作用するだろう。望みが実現吊れるというしっかりとした確信がないために、パニックを起こすのである。次の二つのスタンスを比較していただきたい。一つ目のスタンス「私は望んであるものをとても達成したいと思っている。それは、私にとって、生死にかかわる問題である。私はどんなことがあろうとそれを手に入れなければならない。私はあらゆる努力を惜しますない」二つ目のスタンス「まぁいい、私は望むものを受け取ろうと決めたのである。だって私はそれが欲しいのだから、それで、どこかに問題でもあるのか。その望むものを私の手にはい。それだけの話である」どちらの状態が勝利するかを判断するのは、難しくない。
 願望は、実現されない確率を除外していない点で、意図と異なる。もし私たちが何かを望んで、それを得ることが難しいとなると、もっと欲しくなる。願望はいつも過剰ポテンシャルを生み出す。願望自体がすでに過剰ポテンシャルなのだと定義づけられる。どこか何かが欠けているが、その何かを底へ引き込もうとする思考エネルギーが存在する場合、それが願望だ。これに対して意図は、信じることも望むむこともせず、ただ作用するのである。
 純粋な意図は決して過剰ポテンシャルを生み出さない。意図とは、すでにすべてが決定されたという事を前提としている。つまり、「私はそうなることをただ単に決めてしまった。それはほぼ成し遂げられた事実なのである」
と言いうように。それは、そうなるだろうという事の、穏やかな認識である。例えば、私が売店へ新聞を買いに行くつもりであるとしよう。ここでは願望というのは何もない。願望は、私がそうしようと決めた瞬間まで存在していただけである。この願望が履行されない各釣りは極めて小さいし、履行されない場合でも、何の災厄も起こらない。つまりこの時の意図は、願望、即ち過剰ポテンシャルが完全に取り除かれたものになっている。
 願望の思考エネルギーは目的に向けられ、意図のエネルギーは目的達成のプロセスに向けられる。人が何かを欲しいとき、その人は取り囲む世界のエネルギー分布図上に擾乱をもたらし、これが平衡力の作用を招く。しかし、その人が新聞を買いに売店へ歩いていくときには、行かない異質性もそこにはない。
 願望は、人生ラインの状況に対して、次のように作用する。「私はこれを受け取りたいと思っているが、受け取れないかもしれない。だから、しくじったときのことを考えてしまい、失敗する人生ラインの周波数で思考エネルギーを放射している」ところが、意図は全く正反対に作用する。「私は自分が求めているものを受け取ることを知っている。この問題は私にとってすでに解決済みである。だから私は、欲しいものを受け取る人生ラインの周波数でエネルギーを放射している」
 このように目的の達成を邪魔する者は、願望と信念という二つの過剰ポテンシャルである。正確にいうと、「何があっても目的を達成するという熱狂的な願望」と「目的を達成する可能性への疑念との戦い」のことである。目的を望めば望むほど、成功する結果への疑念は益々膨らむ。そして、このような疑念は、望んでいるものの価値をさらに増大させる。願望は役に立たないどころか、邪魔をするだけなのである。願望を実現させるための秘訣は、願望と縁を切り、その代わりに、意図、すなわち、所有し行動する決意を持つことである。 
 しかし、目的の重要性は、意思の意図によって世界に影響を与えつつ、自分の目的を大騒ぎしてでも勝ち取ろうという意欲を生み出す。理性は、その意図を受け取り、向う見ずに戦い始める。まさしく重要性こそが、今までの習慣でこのように世界に圧力をかけるよう、理性を強要するのである。たとえ一歩でも良いから、魂の意図に近づくためには、重要性を引き下げる必要がある。意思の意図は取り巻く世界に影響を与えようとするが、魂の意図はこの点で意思の意図との共通点は何も持っていない。

〇人が現実を直視したくないときには、多かれ少なかれ無意識性が現れる。ダチョウは、迫りくる現実から逃げ出したいと思うと、頭だけを砂の中に突っ込んで隠れる。人の場合は「何も見たくない、何も聞きたくない、何もいらない、私にかまわないで」というように、外の世界から隔絶されたいと望む、毛布にもぐりこんで寝入ってしまうことは出来ないから、人は知らず知らずに意識性のレベルを下げて、自分の知覚を遮断しようとする。例えば、おとなしく悪気の無い人は、自分の身を縮めて避けようのない一撃をよけようとする。しかし、その人はそれを撃退することはできない。なぜなら、意識性が恐怖によって遮断されていて、まるで目の前に幕がかかっているかのように反応が鈍くなっているからである。同様に、怒りも理解の妨げになる。ゲームに頭までどっぷりとつかってしまっている人は、周りのものが何も目に入らず、何も聞こえない。「腹立ちまぎれ」という言葉はここからきている。
 恐怖と怒りは、無意識性の究極の現象である。しばしばコマは私たちの警戒心を軽く麻痺させようとする。例えば広告は、人々が多くの時間を半意識状態で過ごしている事を利用して、ゾンビ化させる影響を及ぼす。取り巻いている現実を明確に知覚する意識性というものは、血液中にアドレナリンが放出される状況になった時にだけ現れる。そんなわけで、夢のなかで目を覚まし、「おい、お前たち、バカにするのもいい加減にしろ。これは夢でしかない。それも俺様の夢なんだから、主は俺様であって、お前たちじゃない」というような文句を口にすることも大変に難しい。
 意識性は、潜在意識から直感的な情報を引き出すのに役立つ。「なぜ私は急にこうしたくなったのだろう」という思いにとらわれたら、それはしてよいことである。魂の声はか細くて、ほとんど聞き取れないくらいである。これに対し、理性は「黙れ、私には、何が必要で、何をすべきか、自分でわかっている」と答える。心のさざめきに常に耳を傾ける事を習慣にする必要がある。半意識状態では、内なる声が囁いていることに手遅れにならないうちに気付くことはほとんど不可能である。たとえあなたが朝からあなたの魂の功を聞こうと準備していても、もし眠ってしまったら必要な時に思い出すことが出来なくなってしまう。
 以上から、魂と理性の一致が魂の意図を生み出し、魂の意図が私たち自身の利益に従うよう意識性がそのためのチャンスを与えてくれる事を明らかにしてきた。夢の中での魂と理性の一致は、簡単に達成される。これは、夢の中であれば、権威を振りかざす理性から魂が自由でいられるという単純な理由による。意識してみる夢の場合は、コントロールする術はあるが、これはシナリオの修正にだけ向けられる。それ以外では、常識はずれのこともすべて許される。夢の中では、理性はどんな奇跡でも受け入れることに同意する。アンデルセンの物語「ひうち箱」にはこんなエピソードがある。夢を見ていると信じ込んでいるお姫様が、兵隊と一緒に屋根の上を散歩する事に応じるというものである。このように、理性は夢の中では何でも好きなことを許してくれるのだが、現実の世界では常識的な世界観に病的なほど固執するのである。
 常識で考えられないことに関しては、魂と理性が簡単に一致することは無い。常識とは、私たちを一生閉じ込めておく篭であり、そこからの脱出は一筋縄ではいかない。人は神秘的な教えに魅了されたり、空想にふけったり、信じがたいことを信じたりすることがある。しかし、こうした信じる気持ちには、いつもどこかに疑念の余地が潜んでいる。理性は偽り装うかもしれないが、それでも本当のところ、理性はリンゴがやはりいつも地面に落下化すると思っている。だから、魂の意図を完全に自分に服従させることは極めて難しい、しかし、そうではあっても、意識性を高めるとコントロールできるチャンスが急激に膨らむことをあなたは自分の体験で納得することが出来る。
 あなたの意識に見張り役が常駐していると、意識性は最大限に達する。見張り役は、ゲームが誰の利益のために行われているか客観的に評価し、もあなたが操り人形のようにゲームに引っ張り込まれないように見守る。いかなる問題でも、「眠っているのか、起きているのか」と自問自答することを忘れてはならない。怖くなったら、意識してみる夢を試してみるのもいいだろう。しかし、夢が終われば、いつもの現実に戻される。それよりも、意識して過ごす現実の生活の方を試してみる価値があるのではないだろうか。ご理解いただけたように、意識して過ごす現実の生活という選択肢は、あなた自身の好みによって世界の層を築く可能性をもたらしてくれるものである。選択はあなた次第である。

 

〇あなたはもう操り人形ではない。だからと言って、自分を人形遣いだと思ってうぬぼれる誘惑に負けないよう警告だけはしておこう。もうお判りいただけたと思うが、そうすると平衡状態が崩れ、他人に対するうぬぼれ、優越感、無関心、または軽蔑などの最初の兆しが現れた時点で必ず痛い目に合う。目の前の出来事全体を完璧にコントロールする事など、たとえ夢の中であっても実現できない。あなたは選択する権利を持っているだけであって、変更する権利は持っていないことを覚えているだろう。ゆったりとくつろいで良いのだが、客人であることは忘れないで欲しい。自分をリースに出し、非のうちどころのないよう行動するべきであることも思い出して欲しい。「軽演劇」のような気分で問題に対処することは、だらしなく振る舞う事でも慎重さを欠くことでもない。重要性を目覚めた目で評価するという事なのである。
 意識性を取り巻く世界をコントロールしようとすることと解釈するのは間違いである。理性は、事柄の展開を変更しようとすることや自説を主張すること、つまり、流れと戦うことに慣れている。もしあなたが観客席に降りて言ったら、力ずくでシナリオを書き換え、役者たちに自分の意思を押し付けたい誘惑気に駆られることでろう。このような振る舞いは事象選択とは相いれないものである。なぜならそれは、流れと戦おうとする思考の意図だけに基づいているからである。事象の流れに沿って動くべきだという事を何度も思い起こしていただきたい。意識性とは、乞コントロールではなく、自分のシナリオの可能性を認め、その事象が現実化する野間を容認する。そして自噴に対しては、そのような事象の所有を容認するのである。魂と理性が一致する場合に限り、あなたは世界と戦うのを止め、その選択を容認するだろう。
 前に出しておいた宿題を思い出してみよう。ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲物の役割は私たちにふさわしくない。人生という名前の付いたゲームで、事象選択は自分の運命の主にどのような役割を割り振るだろうか。いまのあなたはもうご存じのはずである。それは見張り役という役割である。現実の生活におけるあなたの意識性の度合いが高まれば、その分自分の運命を効率よく取り仕切ることが出来るようになる。
 それに、見張り役という役割は、執行者という役割よりもずっと心惹かれる。ご承知のように、指揮官、上司、リーダーなどは、単なる執行者と比べて、人生において意欲的に活躍する立場にいる。これは彼らが負っている責任が大きいからというだけではない。管理組織の中の労働者であれば、義務の執行者よりはむしろ見張り役の方がいい。平の労働者は強制されて自分の義務を履行しながら眠りこけてしまいかねないのだが、見張り役の方は置かれた状況から「より覚醒するよう」になる。あなたが見張り役の立場になってみれば、エネルギーが溢れ、活力が湧いて来ることをすぐに感じるだろう。なぜなら、今やあなたは、ただうつむいて他人の意思を遂行するのではなく、自分で自分の運命を切り開かなくてはならないからである。自分の運命に対する責任は、荷物ではなく、自由なのである。
 人が動物と異なるのは、知能のレベルというよりは、意識性のレベルにおいてである。動物は夢見ている状態により近い。動物の主な行動は、本能と条件反射という形で表れる自然によって組み込まれた紋切り型のシナリオで定められている。動物の行動とは、変更が効かないシナリオに従って劇を演じるようなものである。その意味では、人間は「もっと覚醒している」人間は、この世界における個人として、自分自信と自分の居場所をありのままに認識する。だが、それでも、人の意識性のレベルはまだ大変に低い。人は舞台上にいて、自分の役割を演じる。人はすっかりこのゲームに飲み込まれている。
 いわゆる賢いと言われる人々の秘密は、意識性にある。頭脳の明晰ぶりは、意識性の度合いで決まる。明快に思考し明快に話す人々も知れば、頭の中がこんがらがっている人々もいる。頭の切れる人もいれば、頭の鈍い人もいる。これは知能の発達レベルではなく、意識性のレベルが異なるからである。頭の切れが良くないというのは、「何も知りたくない。私を放っておいて」というように、望ましくない情報からの心理的な防御である。反対に、頭の切れがいいというのは、「全部知りたい」というように、率直さ、旺盛な探求心、情報を受け取って処理する願望である。頭に切れが良くないのは、心理的発達の遅れによる結果である場合がある。これは、例えば、幼いころに強制的に何かを勉強するよう仕向けられ、この際、心理的圧迫を受けたことが原因となっている。
 現実の生活で私たちがより深く眠り込んでしまうと、失敗を犯す事もそれだけ多くなる。ガラス窓にぶつかっていくハエも、深く眠りこけている。ゲームに没頭すると、現実を広い視野で客観的に眺めることが出来なくなる。ゲームでしつこく同じことを繰り返すと、知覚できる範囲が狭まり、周りが見えにくくなる。これが原因で失敗をすると、「私の目はどこについていたのだろう」と言って、人は驚く、まるでキツネにつままれたように思う。エイプリル・フールの4月1日には、イッパイ食わされるものとだれもが知っているはずなのに、それでも人は罠にはまってしまう。これを白昼夢と言わずして、どう表現すればよいのか。

〇夢を見ている時間も現実の時間もあなたのコントロール下に置くためには、参加者から観察者へと役割を切り替えることが必要である。この時、ロール・プレイングに参加する事をやめるのではなく、これまで通りに自分の役割を務めるのである。しかし、あなたには常に内なる見張り役が作動してくれている。あなたは自分を役者としてリースに出すようにしながら、同時に、離れた観客席から自分や他者の演技を注意して観察する。見張り役は常にスイッチが入っていて、背後から眺めていてくれる。見張り役は干渉することなく、出来事の展開を見守り、冷めた目で状況を把握している。
 受動的な夢では、観察者のスイッチは切ってあり、役者だけがいる。あなたは完全に役割に飲み込まれていて、外が状況を見ることが出来ない。役割に「没頭し」すぎないように、内的重要性と外的重要性を最低のレベルに維持し、常に見張り役を待機させておく必要がある。たとえ魂の意図のことを考慮に入れなくても、状況をコントロールする能力はあなたの意識性にそのまま比例する。夢の中でのあなたの意識性のレベルは低い。だから夢のなかの出来事はあなたに「偶然起こる」のである。もしあなたが眠っていることを意識したら全ての状況がコントロール下に置かれ、あなたは好きなことが出来る。
 人々や破壊的コマからの影響を受ける可能性は、あなたの意識性と反比例する。夢のなかでは多くの人々がゾンビのように振る舞っている。もし悪夢に悩まされたら、あなたは逃げ回るだけで何もい出来ない。シナリオはあなたのものだが、上演してもらうために見ず知らずの演出家の手にそのシナリオを渡した状態である。あなたは、事柄が展開する事象に関するいつものイメージにすっかり組み敷かれている。それはあなたのイメージなのに、イメージの方が自分の意思を押し付けてくる。そのため、あなたは役者、すなわち犠牲者であり続ける。
 あなたが何かの問題に没頭しているとき、今述べたようなことがどのようにして起こっているか思い出してみよう。例えば、あなたの所に同僚がやってきて、何かの仕事をする必要があることを伝えたとしよう。もしそれがあなたにとってはある程度厄介や仕事であるならば、最初の反応としては、意気消沈とまではいかないまでも、不安な気持ちにはなるだろう。あなたは大急ぎで頭の中に今後の展開に関するいくつかのシナリオを思い描く。「この仕事は厄介だ。どうやってやろうか。ああ、やりたくない。私の人生は何と気苦労の多いことか、しかし、もしこの仕事をやらなかったら…」というような具合だ。この瞬間、あなたはゲームに入り込み、影響下に置かれたことになる。言い換えると、あなたは眠り込んでしまったわけである。つまりそれは、静かにあなたの手を取って、まるで聞き分けの良い子を勉強部屋へ連れていくように、あなたを面倒で気苦労の絶えない仕事に向かわせたことになる。そしてあなたは本当にそんな人生ラインに来てしまった自分に気付く。
 コマがあなたに催眠をかけ、あなたの問題をコマのゲームと結びつけようとした。それをあなたが容認したためそうなってしまったのである。あなたは意識の中で「問題だらけ」のシナリオを思い描き、魂と理性が不安という点で一致してしまった。そのため心の意図はすぐにあなたを問題だらけの人生ラインへと移動させたのである。こうしたことは簡単に起こる。恐怖、八方塞がり、不満、心配などの感情は、私たちをいともたやすく羽交い絞めにする。そもそものもの原因は何だったのだろうそれは、重要性である。あなたはゲームに巻き込まれてしまったか、催眠術で眠らされてしまった。その原因は、あなたがゲーム自体を自分にとって重要なものと位置づけたからに他ならない。外的重要性と内的重要性が原因なのである。
 さて、ここで別の展開をする事象をイメージしてみよう。あなたのところに、問題を抱えた人がやってきた。その瞬間、あなたはハッとして我に返り、「眠るな」と自分に言い聞かせよう。そして、コマからの最初の揺さぶりを問題に変えてしまうかどうかは、あなた自身で決められるのだと念を押そう。これは状況をコントロールするための第一の条件である。あとは第二の条件を満たせばよいだけだ。このコマから身をかわすよう意図するのである。何が待ち受けているかはまだわからないのだから、今の状況を全くとるに足りないものとみなすよう前もって調整して置く、大事なことは、あなたの手を捕まえられないようにすること。いかなる攻撃的な言動も慎むべきである。拒絶の態度も良くないし、どうにかして逃れようとするのもまずい。ましてや、イライラするなどもってのほかである。あなたに何をしてもらいたいのか、ただ穏やかに拝聴するのである。表面上はうなずく、相槌を打つのが望ましいが、心の中では傍観者であるのであって、参加者になってはいけない。これは、演技者兼コーチという立場にも似た、演技者兼観客の役割なのである。
 この場合の傍観者であるというのは、決して注意散漫にしているという事ではない。逆に、状況のコントロールは、十分な注意力と明晰な思考力が前提となる。ここでいう傍観者とは、「自分自身がゲームの決まりを定め、そのゲームを悲劇に暗転させるのも、軽演技に仕立てるのも、決めるのは自分次第だとハッキリ理解している者」を意味する。さて、あなた自身はどういうゲームにしたいのだろうか。おそらく、すべてがあっけなく簡単に丸く収まるものにしたいだろう。しかし、もし解決に骨の折れる面倒な問題がいつも出てくると思っていても、心配しなくてよい。どんなに難しい問題にも簡単な解決方法がある。それは、「軽演劇」の人生ラインで見つけることが出来る。このラインに乗り換えるためには、まさしくそのようになると思い描く意図が必要とされるだけである。
 この手法を用いてみると、あなたは心地よい驚きを味わうだろう。そして、結果は信じられないものとなるだろう。少なくとも、問題は本当に簡単に解決される。おそらく問題はひとりでに消えてなくなるか、それともその問題の解決は別の者に任されることになる。そもそも「軽演劇」の人生ラインでは、厄介な問題というものは存在しないのだから、あなたには魂の意図を支配する力はないが、この方法によりなあたは二つの利益を受けることが出来る。第一は、魂の意図があなたに反する作用をしなくなること。第二は、魂の意図があなたのシナリオに沿うよう仕向けられるチャンスが得られる事である。状況は様々に変化するもので、中にはあなたの不利益になることもあるだろう。しかしながら、今述べたようなスタンスは、あなたが勝利するチャンスを大幅に増大させる。その際、事象の流れを信じるという事を忘れてはならない。もし問題に対して「軽演劇」の間気分で魂と理性が一致し、その度合いが十分に高ければ、あなたは思ってもみなかったようなびっくり仰天の結果を得ることだろう。

〇夢の中で攻撃を仕掛けられたら、あなたは何をすることが出来るだろうか。意思の意図の事象には四つある。逃走する、戦う、目を覚ます、または意識する、である。夢の中で攻撃に抵抗するか撤退するのは、意思の意図の幼稚な反応である。もしあなたが攻撃を受け、それを撃退し抵抗するのであれば、現実の生活でも、おなじみの間みモデルに従って、すべては大体そのように起こる。つまり、これはおなじみのモデルに従っているわけである。あなたの意識には、戦いが起こらなくてはならないというシナリオが定着している。例えば、もしあなたが負けることに慣れてしまっていたら、あなたは負けてしまう。あなたの夢は、そのシナリオに応じて、亜空間を移動することになる。
 夢の中のあなたは、現実の生活で習慣となっている同じ行動をとる。夢の中ではすべてが可能だから、魂の意図を利用するのは極めて効果的である。あなたは穏やかな気持ちで敵の方を向き、意思を軽く働かせ、敵が自壊するか、またはカエルにでも変身することをイメージする。この際、あなたは敵を変えるに変身させようとしてはならない。外の世界に影響を与えようとする気も道は意思の意図の働きである。あなたは敵が変身することをイメージする。言い換えると、そのような事象を容認するのである。意思の意図は、それをイメージし、そのようなシナリオを容認することだけに向けられる。もし理性がそのような事が展開する事象を完全に容認すれば、魂も反対することはないだろう。魂と理性の一致は魂の意図を生み出し、魂の意図は選択されたシナリオを現実化させるのである。
 すでに述べたように、魂の意図は意思の力による結果として発生するのではなく、魂と理性が一致した結果として発生する。意思の意図は、この一致を達成するためだけに向けられなければならない。この意味では、魂の意図は意図によって生み出されるのではなく、まるで意思から独立しているように作用する。しかし、魂の意図が現れるためには、シナリオがコントロール可能であることを認識する必要がある。魂の意図を自分のために働くようにするには、この認識が必須条件なのである。
 意識して夢を見ることが出来ないうちは、夢はコントロールできず、「偶然起こるもの」である。夢の中でも目覚めているときでも、人による行為のほとんどは結構無意識的なものである。私たちの出来事への対応の仕方は、往々にして意識を欠いたものとなっている。その理由は、状況が外的要因によって制約され決定されるものであり、それら外的要因に対してあなたが大きな影響を与える力や可能性を持っていないと考えているからである。もしあなたがこのような考え方を持ち続ける限り、あなた以外の人々があなたの人生に影響をもたらす。あるいは、あなたの運命は予期せず急転する。その意味においては、現実も「偶然起こるもの」となる。この場合、ゲームの決まりを定めるのはあなたでなく、外の世界である。

〇夢の中の登場人物たちの振る舞いは、彼らがどのように行動しえるかについてのあなたのイメージによってすべて決められる。アイデアは単に最初のきっかけに過ぎず、残るすべては魂の意図が行う。また、夢の中でのあなたの振る舞いは、意思の意図によって決められ、その他すべては、好むと好まざるとにかかわらず、魂の意図に従う。思い出していただけたと思うが、意思の意図は外の世界に直接作用しようとし、魂の意図は外の世界が意図に従って現実化するのを容認する。
 夢の中では、あなたが容認できるシナリオのみに沿って、事柄が展開される。あなたの頭の中に入っていないことは、起こったりしない。とりわけこの点が、夢で起こるすべてに対してあまり批判的にならない理由である。まったく馬鹿げた夢であっても、眠りながらそれを見ている人は、当然のこととして受け取る。なぜなら、本人が自分の夢のシナリオ・ライター兼監督であるからである。なぜなら、夢を見ているとき、合理性を重んじる理性はまどろんであるため、潜在意識がありとあらゆる信じられないようなことを容認することが十分に考えられるからである。
 人は一生の間に、外部の情報源からも、自分の虚構の世界からも、大量の情報を自分の脳を経由して取り組む。情報の一部は、理性によってふるいにかけられ、不適格や非現実的とされる。しかしながら、このように仕分けられた情報はどこかへ消えたりはせず、物置のような場所に施錠して保管される。だが、潜在意識はそうした情報への通路を持っている。潜在意識にはそうした情報を不適格としてはじき出す理由がない。そのため、夢を見る時間ともなると、魂は抜き足差し足で物置に忍び込み、理性には内緒であらゆる非常識なシナリオを自分で試し始める。それに、無意識に見る夢の中では、魂は亜空間のセクターの中から何でも自由に選ぶことが出来る。そうしたセクターの大部分は決して現実化されない。なぜなら、それらセクターにある事柄は不合理なため、現実化には膨大なエネルギーが必要とされるからである。魂がどのようにして夢を選ぶのかは、神のみぞ知るである。
 魂がどんなに勝手気ままに夢を選ぼうが、理性は見ていて、自分の印象や期待に応じて、シナリオに修正を加える。すでに述べたように、悪い予感や私たちが避けたいことなどは、簡単に現実化する。この場合の魂の意図は、私たちの意思を無視して、人に害を与える形で作用する。
 これと同じように、夢のシナリオは私たちの期待によって決まってくる。悪い予感は夢の中で確実に現実化する。現実の生活でも、あなたは不安に思っていることを高い確率で受け取ることになる。このように、魂の意図は理性の意思を無視して働く、理性は意思の力によって意思の意図を働かせることが出来る。魂の意図はというと、命令には屈しないで、魂と理性が一致した結果として、気まぐれに表れる。夢を見ている時の理性はコントロールを行っていないため、魂の意図が働いているのを察知することさえできない。現実の生活でも、事情はほんの少しマシなだけである。なぜなら夢は、ある意味、現実の生活でも続いているからである。
 夢の中で、人はとんでもなく常識はずれで無意味なゲームに引き込まれる事がある。ゲームは眠っている人を完全に飲み込み、本人は目の前に繰り広げられている愚かしいことが呑み込めないでいる。現実の生活でも、ある程度は似たようなことが起こる。細分化された専門的活動に巻き込まれた人間集団では、はたから見たら愚かしく異常にさえ思えるような判断、符牒、行動がしばしば生まれる。これは、利益集団、プロ集団、宗教集団に見られることがある。
 現実に起こっている出来事への批判力が鈍いのは、催眠術や魔術のような現象が原因である。例えば、ジプシーの催眠術は三つの「はい」に基づいているという。人は三つの質問に対して肯定的な返事を三回行うと、すべてが順調に進んでいるという幻想がその人に生まれる。すると、本人は警戒心を失い。眠り込んでいるときのように批判力が大幅に低下する。一般に、多くの人々は、習慣化した行動を機械的に行っているとき、その過程では文字通りほとんど眠っているようになる。このことは、特に、毎日同じ日課を繰り返している人たちに当てはまる。
 誰かと会話しているときのあなたは、ぐっすり眠っているのと同じである。ゲームに熱中しているあなたは、もちろん、何が起こっているのか分かっているが、客観的に状況を評価したり行動したりすることはできない。なぜなら、ゲームを見物しているのではなく自分自身でプレイしているからである。どんなサッカー・ファンでも知識さえあれば、失敗を犯した選手を批判する。ではもしそのサッカー・ファンをフィールドに出したら、どうなるだろうか。人は誰もが多かれ少なかれ無意識に行動するものである。例えばもしある人が嘘をついたら、その人の両目はしきりに右を向こうとする。両手は意思とは関係なくコントロールの効かない動き方をする。その人は、参加している芝居の影響下に完全に置かれている。
 催眠術による暗示にかかった状態は、まさに現実生活の中で夢を見ているようなものである。どの人も現実の生活で程度の差こそあれ、眠りを継続している。「今何をしているのか、何が起こっているのか、私はハッキリ理解しているつもりだ」などと、急に活気づいて反論される人もいるだろう。しかし、その後、他の誰かや何らかの問題や出来事などがあなたの注意をそらすと、あなたはゲームに没頭し、寝入ってしまう。そして、舞台上にいて自分の役割を忠実に勤めている間は眠っている。そこで観客席に降りていき、自分の内なる見張り役を揺さぶり起こすと、あなたは目を覚ます。あなたは観客席にいながら、今まで通り自分の役割を演じ続け、必要な言葉を発し、必要な行動を行い。定められた決まりに従う。けれども、今やあなたは意識してゲームを行うことが出来る。すなわち、外側から眺めるという意味である。あなたは自分をリースに出し、繰り広げられている出来事を覚めた目で評価するのである。
 無意識に見る夢の中では、夢が「偶然起こる」ことになるが、魂の意図はあなたの意思とは関係無く作用し、あなたはそれをどうする事もできない。意識して見る夢の中では、人は観客席に降りていき、シナリオを意識的に操る。その時魂の意図は意思に従属するというよりも、ただ意思と矛盾しなくなる。この場合、理性は魂に自由を与え、その代わりに魂の同意を得る。理性と魂の一致は、魂の意図を生み出す。目的へと向かう道の途上で魂の意図をどのように生み出すかについては、後の章で述べる。
 現実の生活において意識性のレベルは夢の中よりも高い、意思の意図をコントロールするにはこれで充分である。しかし魂の意図のコントロールには、もっと高いレベルの意識性が要求される。意識してみる夢の中でも現実の生活の中でも、魂の意図をコントロールするには目を覚ますことが必要なのである。

〇私たちは普通、身体を宙に浮かせる事の出来る絶対的な意図を獲得しようとはしないものである。もしそれをするにはどうすればいいのかがわかっていたら、これ以上語るべきことは無い。亜空間があり、選択の可能性があるから、自分の事象を選べばよい。それですべてである。私たちの課題は、自分の可能性を利用して目的を達成する方法を学習することにある。たとえ、自分の可能性が限られたものであっても、事象選択は私たちが利用していない力を呼び覚ます知識をもたらしてくれる。しかも、瞑想訓練、意識してみる夢、あるいは、精神異常をもたらす不可思議な修行等で疲労困憊するような事はない。勿論、事象選択・モデルを信じることが出来ないくても不思議ではない。実際、すべてを信じることは困難だろう。それでも、おなじみの世界観を見つめ直して見るだけで、以前は達成不可能と思われていたことが達成できるのである。その時、魂の意図を本当に自分のために作用させることが可能であると、あなたは遠からず感心することだろう。
 ここで再び夢を見る話に戻ろう。夢は表現力に富んでいることから、魂の意図の働きを理解するための、格好のデモンストレーション・モデルとなる。夢を見ることの本質が多くの点で現実の生活と似ていることについてはすでに述べた。夢の中で起こっていることはすべて、私たちの魂が選択したシナリオによるゲームの結果である。理性が眠っているとき私たちは夢を見るが、それを覚えてはいない。この時の魂は、亜空間を自由気ままに旅している。魂がどこを放浪しているかは分からない。私たちが認識する記憶は、すべて理性のコントロール下に置かれたものである。私たちが覚えている夢は、理性がまどろんである間に生じている。まどろんだ状態にある理性は弱く、傍観者に徹している、理性は何も考えず、何の思いも抱かない。しかし、亜空間の現実化されていないセクターで魂が見ているものを理性は知覚している。
 意識してみる夢とは違って、無意識に見る夢では、理性は魂に圧力を加えてコントロールしようとはしない。理性は観客のように映画を見ている。そして、同時に理性は見たものから感銘を受け、その印象が魂に伝わる。魂は、期待に合致するセクターにすぐに同調する。このように進んで行くにしたがってシナリオは劇的に変化する。舞台装置と登場人物も、変更されたシナリオに応じて、瞬時に置き換わる。この時想像力は夢に実際に関与するが、アイデアの発案者としての役割だけしか担わない。
 夢の中では、次のようなことが起こる。まず、だれかが攻撃的な気分になっているという考えが一瞬あなたに浮かぶ。するとそれはたちまち現実化され、その人があなたを脅しにかかる。ところが、あなたに意見が風見鶏のように別の方向を向くと、さっきまでの敵はすぐに仲間となる。鏡の前にいる子猫もこれと全く同じ振る舞いをする。子猫の気分は友好的になったり敵対的になったりと揺れ動く、子猫は向かい側にいる相手を見て、相手から何が期待できるか値踏みする。最初のうち、関係は中立的なものである。好奇心からであろう。だが、相手が前足を挙げると、相手に関する評価は、突如、危険の可能性に変わる。子猫は毛を逆立て、攻撃を仕掛けたり、身を守ろうとしたりする。そして、後ろへ飛び退き、自分の滑稽な姿を眺めると、子猫ははしゃいだ気分に変わる。この後、また新たな動作が始まる。このように、子猫は自分のシナリオを劇的に修正する。鏡に映った自分の姿にとびかかったと思ったら、突如、攻撃が好意に取って代わったりする。
 全くこれと同じように、人も無意識に見る夢の中でシナリオを修正する。子猫は自分の反射を見ている事をわかっていない。人も夢を見ている事を認識していない。ところで、私たちは皆、鏡に映してみる自分の顔が、いつもの自分の顔ではないことをご存じあろう。自分の顔は、鏡に視線を向けるとすぐに変わる。変化は一瞬にして起こるため、私たちはそれに気づかないことすらある。このようなことは、子供時代から形成されてきた一定の形で見たいという習慣と願望から生じる。泣いている幼い子に「鏡を見てごらん、泣いているとせっかくのお顔が台無しだよ」と言ってみればよく分かる。この子の顔はすぐに変化する。大人も、一定の期待を持って自分の顔の販社を見ている。期待とは、「私は自分を気に入っている」「私はどう見えるのか」「私は自分を気に入らない」などである。いずれにせよ、表情は瞬時に修正される。
 鏡は、シナリオの激的な修正の霊である。ただし、鏡に映る表情の修正では意思の意図が働いているのに対し、夢の中では全く同じ働きを魂の意図が務めている。現実の生活では、人は鏡に映る自分の反射を見ると、期待に従って、意思の意図によりすぐに表情を変える。人は夢の中でゲームを見ている。その人の魂の意図は、意思とは関係なく、その人の気持ちや期待に従って、取り巻いている世界の振る舞いに関するシナリオを選択する。

〇「魂の意図を操ることが出来なければ、何に望みを託したらよいのか」という質問をされる人もいるだろう。もちろん、あなたは何トンもの重さを持つ塊を動かすことはできない。しかし、物質世界の慣性は時間によって乗り越えることが出来る。一般に、目的達成へと続くおなじみの三つは、意思の意図に基づいている。事象選択の本質は、これとは逆に、意思の意図を断ち、魂の意図を利用するという点にある。
 どこで意思の意図が終わり、魂の意図が始まっているのか、境界を見定めることは難しい、意識が潜在意識と結びつき、調和し、溶け合うときに、意思の意図は魂の意図に変わる。この境目は見極められない。これは自由落下の時の感覚や初めて自転車に乗るのに成功した時の感覚に似ている。だが、夢の中であなたが意図して宙に浮いたときの飛行感覚による説明の方がより近い。
 意識が潜在意識と解け合い、完全に調和するのは、一定の狭い部分においてである。あなたは手の指なら簡単に動かせるだろうし、足の指なら少し難しいが動かすことが出来るだろう。耳を動かすとなるともっと難しくなる。では、内臓を動かすとなると、ほとんど不可能である。魂の意図はさらにずっと弱々しい、地面から離れて飛び出すという意図において、意識と潜在意識を一致させることは、非常に艱難なため、ほとんど不可能にも思えて来る。
 そこで、もっと地に足の着いた目的を掲げることにしよう。空中浮揚は純粋な魂の意図の高レベルの現象である。しかし、魂の意図の力は大変に偉大で、その取るに足りない欠片であっても、自分に大きな結果を得られるものである。日常生活では、魂の意図が私たちの意思とは関係なしに働き、しばしば有害な形で作用する。例えば、それは、私たちが抱く最悪の予感を現実化するようにして現れる。人がそうありたくないものを受け取ってしまうことについては既に述べた。心配したり、憎んだり、はねつけたりしたいようなことがあなたを悩まし続ける。思考エネルギーの放射が、そうあってほしくない事柄にどう注していて、それがまさに起ころうとしているセクターへとあなたを運んでいく。だがその一方で、あなたはそうあってほしくないものに遭遇するつもりなどない。この場合、意図はいったいどこで働いているのだろうか。
 意思の意図は望ましくないものを避けるために向けられる。心配させるようなことや危惧や憎悪を抱かせるようなことは、あなたの痛いところに触れる。あなたは心底からそれを避けたいと思う。理性が恐れると、魂はそれでますます不安になる。理性が憎悪を感じると、魂もそれに反抗はしない。理性が憎むと、魂もなおさらそうする。その時魂と理性は完全に一致している。意識と潜在意識とが合意したまさにその瞬間、魂の意図が引き起こされる。しかし、魂の意図はあなたにとって必要とするところへ向けられるのではない、魂の意図の方向性について、ここでは詳しく触れない。意思の意図が望んでいないものを避けたいという明確な方向性を持っているのに対し、魂の意図は方向を示すのではなく、魂と理性が合意したことの現実化にゴー・サインを出すだけである。魂と理性が合意したこととは事柄の評価においてである。願わくばその事柄が起こらないか、起こっても大したことがなければいいという評価である。魂の意図は、魂と理性が一つになったことを見て取ると、亜空間にある。しかるべきセクターをただ選択する。
 残念ながら、人生では魂と理性が何らかの受け入れられないことについて一致することが良くある。そのため最悪の予感が現実化してしまうのだが、それは魂の意図の働きのもっとも典型的な例である。通常、人々は、自分たちが心底何を望んでいるのかは、漠然としかイメージできない。しかし、何を避けたいかについては、とても良く知っている。魂の意図を自分の意思に服従させるために必要なのは、魂と理性がポジティブな側面で一致することと、あらゆるネガティブな側面を自分の思考から放り出すことである。私たちの暮らしの中で、否定的な気分がもたらす悪影響がどんなものかは、もう理解されているはずである。不満や不快を口にすることで、あなたは平衡力の作用を受け、破壊的コマに依存する関係へと陥る。そして、自分の思考エネルギーの方向を亜空間のネガティブなセクターへと振り向ける。まるで白黒が反転した写真のネガによって出来ているような魂の意図がそれを実現する。
 このようにして魂の意図は私たちの意思とはかかわりなしに作用する場合がある。この力を意のままに扱うことは難しいが、それが自分のために働くようにさせることはできる。それでは、こうした問題の解決方法に取り組んでみよう。魂の意図の作用が有害な方向で作用しないようにするにはどう振る舞うべきか、私たちはすでに解明した。それは、重要性のポテンシャルを発生させず、写真のネガのようなものと縁を切るという事である。その上で魂の意図が設定された目的を達成するには何をすべきか解明すればよい。これはアラジンの魔法のランプをこするような簡単なことではない。しかし、魂の意図のメカニズムが良い方向に始動するのを助ける方法はある。
 今述べたことで不明な点がたくさんあるかもしれない。確かに理解するのが難しいテーマである。なぜなら、魂の意図を言葉で表現するのは不可能だからである。けれども、もうすぐ全体像が明らかになってくるだろう。あなたの関心を引こうとして、ある教義の達人やある宗派の信者たちが好んでやるように、けむに蒔くようなことを全く望んでいない。知る必要のあることがこのブログには書かれている。もしあなたが事象選択の原則を実践するとしたら、出来るようになるべきことをあなたは自分の体験から会得するだろう。いかないる修行や訓練も必要ない。事象選択には、神秘的なことや謎めいたことは何もない。
 通常、いわゆる「奥義」は、寓意やほのめかしにおおわれている。しかしご承知のように、頭脳明晰な人は明瞭に話す。もし「奥義」を持つものが、自分の弟子だけに「耳打ち」して知らせたい、つまり、多少なりの知識を誇示したいのであれば、残りの時間は謎めいた言葉や意味のありげな文章で埋め尽くされることになる。そして、自分の知識の本質がどこにあるのかを教祖自身は明確に示さない。

〇飛行するためには、その可能性を絶対的に信じることが必要である。なぜキリストは「あなた方の信じている通りになるように」ときっぱり言ったのか。なぜなら、意図を持たずに、何かを受け取ったり行ったりすることはできないからである。信念の無い意図はない。歩くことが可能であると信じることなしには、一歩も前へ進めない。しかしながら、現実生活で、夢の中と同じように、飛ぶことが出来ることを理性に納得させることはうまくいかない。いずれにせよ意識が普通の状態であればそれは無理である。インドのヨガ行者の一部では、瞑想中に床から浮き上がるという。彼らの意図は、身体が宙に浮かぶ事象の動きに同調するのに十分であるのかもしれない。一般の人々に比べ、ヨガ行者たちの方には大変大きな可能性があることに注目すると、魂の意図を意思に従属させることの難しさが想像できるだろう。
 夢の中であれば、まどろんている理性は空を飛ぶ可能性を容認する事もあろうが、意識がハッキリしている理性にとっては、どんなに説得されようと、空を飛ぶことは理解しがたいことである。信念だけで無く、知識もなくてはならない。信念というものは、疑念の付け入るスキを示唆している。信念のある所、疑念の余地あり、知識は疑念を排除する。あなたが放り投げたリンゴが地面に落ちるのを怪しんだりはしないのと同じことである。あなたはこれを信じているのではなく、ただ知っている。純粋な魂の意図は、疑念による曇りがない。これはすなわち、信念からも解放された状態にあるという事になる。夢の中であれば、飛行するためには魂の意図をほのめかすだけで充分であるのに、慣性が働く物質的な意図を持つことが出来なくても、落胆してはいけない。あなたの目的を現実化させるためには、「二級品」の意図でも十分役に立つことだろう。ただし、慣性が働く現実化が実行に移されるためには、一定の時間を要することになる。
 魂の意図の文脈からは、「催眠術とは何か」という興味深い質問が生じる。これは意思の意図が働いた結果の力では、一番軽い物であっても、それを動かすためには、思考エネルギーは明らかに足りない。しかし、ある人から別の人に様々な暗示をかけるには、このエネルギーで充分である。かなり強力なエネルギーの流れを送り込むという明らかな能力を持つ人々の存在が確認されている。もしこうしたエネルギーの流れを向けられた人間には、暗示の効果が起こる。催眠術が人を引き付けるため独特なまなざしや手の動きを利用していいるとは思わないでいただきたい。まして、エネルギー作用のためには、視覚的または会話による接触がどうしても必要というわけでもない。しかしながら、私の知る限りでは、催眠術は主に近い距離で作用する。ならば当然、催眠術とは意思の意図を用いた思考エネルギーを伝達した結果だとの推論が出てくる。また、遠く離れた距離で催眠術が作用する場合は、もしそこに別の仕組みが働いていないならば、魂の意図が主な役割を果たしているに違いない。
 魂の意図を感じるためには、おなじみの考え方や感覚から抜け出す必要がある。理性は一般に認められている世界観という狭い枠の中に存在している。この枠の外へと脱出することは難しい。なぜなら、これを突破できるのは、魂の意図によるほかないからである。しかし、理性はたやすく自分の立場を譲ったりはしない。魂の意図を会得するには、魂の意図そのものが必要になるという堂々巡りになってしまう。ここに難しさがある。
 皆さんを失望させてしまうかもしれないが、私は魂の意図を開発するための練習方法を知らない。こうした練習方法の目的は「意図を自分のものにするよう意図する」という事であろう。魂の意図の本質をより深く理解する唯一の可能性は、意識してみる夢を実践することである。現実の生活においては、練習の代わりとして、意識して生活することを実践して見よう。これはトレーニングというよりもむしろ魂の意図によって暮らすという事である。現実の生活は、亜空間における物質的現実化の慣性が影響してくるという点だけが、夢とは異なる。残るすべては全く同じである。