〇夢の中の登場人物たちの振る舞いは、彼らがどのように行動しえるかについてのあなたのイメージによってすべて決められる。アイデアは単に最初のきっかけに過ぎず、残るすべては魂の意図が行う。また、夢の中でのあなたの振る舞いは、意思の意図によって決められ、その他すべては、好むと好まざるとにかかわらず、魂の意図に従う。思い出していただけたと思うが、意思の意図は外の世界に直接作用しようとし、魂の意図は外の世界が意図に従って現実化するのを容認する。
 夢の中では、あなたが容認できるシナリオのみに沿って、事柄が展開される。あなたの頭の中に入っていないことは、起こったりしない。とりわけこの点が、夢で起こるすべてに対してあまり批判的にならない理由である。まったく馬鹿げた夢であっても、眠りながらそれを見ている人は、当然のこととして受け取る。なぜなら、本人が自分の夢のシナリオ・ライター兼監督であるからである。なぜなら、夢を見ているとき、合理性を重んじる理性はまどろんであるため、潜在意識がありとあらゆる信じられないようなことを容認することが十分に考えられるからである。
 人は一生の間に、外部の情報源からも、自分の虚構の世界からも、大量の情報を自分の脳を経由して取り組む。情報の一部は、理性によってふるいにかけられ、不適格や非現実的とされる。しかしながら、このように仕分けられた情報はどこかへ消えたりはせず、物置のような場所に施錠して保管される。だが、潜在意識はそうした情報への通路を持っている。潜在意識にはそうした情報を不適格としてはじき出す理由がない。そのため、夢を見る時間ともなると、魂は抜き足差し足で物置に忍び込み、理性には内緒であらゆる非常識なシナリオを自分で試し始める。それに、無意識に見る夢の中では、魂は亜空間のセクターの中から何でも自由に選ぶことが出来る。そうしたセクターの大部分は決して現実化されない。なぜなら、それらセクターにある事柄は不合理なため、現実化には膨大なエネルギーが必要とされるからである。魂がどのようにして夢を選ぶのかは、神のみぞ知るである。
 魂がどんなに勝手気ままに夢を選ぼうが、理性は見ていて、自分の印象や期待に応じて、シナリオに修正を加える。すでに述べたように、悪い予感や私たちが避けたいことなどは、簡単に現実化する。この場合の魂の意図は、私たちの意思を無視して、人に害を与える形で作用する。
 これと同じように、夢のシナリオは私たちの期待によって決まってくる。悪い予感は夢の中で確実に現実化する。現実の生活でも、あなたは不安に思っていることを高い確率で受け取ることになる。このように、魂の意図は理性の意思を無視して働く、理性は意思の力によって意思の意図を働かせることが出来る。魂の意図はというと、命令には屈しないで、魂と理性が一致した結果として、気まぐれに表れる。夢を見ている時の理性はコントロールを行っていないため、魂の意図が働いているのを察知することさえできない。現実の生活でも、事情はほんの少しマシなだけである。なぜなら夢は、ある意味、現実の生活でも続いているからである。
 夢の中で、人はとんでもなく常識はずれで無意味なゲームに引き込まれる事がある。ゲームは眠っている人を完全に飲み込み、本人は目の前に繰り広げられている愚かしいことが呑み込めないでいる。現実の生活でも、ある程度は似たようなことが起こる。細分化された専門的活動に巻き込まれた人間集団では、はたから見たら愚かしく異常にさえ思えるような判断、符牒、行動がしばしば生まれる。これは、利益集団、プロ集団、宗教集団に見られることがある。
 現実に起こっている出来事への批判力が鈍いのは、催眠術や魔術のような現象が原因である。例えば、ジプシーの催眠術は三つの「はい」に基づいているという。人は三つの質問に対して肯定的な返事を三回行うと、すべてが順調に進んでいるという幻想がその人に生まれる。すると、本人は警戒心を失い。眠り込んでいるときのように批判力が大幅に低下する。一般に、多くの人々は、習慣化した行動を機械的に行っているとき、その過程では文字通りほとんど眠っているようになる。このことは、特に、毎日同じ日課を繰り返している人たちに当てはまる。
 誰かと会話しているときのあなたは、ぐっすり眠っているのと同じである。ゲームに熱中しているあなたは、もちろん、何が起こっているのか分かっているが、客観的に状況を評価したり行動したりすることはできない。なぜなら、ゲームを見物しているのではなく自分自身でプレイしているからである。どんなサッカー・ファンでも知識さえあれば、失敗を犯した選手を批判する。ではもしそのサッカー・ファンをフィールドに出したら、どうなるだろうか。人は誰もが多かれ少なかれ無意識に行動するものである。例えばもしある人が嘘をついたら、その人の両目はしきりに右を向こうとする。両手は意思とは関係なくコントロールの効かない動き方をする。その人は、参加している芝居の影響下に完全に置かれている。
 催眠術による暗示にかかった状態は、まさに現実生活の中で夢を見ているようなものである。どの人も現実の生活で程度の差こそあれ、眠りを継続している。「今何をしているのか、何が起こっているのか、私はハッキリ理解しているつもりだ」などと、急に活気づいて反論される人もいるだろう。しかし、その後、他の誰かや何らかの問題や出来事などがあなたの注意をそらすと、あなたはゲームに没頭し、寝入ってしまう。そして、舞台上にいて自分の役割を忠実に勤めている間は眠っている。そこで観客席に降りていき、自分の内なる見張り役を揺さぶり起こすと、あなたは目を覚ます。あなたは観客席にいながら、今まで通り自分の役割を演じ続け、必要な言葉を発し、必要な行動を行い。定められた決まりに従う。けれども、今やあなたは意識してゲームを行うことが出来る。すなわち、外側から眺めるという意味である。あなたは自分をリースに出し、繰り広げられている出来事を覚めた目で評価するのである。
 無意識に見る夢の中では、夢が「偶然起こる」ことになるが、魂の意図はあなたの意思とは関係無く作用し、あなたはそれをどうする事もできない。意識して見る夢の中では、人は観客席に降りていき、シナリオを意識的に操る。その時魂の意図は意思に従属するというよりも、ただ意思と矛盾しなくなる。この場合、理性は魂に自由を与え、その代わりに魂の同意を得る。理性と魂の一致は、魂の意図を生み出す。目的へと向かう道の途上で魂の意図をどのように生み出すかについては、後の章で述べる。
 現実の生活において意識性のレベルは夢の中よりも高い、意思の意図をコントロールするにはこれで充分である。しかし魂の意図のコントロールには、もっと高いレベルの意識性が要求される。意識してみる夢の中でも現実の生活の中でも、魂の意図をコントロールするには目を覚ますことが必要なのである。