〇常識的な観点からすれば、事象選択ではすべてがひっくり返っているように思われるだろう。とはいうものの、事情選択の立場からすれば、常識に対しても同じことが言える。もしあなたがみんなと同じようには暮らしたくないと望むなら、もしあなたが月並みな成功で満足したくないと思うなら、そして、もしあなたが「盛りだくさんのプログラム」に乗っているすべてを自分の人生で受け取りたいと願うなら、あなたを修行者と呼ぶことにしよう。事象選択の修行者は、運命の寵児ではなく、修行者の方が運命を選ぶのである。もしあなたが自分の常識という一枚岩を揺り動かすことが出来たなら、あなたは欲しいものをすべて手に入れることだろう。それは決して雲間へと飛び去ることではなく、逆に地上へ降り立つことを意味する。なぜなら、広く世間に受け入れられている常識とは、本当は地に足のついた物などではないからである。その点についてあなたはすでに一度ならず納得されたことと思う。しかし、間もなく尋常ではないもっとたくさんの物事が目の前に繰り広げられるのを、あなたは見ることになるだろう。
まずは掲げられた目的に視覚化が、いつも成果をもたらすとは限らない理由について説明してみたい、密教や従来とは異なる心理学の熱烈な信望者であっても、視覚化を完全には信頼することが出来ないでいる。視覚化には簡単なやり方もあれば、かなり複雑なやり方もある。何らかの成果があることもあれば、ないこともある。私個人としては、このような制度では満足出来ないし、おそらくあなたも同じ意見であろう。どうか安心して頂きたい、事象選択における視覚化は、決して一般に理解されているような視覚化ではない。それどころか、事象選択の法則による視覚化は、実際にとてもよく効く。その信頼性は保証付きである。
良く知られている視覚化の技法には幾種類もあるが、それらは次の三つのグループに分けることが出来る。一つ目のグループは、夢想することである。実用的な観点からすると、これは最も弱くて頼りにならない視覚化の部類に入る。夢想することは有害ではないが、実用面では無益なことである。夢はかなわない。通常、夢想家たちは自分の夢を実現させる権利を真剣に主張したりはしない。自分の夢が実現したらいいと強く思っているだけである。しかし、夢想家達は心の奥深くでは、夢がかなう可能性を信じていないか、または所有し行動する意図を持っていないかのどちらかである。夢想家たちは自分の夢をはるか遠くにある星々のように眺めている。それは何の根拠もない空中楼閣のようなものだとほのめかされると、「私の夢だ、放っておいてくれ」と言ってカキ貝のようにパタンと貝殻を閉じてしまう。夢想家たちの目的をハッキリ定義づけるとすれば、それは夢想することそのものであって、それ以上の何物でもない。
二つ目のグループは、映画である。ここで私が言おうとしているのは映画館で上映される映画フィルムの事ではなく、の自分の願望についての思考上のフィルムのことである。頭の中でフィルムを映し出すことは意図的に行われる。この点が夢想することとの違いである。所有し行動する意図があり、行動の中の一つに、映画フィルムを映し出すような形での願望実現の視覚化がある。それはどのようにして起こるのか。例えば、あなたが家を欲しいとして、それをあらゆる細部にわたってあれこれ念入りに想像するとしよう。あなたの頭になかには、極めて鮮明な画像化、または、ほとんど目で見ているような明確な画像があり、毎日ずっとそのことを考えている。
あなたがこの課題を見事にやり遂げたとしよう。願望は実現されるはずと思われるだろう。あなたは何を得られるか、当ててみよう。必ずやその家を目にすることは出来る。あなたが想像した通りの家か、ほぼそっくりの家である。けれども、その家はあなたのものでは無い。それは通り沿いに立っている他人の家か、映画の中に出てくる家である。なぜなら、あなたは注文した通りのものを受け取るのだから、確かにあなたは一生懸命に家の視覚化に取り組んだが、その際、「給紙係」にそれがあなたのいうことを全く説明していない。だから、休止係はあなたの注文を忠実に履行しただけである。あなたは、他の本の中で教わった通り、視覚化のプロセスの質に気を奪われたため、その家の持ち主は誰かという一番大事な点を忘れてしまった。これこそが資格化に取り組んでいる人が犯しやすい主な間違いである。フィルムは依然としてフィルムのままで、あなたはいつまでたってもその登場人物にはなれない。あなたは、ホームレスがショーウィンドーを見るような目つきで、その家を眺めることになる。
資格かの三つ目のグループでは、あなたは観客として映画を見るのではなく、頭の中で映画に出演している。これはもうずっと効果的である。あなたは自分の役割を演じながら、しかるべき人生ラインのパラメーターに同調する。例えば、あなたの目的が家を持つことだとしよう。頭の中でその家を絵でも鑑賞するように眺めてはならない。自分の家についての仮想現実的な夢を、ある意味、現実のものとして、自分の中に築き上げるのである。家の中に入り、部屋から部屋へと歩き回り、回りにある品々に手を触れてみる。暖炉の前の肘掛椅子に座ってくつろぎ、心地よいぬくもりを感じ、煙の香ばしい香りをかぎ、薪を暖炉にくべてみる。キッチンへ行き、冷蔵庫の中を除く、そこには何が入っているだろうか。寝心地のよさそうなベッドに横たわってみる。気分はどうだろうか。家族とともに食卓を囲む、引っ越しのお祝いをしよう。家具の位置を変えてみるのもいい。庭の芝生を手で触ってみよう。緑色で柔らかい芝生を。花を植えてみよう。リンゴの木から身をもぎ取ってかじる。自分が家にいることを実感して見るのである。ここはあなたの家なのだから、苦悶する夢想家のような目つきで、手の届かないものやはるか遠くにある景色を畏敬の念を持って眺めるように、あなたの家を眺めてはいけない。あなたはすでにその家を所有しており、それが現実のことであると装うのである。
この視覚化がスライドである。このようなスライドはあなたの快適域を広げ、時間の経過とともに必ず現実化される。しかし、いつそれが起こるのかは分からない。長く持たなければならない事もあり得る。すべては、あなたがそのスライドをどれほど丹精込めて手入れしたかにかかっている。もし、少し手入れ下は放っておくという事では、何も期待できない。奇跡が本当に起こることはない。

〇もし、あなたが自分の夢の世界に対してたとえ一瞬でも崇拝の念を感じたら、そんな気持ちは追い払ってしまうこと。それはあなたの世界であり、そこにはあなたにとって手に入れられないものは何もない。外的重要性や内的重要性は、魂と理性の一致へと続く道に横たわる障害物となる。あなたの夢の世界は楽しくなければならないが、同時にそれは日常の光景ともなっているはずである。もしあなたの夢が実現したら、それはあなたにとって普通のあたりまえの事になる。しかるべき人生ラインに同調するには、あたかもすでにそうなっているような気持ちを持たなくてはならない。これは自己欺瞞ではない。なぜなら、あなたは意識して演じているからである。
所有する決意については、ロシアの振興成金たちの例ほどうまく物語ってくれるものはないだろう。ロシアにおけるペレストロイカの時代である二十世紀の80年代終わりに、浅はかな政治家たちは、すべてを私有化すれば、社会主義経済はすぐにも市場経済に転換可能と考えていた。そのころ、うまい汁の吸える場所にいた者は気に乗じて、さしたる苦労もせず、瞬く間に巨万の富を手に入れてしまった。社会主義の時代に国有であったものすべて、即ち、石油、ガス、金、ダイヤモンド、その他ありとあらゆる天然資源、工業資源、知的財産が、一握りの新興財閥の手に握れてしまった。公共のものだったのが、個人の所有する所となったのである。彼らが所有するためには、にわか成金ではない海外の本物の億万長者たちが富を築いてきたようなビジネスに励む必要はなかった。旨い汁の吸える場所から一番近くにいた者にとっては、ただ欲しいものを抑え込んでうなり声を挙げ、「俺様のだ」と叫ぶだけでよかった。法律上の手続きは、その後で行うのである。
一体いかなる理由が公共の財産が個人所有になったのか。もちろんあのような時代は、ロシアの歴史上、他に例がない。財産の回りには賢い物や才知溢れる者がたくさんいたのだが、大半の者は何も得られなかった。所有する事を自分に容認できた者が、つかみ取ると言いうことをやってのけた。振興成金たちに罪悪感、良心の呵責、ためらい、劣等感などは一切ない。彼らは自分たちが所有するに値しないとは考えず、高級品店に足を踏み入れても、罪の意識をみじんも感じなかった。彼らには主要する決意があり、そのため、魂の意図は平然として彼らに所有する現実を与えた、あなたは「まさか」と声を上げるかもしれないが、本当にそうだったのである。しかし、これはあくまで現時点での話となる。今まで全く触れてこなかった「振り子の法則」の反動が後に強烈にこの者たちに作用することになるが、ここでは話が変わってしまうのでまた後程詳述する。
事象選択における目的達成方法は、常識や一般的な考え方の枠を超えたものである。最近知られるようになった従来とは異なる方法の中で、事象選択により近いものは、望んでいる目的の視覚化である。これは、望んでいる事をできるだけ詳細にイメージし、その様子を自分の頭になかに維持するという方法である。
一般的な考え方からすると、視覚化は意味の無い時間の浪費に思われる。実際、道を踏破するのは歩く人であって、夢見る人ではない。しかし、そうは言うものの、目的を思考上でイメージすることには、その目的達成のプロセスそのものと同じくらいに決定的な意味がある。その理由を皆さんはもうご存じのハズである。ただ単に「歩く人」は、常識の勝利に自分なりの貢献をしつつ、平均的な成果を達成し、人と同じように生きることになる。しかし、自分の荷物の中に事象選択のマニュアルを入れて持ち歩く修行者は、常識からすれば、「幸運」「偶然」「運命の寵児」などのカテゴリーに当てはまるような成果を得ることが出来る。

〇あなたは心の奥底では、願望が叶う事にいつも疑念を抱いている。願望が実現するためなら行動する事さえいとわないとしても、それだけでは不十分である。信じていないという事は、自分が所有するに値すると認めないか、実現することに単に疑いの気持ちを持っているかのどちらかである。スターや億万長者になった人たちは、あなたと能力の点で異なっているのではなくて、ただ単に彼らは欲していたことを所有するよう自分に容認したという点で異なるのである。所有することを自分に容認してあげることが必要である。これは、あなたが初めて自転車に乗ることが出来るようになった状況と似ている。疑い、ためらい、そして口喧嘩は消え去り、ただ説明の不要な明快な知識だけが残った状況である。言葉を必要としない明快さの感覚、信念の含まれていない知識、ためらいの無い自信は、魂と理性が一致した状態である。このような状態のあなたは、宇宙を律する物言わぬ力と自分とが一体化したと感じる。この力があなたをつかむと、それは魂と理性の一致した事柄が履行されるセクターへあなたを運んでくれる。
誰もが何でも好きなことを選ぶ自由を持っているのに、そんなしたい放題の状況を決して誰もが信じているわけではない。私があなたに何を言ったって、選択の自由が本当の話であることをあなたはすっかり信じてくれるわけではない。私たちの人生が、そんな自由などありはしないことを証明しているなぜなら、皆がコマに支配されているからである。しかし、たとえもしあなたがコマから解放されたとしても、選択の自由は、いずれにせよ、あなたの快適域の外に存在している。コマの世界にあっては、選択する権利を持つことが非常に現実離れしていて、全く信じられない話に思われるのである。達成しがたい夢であるはずの事が、実は個人の選択だけの問題であるということを、あなたは心のは信じていない。そこで、ポジ・スライドだ、あなたの快適域に信じがたいことを運び入れる手助けをしてくれるのである。あなたがどんな夢も手に入れられるとていう考え方に対して魂の不快を感じなくなると、疑念は消え去り、信念は知識へと変わる。魂は理性との合意に達し、所有する決意が現れる。
魂に何かを信じ込ませようとしても無駄である。なぜなら、魂は考える事はせず、知るものだからである。しかし、魂を慣らすことだけは出来る。魂は新たな快適域に慣れなくてはいけない。そのためにスライドが必要である。スライドを用いることで、魂と理性の一致が少しずつ達成されていく、この要塞は長期間にわたって包囲することで陥落する。頭の中で自分の夢のスライドづくりに取り掛かり、常にそれを意識し続けよう。描いた画像を何度も振り返ろう。細部をじっくり吟味し、新たな詳細を描こう。
スライドを傍観者として眺めるのではなく、スライドにふけり、たとえ仮想現実ではあっても、その中で暮らすのである。スライドをスクリーン上の映画のようにイメージしようとしたら、その都度、自分をたしなめよう。それでは効果が薄いのである。あなたは、自分が映画館の観客ではなく当事者であると感じながら、頭の中で演じなくてはならない。あなたが何かをしているときであっても、頭に何では常にジフンのスライドを再現してみよう。あなたはほかの事を考えてもよいのだが、スライドの画像はその背景となっている。こうしたことが習慣にならなくてはいけない。スライドは、長い間、絶え間なく再生している場合に限り、成果をもたらす。あなたの夢に関係するものすべてに大きな関心を示そう。自分の中に必要な情報を取り込み、それが自分の世界の層に浸透していくようにしよう。現実の生活の中で、たとえ形だけでもスライドを再生してみる機会があれば、それは結構なことである。例えば高級品店を訪れたあなたは、品物選びのリハーサルをすることが出来る。お金のことを考えてもいけないし、値札に目が行ってもいけない。あなたの目的はお金ではなく、高級品店で買い物のが出来ることにある。店内を歩き回り、センスの良さを楽しみ、気に入ったものを選び、ただ穏やかな気分で眺め、評価を下すのである。こうしたことの全てを自分の中に取り込もう。品物を、手の届かない贅沢品としてではなく、すぐに買いに来るつもりで眺める。高級な品々の持ち主を装うのである。あなたは客であると店員に思わせよう。えり好みする客を演じよう。こうしたことを自分の世界の層に取り入れながら、あなたは高級な品々があなたのものとなる人生ラインに少しずつ同調していく。
それらの品々がどのようにしてあなたのものとなるかについては心配無用である。もしあなたにそれらを所有する決意があれば、魂の意図はあなたに無断で手段を見つけ出す。だから、その手段について疑いを持ってはならない。後になって驚いたりしてもいけない。また、これは偶然だとか、たまたま幸運が重なっただけだとか、それとも何か不可思議なことが起こったなどと言って、自分を納得させるべきでもない。誰が言ったかは思い出せないが、こんな言葉がある。「偶然とは、神が実名を明かして宅ないときのペンネーム」

〇あなたにはスターや大金持ちになるという野望があるとしよう。ところで、あなたは所有することを自分に容認する心構えが出来ているだろうか。通常、人々は、名誉、お金、権力というものは選ばれた者に与えられると考えている。では、誰がそのような者を選ぶのだろう。まず最初は、彼ら自身が自分を選び、その後になって、残りの人々が彼らを選ぶのである。もしあなたが何かについて夢想していても、それを所有することを自分に容認する心構えが出来ていなければ、あなたはそれを手に入れることはできない。
さて、、通りに居るホームレスが、クリスマスを祝う食卓を窓越しに覗ている。彼には、そのテーブルについて食事することを自分に容認する心の準備はできているだろうか。もし、彼が招待されたら、もちろんそうするだろう。その家へ行き、テーブルに着くのは、行動する決意、つまり意思の意図である。だが、いったい誰がホームレスを招待してくれるのだろう。ホームレスのほうもそれを十分に承知している。クリスマスを祝う食卓は、彼にとって自分とは縁のない世界の層に存在しているのである。彼はこの食卓を自分の家、つまり自分の世界の層に持ち込む心の準備をしているだろうか。いいや、そのホームレスは、家も無く、お金もなく、お金を稼ぐ術も無いことを知っている。魂の意図は彼に何もしてくれない。なぜなら、親しみ馴染んだ常識の枠内に留まっているそのホームレスには、それを所有する心構えが出来ていないからである。
あなたがお金持ちになりたいと仮定しよう。ところで、あなたには運命からそのような贈り物を受け取る心の準備はできているだろうか。もし誰かが「いらなくなった」大金をあげるというのなら、もちろん誰であっても問題なく躊躇せずにもらうだろう。財産は人生を害するわけではない。時折、教訓めいた映画では別の結論を導き出そうとするようであるが、そんなことを言いたいのではない。あなたにはこの大金をつかむ心構えがあるかどうかを問いたいのである。大金は汗水流して稼ぐか苦労して勝ち取るかするものだと、たぶんあなたは思っていただろう。私はそんなことを言いたいのでも無い。私が訪ねたいのは次のことである。あなたはただ単に選択するという心構えが出来ているだろうか。大金を所有することを自分に容認できるだろうか。
あなたは自分の目的を達成するという考えを受け入れる必要がある。もしあなたが経済的に満ち足りた生活を送りたいと思っても、高級品店に立ち寄ることが苦手なら、何も変わらないだろう。高級品点に入ってわずかでも落ち着かない気持ちがすれば、あなたは高級品の所有を自分に容認する心構えが出来ていないことになる。高級品店で働く店員は、本物の客かただの冷やかしかを瞬時に見抜く能力にたけている。本物の客は主のように振る舞い。物腰が穏やかかで、自信たっぷりで、威厳に満ちており、自分の選択する権利を認識している。好奇心と購買意欲は旺盛だが懐が寂しい人は、招かれざる客のように振る舞う。緊張して、どこかぎこちなく、おどおどしていて、店員から自分に向けられる値踏みするような視線を察知し、こんな有名店に自分が訪れたことに対し、ほとんど謝罪してしまわんばかりになっている。同時に、そのような客は、渇望、羨望、劣等感、苛立ち、不満などありとあらゆる重要性による過剰ポテンシャルを生み出している。その人は物質的な豊かさを自分に容認する心の準備が整っていないだけで無く、自分は高価な品々を所有するに値しないとさえ思っている。理性が魂に言っていることを魂は正確に理解している。理性は同じセリフを繰り返す。「これら全ては我々のためにあるのではない。我々は貧乏人だ。我々にはもう少しつつましい別の物でいいのだ」
自分はこうした贅沢品全部を所有するにふさわしい人間だと認めてあげよう。本当にあなたにはあらゆる最上のものを持つだけの価値がある。「身の程をわきまえるが良い」とあなたの耳元で囁くのは、あなたをコントロール下に置いた方が都合の良い破壊的コマである。勇気を出して高級品店へ出かけ、豪邸で働く使用人ではなく、豪邸の主人のような気分で商品を眺めてみよう。自分はこれを買うことが出来ると自己暗示をかけようとしても、もちろん無駄なことである。自分を欺いてもうまくいかないから、そうすることは不要である。では、所有することを信じて自分を容認するには、いったいどうすればいいのだろう。
まずは、「自分に…を容認してやる心構えをする」というフレーズの部分で、意思の意図を魂の意図との区別をしてみよう。意思の意図の枠内で思考したり行動したりする事に慣れてしまった人は、がむしゃらに進もうとする傾向がある。「私は経済的理由でこれを自分に容認することが出来ない。他に何が言えるというのか」ポケットの中に手を入れて、空っぽの財布を触りながら、高級品の購入を認めてやるぞと自噴に吹き込んではいけない。そんなことを話しているのでは無い。意思の意図とは、行動する決意、つまりお金を調達することを意味する。しかし、どこにもアテは無いから、理性はおせっかいな判決を下す。意思の意図の枠内で行動している限り、あなたは実際に何も達成できない。では、魂の意図の場合はどうかというと、これもあなたの身には「賢者の石」のようなことは一向に起こらない。もしあなたが所有することを自分に容認する準備が出来ていないのならば、魂の意図はどこからもやってくるわけがない。魂の意図とは、所有する決意のことである。言い換えると、自分がそれに値すると思い、選択権が自分にあることを知っていることである。信じられないかもしれないが、まさに知っているという事なのである。

〇ご理解いただけたと思うが、望んでいる結果を手に入れることはそれほど難しいことではない。問題は、所有する決意にあるだけなのである。スライドの画像は、あなたにかけていると思われる、どのような資質に関するものであってもよい。ただし、あなたはそのスライドが現実になることを十分リアルに自覚しなければいけない。一足飛びに理想的な画像を思い描くのもいけない。実際に到達できそうな段階から始めるのである。時間とともに、あなたはより高いステップへと昇っていくことが出来るだろう。
どんなことがあっても、必要な資質を備えていると思われる他人のイメージを思い描いてはいけない。あなたのスライドとはあなたのものでなくてはならず、他人のコピーであってはならない。この問題については、後でもっと詳しく検討することにする。ここでは、そう述べておくだけとしよう。どんな資質であっても、現段階のあなたにとっては、よりふさわしい代替案があるという事である。勇気は思い切りの良さで代わりをしてもらうことで可能である。同様に、美貌は愛嬌に、力は手際の良さに、話す力は聞く力に、知性の高さは意識の高さに、そして、完璧な肉体は強い信念によって置き換えることが出来る。到達可能と思われる現実的な目的を設定したら、あなたは魂の意図にチャンスを与え、最低限の注文を手っ取り早く履行してもらい、もっとややこしい課題の実現に取り掛かってもらうようにする。
もしあなたがこれから、あなたについてのイメージをまだ持っていない初対面の人々と出会うのであれば、ポジスライドの作用は特別な即効性を示す。懇談会、コンクール、パーティーなどがこうしたケースに相当する。 勇気を出して、必要とされるポジ・スライドを頭に入れ、何も恐れてはいけない。スライドとに入っている画像を忘れないで常に意識しよう。「もしうまくいかなかったらどうしよう」というようなためらいや疑念は思い切って投げ捨てよう。疑念を投げ捨てても、あなたが失うものは何もない。所有する決意が十分すぎるほどあるならば、あなたは最大限可能なものを達成するだろうし、時には信じならないような成功を手に入れることもある。
ポジ・スライドは、自分個人に関してだけで無く、取り巻く世界に関しても作ることが出来る。そのようなスライドはポジティブなものはすべて中に取り入れ、ネガティブなものはすべて排除する。以前、ポジティブなエネルギーの伝播について説明した事を覚えているだろう。どんなことがあっても、ありとあらゆる好ましい事に心を開き、悪いことは全部無視しよう。展覧会では気に入った展示物のそばで足を止めるのであって、気に入らない展示物があっても平然と素通りしよう。ちなみに、取り巻いている世界が展覧会と異なるのは、もし平然と素通りできない時に、ネガがあなたの後をおっかてけくるという点である。ではポジはどうか。もしあなたが喜んでそれを受け入れるのであれば、常にあなたと一緒にいるのである。
ポジ・スライドはバラ色のレンズを使った眼鏡に似ていると思われるかもしれない。意義を唱えて申し訳ないが、バラ色に見える眼鏡を発明したのは悲観論者であって、楽観論者では無い。しかもその悲観論者はおせっかいにも、その眼鏡を通すと全て気がバラ色に見えることを心配し、楽観論者に教えを諭すように警告する。こうしたおせっかいは、ネガ・スライドによる影響に他ならない。悲観論者は、思い切ってそうなろうとする踏ん切りがつかないため、それに応じたものしか得られない。
ポジ・スライドも知覚を歪めるのでは無いかとの心配は無用である。大部分のケースで歪曲はそれほどではない。なぜなら、大半の場合、内部のコントロールが効いているからである。ポジ。スライドによって引き起こされた歪曲は、利益となるようにだけ働く。もちろんあなたが自分のことをナポレオンであると思い込んでいるのならば、話は別である。すべてにおいて自分に節度を守り、過剰ポテンシャルの事を思い出すことが必要である。しかし、歪曲はまだ最重要な注意事項ではない。スライドを取り扱う際に最も慎重を要することは、魂の意図がスライドをゆっくりとではあるが着実に現実化していく点にある。

〇ネガ・スライドが作られるとき、あなたは自分の中にある気に入らないもの、隠しておきたいもの、解放されたいものに注意を集中ている。そこでこれからは、自分の中にある気に入っているものやそうありたいものに注意を切り替えるようにする。すでに述べてきたように、短所を隠すことは不可能である。一方で、長所を強調したり伸ばしたりすることは、あなたがその気になりさえすれば簡単なのである。
手始めに、自分自身の「棚卸」を行い、ネガ・スライドを探し出す必要がある。自分の中で何が気に入らないか、何を隠して起きたいか、何から解放されたいか、というように自問してみよう。人はスライドを無意識のうちに創ってしまう。さぁ、目を覚まし、意識して自分のネガ・スライドを見つけてみよう。あなたが意識している状態にあれば、ネガ・スライドは簡単に見つからるだろう。そんなつまらないものは、頭から追い出さなければならない。そのためにはどうすればよいだろう。髭をそるのとはわけが違うから、ネガ・スライドから簡単には解放されない。ネガ・スライドと格闘する気なら、それはかえって益々影響力を増す。ネガ・スライドが維持されている根本を断たなければならない。それはつまりあなたがネガ・スライドに向けている注意や意義のことである。注意を向ける先をネガティブなものからポジティブなものへ切り替えよう。忌々しい気持ちにさせるあらゆるものと決別し、自分自身と戦うことも中止しよう。自分の短所から顔間を背け、あなたが持っている長所や持ちたいと思う長所に注意を向けよう。
あなたにとって、自分の短所を隠すことは重要なことだろう。それはネガ・スライドの基である。あなたにとって良い印象を与える事は重要なことだろうか。それはポジ・スライドの基である。すべてはこれまで通りの場所にあるのだが、あなたの注意や重要性を向ける方向が変わるのである。
こうありたいという自分を思い描いていただきたい。これは自己欺瞞ではないから、このようなゲームは十分に意識して行われなければならない。あなたが自己欺瞞を実践していたのは、自分の短所と戦っていた時である。なぜなら、あなたは意思の意図によって短所を隠したり一掃したり出来ると思っていたからである。これからは、あなたが美しさの限りを尽くして光り輝いているようなスライドを自分の頭に中に創っていただきたい。このスライドの中の自分を好きになって、あらゆる細部まで描き加えることで、手入れをしてあげよう。
スライドになるのは、静止画像ばかりでは無い。あなたが堂々と自信に満ちて動き回っている様子、上品な服装を着こなしている様子、優雅に振る舞っている様子、機知を発揮して光り輝いている様子、魅力を振りまいている様子、人々の気持ちを自分へと引き付けている様子、難問を手早く処理している様子などもスライドに入れてよい。こうしたスライドをあなたに入れたうえで、先へ進む。ポジ・スライド同様、あなたの立ち振る舞いに直接影響を与える。あなたは無意識のうちにスライドに調子を合わせるようになるだろう。しかし、主な仕事はスライドの画像に従って、魂の意図が行うことになる。
作った画像をあなたの中で再現していると、そのうちにスライドが消えてしまう。これはどう理解したらよいのか。実は、時間の経過とともに、スライドである必要がなくなり、消えてしまうのである。あなたが望んでいたものを達成すると、それはあなたにとっての意味を失う。重要性が消え、スライドが溶解して、スライドは自分の使命を果たしたわけである。これはつまり、あなたの魂が理性との合意に達したことを意味する。あなたは魂でも理性でもそれを欲しているのだから、それは必ず実現する。理性がスライドを本当に実現しようとしている間、あなたは心の奥底でスライドの話が仮面をかぶった見せかけのゲームに過ぎないと意識している。しかし、あなたが生まずたゆまず思考の中にスライド画像を定着させようとすると、魂はスライドになじんできて、自分と切り離すとの出来ない本質として受け入れに同意するようになる。魂の意図はこのスライドを瞬時に現実化するのではなく、少しずつ作用することを忘れないでいただきたい。

〇スライドの基になっているのは何だろう。どのようなフィルムにスライドを取り付いているのか? それは重要性という名のフィルムである。これで私たちは何度この言葉に舞い戻ってきたことか。もしあなたの容貌が自分にとって重要ならば、あなたを不安にさせているのは自身の容貌である。もし容貌が他者にとって重要ではなければ、スライドは他者の頭の中にはない。あるのはあなたの頭に中だけである。ある人のパッとしない容貌は、周りの人々にとっては慣れ親しんだ舞台装置に一部である。なぜならそれは彼らにとって意味を持たないからである。それが重要であるのは、その容貌の持ち主自身にとってだけである。容貌が単にさえないというだけの話で、それ以上のことではない。さえない容貌を不細工にしているのは、まさに重要性のスライドなのである。
他者があなたをどう思っているかという事に過剰な意義を与えると、スライドが作られる。もし周りの人々の見方をあなたは知らないのに、そのことがあなたにとって非常に重要であるならば、あなたの頭の中は100%間違いなくしかるべきスライドが根を下ろしているといっても良い。スライドは想像力による産物であり、この意味においては、スライドを幻とみなすこともできる。しかし、この幻は人間の生活に盛んに影響を与える。魂の意図が意思の意思とは関係なしに有害な働きをするのは、こんなときである。
通常、白黒の反転したネガ・スライドは魂と理性の一致をもたらす。ご承知の通り、このよう場合、魂の意図は間違いなく作用する。魂の意図はネガ・スライドの持ち主を捕まえると、ネガが完全に現像されるセクターへと運んでいく。移動は一気には行われず少しずつ時間をかけて、しかもスライドが頭の中にある間は中断することなくずっと続けられる。重要性を生み出したことによって、自分のネガ・スライドに実際に描き入れたほんのわずかなディテールであっても、ますますハッキリと表れ、あらゆる欠点をさらけ出す。自分が太っていることが気に入らないと、もっと太る。ほくろを邪魔に思うと、それは大きく育つ。自分は劣っていると思うと、その思いにダメを押す更なる出来事が起こる。自分の魅力の無さを心配している、事態は悪化する一方となる。罪悪感に苛まれると、四方八方からたくさんの罰を受ける。
人がスライドに大きな意義を与えるのを辞めないうちは、あるいは、ポジ・スライドの政策に切り替えないうちは、このようなことが延々と続く。重要性が消えるや否やネガ・スライドは自分の足場を失い、跡形もなく消えて影響も途絶える。
私たちにとって、カラーのポジ・スライドであれば、制作する価値がある。そのようなポジ・スライドは、ネガ・スライド同様に間違いなく作用する。自分の個性のポジティブな面を自分自身に向けよう。もっともよい自噴をイメージしよう。そうすれば周りの人々もあなたをそのように受け止めてくれるだろう。ここにこそスライドが持っている別のポジティブな特徴が表れている。それは利用可能であり、利用しない手はないともいえる。

〇さて、あなたは自分の魅力的では無い要望についてのスライドを自分の頭の中に差し込んだとしよう。他の人々による眼差し、しぐさ、表情、言葉の全てを、あなたは自分のスライドを通して知覚する。あなたが見ているのは何だろう。感じの良いほほ笑みは冷笑に変わる。誰かの朗らかそうな笑い声は、あなたの失敗を物笑いの種にしていると感じられる。誰かのひそひそ越えは、自分に向けられた根も葉もない噂に聞こえる。誰かがあなたをチラリと見ると、胡散臭そうに見られたと思う。だれかが腹痛で顔をしかめると、あいつはいったい何をもくろんであるのかという気持ちになる。そして、ついには、どんな誉め言葉もからかっているとしたか思えなくなる。しかし、他人の思考の中身はあなたと同じではない。あなたの考えは、あなたの頭にしかない自分のスライドによるものである。
スライドに影響された考え方に応じて、振る舞い方も決まってくる。そうすると、あなたは本当に魅力が無くなるのである。両手は不自然な動きをはじめ、あなたはそれらをどうしてよいかわからない。表情はしかめ面になり、賢いはずの考え方はどこかに消え去り、劣等感に完全に支配される。その結果、あなたの想像力の世界に住み着いたスライドは、実際に現実化されることになる。
スライドは二通りの方法で作用する。一つは、スライドは、この世界でのその人の居場所についてのイメージを歪め、取り巻く人々とその人との関係についてのイメージも歪める。もう一つは、外の世界についてのその人のイメージを歪める。とりわけ、どの人も、周囲の人々の中に自分のスライドの特徴を見出す傾向にある。例えば、ある人が自分の性格の中で生来の何らかの欠点が嫌いだとする。その人は、自分の目に触れることの内容、自分から遠く離れたところにそれを隠そうとする。しかし、好ましくないなら井戸にぼかし効果をつけることはできず、そのスライドは頭になかに居座って、自分の仕事をこなす。その人は、他の人々も自分と同じように考えて振る舞うという幻想を抱く、もし自分の性質のある部分が気に入らないのなら、ほかの人々の中にも同じものを見出しがちになる。つまり、ほかの人々に自分を投影ていることになる。
投影とは、潜在意識へと追いやられた自分への不満が、自分の周囲の人々に向かってこぼれだすことである。人は自分の悪い面を他者の中に見出そうとする。人は、自分自身が自分の中の何かを好きではないという理由で、しばしば自分から進んで他者を叱る。あなた自身も、ハッキリとは理解しないままにそうした覚えがあることだろう。もちろん人が誰かを何らかの人で非難することは、非難する人にも同じ面が必ずあることを意味するわけではない。しかしながら、そういう場合が良くあるのである。自分自身で観察してみよう。ロール・プレイングで見張り役のスタンスをとっていると、いつ誰があなたに自分を投影しようとしているか、簡単に断定することが出来る。もしあなたが何かのことで不当な非難を受けようとしていたり、身に覚えのない欠点を押し付けられそうになっている場合には、あなたを非難している人が他者にその人を投影しようとしていないかどうか疑ってみよう。おそらく図星では無いだろうか。なぜなら、あなたには非難されるいわれがないのだから、つまり、非難している人のあなたの中にスライドがあって、その画像を投影してることになるからである。

〇人間は、別に存在するリアリティを目にするだけでなく、現実を歪曲された色彩で知覚することもある。人間の知覚は、幼年時代からインプットされてきた情報によって、非常に大きく左右される。わかりやすい例として、有名な二匹の子猫の話を上げよう。そのうちの一匹は誕生した時から垂直なものが存在しない状態に置かれ、もう一匹は水平なものが何もない状態に置かれた。ある時間が過ぎてからの、子猫たちは普通の部屋に移された。最初の子猫は始終机の脚にぶつかっていた。この子猫にとっては、垂直な線は存在しないのである。もう一匹の子猫の方には、水平な線を理解出来ないため、階段から転げ落ちてばかりいた。
もちろん理性は想像や空想にふけることが出来る。しかし、それは自分のこれまでの限られた狭い体験の枠内でという事である。理性は古い積み木から新しいタイプの家を組み立ていることが出来る。空想というものと別に存在するリアリティの知覚というものとの境目は、いったいどこにあるのだろう。その境目にはハッキリした腺がない。しかし、私たちには、それはそれほど重要なことではない。ここで意味があるのは、現実を知覚する際に、自分の内部に存在する思い込みがどのようにして影響を及ぼすかという事と、それは人間の生活にどのように反映されるかというとである。現実を歪曲して知覚することは何に基づいているか、そして、このような歪曲が現実にどれほど強い影響を与えているか、これから述べたい。
人間は自分を取り巻く世界を完全に客観的に知覚することはできない。それは、あなたが映写機にスライドを差し込んで映像を見ることに似ている。普通の均一な光がフィルムを通過し、スクリーン上で映像に変換される。スクリーンは知覚のことであり、光は取り巻く世界のことである。では、スライドは何かというと、私たちの世界観、つまりこの世界に関する私たちの理解を現したモデルである。
自分と取り巻く世界とに関する各人のイメージは多くの場合、真の姿とはかけ離れている。私たちのスライドは歪曲させられている。例えば、あなたは自分のいくつかの短所を心配していて、それにより劣等感を感じているとしよう。なぜなら、他者にとってもあなたの短所は好ましくないものと、あなたは思っているからである。そうすると、人々と交流する際にあなたは自分の「映写機」に劣等感のスライドを差し込み、すべてを歪んだ色彩の中で見ることになる。
今、あなたは自分の着ているものを気にしているとしよう。他の人たちがあなたに気付き、意地悪そうに笑いながら眺めていると思っている。しかし、周囲の人々の頭になかにはそのような考えは微塵もない。あなたの思いは実際の状況を歪めるスライドという形であなたの頭の中だけにある。普通、人の頭の中は、あなたと同じように九割方自分のことについての思考で占められている。たとえあなたが会社採用にために面接を受けている真っ最中であっても、会社側の質問者自身が一番気を使っていることは、どうしたら自分の役割を良く演じられるかについてであると思って間違いない。
スライドは、他人があなたについて思っているイメージに歪をもたらす。スライドとは、現実が歪曲された画像である。スライドとは、あなたの頭になかにあるもので、ほかの人の頭になかにあるものではない。例えば、あなたは自分の容貌がそんなに魅力的ではないと思っているとしよう。もしこの思いがあなたをそれほど不安にさせていなければ、歪曲は起こらない。あるがままというわけである。しかし、問題は、自分の容貌についてのあなたの思いにあるのではなく、スライドがあなたの人生に及ぼす影響にある。もし自分の容貌に不安を抱いているならば、あなたは頭の中で、(私は美しくない」というスライドを作り上げており、フィルターを通すように、そのスライドを通して周囲の世界を眺めている。これがスライドである。それはあなたの頭の中だけに定着している。
要望とは評価されるもの、つまりそれには意義が与えられることになるのだが、それを行うのは、人生のパートナーになる可能性のある人たちだけである。このような人たちは非常に少ない割合しかいない。あなたの周囲にいる残りの人々にとっては、あなたの容貌は問題ではない。信じられないか。それでは、最も権威ある審判員であるあなた自身に訪ねてみよう。あなたの潜在的パートナーやライバルに教えてあげられることのない人々の要望について、あなた自身はどれほど気にしたことがあるだろうか。あの人は魅力的かどうか、などという事すら考えたこともないだろう。あなたの周囲にいる人々も考える事は同じわけである。あなたが自分のことを不細工だと確信している場合でさえ、同じことが言える。初対面の瞬間だけは、何らかの印象を与えるだろうが、その後は、普段の舞台装置同様、注意を向けるのをやめてしまう。

〇事象選択では、幻を空想であるとする解釈には、大変慎重な態度を取る。幻と呼ばれるものには、夢、幻覚、錯覚などがあるが、中には現実そのものを幻と呼ぶ人もいる。錯覚はわきに置いておくにしても、見覚えのない別のリアリティの光景は、理性によりファンタジーが生み出したものではない。夢や幻覚は、おおざっばに言うと、亜空間における魂の旅のことである。別に存在するリアリティを幻と知覚するのは、空想ではなく、物質的現実化されていないセクターを知覚することである。ところで、この世界は五感でとらえられる部分では、幻でできた作り事などではない。
では、なぜ人は全てを理解し説明することが出来ると断言するのだろうか。知りえることはこの世界のいくつかの法則性だけであり、目にするものはこの世界の一部の現象に過ぎない。世界で起こる現象の中には論理的な説明がつかないものもある。そこで人は一方では説明を探し出せない無力ぶりを認識し、目にするものを幻であるという。また他方では、幻は理性自体が想像し合成したというように、理性の可能性を過大視する。
強い覚せい剤使用やアルコール摂取の影響下にある人は夢の中にいるように、意識のコントロールを失ってしまう。そのため、潜在意識が亜空間の現実化されていない部分に同調する。肉体は物質的現実化されたセクター、つまり私たちの物質世界にあり、知覚は現実世界とズレている仮想セクターをさまよう。このような状態にある人は、いつもの家並みがある通りを歩いてはいても、目に映るものは全く別のものだ。人々や取り巻いている状況はいつもと全く違って見える。舞台装置が変わったのである。夢と現実が半分半分の状態である。
同様に、精神を病んだ人の中には、肉体は物質的現実化されたセクターにありながら、現実化されていないセクターを知覚している人もいる。知覚は亜空間の一定セクターに同調し、そこでは舞台装置だけで無く、シナリオや役割も違う。精神的に正常でない人は、通常理解されているような病人では決してない。彼らは自分のことをナポレオンであるとか、鼻つまみ者であると空想しているわけでは無い。こうした事象を本当に知覚し、亜空間のセクターで見ているのである。亜空間にはあらゆる事象が存在するが、人はその人の魂が最も気に入ったものを選ぶ、魂と理性の間に葛藤が起こり、魂の苦悩が限界を超え、残酷な現実に心がそれ以上耐え切れなくなると、近くは現実化されていない仮想セクターに同調する。この場合、その人の肉体そのものは物質的現実化されたセクター内に住み続ける。
理想的な夫と子供たちを持ちたいと異常なまでに執着する女性について、ある精神科医が話してくれた。事象選択流に表現すると、この哀れな女性のケースでは、家族というものへの重要性の針が振り切れてしまったことになる。結局、彼女は、自分にひどい暴力を振るう男性を伴侶に選んだ。子供が授かる事はなかった。現実の生活が、彼女にとっては耐え難いものとなり、ほどなく彼女は精神病院に収容された。彼女は物質的表現化されたセクターを知覚しなくなった。彼女の肉体は物質的世界にあり、知覚は仮想セクターに同調していた。そこでの彼女は英国貴族の妻であり、子供たちに囲まれ、この上なく幸せそうであった。周囲の目には、彼女が私たちと同じ世界に住んでいるように映るのだが、知覚は仮想セクターに同調していたのである。
このような人々を治療しようと試みるるが、そのうちの多くは残酷な現実よりも遥かに心地いい幻を知覚している状態の方が幸せなのである。本当はそれは決して幻などではなく、現実化されたセクターに劣らずリアルに存在する現実されていない事象なのである。
では、精神を病んだ人の仮想セクターは、なぜ物質化されないのだろうか。既に述べたように、魂と理性が完全に一致した瞬間の人間の思考によってエネルギーが変調されると、事象の現実化が起こる。だから、この場合では、魂と理性の一致が達成されないのでは無いだろうか。または、物質的セクターと仮想セクターとのずれがあまりに大きくて、現実化のためには膨大なエネルギーが必要とされるからであろう。例えば、私たちの時代にナポレオンが再生されるというのは極めて異常な出来事だから、彼は可能性のある事象の流れからずっと遠くに離れていると考えられる。それとも、私たちには計り知れない他の理由があるのかもしれない。
