〇多くの人々がスターになりたいと思ったり、傑出した成功を収めたいと思っている。通常、成功の見本は、広く盛んに宣伝される。コマは一般の信奉者にお気に入り達の成果を見せびらかすことが大好きである。コマは、お気に入り達を、あらゆるものを手に入れるために目指さなければならない成功の基準として示そうとする。スターは、この人生で手に入れられるものすべてを受け取る。スターは、富と名誉で光り輝く。そうなりたくない人がいるだろうか。たとえもしあなたが名声を望まないとしても、また、贅沢は必要ないと思っていても、自分がなし得たことの結果としてもたらされる物質的な豊かさや満足感を拒むつもりは、おそらくないだろう。
スターはひとりでに生まれる。しかし、スターを輝かせるのはコマである。
スターへの崇拝が始まり、熱気を帯びてくるのは、まさにコマであってこそ、という事を私は言いたい。コマはこうしたことを意図的に言う、映画、ステージ、スタジアム、テレビ画面では、最上のお手本で選ばれた者たちが私たちに示される。とりわけ強調されるのは、スターを迎えるファンたちの熱狂ぶりやスターたちの偉大さ、それに、彼らが成し遂げた数々の偉業の輝かしさである。私たちに常に吹き込まれるのは、スターはみんなに愛され、そうなることは目指す価値のあることである。という疑いようもない一つの事実である。
コマはお気に入りを高い地位に祭り上げて、何を狙っているのか。信望者たち一人一人の達成具合や幸福をコマは心配しているのだろうか。決してそんなことはない。コマがお気に入りたちに成果を見せつけるのは、一般の信奉者たちが振り子にもっと熱心に使えるような刺激を与えるためである。では、普通の人がどのようにしてスターに変わるのか。たゆまぬ努力によってである。スターになるのは、選りすぐりの人々である。だれもがスターになれるのだから、そのためには一生懸命に努力する必要がある。彼らを手本にして、同じようにすれば、成功を勝ちとる事が出来るだろう。スターたちには個性的な能力と資質がある。それは誰もが持っているわけではないから、成功をつかむには、なおさら歯を食いしばって頑張らないければならない。
コマはこのようなスローガンを大声で叫ぶ。コマは誰でも成功を得られることを否定ししてはいないが、個性的な能力と資質は例外なく全員が持っているという事実を巧妙に隠している。みんなが自分の中に他者にない能力を見つけることは、コマにとって死を意味するのも同然である。信奉者たちは全員自由な人格となり、コマのコントロールから脱し、そうしてコマは崩れ落ちるのである。反対に、信奉者たちが同じ方向に向いて思考したり行動したりすると、コマは元気になる。信望者たちの思考の画一性は、コマに発生と存続のための必要条件なのである。スターが持つ際立った個性は例外なのだから、それはむしろコマの手口を助けるものと化す。なぜならスターはまさしく例外だからである。その手口とは、(私のようにやってごらん)と挑発するというものである。
そのため多くの若者たちがコマの罠に陥り、自分たちの偶像と同化しようとして、その真似をし、自分の部屋に偶像のポスターを張る。理性はコマに追従する。血のメグリの悪い理性は、魂が未完成なことを悟らせようとする。理性は魂にこういう。「能力のある私でも成功を得られないのだ、あなたなんかにできるものか。だが、彼らは別だ、彼らがどんなかわかるだろう。彼らを模範にするのだ。自分の未熟ぶりと向き合ったまま、黙って座っていろ。いまに私が全力を足して彼らと同じようになってやる」
若者たちは、自分たちの偶像を模倣しつつ、蜃気楼を捕まえようとしているのである。成功を勝ち得たものを模範として同化しようとするのは、ガラス窓にぶつかっていくハエの意思の意図の働きである。若者たちは他人のセクターに同調しようとするが、そのセクターでの彼らはパロディー以外の何物でもない。理性はバリエーション豊かなコピーを創ることが出来るが、それでは誰も驚きはしない。スターがスターであるのは、まさしく他に類のない自分の独自性や特異性のおかげである。個人個人の魂はそれぞれが二つとないものである。唯一無二の魂は亜空間に自分だけのセクターを持っている。そこでの魂は自分だけの個性を最高に華麗な姿で開花させる。
それぞれの魂には、自分だけの光輝くセクターがある。本当はこうしたセクターは無限にあり得る。それは明らかなことなのだが、ここでは個々の魂には独自のセクター、つまり個々の目的や道があるとしておこう。コマの餌に心を奪われた理性は、他人の資質を模倣しようとしたり、他人の成功のシナリオを追体験しようとして、誰かのセクターで要領を得ないまま足踏みをしている。しかし、他人のシナリオを真似することは常にパロディーとなる。魂は他人のセクターで自分を現実化することはできない。では、どうやって自分だけのセクターを見つけたらよいのか。あなたの理性にこのことを心配してもらうには及ばない。魂自身が自分を表現する道を探し出すだろう。理性がやるべきことは、他人の経験を頭から追い払い、自分の魂の独自性を認め、魂が自分の道を進むようにしてあげるという事である。

〇あなたには最高のものを受け取るだけの価値があり、何でも出来る能力を持つというこの事実こそは、あなたのわからないところに非常に巧妙に隠されている。自分の限りない可能性を信じるなんて無邪気すぎる事だとあなたは吹き込まれている。しかし、本当は全く逆である。目を覚まして、幻影を振り払おう。もしあなたが意識して自分の権利を行使すれば、ゲームはあなたの決まりに従って進むことになる。
そうすることを誰もあなたに禁じてはいない。しかし、慣れ親しんだ世界観に加え、コマたちが事あるごとに、それは不可能なことだと言ってあなたを説得しにかかる。そして、あなたの可能性の限界を示す筋の通ったありとあらゆる論拠を突きつける。そうした論拠は撥ねつけて、「筋が通らず根も葉もない」論拠の方を積極的に利用してみよう。それは、あなたの魂と理性が一緒なら、なんだってやってのける、というものである。あなたには、失うものが何もないのである。ところで、これまでに、筋の通った論拠の枠内であなたはたくさんのことを成し遂げてきただろうか。
この人生はあなたにとって一度きりである。山と積まれた古めかしい関心は、ほこりを払って、洗いざらい調べ上げる時期に来ているのでは無いだろうか。お決まりの核心は誤っているかもしれない。あなたはそのことをずっと知らずにいるつもりだろうか。それに気づく前に人生が幕を閉じることだってあり得る。可能性は現にあるが人生は短い。奇跡に満ちた人生の幸福は一握りの他人に与えられることになり、そこにあなたは含まれない。
自分の権利を行使するかしないかを決めるのはあなただけだ。もし自分の権利を行使することを思い切って認めてあげたら、そのようになるのである。魂の無限の可能性を信じ、自分の理性を魂の方に向けることから始める必要がある。そうしようとするのを妨げるのは誤った核心である。事象選択モデルではそれらの多くは叩き壊される運命にある。
例えば、そうした誤った核心の一つに、「自分に打ち勝つことは何より難しい」とか、「自分と戦う事は一番困難」というものがある。または、「身を捨てる覚悟が必要」という勇ましい意見もある。これは人類が持っている甚だしく間違った意見の一つである。あなたの内面にあるこの不思議さと驚きに満ち溢れた素晴らしい存在をなぜ捨てようとするのか。悪いものはあなたの内面に巣食っているのではなく、表面にとりついているだけであ。それは絵の表面に薄く積もったほこりのようなもの。誇りをぬぐえば、きれいな魂が出てくる。
あなたが身につてけている数多くの仮面や衣装の下に隠れている存在は、本当に素晴らしい長所を持っている。用は、追い切ってありのままの自分でいるようにすればいい。あなたが身に着けている仮面や衣装が、成功や平穏や幸福をもたらす助けになっただろうか。あなたを変える必要はない。そうすることは、もう一つの仮面をかぶることになるからである。破壊的コマに押し付けられた仮面をかなぐり捨てたら、あなたの魂の中に隠されていた宝物が現れる。本当にあなたには最も素晴らしいものを受け取るだけの価値がある。なぜならの、あなたは不思議さとか驚きに満ち溢れた唯一の存在だからである。思い切ってそうなろうとしてみるだけでよい。
あなたは芸術、科学、映画の分野の天才たちによる作品を気に入っているだろうか。あなたも彼らの一人になることが出来るのである。天才たちの作品をあなたが気にい言っているのは、それらの作品がまさしく魂によって創り出されたからである。あなたによる創作も、あなたの唯一無二の魂から生まれた者である場合に限り、人々に気に入ってもらえるだろう。平凡であり荒れたものはすべて、理性によるものである。理性による創作は理性自身と同じく、独創性を持っていない。独創性を持っているのは、あなたの魂だけである。理性は魂がそうすることを認めてやらなくてはいけない。
成功、富み、名誉は、選ばれた者だけに天から与えられる恵みであると、人は一生を通じて吹き込まれる。学校でも、試合でも、コンクールでも、様々な審査会でも、人は、自分が完成の域からほど遠く、他者の方が自分よりも優れていることをいつも認めるよう仕向けられる。そんな事を信じないものが、成功と富を名誉を欲しいだけ手に入れる。すべてはこんな風に簡単なことなのである。簡単でないのは、私たちの誰であっても成功、富み、名誉を所有する値打ちがあり、それを達成できると信じることの方である。だが、あなたにそのような意図があるならば、本当に信じることが出来るだろう。

〇この世界において正常に生存して行く方法を学ぶ必要があるのは疑いのないことである。一般常識や規則に違反すれば、敗北者か脱落者になるしかないからである。しかし一方、一般常識や規則を吹き込まれることは、一人一人の唯一無二の個性をひどく抑圧される事につながる。そしてその結果、人々は自分たちが本当は何が欲しいのかハッキリということが出来ず、自分たちにはどのような能力があるのかも知らない状態に置かれる。
魂の意図をコントロールする能力を人から奪うためには、理性を魂から分離すればいいだけである。実際、そうしたことが行われてきた。人類の全歴史を通じて、理性はを魂から隔離するという大変な作業が行われてきたのである。理性はいつも自分の記号言語の完成に取り組んできたため、ますます魂の言語から遠ざかって行った。宗教のコマは化学のコマと同様に理性を様々な方向へと引っ張っていくが、それも理性を魂の本質からできる限りは離れさせようとするものである。最近百年間における工業技術や情報技術の発展は、魂と理性の結び付きを完全に断ち切ってしまった。
誰もが本を読み、ラジオを聞き、テレビを見、インターネットからの情報を受け取る現代こそ、コマの影響が特に大きい。人類は膨大な知識を蓄積してきたが、それと同じくらいの誤解も積み重ねもて来た。誤解は知識と同じように、ゆるぎなく維持されている。人類の主な損失は、魂と理性の関係が断絶したことにある。ビジネス、科学、芸術、スポーツ、その他の分野で本物の成功を収めるのは、選ばれた一握りの人間だけである。誰もがこうした状態に慣れっこになり、これは異常だという思いが浮かんでこないのである。
このブログの読者である皆さんと私にとって、「人類を救済する」などという事は大それたことでほとんど意味はないだろう。しかしながら修行者の皆さん、私はほかならぬあなたに提案したいだけである。次のように自問していただきたい。「なぜあの人であって、私ではないのか。選ばれた一握りの中に入るには、私に何が必要なのか」・・・あなたには、必要とするもの全てがある。あとはそれを活用するだけである。あなたは何でもできる能力を持っているのに、誰もあなたにそのことを言わなかっただけである。
あなたは偉大な芸術的傑作を創造したり、天才的な発見をしたり、スポーツ、ビジネス、その他どんなプロ活動でも、抜きんでた結果を残す能力を持っている。そのために求められていることは、自分の魂への呼びかけだけである。魂はあらゆる知識、想像、成果を手に入れる権利を持っている。ただあなたはそのことについて魂にまだ頼んでいないだけのことである。芸術、化学、ビジネスなどの分野の偉大な天才と呼ばれた人々は、自分の魂に呼び掛けたり、偉業を成し遂げることが出来た。ところで、あなたの魂にどこか劣っている点はあるだろうか。どこも劣ってはいない。
いずれに傑作も、魂の言語で私たちと話をする。たとえあなたが何に携わっているにしても、あなたの仕事が魂からきているのであれば、心に深く刻まれる成果をもたらす。理性は古い積み木から新しい型の家を組み立てることができるが、それは誰にとっても驚くようなことではない。理性は非の打ちどころのないコビーを創ることはできるが、どこにもないオリジナルを創ることはできない。それができるのは魂だけである。
あなたに必要なのは、あなたの魂はすべての能力を持っているという事実を自明の理ととして受け入れることである。その上で、その能力を利用することを自分に認めてあげよう。それはとても簡単なことなのだが、同時に理解しづらいことでもある。ともあれ、あなたは思い切ってあなたの能力を所有しようとしてみよう。所有する決意は、あなた次第である。あなたは何でもできる。
こう断言すると、疑いをも足られるかもしれない。あなたには能力ゃ可能性や資質が足りないから、あなたが求めるものは達成されない。他の人々の方があなたよりもずっと素晴らしいのだから、そんな風に言われると、あなたは疑ったりはしない。あなたの目的へと続く道には高い壁がそびえたっているという説明を、あなたはいとも簡単に信じてしまう。しかし、私からあなたへの切なる願いとして、次のことをあえて自分に認めていただきたいのである。あなたには最も素晴らしい物を受け取るだけの価値があり、心から望むものはすべて達成できるという事。

〇昔は一緒であったという記憶を蘇らせるいかなる行為も、魂の琴線に触れるものである。人間の言語が現れて以来、魂の言葉は少しずつ退化してきた。人々は理性の言語にあまりにも気を奪われたために、時がたつにつれて、理性の言語がもっとも頻繁に使われるようになった。この出来事でさえ理性の概念の枠内で歪曲され、バベルの塔の伝説という形でまとめ上げられてしまった。その伝説とは、天に届くような高い塔を建てようと企てた人間たちに対して神々は怒り、人間たちの言語を混乱させ、お互いに意思疎通できないようにさせたというもの。
多くの神話や伝説は本質的には真実であるが、それは理性の概念で解釈された真実という事である。おそらく高い塔とは、自分の意思を理性の言語で意識的にまとめあげる能力を手に入れた人間の偉大な力を評している隠喩であろう。すでに述べたように、魂の意図の風を感じることが出来るが、この風を利用するために帆を立てることはできない。帆を立てるのは理性の意思である。意思は意識性の属性である。
無意識の魂が意図の風に乗って飛行することは、自然発生的に怒り、コントロールできない。まさに理性の意識性こそがも目的に向かって意思を表すことを可能としてくれる。魂の言語と理性の言語とかそれほど分離されていなかった当初の段階では、魂と理性を一致させる事は簡単だった。その後、理性は自分の記号の枠内で世界観を築き上げることに没頭し、魂の意図の基本となる昔からある本質を理解することからますます遠く離れていった。
膨大な知的努力の結果、理性は物質的に現実化されたテクノロジーの世界では大きな成果をもたらしたが、現実化されていない亜空間に関することはすべて失ってしまった。理性は、魂の意図に関する全てを理解するところから、あまりにも遠く離れた方向へ来てしまった。だからこそ、事象選択の基本的な考えの多くが、とても信じがたいことに思われるのである。とはいえ、理性には失ったものを取り戻す力がある。そのためには、魂と理性の関係を調整しなくてはならない。
難しいのは、魂は理性と違って考えることはせず、知るという点である。理性は得た情報を良く考え、自分の世界観のパターンである分析フィルターを通すのに対し、魂は情報フィールドから知識を分析せずに直接受け取る。また、魂は、魂の意図に直接接触できる。魂による意図への接触をハッキリと折り合わせ、一致に導く必要がある。こうした一致が達成されると、あなたの魂の帆は意図の風を受けて膨らみ、あなたを目的へとまっしぐらに向かわせるのである。
あなたの魂はあなたの願望を実現させるための全てを持っている。魂の意図と関係するすべては、理性の概念の枠には当てはまらない。理性は自分で自分をこのような状況へと追い込んでいる。そして、コマがそれをうまく誘導した。理性が魂の意図のコントロール方法を手に入れると、人は自由を得てしまうことになり、それはコマの利益に反するからである。
コマにとって有益なのは、人間が灰色の人格のまま、このというモンスターのために働くねじくぎに徹してくれる事である。人間が自己実現に向かう事は、コマにとっての破滅を意味する。なぜなら、自由な人格は自分自信の発展や向上を目指すので、コマのためには役に立たないからである。そのため人間は、子供のころから一般常識や規制を吹き込まれ、コマにとって重宝で従順な信望者に仕立てられていく。

〇人は自分自身と世界の表面的な現象を物質としてだけ知覚する。しかし、全ての物質は普通の知覚では捉えることのできない、一つの共通したエネルギー情報的本質を持っている。それは亜空間にあるもので、物質的現実化の振る舞いを定めている。私たちが使い慣れている抽象的な記号である言語は、エネルギー情報的本質の表面的な現象だけを表す。大昔から存在するこの本質を、理性が生み出した記号である言語で一様に表すことは不可能である。哲学や宗教の流れがこれほど数多く存在する理由がここにある。
私たちの知覚は、あるがままに形成されてきている。なぜなら、子供のころから、私たちは個々の対象に注意を集中するよう教えられてきたからである。あなたの手足、掴んだり触れたりするもの。これらの知覚の調整は一生続けられる。理性は常に任意の外部データをこれまでに形成されてきた世界を表すパターンと一致させる作業を行うのである。
例えば、もし私たちが人間のエネルギー・フィールドを見たことがなければ、理性は私たちの目にエネルギー・フィールドを見分けることをただ単に許そうとしない。それは慣れ親しんでいるパターンと折り合わないためである。子供の頃、誰も私たちの注意をオーラに向けたりはしなかった。そのため、オーラは世界を表すパターンに入らなかった。現在、私たちは理論的にはオーラの存在を知っているのに、実際には何も見えない。
取り巻く世界を知覚する仕組みは、これまでのところ研究があまり進んでいない分野である。知覚の取り組みについては、個々の側面を議論することだけは可能である。アリを例に挙げると、アリは星を見たことがない。太陽も、山々も、森さえも見たことがない。アリたちは生まれたときから、知覚にあるものとしたかかわりを持たないため、視力もそのようにできている。取り巻く世界に対するアリたちの知覚は、根本的に人間の知覚とは異なっている。
ところで、世界は本当はどのように見えるのだろう。こんな風に客観的と思われる質問を出して客観的な答えをもらおうと試みても、この質問自体がそもそも客観的ではない。世界はまさに私たちが見ているように見える。なぜなら「見える」という概念は、私たちの知覚パターンを構成する要素でもあるからである。例えば、モグラのパターンでは「見える」という概念は存在しない。世界は、私たちの知覚パターンに応じて、私たちに自分の姿を示してくれる。そんなわけで、世界はどうやら見えるものらしいという事になる。世界はいつものように見えるとか、光り輝くエネルギーの集積に見えるとか、またはそのほかのように見えるなどと断言することには意味がない。意味があるのは、私たちが知覚できる個々の現象について話をすることだけである。
人の意識は社会的産物である。それは私たちを取り巻くすべての概念と定義に基づいている。魂は生まれたときから人に備わっている。意識が現れるのは、取り巻いているすべてのものが人間の言語によって概念や定義として定まったときである。だが、世界が存在するのは、人が世界を自分の概念を用いて表すからというわけではない。世界を自分の概念で表すことに関して、人の魂は常に無力のままである。魂は人間の言語を理解しない。魂が理解するのは、私たちが習慣的に感覚とみなしていることだけである。最初に思いが起こり、、その後、想いは言葉にまとめられる。言葉がなくても思うことはできる。それこそが潜在意識にとって理解される言語のことでもある。最初にあるのは言葉ではなく、思いである。理性の言語を用いて潜在意識と話すことは無益なことなことである。
存在する概念の組み合わせだけを用いてすべてを表現することはとても出来ない。お気づきのように、魂の意図とは一体何なのか、わかりやすく解説することを私はまだやり遂げていないのである。幸運にも、人には芸術作品という万能の表現方法が残されている。これは言葉がなくても理解できるものである。魂の言語はすべての人々が理解できる。それは愛と喜びでつくられた言語である。人が正しい扉を開けて最も大切な目的へと向かう。より正確に言うと、人が真に自分のやるべきことに携わっているとき、その人は傑作を創り出す。まさにこのようようにして、芸術と名付けられるものは誕生する。
音楽大学を卒業して冴えない音楽を創ることはできるだろうが、だれの記憶にも残りはしない。完璧な技術でつまらない絵を描くことも可能である。しかし、だれもそうした作品を傑作だとは思わない。もし作品を前にして「これには何かある」と感じるならば、それは芸術作品と考えてよい。そこには一体何があるのかについては、後になって鑑定人や批評家化が説明してくれるだろう。とにかくこの「何かある」という感覚は、言葉なしに誰にでもすぐ理解されるものである。
名画「モナ・リザ」を例に挙げて見よう。これは誰にでもわかる芸術言語である。ここでは言葉はいらない。そうでなくても、皆に理解できることを表げする点で、言葉は無力である。言葉で理解されたことは、重要でないとすらいえる。各人は自分なりに理解して感じる。もちろん、モナ・リザのほほ笑みは謎めいているとか、そこに何か捉え難いものがあるなどというとはできる。しかし、いずれにせよ言葉は、この絵を傑作としている「そのもの」を説明することが出来ない。
「モナ・リザの微笑み」は、謎めいている理由だけで人々の間に強い関心を呼び起こしたわけでは無い。モナ・リザの微笑みと仏陀の微笑みは非常に似通っていることが、あなたの頭に思い浮かばなかっただろうか。仏陀は生存中に涅槃の境地にたどり着いたと言われている。つまり仏陀は、水玉であるうちに、海との一体性を感じることが出来たのである。あらゆる理彫像や肖像画に書かれている仏陀の微笑みは非常に平然としており、同時に安らぎと喜びを表している。それは「永遠性の直感」と表することが出来る。仏陀の微笑みを始めて見たら、戸惑いと関心の入り混じった不思議な気分に見舞われる。なぜかというと、忘れていた何か遠いもの、つまり海との一体性を水玉である私たちに思い出させてくれるからである。

〇理性はコマに完全に支配されている。それは、理性がコマから押し付けられたイメージや思い込みに支配されているという事でもある。人間の自由の度合いは、狭い枠で仕切られている。人はこの世界での自分の立場を、召使か主人かのどちらかだと誤解している。事象選択の考え方からすれば、それらの立場のいずれも正しくはない。見方によっては人は取るに足りないものでもある。人は瞬間だけ海面らか跳ね上がった水玉にすぎないともいえるからである。
生と死についての説明には、海の波しぶきを用いることが出来る。海から分離された水玉は、海との一体感を感じることが出来ず、海からエネルギーを受け取ることものできない。それぞれの水玉にとって、自分は独立した存在であり、海と共有するものは何もないと感じる。しかし、水玉が海にらったした時、水玉は海との一体感を認識する。水玉は海に溶け込んで一つになる。水玉と海は本質的に同じもの、すなわち水である。
水の粒子は、雫、雪の結晶、氷解、蒸気の雲など、様々な形態を取る。形は多様だが、本質は同じである。水の粒子は海と同じであったことを覚えておらず、理解してもいない。水の粒子にとって、海とは、波、あぶく、渋木、氷山、海流、凪などで表されるものである。水の粒子にとって、自分とは、雫、雪の結晶、水蒸気の雲などで表される。水の粒子からすれば、これらすべての表面上の現象の向こう側にある共通の本質、すなわち水というものを見抜くことが難しい、何かしら親しみがわくのだが、ぼんやりとしていて、しっかりとらえることが出来ないように感じるのである。
このことについて、キリスト教の聖書では、心理が理性の概念によりゆがめられて記されている。神は人を自分にそっくり似せて作りたもうた、という一文がある。通常、この部分はまげて解釈されている。しかし神はどんな形をとることもできるのだから、神の本質は、神に頭や二本ずつの手足がついていることにあるのではない。神を海に、人を水玉に例えるとすると、共通の本質は水という事になる。
生死の境をさまよったことのある人々の証言によると、魂は宇宙との一体性を感じることにより、言葉では言い表せない安らぎと喜びを覚えるという。水玉は海に戻ることで、自分が海と同じものからできているというもともとの自分の本質に関する認識がよみがえってくるのである。海の全てのエネルギーは水玉を駆け抜けていく。
人間はその文明の歴史が始まって以来ずっと、生きている間に宇宙と一体になる感情を自分の中に呼び起こそうとしてきた。精神修養を行う流派は、結局のところ、同じ目的を追求していることになる。それは、悟りを開くこと、言い換えると、この世界との一体性を感じ、エネルギーの海に溶け込み、それと同時に、個人としての本質を失わないという事である。
悟りの境地に達した解脱者は、いったい何を得ているのだろう。彼らは、宇宙の海の全エネルギーを受け取り、その全てを自分の意のままにできる。彼らは自分と無限性との間に根本的な違いを認めない。思考エネルギーは海のエネルギーと共鳴し合う。つまり解脱者の意図は、世界をコントロールする強力で説明のつかない力、魂の意図と等しくなっているのである。
紙でできた凧の形が、必要とされるパラメーターを満足させると、タコは空気の流れによって空へ登っていく。これと同じように人も魂の意図の風によって持ち上げられ、亜空間でその人の思考放射に相当するパラメーターを持つセクターへと運ばれる。亜空間で目的への方向性を持って動くためには、空気や水の動きを感じるように魂の意図の風をハッキリと感じる必要がある。
人が自分と海との同一性の本質やその本来の姿を認識しないうちは、魂の意図がその人に従うことは無い。この投稿によって読者の皆さんに悟りを開いていただこうなどとは思っていない。それは大変困難な道である。それに、私たちの目的を現実化するには、悟りの境地に達することも必要ではない。山へ引っ込んで、瞑想する必要はない。事象選択では、魂の意図をほんの少々だが自分に従わせることを可能にするひとつの抜け道を提供する。願望実現にはその程度で充分である。
この抜け道の原則は単純である。理性は意思を持っているが、魂の意図をコントロールする事はできない。魂は自分と意図との同一性を感じることはできるが、意思を持っていない。魂は、糸の切れた凧のように、亜空間を飛び回る。魂の意図を意思に従わせるためには、魂と理性を一致させることで充分である。
これは確かにとても難しいが、そうは言っても、実際に実現可能な課題である。すでに述べたように最悪の予感が現実化することで魂の意図の働きは、十分に知覚することが出来る。この場合、魂の意図は理性の意思に逆らって作用するわけであるが、だから、これからは、どうすれば最良の予感を現実化することが可能なのか解明すればいいだけである。「意図」と題されたこのシリーズの最初で、魂の意図を得るための第一の必要条件を既に定義した。それは、意識性、重要性の緩和、目的達成願望の放棄である。間もなくあなたは事象選択の新たな秘密を知ることになる。それは魂の意図の秘密の世界へ続く扉を少し開けてくれるものである。

〇視覚化の三つ目のグループをどのように格付けするのか、そして、そもそも目的の視覚化を行うことは必要なのか。こうした問題を明らかにしよう。ここでの答えは一つ。それがあなたにとって具合が良ければどんな形であっても、目的の視覚化は間違いなく必要である。目的は頭になかにスライドの形で保管され、それによって快適域が広がり、目的とする人生ラインへの思考エネルギーの放射周波数が調整されていく。これこそが、視覚化の三つ目のグループの唯一重要な機能である。しかし、目的とする人生ラインへの移動そのものは、やはり事象選択における「目的に向かう運動プロセスの視覚化」が黙々と仕事をこなし、実行に移すことになる。あなたはプロセスの資格化を行いながら、意思の意図を魂の意図と一体化させるのである。
人は個人即ち唯一無二の存在として誕生する。その後、個性が発達する。思考、知識、信念、習慣、それに性格さも、後になって突然現れる。しかし、こうしたことは何もないところに形成されたわけでは無い。もともとあったのは何だろう。もし何も書かれていない真っ白な紙であったとしたら、少しの間、その真っ白な紙になってみよう。目を閉じて、思考を止めてみよう。何もない暗闇を思い浮かべると、しばらくの間、何も考えない時間が訪れる。その時、あなたの頭になかは完全な無の状態にある。その時のあなたは自分であることを本当にやめてしまったのだろうか。理性の働きは停止するが、【私は私である】という一体的な感覚は残る。
では、【あなたはあなたである】という事をどのように説明できるのだろう。人間が自分を個人として認識する事は、通常、社会的環境の中における自分の状況という全体的な脈絡の中で生じる。しかし、社会的環境が消え去り、あなたが宇宙空間で浮かんでいる様子を、瞬間、イメージして見よう。あなたには何もない。社会も、地球も、太陽も、過去も、未来もなく、あるのは周りを取り囲む空っぽの暗闇だけである。すべては消え、あなただけが残された。では、過去の人格としてのあなたから残されたものは何だろうか。すべての知識や想念は、暮らしていた環境に関係している。習慣、しぐさ、願望、恐怖、趣味、すべての知識や想念は、暮らしていた環境に関係している。しかし、その環境がもう無いとしたら、あなたの面影をとどめるものはいったい何なのだろう。
この疑問について、理性の概念の枠内で議論することは非常難しい。人間に魂が存在するという太古から受け継がれてきたテーマについて、ここでは考察しない。もしそうしても、多くの時間が費やされるだけで、どこへもたどり着くことはないからである。事象選択を目的とする限り、この問題は根本的に意味を持たない。魂の方を信じてもいいし、潜在意識の方を信じてもいい。霊魂不滅の考え方に同意してもいいし、同意しなくでもいい。しかし、人間の心理には意識と無意識の領域が含まれることだけは、議論の余地がないはずである。
このシリーズの当初から、意識に関することはすべて理性とし、無意識に関することは魂として来た。実益を得るためには簡略化して少なくとも魂に関する問題のごく限られた部分を明らかにしておく事だけは必要である。それは、魂と理性の間に大雑把な境界線を引くという事である。具体的に言うと、感覚が一番目で、思考は二番目、という事で充分であろう。歓喜、活気、インスピレーションなどがあなたを包み込む状態は、魂の感覚である。重苦しいやりきれない状態も、やはり魂の感覚である。

〇もし目的がかなり遠く離れた人生ライン上にあるならば、自分の思考エネルギーの放射をそこに合わせることは実際上不可能である。例えば、試験を受けようとしているあなたが、その内容を全く知らないとしたら、首尾よく試験に受かる人生ラインに同調することはできないだろう。あなたが何もわかっていないのであれば、たとえたった一つの試験問題に対してでさえ、あなたの回答の視覚化を行おうとしてもうまくいかない。
あなたの未来の目的と現在の状況との間には、とても長い道が横たわっているかもしれない。あなたの状況だけで無く、思考方法や行動様式、さらには性格さえ変わることもある。いまのあなたは、この道を通ることなしに、自分のパラメーターを正確に同調させることはできない。
もしとても遠く離れた目的へと進むプロセスの資格化を行おうとすれば、先を急ぎ、物事をせきたてようとする誘惑が起こることだろう。それは何ももたらさず、その結果として、絶望や腹立たしさを味わうことになる。おまけに平衡力があなたに敵対してくるのである。
あなたはと遠い未来の画像スライドを頭の中で好きなだけ再生してよいし、そうすることが害になることは無い。しかし、すぐにそこへ踏み入るわけではない区間を進んで行くプロセスの視覚化は、あなたをどこか別の知らないところへと連れて行ってしまうことがある。あなたは曲がりくねった川を下流へと下る必要があると想像してみよう。川の蛇行している部分を近道することで距離を縮めようとして、陸の上をボートを引きずって行こうとはしないだろう。
もし目的がいくつかの段階を経た後に達成されるものであれば、好むと好まざるとにかかわらず、各段階を順番に進んでいくしか無い。例えば、一足飛びに何らかの分野のプロになることはできない。まずは学校を卒業して、就職し、自分の職業上の能力を完全なものに磨き上げることなどが必要となる。亜空間における目的へと続くこのような段階上の道は乗り換え用の鎖である。この鎖の各々の輪は、個々の段階である。段階どうしたが繋がって鎖になっている。なぜなら、ある段階を通過しないと、次に行くことは不可能だからである。例えば大学を卒業しないと大学院へは入学出来ないのと同じことである。
乗り換え用に鎖の一つ一つの輪は、亜空間で相互に関連性を持つ比較的同質のセクターからできている。亜空間における目的へと続く道は、乗り換え用の鎖と事象の流れから構成されている。亜空間は秩序ある構造をしている。もしでたらめなやり方で目的を追い求めようとしても、目的まではたどり着かない。すでにご存じのように、事象の流れからはみ出ないようにするには、過剰ポテンシャルを作らず、両手で水面をたたきつけず、流れと戦わないという事が必要である。そうなると、もう一つの決まりに従うしかない。それは、現在の段階に応じた目的へと進むプロセスを視覚化するというものである。この場合の最終結果を、あなたはスライドという形で好きなだけイメージする事が出来る。しかしながら、進んでいくプロセスは、現在あなたがいる乗り換え湯用の鎖の輪の範囲内でという事になる。慌てることはない。あなたは丁度良い頃合いにやり遂げることだろう。
さぁ、これで最終的な定義づけを行うことが可能となる。事象選択における視覚化は、乗り換え用の鎖の、現時点での輪の現実化プロセスを頭の中でイメージすることである。イメージするという事は、思考を必要とされる方向へ向けることである。思考にはきっかけを与えてやるだけで、その先は夢の中でのシナリオのように思考がひとりでに進む、現在あなたがいる輪を、思考上でも行動上でも調和ををとりながら、現実化させていくプロセスに生きがいを見出す必要がある。
このようにすべては簡単なことなのである。他でもないあなた自身の乗り換え用の鎖なのだから、その一つ一つの輪を決定していくことは難しいことではない。では、もし目的まで進んでく順序がわからない時はどうなるか。あるいはまた、一体どんなみちゃ手段によって自分の目的に到達できるかがわからない場合はどうか、何も心配はいらない。あなたがそれを心配するには及ばない。そんな゛は愛に行わなくてはならないことを、もう一度繰り返しておこう。
もしあなたの目的がどのような方法で実現されるかわからないならば、心配することなく、スライドの視覚化を穏やかな気持ちで絶えず続けよう。目的があなたの快適域に完全に入ったら、魂の意図があなたにふさわしい事象を選んでくれる。目的の達成方法を右往左往して探そうとする必要はない。スライド事態によってあなたは知らず知らずのうちに、または無意識に必要な方向に向かって行動するようになる。重要性をはらいのけ、穏やかな気持ちで事象の流れを信じよう。
ここて、サインについて少し付け加えておきたい。もしあなたが、目的達成の可能性を指し示しているかもしれないと思われる何らかのサインを解釈するとしたら、次のことを知っておく必要がある。一つは、サインが乗り換え用の勝りの現在の輪にだけ関係している事、そして、もう一つは、サインが最終目的とはわずかな関係しか持っていないとである。言い換えると、標識としてのサインは、あなたが現在歩んでいる道に関係しているという事である。あなたは乗り換え用の鎖の現在の輪に関係するあらゆる問題についてサインを解釈することが出来る。しかし、もしあなたが現在いる人生ラインが目的とする人生ラインから鎖の輪数個分離れているならば、サインは目的を示す標識となることが出来ない。だからと言って、遠く離れた目的を示す標識が全く存在しないというわけでもない。ただ、あなたはサインを十分に信用して解釈することが出来ないという事である。一般に、魂の快・不快を抜きにしてサインを解釈することは事象選択では最も制度の低いやり方なので、サインに大きな意味を与えてはいけない。

〇これまでの一般的な経験からは、もし自分が目指すものを手に入れたいならば、一切の思考や想念を自分の目的に向ける必要があるという事になるだろう。しかし、これからはそうしたことを忘れてしまってほしい。私があなたに約束したように、事象選択は無条件に作用するのであるが、そのためには似たり寄ったりのおなじみの考え方とは縁を切り、一般的な視覚化と事象選択の視覚化との原則的な違いをハッキリさせよう。ご承知のように、目的に向けて注意を集中させるのは願望である。目的への動きに注意を集中させるのは意図である。あらゆる行動の原動力となるのは意図であって、願望ではない。そのため、目的へとあなたを進めるのは目的そのものについての想念ではなく、目的へと進むプロセスの視覚化である。意図の現実化はプロセスであり、一つのコマに集中することではない。もちろん目的自体はイメージされる画像の一部でもある。しかし、注意は目的への運動プロセスに注がれていて、同時に、目的自体が動きの背景に置かれている。
目的自体の視覚化は、目的の達成プロセスの視覚化とは異なる。それは願望が意図とは異なることと同じである。願望は何もしない。持ち上げられた腕の例に再び話を戻そう。あなたが腕を持ち上げたいと望んところを創造願いたい。最初に、腕を持ち上げたいと思っていただき、その結果について、つまり持ち上げられた腕について思っていただこう。さぁ、次にここで、腕を持ち上げてみよう。いま述べた前者の場合は、願望が働くが、何も行われず、願望自体の事実の確認と目的、すなわち持ち上がった腕の視覚化が起こる。後者の場合では、意図が作用していて、腕が持ち上げられる間中、ずっと意図は働いている。このプロセスの間、目的は目指すべきものとして明確に了解されているが、注意はまさにプロセスに注がれている。結局のところ、いくつかのステップを通過するためには、目指す最終地点で望んでいたりイメージしていたりしては不十分という事になる。歩みを運ぶ、すなわちプロセスを実行する必要がある。
以上全ては、ありふれた考察のように思われるかもしれない。しかし、ここからどんな結論が導かれるか、ご覧いただきたい。目的の資格化は願望の働きであり、そのため目的は一歩も近づいてくれないという事である。空回りしてしまうのである。
事象選択では、目的へと進むプロセスの視覚化が行われる。まさにこの時、意図が働くことから、目的は遅かれ早かれ達成されることになる。目的に向かう動きは、夢の中でのようには早くは起こらない。だが、動きは生じる。それもしっかりと感じ取ることのできる動きである。しばらく後にあなたは人生ラインから人生ラインへの移動を体験する方法を学ぶことになる。
あなたが何をしようと、もしそれが長いプロセスであっても、プロセスの視覚化はあなたを助けてくれるだろう。最終的な目的がハッキリとした輪郭をまだ持っていないようなあらゆる想像の分野で、このような視覚化は特に有効である。プロセスの視覚化をどのように理解すればよいのか。あなたが芸術作品の制作に携わっており、どんな成果がもたらされるか、まだ正確にはわかっていないとしよう。しかしながら、あなたはその作品に与えたい質についてはよく知っている。仕事の合間に、あなたは作品がどんどん完成されていく様子を創造する。今日は自分の作品の数か所の細部を仕上げた。明日は新たなタッチを加えてみることにしよう。あなたの作品は着々と変化を遂げていくと想像して見よう。あなたはその作品の質を益々高めていき、作品は見る間に傑作へと変わっていく。あなたは満足し、想像のプロセスに心を奪われる。愛しいわが子があなたと共に成長を遂げているのである。
あなたは苦も無く具体的な個々のケースにふさわしい視覚化の方法を自分で考えつく。秘訣は、自分の目的とする対象をただ単にに思い浮かべるのではなく、誕生するプロセスや完成に近づく様子イメージすることにある。例えば根芸術作品がひとりでに描かれていったり、創られていったり、建てられていったりすることを、想像であると思い込んではならない。作品を作り上げるのはあなたなのである。作品はあなたの手の中で仕上げられていく。人は創作の手を休めては、うっとりと見とれ、また創作に取り掛かるのである。
自分の赤ん坊の養育に心を砕く母親の心境がわかりやすい説明になるだろう。母親は赤ん坊に食事を与え、寝かせつけ、おちびさんの日々の成長ぶりを思う。母親は赤ん坊の世話をしながら、うっとりし、とてもかわいらしく成長することを信じて疑わない。母親は赤ん坊と遊び、躾をし、知恵がついていく様子や小学校へ通うようになる日のことを思い浮かべる。ご理解いただけたと思うが、これは結果を思いめぐらすことではなく、プロセスの視覚化を伴う創造だ、母親は赤ん坊の成長を単に観察しているわけではなく、赤ん坊が育っていく様子や将来の様子を想像している。
もしあなたの創造の対象がコンピューター・プログラムであるならば、仕事の後で、プログラムがもっと効率的で便利になっていく様子を想像してみよう。明日になれば、新たな部分が付け加えられて、みんなをあっと驚かすことだろう。
もし企画書を作成ししているのであれば、ますますたくさんの並外れたアイデアが浮かんでくる様子を創造しよう。あなたはみんなの関心を引き付ける非凡な提案を毎日のように生み出す。自分の企画書が膨らんでいく様子を観察し、企画書がプロ意識の模範になりつつあると確信する。
もしあなたが自噴の身体を鍛えているならば、母親が赤ん坊を育てるように、身体を作って行こう。あんたの身体が次第に完成されていく様子を創造しよう。身体についてあれこれと気を配り、トレーニングを施し、そのあとで、筋肉が付いたり、引き締まったりしていく様子を想像しよう。
いずれの場合も、どのようにしてあなたの仕事が完成に向かって進んで行くかというプロセスの資格化が行われている。最終結果を思いめぐらすだけでも快適域は広がり、それでも少なからず意味はある。しかしながら、目的へと向かって進むプロセスの資格化を行っていると、あなたは魂の意図の動きを明らかな促進することになる。
もし今のところ、あなたの目的を現実化する方法がわからないのであれば、心配することなく、穏やかな気持ちでスライドの資格化を続けよう。目的が完全にあなたの快適域に入ると、魂の意図があなたにふさわしい事象を選んでくれる。目的の達成方法を右往左往して探し回ってはいけない。重要性を捨て去り、事象の流れを信じよう。スライドを眺めるのではなく、その中で暮らそう。そうすれば、あなたは知らず知らずのうちに必要な方向に向かって行動しているだろう。さて、プロセスの資格化について述べたが、これはすべてではない。亜空間の物質的現実化は慣性が働き、タールが動くようにゆっくりと行われるため、あなたが救世主キリストのような魂の意図を持ち合わせていない場合、人生ラインの乗り換えは少しずつ行われる。少しずつという事は、休みなくというだけでなく、段階的にといいう意味である。ここに事象選択における視覚化のもう一つの特徴がある。

〇スライドを扱うときには次のことを忘れないでほしい、第一に、目的に対するあなたの熱が冷めてきたらスライドは消えかかるから、あなたはスライドを見ることを自分に強いるようになり、ほどなく嫌気がさしてくる。そのようなスライドであれば、自分にとって本当に必要かどうか考えてみるべきである。第二に、魂の意図はスライドをすぐに現実化してくれるわけではなく、目的とする人生ラインへあなたを少しずつ近づけていくという事を肝に銘じておかなくてはならない。穏やかな気持ちで根気強く我慢することが求められる。
しかし、根気強さが必要なのは、始めの段階だけである。その後は、スライドの視覚化が慣習となり、自分に強いることはなくなるだろう。しかし、最終的に、もし目的があなたのものではなくコマによって強制されたものであるならば、魂と理性の一致を達成することはできない。このことについては、次の章で述べることにしたい、もしあなたが心の底から目的に向かおうとしているならば、スライドの資格化は必ずや結果をもたらすだろう。あなたに本物の所有する決意があれば魂の意図はあなたの目的を実現する方法を探し出すだろう。
ところで、スライドが事象選択における視覚化の方法だとあなたが思ったとすると、それは間違いである。最高の出来のスライドでさえ、実現には長い時間を要するかもしれない。亜空間のあなたのいる位置からずっと遠いところにあるセクターに目的がある場合はなおさらである。次に述べるように事象の資格化は、目的達成のプロセスを促進させることが出来る。では、それはどうすればいいか、これからお話ししよう。
こんな問題を解いていただきたい。あなたの最終目的がお金持ちになることであるとしよう。この目的の達成のために、あなたは札束がぎっしりと詰まったトランクケースの視覚化に励む。視覚化の三つ目にグループでいうようなやり方により、かなり長い時間をかけて視覚化が行われる。が、いつまでたっても、何も得られない。毎日休むことなく一生涯続けても、何にもならない。
しばしばお金の詰まったトランクケースを見かけることはあるだろうが、それは映画を見ているときくらいだろう。あなたが財宝を発見したり、宝くじに当たるような可能性は非常に小さい。こんな小さな確立に望みを託す価値はあるだろうか。「なぜそうなる。私はしょっちゅう頭の中で両手でトランクケースを開けては、自分のお金を取り出し、点検しては眺め、ほとんどなめまわすくらいなのに」。あなたはこんな疑問をぶつけてくるかもしれない。資格化の三つ目にグループはもう映画を見ているのとはわけが違うのだから、ほかに何がいるというのか。全脳の魂の意図はいったいどうしたというのか。
実は、事象選択の観点からすれば、ここでは二つの間違いを犯している。一つの間違いは、お金の入ったトランクケースはあなたの目的にはなりえないというものである。お金というものは単なる属性にすぎず、手段ですらなく、ましてや決して目的になることが出来ない。しかし、あなたの目的についてはもう少し後で述べることにしよう。ここでは先を急ぐことはしないでおこう。もう一つの問題は、次のことからわかるだろう。もし目的地まであとわずか一歩分も残っていないというのでなければ、最終目的地に注意を集中してみても、決してあなたを目的地へと進めることにはならないという事である。もちろん快適域は拡大し、魂の意図は少しずつ自分の仕事をこなす。だが、あなたは決して魂の意図を助けてはいない。せめて両足を使って歩くくらいはするべきである。他に行動することも必要だという話ではない。いま、私たちは視覚化のことに限って話しているのだから。
