〇あなたが自分の目的ついて考える時、内的重要性や外的重要性はぬぐい捨てなくはならない。もし外的重要性が高まっていると、目的の放つ威光や近寄りがたさによって魔法にかかったようになる。あなたはコマによってペテンにかけられていたのではないだろうか。もし内的重要性が高まっていると、目的はあなたの可能性の限界を超えたところにあることになる。これもやはり目的の持つ近寄りがたさがあなたを引き付けている。だが、これは本当にあなたが必要とするものだろうか。
目的について考えるとき目的の持つ威光については考えないようにしよう。近寄りがたい高所に祭り上げられている目的を蹴落とそう。そうする事で、あなたは外的重要性を放り捨てることが出来る。目的について考えるとき、目的の達成方法については考えないようにしよう。そうする事で、あなたは内的重要性を放り捨てることが出来る。自分が快適な状態かどうかについてだけ考えよう。もし目的が達成されたならば、あなたは本当にうれしいのだろうか。それとも、相変わらずの心の重苦しさは残ったままなのだろうか。望むものが達成される可能性を疑う気持ちが起こったからと言って、望むものが必要でないという結論にすぐ結び付けてはいけない。大事なのは、望ましい目的について考えるとき、魂がウキウキするかどうかという事である。目的がどれほど魅力的であろうと、あなたの心にどこか重くのしかかってくるものがあるなら、それは偽りの目的である。こうした問題については、今度詳細に述べたい。
もしあなたに決まった目的がないか、何も欲していないというのなら、あなたのエネルギーが少ないか、あなたの理性が魂を箱の中に完全に閉じ込めたかのどちらかである。前者の場合、自分の健康に気を使えば生きるための活力を増進させることが出来る。もしかするとあなたは真に健康な状態とはどういうものか知らないかもしれない。あなたが健康であれば人生は満足感をもたらすもので、何でもすぐにやってみたくなるはずだ。魂が何もしたくないというとはあり得ない。なぜなら、この人生は魂にとってまたとないチャンスだからである。
後者の場合、脱出方法は一つだけある。自分を愛するという事である。あなたはほかの人たちへの心配に我を忘れてはいないだろうか。自分を一番目に据えよう。もしあなた自信の魂が二の次にされていると、ほかの人たちもあなたと一緒にいて何もいいことはないだろう。自噴のすべきことを他者にささげる事は、たとえそれが肉親であったとしても、またはそれがコマならなおさら、あなたは自分の人生を無意味に浪費していることになる。人生とは、あなたが誰かに奉仕するためにあるのではなく、一人の個人として自分を実現するためにある。魂を箱の中に閉じ込めようとして、あなたの内に秘められた満たされぬ思いは強力な過剰ポテンシャルを発生させている。このポテンシャルは、あなたとあなたを取り巻く人々にありとあらゆる形で襲い掛かる。人々に良かれと思ってあなたが行っていることが、実際は、害になっているのである。
自分についてあれこれと気を使い、同情と思いやりの気持ちで自分に接しよう。そうすれば、魂は温まり、凍えた翼を伸ばすだろう。

〇おもちゃ屋さんで理性が魂に言いそうな別の返事もある。「バカも休み休み言いな。お前さんがそんな物を欲しがっていただなんて。私たちには無理だよ。庶民なんだからさ。夢のまた夢。だれにでも叶うわけじゃ無いんだよ。お前さんには素質も能力もない。高根の花だ。みんなと同じように生きなきゃ」この種の返事は、ほかにもまだまだあるだろう。もしこうした言い方がコマの影響でなかったのなら、理性自信の救い難さを非難することが出来よう。ともあれ、理性のこの数行を読んで、しつこい幻影から目覚め、自分が信じていた理路整然とした」論拠のバカバカしさに気付いてくれることを期待しよう。
この世界では、魂の無い理性というものは、あっても非常に少ない。魂と理性が一緒にあるからこそ何でもできるのである。なぜなら、魂と理性が一致すると、真の力ともいうべき魂の意図を生み出すからである。理性は意思の意図を、魂は魂の意図をコントロールする。しかし、魂はハッキリとした目的意識を持って魂の意図をコントロールすることが出来ない。魂と理性が一致したら魂の意図はコントロールしやすくなり、目指す目的の達成に利用することが出来るようになる。
理性の意思の意図により狭い可能性の範囲内では、あなたにとって達成困難か非現実的に思われることは全て実際に達成困難で非現実的なのである。これは明白なことである。あなたが自分にどんな目的を掲げようと、合理的な世界観の枠内でその目的を達成することには困難を伴い。けれども誰かが偉そうな面持ちでどれが実現可能で、どれが実現不可能化などと決めつけたからと言って、それだけで自分の夢を断念してはいけない。あなた個人の軌跡を起こす自分本来の権利をあなた自身も利用していただきたいのである。
幸福の秘訣は、不幸の秘訣と同様、簡単なものである。すべては、魂と理性が一致するか、対立するかという事にある。人は年をとるにつれて、魂と理性の対立も大きくなる。理性はコマの影響に屈し、魂は不幸になっていく。子供のころ、魂には玩具をもらえるという希望があったのだが、歳とともにその希望は消えて行く。理性は、夢が達成困難であるという確信をますます強くし、夢の実現をあとに伸ばす。一生延期することが普通である。人生が終わろうとするのに、夢はほこりをかぶった箱の中にしまい込まれたままとなる。
魂と理性の一致を達成するためには、それを何で達成すべきか、つまり自分の目的を何にするのかまず特定する必要がある。そんなことは当たり前と思うかもしれないが、これは決して些細な問題ではない。人々は何を欲していないかについては正確に知っているのに、自分の本当の望みとなると、きちんと説明することが難しいからである。そのわけは、コマが人々を自分の利益に従わせ、人々に偽りの目的を押し付けようとしていることで説明がつく。理性が魅惑的に見える蜃気楼の後を追いかけようとしているのに、魂は全く別の方向を向いているとしたら、魂と理性の一致などありえるわけはない。
加えて、人々はコマのための様々な仕事で多忙を極め、気苦労も多く、ただ単に腰を落ち着けて穏やかな気持ちで自分の本当の望みについて考えるという事すらできない。特別に時間を割き、子供のころ、自分の魂は何を求めていたか思い出す必要がある。自分の魂は何を気に入っていたのか。何を欲していたのか。何に心を奪われていたのか。時間の経過とともに何を断念せざるを得なかったのか。昔のあなたの目的が依然として魅力的なのか、自問してみよう。本当に何がしたいのか、考えてみよう。その目的は偽りのものではないだろうか。本当にあなたはその目的を頃の底から望んでいるのだろうか。それとも、それを望む行為そのものをしたいだけなのか。

〇魂は無邪気に小さな両手を差し出しながら、この世界に降りてくる。しかし、世界はコマに乗っ取られ、無情のジャングルに変えられていたのである。コマはすぐに魂にこう吹き込む。この世界では魂の到着をだれも待ち望んでおらず、肝心が日の当たる場所を求めて戦わなければならず、コマのいう事に従わなければならないと。純真であるがままの魂が、身の程をわきまえるようにさせる。魂にはこうも吹き込まれる。魂の望みにはだれも興味がなく、世界には喜びより苦しみが多く、祭りの日は限られていて、パン一切れのために忍耐強く労働しなければならないと。だれもがうなだれ、気分は塞ぎ、目には涙をためている。あるいは、憤慨して胸が張り裂けそうになる。これは間違っている、不公平だ、怒りで毛が逆立つ思いだ。魂にとっての選択肢は、次のうちのどちらか一つしかなさそうである。それは、コマに押し付けられた道をうつむいてぼとぼと歩くか、または、自分のものを得ようと向こう見ずにもがくかである。
人の理性は、精神面でも、感情面でも、エネルギー面でも、すべてにおいてコマに乗っ取られている。人が持っているおなじみの世界観や行動上の反応は、まさしくコマによって形成されたものである。人は、コマに有利になるように思考し行動する。魂は理性の後に続いて制約で出来た箱に入り込む。制約は文字通りどこにでも現れる。人は多くの制約を我慢しつつ、コマから押しけられたゲームの中でその人に割り当てられた役割を果たさなければならない。こうした条件下で、魂は次第に後退していき、理性が権力を握るようになる。
理性は魂を浅はかな小さい赤ん坊として教えたとする。「何をすべきか、私はお前より良く知っている。お前のたどたどしい言葉はちっとも要領を得ない」大半の人々の魂は、隅っこに身を潜め、無鉄砲な理性がやらかすことを悲しそうに眺めている。恐れおののき権利を失った存在になっている。時々、魂と理性が一致する瞬間が訪れることもある。そのような時、魂はウキウキし、理性は満足そうにもみてをする。だが、これはまれにしか起こらない。頻繁に起こるのは、魂と理性が、拒絶、恐怖、憎悪に置いて一致することである。
魂は選択についての問題では発言権を封じられている。理性は、魂に対して、店で気に入ったおもちゃを買ってくれと駄々をこねる幼児に対するかのように接する。通常、理性の返事は杓子定規なものである「それを買うお金もがない」。こうして夢は芽が出た時点で摘み取られてしまう。
何が起こっているか見てみよう。子供にはおもちゃが今必要である。もし子供におもちゃを買ってあげる余裕があなたに本当にないならば、子供の頼みを断ることも仕方ない、魂は持ってもいいと言っているのだから、けれども、理性はむやみやたらにダメだと言っている。「うちにはお金がない」そうして夢は根本的に手の届かないものとなっていく。
理性にはコマから押し付けられた理屈がある。その理屈によって信望者たちを押さえつけ、彼らに夢を選択する自由さえ与えないで置くことが、コマの利益につながっている。魂に理屈などというものは全くなく、すべてをあるがままに理解する。理性はお金がないと念を押す。だが、魂はお金ではなくおもちゃを欲しいと言っているのである。理性はお金がないという事にかこつけて、おもちゃを禁じるので、魂は希望を失い、自分の中に閉じこもり、おもちゃのことはそれ以上持ち出さない、こうして夢は葬られてしまう。
理性は夢をどうすれば実現できるか想像がつかず、自分の世界の層にそれを入れようとしない。人生ではあらゆることが論理的で理解可能なものでなくてはならいからである。じつは、おもちゃを手に入れることに同意してあげるだけでよかった。そうすれば、玩具を買うお金については、魂の意図が工面してくれただろうに。しかし、コマによって形成された通常の世界観では、そんな奇跡が起こることなど認めることはできない。信奉者たちが選択の自由を持つことは、どうししてもコマの利益にかなわないのである。
人は合理的な世界観をゆるぎない法則として間違って理解している。けれども、この法則はインチキであり、叩き壊することが出来る。私たちの人生ではしばしば説明のつかない奇跡が起こる。奇跡のうちの一つくらいは自分の人生で追ってもよいのにと、なぜ思わないのか。魂が欲することを、思い切って所有しようとするだけでよい。もしあなたが、偏見や規制というコマから仕掛けられた蜘蛛の巣を取り払い、自分は夢をつかむに値すると心から信じ、望むものを思い切って手に入れようとしたら、あなたはそれを受け取るだろう。思い切って所有しようとすることは、願望が実現するための主な条件なのである。

〇理性が魂と関係調整することを阻んでいるのは何だろう。矢原それはお馴染みの重要性とコマである。この二つは人々に偽りの目的と価値観を押し付ける。これまで見てきたように、まさにコマが、美しさ、成功、幸福などの基準を設定する。内的重要性と外的重要性は、コマが設定した基準と照らし合わせることを人に強いる。そうするとと当然のことながら、理性は山のように欠点を見つけ出し、自分を、つまり魂を、猛然と憎み始める。理性は、コマが設定した基準にフレイルを追い込もうとして、ありとあらゆる仮面を被る。しかし、そんなことをしても何も良いことは起こらない。結局、魂と理性の葛藤は一層深刻化する。これでは魂の快適な状態などありえない。理性は自分のバラの花に文句と不満しか与えないから、バラはますますしおれるばかりである。
理性は好きな所へ出かけ、宝石を探そうとするが、自分の魂のところで探してみようとは思わない。コマは大声を出してしつこく誘惑する一方、魂はおどおどと消え入りそうな声で、自分の能力や好みを伝えようとする。理性は魂の声を聞こうとは市内委で、フレイルを作り替えようと努力する。当然、こうしても何も良いことにはならない。結局魂と理性は表面上は未完成に見える自分を受け入れないという点で一致する。すると直ちに魂の意図は、自分自身への拒絶が一層深刻化している人生ラインへとその人を運んでいく。そこでは未完成ぶりが文字通りの意味で物質化されることになる。
もし修正用の仮面を被ったら、定められた基準に合致できるだろうと理性は考える。ご承知のように、これは蜃気楼を追いかけるような意味の無い試みである。自分自身の基調で独創性なフレイルを利用する代わりに、他人の成功を追い求めようとして、わけもわからずガラス窓に衝突する。スターの成功は、本人の理性を魂のフレイルにぴったり同調させたことによって成し遂げられたのである。蜃気楼を追い求めるのは何も得られず、自分への不満感をますます募らせるだけである。人は、自分への不満を口にしていると、自分自身に満足している人生ラインへは決してたどり着けない。その人の思考放射のパラメーターが、不満の原因がもっとたくさん転がっているような人生ラインに丁度合致しているからである。
このような意味の無いゲームを人々に押し付けているのがコマである。しかしコマにとって、このゲームは大きな意味がある。なぜなら、不平や不満はコマが大好きなエネルギーだからである。
理性を魂のフレイルに同調させるには、どうすればよいのだろうか。唯一の方法は、愛する価値が何よりもまず自分の魂にあるという事を理性に納得させることである。まず、自分を愛する必要があり、他人の長所に注意を向けるのはその次である。自分への愛を、利己主義、うぬぼれ、自己満足などと混同してはならない。自己満足は、自分を他人の上に持ち上げることで生まれ、最も危険な過剰ポテンシャルを発生させる。自分を愛するとは、自分の独自性を理解し、すべての短所とともに自分をあるがままに受け入れることである。あなた自身への愛には、どんな条件も付けてはならない。さもないと、それは過剰ポテンシャルに変質してしまうからである。まさかあなたには、自分で自分を愛する価値すらないわけではあるまい。なぜなら、あなたは唯一無二の存在なのだから。
もし人が自分のフレイルと度を越した戦いをしてしまったら、その人にとって自分を愛することが非常に困難になる。「自分を気に入らないのに、どうやって自分を愛すればいいのだろう」この点について、理性の立場はどんなものか見てみよう。「もし私が自分を気に入っているのなら、自分を愛する」という事である。これは、内的重要性や外的重要性が高められたことによって作られた、もっとも純粋な過剰ポテンシャルである。この場合の外的重要性は、誰かによって設定された基準が自分にとってゆるぎない真理となっている点にある。あなたは他人の長所をあまりにも過大に評価していなかっただろうか。内的重要性は、他人の基準を追いかけることを自分自身に強いる点にある。他人に比べてあなたが劣るなどとだれが言ったのか。あなたはあなたなのである。あなたはあまりにも低すぎる自己評価を行っていたのではないだろうか。
自分を愛するためには、高所に祭ってある重要性を引きずり下ろし、他人の基準を賛美することをやめよう。自分自身の基準を設けることを誰も禁じていない。他人にあなたの基準を追いかけてもらったらよい。自分の内的重要性を振り払い、自分を解放するのである。他人の基準に合わせたり追いかけたりする義務はあなたにはない。重要性はあなたではなくコマにとって必要なのだという事を、いつもはっきりと理解しておこう。理性伝体で自分の魂を愛すれば、魂の意図があなたを自分に完全に満足する人生ラインへと運んで行ってくれる。もし、あなたが万難を排して自分を気に入るように持っていくと、それに惑わされた魂の意図が作用して、思いもしなかったような長所を発見することになるだろう。あなたから放射される思考エネルギーに自分への満足感が含まれているのなら、魂の意図はあなたをつかみ上げ、実際にしかるべきところにある人生ラインへと運んで行ってくれる。
戒めの一つに、「あなたの隣人をあなた自身の如くに愛しなさい」というのがある。誰もがなぜか隣人を愛する必要性に注意を向ける。しかし、この戒めでは自分自身への愛は最初から存在するものとして理解されている、コマから押し付けられたゲームをやめて、今日から自分を愛そう。大好きなご馳走を買って来て、宴を催そう。自分についてあれこれと心配りをしよう。誰かが底意地悪く、「自分の弱点や悪い癖を助長することになるんじゃないか」というかもしれない。それはコマによる扇動だから、そういうことを口にする人たちと言い争っても始まらない。自分への愛とは何を意味するのか、あなた自身は理解している。人間が持つ弱点や悪い癖は、やはりコマによって誘導されたものなのである。

〇亜空間にあるセクターはパラメーターという一定の特徴を持っていることについて触れてきた。わかり易くするため、この特徴を周波数とみなしてみよう。もし魂と理性が一体化した際のあなたの思考放射の周波数とする。もし魂と理性が一体化した際のあなたの思考放射の周波数が、特定のセクターの周波数と合致すると、魂の意図の力が人生ラインの乗り換えを実現させる。言い換えると、このセクターのシナリオと舞台装置はあなたの世界の層で物質化されることになる。各人の魂は、個人としての独自なパラメーターの組み合わせを持っている。それをフレイルと呼ぶことにする。このモデルを単純化するために、人間の魂のフレイルをその人の特徴的な周波数としよう。雪の結晶の形が一つ一つ異なり、同じものはないように、ある人の魂のフレイルも他の人のそれとは異なる。フレイルは人の魂の個人としての本質を特徴づける。
この定義をこれ以上深く掘り下げても意味はない。なぜならフレイルが一体何か推察することは出来るが、フレイルははっきりとは現れないからである。だれでも多かれ少なかれ被っている仮面の下に、フレイルは隠れているのである。唯一無二の個人的本質は私たちのだれにでも備わっていることに議論の余地は無い。知り合いの性格、癖、しぐさ、風貌などをあなたは言葉で表現出来るだろうが、そうしたすべての特徴の背後には言葉なしに理解している一つの統合された姿がある。言葉なしに理解されるそうした個人的な本質のことをこれもフレイルと名付けることにしよう。
おそらくあなたには、説明できない魅力を持った人と出会ったことがあるだろう。驚くべきことに、そのような人は見栄えのしない容姿ですらある。しかし、ちょっと話始めると、あなたはすぐに容姿のことなど忘れ、その人の魅力にすっかり心を奪われてしまう。魅力の秘密はどこにあるかという質問をすれば「あの人には何かがある…」とつぶやくだけで、ほかに説明のしようがない。このような魅力を持つ人とはめったにお目にかかれない。あなたの周りに居なかったら、ショービジネス界のスターたちの中で探してみよう。こうした個性の顕著な特徴は、魂の奥底からやってくる他を圧倒する美しさと魅力なのである。これは人形のような美しさとは違うから、あなたはすぐに見分けられるだろう。人形のような美しさとは、世間一般に認められた美の基準が求めるものに表面的に適合しているだけのことである。
さて、フレイルの観点からすれば、魅力的な美の秘密は、人が魂の美しさを持っているとか、何か特別な魂の資質を持っているという事にあるのではない。事象選択のもう一つの逆説的な結論を受け入れるしかない。つまり、魂の美しさなどは存在せず、あるのは魂と理性の調和の取れた関係だけである。
もし人が自分で自分を相手はおらず、自分に不満を持ち、好きでもないことに従事しているとしたら、あるいはもしその人の理性が動揺していて、魂と不和になっているとしたら、その人は魅力的な美しさを持つことが出来ない。魂と理性の葛藤は必ず本人の表面や正確に反映される。人が自分に満足し、自分を愛していて、喜びに包まれて暮らし、好きなことに従事しているのであれば、その人の内側から光が出てくるかのようになる。これは、理性が魂のフレイルに同調したことを意味する。
魂と理性の一致は、人の思考エネルギーを魂の意図の本質部分と同一化させる。自分に満足している状態や魂と理性の調和の取れた関係も、似たようなものを生み出す。魂の快適な状態は、内面に火をともし、それが魂に自分の本質を思い出させる。だから、魂と理性の関係が調和している美しさは、魅力とか魂の美しさとして人々がら感じ取られるのである。このような美しさは、ひそかな羨望さえも引き起こす。「あなた、全身で華やいじゃって、どうしたの」
理性が魂を息の詰まるような箱に入れたりしないで、反対に、魂を温室のバラのようにかわいがり、うっとり眺め、あれこれ世話を焼き、花弁一枚一枚が思う存分開くようにさせてあげると、魂は快適な気分を味わう。これは、幸せと呼ばれるまれなケースである。
趣味や遊び事など好きで喜んで行う事なら何を行っているときでも、フレイルは現れる。反対に、フレイルの弦が長い間沈黙していることもある。また、時々、何らかの兆候が弦を鳴らすこともある。それはおそらく不意に投げかけられた言葉がなぜか心に刻み込まれたときだろう。見かけたことが特別な磁力でも帯びているかのようにすぐに魂を引き付けることもある。漠然と意識されている憧れは幾度となく現れてくる。それは魂の意図に働きかける。しかし、それは魂の漠然とした憧れなので、魂の意図もハッキリした目的を目ざして働くのではない。魂の求めるところを理性が受け止めるためには、それに耳を傾ける必要がある。そうすれば、魂の意図をとらえ、すぐに臨むものを受け取ることが出来る。

〇コマが重要性と無意識性を利用して支配権を握っていることは、すでにご承知のとおりである。人はコマからの挑発に無意識に反応する。人は機械的に、不安、恐怖、いら立ちなどに屈し、習慣的に不満や恨みを口にし、いとも簡単に憂鬱にとらわれ、障害によって全身を緊張させる。人は、コマかから押し付けられたシナリオに従いながら、まるで夢でも見ているようにして暮らす。人はシナリオを自分でコントロールできる事など考えつかない。人は自分に出来ることはほとんどないと思っている。人をコマにゲームへと引き入れるのは重要性であるが、何とかしてシナリオに影響を与えようとする最後のチャンスを奪い取るのは無意識性である。こうしてゲームはコマの決まりによって進められることになる。
お気づきのように、私は同じことを何度も繰り返さざるを得ない。なぜなら、これほど明白なことにもかかわらず、今まで述べてきたことの意味をしっかりと把握し、肌で感じることは難しいからなのである。コマによって形作られたおなじみの世界観というものが、どれほど深く私たちの意識に根付いていることか。もし事象選択の原則に従うなら、あなたは制約という箱の中から脱出することが出来るだろう。コマの支配権は強力ではあるが、もしあなたが重要性を断ち切り、シナリオを選択・決定するという自分の権利を意識して行使すれば、コマは邪魔することが出来ないだろう。
コマにとっては人々を支配下に置いて置くことが有益なのである。コマは自分の目的だけを追いかけるが、人はコマにとっての道具、手段、操り人形にすぎないのである。あなたの魂は喜びを求めてこの世界に来たのだから、魂がそうすることを認めてあげよう。あなたとは縁のないコマのための仕事に一生を捧げるか、それとも自分の喜びを得る方を選択するのなら、あなたの自由を拘束しているコマから解放され、あなたの目的とあなたの扉を見つけなくてはならない。
あなたの理性は、あなたが破壊的コマの言いなりになるべきでは無いことを理解ししてくれるはずである。魂と理性を結び付けたら、あなたは、直接的にも間接的にも、魂にかなうもの全てを受け取ることだろう。コマから解放されて、魂と理性の葛藤を解消すればいいのである。自分が最も素晴らしいものに値するということを思い切って認めてあげよう。
もし誰かから、あなたはほかの誰かが、何かの幸せのために苦労する義務があると吹き込まれても、信じてはいけない。もしこの世界にあるすべては粘り強い努力によつて獲得されることを理路整然と説明されても、信じてはいけない。もし日の当たる場所を求めての過酷な戦いを押し付けられそうになっても、信じてはいけない。もし、もし身の程をわきまえるようにと言われても、信じてはいけない。もし「全体へのあなたの貢献」が必要とされているセクトや組織に引き込まれそうになっても、信じてはいけない。もし、貧しい環境で生まれたのだから一生そのように生きていかなければならないと言われても、信じてはいけない。もしあなたの可能性には限界があると言い聞かされても、信じてはいけない。
コマはそんなに簡単にはあなたを放っておいてはくれないことを覚悟しておこう。所有する決意があなたに芽生え生きた途端、コマは、あなたの可能性が限られている事を思い知らせる状況を設定する。自分がゲームのシナリオを選択・決定することはできるのだとあなたが感じ始めた途端、コマはあなたの計画を叩き壊しにかかる。あなたが安らぎや自信を感じ始めた途端、コマはあなたの感情を刺激しにかかる。挑発に挫けたり、自分のバランスを崩したりして背景。自分の抱えている重要性を最低レベルに引き下げた状態を維持し、意識して行動しよう。あなたに求められていることは、努力でも忍耐でもなく、重要性をゼロに維持しようと意識的に意図することだけである。
このゲームであなたの可能性を限定するのは、自分自身の意図だけである。コマの可能性を限定するのは、あなたの重要性亜や意識性のレベルだけである。次のことを思い出しておこう。もし私が空っぽの状態なら、コマは私につかみかかることが出来ない。もし私がゲームの意味を認識しているならば、コマは私にシナリオを押し付けることは出来ない。もしコマによってあなたが悲しんだり、怒ったり、バランスを崩したりしたら、どこであなたは重要性のレベルを高めてしまったか、周りを見回して、探してみよう。
バランスを崩した原因となるものへのあなたの対応を変えてみよう。重要性を必要とするのは、あなたではなくコマであることを認識しよう。魂を入れる箱はあなたの重要性でできている。どんなものにも過度に重要な異議を与えないようにしよう。執着することなく、穏やかな気持ちで自分のものを取ってよう。それがまだ手に入らないうちは、異議を与えてはならない。コマをあなたががっかりすることだけを期待していのである。もしあなたが何かに怒ったら、重要性を振り払おう。これはコマのゲームに過ぎないのだとはっきり理解しよう。まさにゲームであって、戦闘ではない。なぜなら本質的にコマとは、泥でできたでくの棒のようなものだからである。
そのゲームは残酷であり、人間の弱みに付け込むようにつくられている。重要性に付け込まれたら、すぐに負けてしまう。しかし、重要性がゼロであれば、コマは空を掴んで崩れ落ちる。泥でできたでくの坊は消え失せる。ゲームの決まりを知っているという意識によって、あなたは力を得ることになる。コマがあなたにつかみかかり、バランスを崩そうとしていることに気付いたら、すぐに苦笑いを浮かべ、強い意思をもって重要性を振り払らおう。こうしたことが少しずつ習慣となってくる。ここまでくれば、あなたは自分の力を実感し、自分自身でゲームのシナリオを決められることを理解するだろう。コマとのゲームで勝利を手にしたあなたは、選択の自由を受け取ることになる。

〇あなたの魂は目を大きく見開き、希望と信頼に満ち満ちて、この世界にやってきた。ところが、すぐにコマは魂を服従させると、こう吹き込む。この世界では誰も魂の到来を待ち望んではおらず、楽しい事は何もなく、パンひとかけらのためにつらくて汚れた仕事をしなければならないのだと。もちろん全員が貧しい状況で生まれてきたわけではないが、富める者には富めるものなりの別の問題がある。コマの世界では、富める者も貧しい者に劣らず苦しむのである。
あなたの魂は苦しむためにこの物質世界にやってきたわけではない。しかし、この世界では日の当たる場所を求めての戦いがノルマとなる。それは、コマにとって好都合なのである。御承知のように、人間集団の全体的な理念や行動によって生み出されるコマは、エネルギー情報体の規則に従って独立して歩み始める。エネルギー情報の交換という手段によって、コマは自分の信奉者たちを自分の意思に服従させ、自分の利益のために思考させたり行動させたりする。人々が、不満、苛立ち、怒り、不安、恐怖などの感情を表したり、コマ同士の戦いに参加したりすると、コマにエネルギーを渡すことになる。
抑圧、敵意、競争、戦争、その他多くのせめぎ合いが繰り広げられているコマの世界で生きることにの、私たちは慣れっこになってしまった。このような状態は異常であり、ほかの姿があり得るバスだという事さえ、私たちは思いつかない。コマモデルという観点からこの世界を眺め、コマたちによりるエネルギーへのあくなき欲望らか起因するすべての現象を思い出し、もし世界が駒から解放されたら、どういう姿になるのかイメージして見よう。もしエネルギー情報のやり取りがなくなるとしたら、他人のエネルギー奪おうとしたら、競争を生み出そうとする構造が存在しないことになる。想像しにくいことかもしれないが、そのような世界ならば、幸せがあふれ、苦しみは少ないはずと自信をもって断言できる。そのような世界では、自然の恵みやチャンスは全員に行き渡ることだろう。
生存競争や自然淘汰は生活を向上させるための必要かつ正常なプロセスであると、私たちは吹き込まれてきた。確かにそうしたプロセスは実際に世界の発展に貢献してきたが、それは攻撃的な側面についてである。しかしながら、自然淘汰は決して生活向上の必須条件ではない。私たちの生活は、もっと人道的な法則によってでも発展可能であろう。
コマの世界における自然淘汰は、ネガティブなシナリオによつて進展し、劣っている方が消え去る事になる。抑圧と根絶という方法を用いて淘汰が行われる。では、ポジティブなシナリオがどんなもになるか、あなたは思い描くことが出来ただろうか。ポジティブなシナリオによれば、優れた方が生き延びるのである。以上述べた二つのシナリオは、その方向性により、ネガ・フィルムとポジ・フィルムほどの違いを持っている。自然淘汰ではどちらのシナリオも影響を及ぼしている。この点については議論の余地があるかもしれない。そうはいっても、その圧倒的な要因となっているのは、劣っている方が消え去るというネガティブなシナリオの方だ。いずれにせよ人間界では、自然界よりもすっと残酷な秩序をコマが定めている。
自然界における生存競争は、人間界と比べて、それほど残酷で攻撃的な性質のものではない。人間が生み出したコマは、自然界に存在するコマよりもかなり強力で好戦的である。自然界で常に生き物が別の生き物のを食べているが、これは自然界では日常的に戦争が繰り広げられていることを意味するわけではない。草食獣が草を食べるという概念がないため、バランスは破られない。重要性は人間だけが持っている特徴である。重要性にとりつかれた狭い観点から自然界の現象を観察すると、人間は生物の正常な共存を残酷な戦いとして解釈してしまうのである。
動物界で繰り広げられている縄張り争いや結婚相手をめぐる熾烈な攻防ですら、人間界で常時行われている戦争に比べたら、名ばかりのかわいらしいものである。動物同士の戦いでは、それが狩りでなければ、身体を傷つけ合う事は滅多にない。大半の喧嘩では、大声で吠えたり、恐ろしい形相で歯をむき出した方が勝つ。では、もし血が流れるような喧嘩になったらどうなるかというと、手の早い方が勝つのは仕方がないことである。動物は恨みや憎しみという感情を持ち合わせていない。勇気や臆病といった感情もない。あるのは自己保存の本能だけである。勇敢な狼や小心者のウサギは、人間の想像力の中だけで存在する。
私たちは、この世界を変えることがどうしてもできない。私たちにとってどうしようもない事とは折り合いをつけるしかない。たくさんの制約や約束事は、文字通り魂を箱に閉じ込めてしまう。制約や約束事で頭がいっぱいの理性は、魂を見張るる看守となり、魂が能力を発揮することを許さない。人はコマの世界が要求してくる通りに振る舞うしかない。それはつまり、不満を表す、苛立つ、心配する。競争する、戦うという事である。人の振る舞いや思考は、コマへの依存度によって決まってくる。すでに述べたように、こうした制約は人からエネルギーを奪い、人に対する平衡力を起こし、偽りの目的へと導く。挙句の果てに、魂の意図が最悪の予感を現実化しようとして作用する。このような制約や依存関係から解放されたとしたら、人は嬉しいに違いないであろうがどうすれば解放されるのかがわからない。

〇人の魂は守護天使が守ってくれていると、多くの人々が信じている。もしあなたが自分の守護天使を信じているのなら、それはとても結構なことである。これはつまり守護天使は存在するという事になる。あなたは守護天使について考え、期待し、感謝する。こうした思考が守護天使をリアルなものとし、その存在に疑念をさしはさむことが出来ない。亜空間には全てがある。もし想念が独立したエネルギー情報体を作り上げるという考え方があなたにとって好都合なら、そう考えることも可能である。あなたが守護天使を心から愛し、どんな些細なことに対しても感謝を示すと、守護天使の存在は確固たるものとなり、それによって彼らはますます大きな支援の手をあなたに差し伸べるようになるだろう。結局のところ、守護天使が独立して存在するのか、それともあなたの想念によって作り上げられたのはは、大した問題ではなくなってくる。
では、もし守護天使を信じないとしたら、それによって悪いことは何も怒らない。信じない方があなたにとって心安らぐのであれば、それはそれで全ては平穏無事である。つまり、信じるものを受け取るという事である。私があなたの立場だったら、信じることにするだろう。ひょっとしたらあなたが信じるかどうかとは関係無く、守護天使が存在していて、あなたをいとおしく思い、出来るかぎり心配してくれるのに、あなたのほうは、守護天使のことを忘れ、放っているのかもしれない。守護天使にはあなたからの愛が足りないため、次第に弱っていき、エネルギー不足になり、自分が保護すべき人を助けてあげられなくなる。その一方で、あなたは自分のエネルギーを様々な破壊的コマたちに分け与えている。コマたちもあなたを助けてくれる場合があるだろうが、それはそうすることがコマの利益にかなうからである。本来は、破壊的コマにとって、だれかの個人的幸福などどうでもよいことである。しかし、あなたの守護天使は、あなただけを心配してくれる。
守護天使の姿は好きなようにイメージしてかまわない。翼をもった赤ん坊、雲、鳥など何でも構わない。姿は重要なことではない。どうやら守護天使は人に姿が見えるものらしい。守護天使の姿を創造してあげるのはあなたである。だから、好きなように思い描いていい。守護天使を自分の魂と同一視する事もできる。超能力がなくても、心配には及ばない。守護天使は、何らかの方法で、あなたを真実の道へと導く手段を見つけるだろう。肝心なのは守護天使を決して侮辱したりしないことまして、腹を立てるなどはもってのほかである。守護天使は、何からあなたを守りどこへ導くべきかを良く知っている。なぜなら、守護天使から見ると、あなたは無分別な子猫のようなものだからである。守護天使を非難してはならない、守護天使が一体どのような災難からあなたを守ろうとするのかについて、あなたは全然知らないからである。
天国で神様と出会った人間についてのこんな寓話がある。神様は人間にこれまで歩んできた人生の道筋を見せてあげた。そこについている足跡からすると、いつも神様が並んで歩いていたことは明らかだった。そこで人間は自分の人生で最も苦しかったところに視線を向けた。しかし、そこには一人分の足跡しかなかった。人間は神様の方を向くと、非難めいた口調でこう言った。「なんという事でしょう。私が苦しかった時、あなたは私を置き去りにされたのですか」これに対し、神様は次のように答えた。「誤解じゃよ。あれはお前さんの足跡ではない。お前さんを両手で抱き上げて運んだ私の足跡じゃ」
守護天使の役割をいくら高く評価してもし過ぎることはない。あなたのことを心配してくれて、できる限り守ってくれる存在がいるという事を認識するだけで、ますます自信が溢れてくる。自信は心の安らぎを生み出し、人間の人生において非常に大きな役割を果たす。もしあなたが独りぼっちでも、守護天使と孤独を分かち合える。あなたの喜びも悲しみも、やはり簡単に守護天使と分かち合える。ところで、守護天使にはほかにすばらしい資質が一つある。それをあなたは利用することが出来る。それは、守護天使はあなたと違って平衡力の作用を受けることがない、というものである。
何か個人的にうまくいったことがあるなら、自分をほめてあげて、誇らしく思もおう。これはとても良いことである。自分を叱るよりは、誉め過ぎる方がまだいい。しかし、自分を誉める際に、たとえ小さくても過剰ポテンシャルを作ってしまってはいけない。せっかくあなたの魂が喜び、はしゃいでいるのに、平衡力のせいで台無しになってしまうからである。あなたが自分自身を過剰を誉めると、それに続いてあなたは失敗をしたり、忌々しい出来事に見回ることになる。だから成功ををこっそり喜ぶことも怖くてできなくなるとしたら、いったいどうすればいいのだろう。
過剰ポテンシャルを作らずに喜びや誇らしい気持ちに浸ることのできる方法が一つある。自分の喜びやほこりを守護天使と分かち合う事である。守護天使はあなたのことを心配し、助けてくれるのだから、あなたから褒められ感謝されるに値する働きをしてるのである。あなたが自分の成功で喜んだり誇らしく思ったりするときは、守護天使のことも思い出して、一緒に喜ぼう。言葉も交わしてみよう。自分への讃辞や感謝の気持ちを守護天使に譲り渡そう。自分を誉める以上に守護天使を誉めてあげよう。形だけそうするのではなく、褒めたたえてもらう権利を心から譲り渡そう。そうしてもあなたが失うものは何もない。自分の分はすでに受け取ったのだから、今度は守護天使を誉めてあげて、感謝するべきである。
あなたの成功は守護天使による功績と考えていただきたい。そうする事で何が起こるだろう。誇らしい気持ちから発生したあなたの過剰ポテンシャルは、徐々に散って行くのである。そして、あなたは余計な心配をすることなく、楽しい気分でいられる。思う存分喜びに浸ろう。喜びは自分に残し、誇りは守護天使に残し、誇りは守護天使に譲ろう。そうしても、誰もあなたの功績を奪ったりしない。
他らしい気持ちから過剰ポテンシャルを発生させたり、あなたを幸せにしてくれたコマに感謝する代わりに、誉め言葉と感謝の気持ちを守護天使に譲ろう。守護天使はあなたにエネルギーをねだったりはしないが、エネルギー必要としている。もしあなたが、コマから助けてもらったと思うなら、コマにも感謝することは出来るし、そうしたとこで誰にも害はない。そうはいっても、コマはいつもあなたからエネルギーの一部を当然のように奪っている。コマは決してただでは何もくれないのである。守護天使のことだけは、忘れてはいけない。いつも守護天使に感謝し、愛していると告げよう。守護天使は力強さを増し、あなたに何倍ものお返しをしてくれるだろう。

〇あなたが誰かを模倣するという無益な試みをやめたら、すべてはうまくいく。他人のシナリオを追いかけるという無益な試みを辞めたら、やはりすべてはうまくいく、自分の個性の素晴らしたをあなた自身が認めるようになったら、他人もそれを認めないわけにはいかなくなるだろう。思い切って自分のすばらしさを所有しようとしてみよう。
名優と呼ばれる人々は、自分を演じている。奇妙に聞こえるかもしれない。その時々で様々な役割を演じているのにと、思われるだろう。しかし、同じ人間の人格、性格、魅力というものは、すぐに感じられるものなのである。一番難しい役は、自分自身を演じること、すなわち仮面を取り去り、思い切ってありのままの自分になることである。他人の人格を演じることはやさしい。なぜなら、仮面を被る方がずっと簡単だからである。しかし、これは俳優の演技のことであり、プロの技量の話である。それにしても、仮面をとることはずっと難しいように思われるだろう。しかし、もしそうすることが出来たなら、それは演技などではなく、人生そのものが舞台上で繰り広げられることになる。
ここで難しそうに思われるのは表面上だけのことで、実際自分自信を演じようと決めるのはとても簡単なことである。そのためには、コマから押し付けられた固定観念を振り払い、自分の魂の無限の可能性を受け入れて信じるだけなのである。もしあなたが他人の経験をかなぐり捨て、思い切ってスターになろうとすれば、コマはあなたを邪魔することが出来ない。コマが出来ることは、気分が滅入るような考えをあなたに吹き込むことくらいである。
実際に、歌謡界、学界、スポーツ界、実業界などで活躍しているトップに立つ人たちを見てみよう。彼らの全部とまで言わなくとも、その多くが、こうあるべきと世間一般で考えられているような基準やイメージをほとんど満たしていないのである。それぞれのスターにはたくさんの欠点があるのだが、長所がそれらを見えなくしている。例を挙げてみよう。このスターの鼻は長すぎるのに、美女とされている。こちらは声が良くないのに、みんなはその歌声に酔いしれる。この女優にはまるで素質がなく、どの監督からもお払い箱にされたのに、どうにかしてスターの仲間入れを果たした。この俳優は背が低くて太っているのに、女性ファンに持てるのは、何かいいところがあるのか。こいつは何の変哲もないくせに、いったい奴のどこがいいのか。そこの風采のあがらない男が、本当にあいつ本人なのか。
どうやら個性は「私のようにやってごらん」というコマの手口とはなじまない。なぜなら、まさにこの事実こそが、スター誕生の必須条件なのだから。固定観念は依然として色濃く残っているだろうが、そんな中で明確な個性がコマに手口を打ち破るから、コマはこのケースを例外と認めざるを得なくなる。スターたちはみな、例外のケースである。そして、あなたの場合も、一般的な固定観念からすれば、例外となることだろう。
持ち前の歌唱力がありながら、人知れずむなしく生きていくこともある。または、歌は下手でも、独特なしぐさでみんなを夢中にさせることもある。光り輝く知的才能がありながら、何も達成せずに終わることもある。または、とんでもないアイデアに頑固にしがみついていた哀れな劣等生が、ついには衝撃的な発見をすることもある。ずば抜けた身体能力に恵まれているのに、スポーツ界のスターにならないこともある。または、一般的な固定観念をあえて打ち砕き、フィールドで意外性のあるプレーをして勝者となるものもいる。固定観念を打ち破った人々のリストをこれ以上読み上げることはやめておこう。趣旨はお判りいただけたと思う。思い切って理性を時分の唯一無二の魂に振り向けてみよう。コマが植え付けた固定観念を打ち砕くことを恐れてはならない。

〇コマからの影響を特に強く受けやすいのは未成年者たちである。なぜなら、彼らはこの世界でまだ日が浅く、成すべきことや身の処し方を知らないからである。群衆に交じり、あまり目だったりせず、みんなと同じように暮らす方が簡単で確かで間違いがないと思う。群棲本能は危険を知らせてくれるが、個性の目を根本から摘み取っててしまう。若者たちの多くが同じような服装をし、同じような言葉づかいで、全く同じように振る舞う。表面上は独自性や独立性をきらびやかに装っているにもかかわらず、若者たちは「私のようにやってごらん」というコマの手口に従順に従っているだけなのである。彼自身は、新世代のモダニズムを体現しているつもりだろうが、彼らのうち、いったい誰が新機軸を打ち出してくれるだろう。
未成年者たちのリーダーや、または離反者でもよいだろうが、そういう役割になることが出来るのは、独自の資質を表すことを自分の魂に認めてあげたごく少数である。こうした人格を持つ若者たちは、自分の個性を発達させながら、後ろに、流行の発信者となったり、方向性を与えるような手本を示したり、新しい潮流を生み出したり、新たな展望や可能性を切り開いたりする。彼らは他人の模倣をせず、コマの決まりにも屈することなく、思い切って自分の魂の特質を具現化しようとする。コマにとっては人の個性が耐えられないものなのだが、今まさに登ろうとしているスターについては、自分のお気に入りと認定する以外に何もできない。コマにはこうしたお気に入りを高いところに祭り上げ、一般の信奉者たちが模倣するための新たな対象とするのである。
少年が彼のヒーローのように強くなりたいと思う事や、少女が彼女の好きなヒロインのように美しくなりたいと思うことは、少しも悪いことではない。しかし、あなたがに気に入った他人を模倣することだけはやってはいけない。例えば、他人と同じように、あのような筋肉質になりたいとか、あのような身のこなし方、話し方、歌い方、演じ方をしたいなどと思うことについて言っているのである。この他人をあなたが気に入ったのは、まさに彼らが自分のセクターで自分だけの長所を現実化しているからに他ならない。
もちろん何かしら最初の手本は必要だろう。それはデモンストレーション用のサンプルとしてであって、模倣のための基準や対象であってはならない。あなたの基準となるのは、あなたの魂である。魂が自分だけのセクターですべての長所を明らかにしてくれるようにすればいいのである。壁に自分の写真を張って、飽きずに見とれている方が、模倣するよりはずっといい。自分を好きになるのはとてもためになることである。自分を好きになることが自己満足に変質したり、平衡力によってあなたに罰を与えたりするのは、周囲の人間への軽蔑の気持ちを伴っている場合に限られる。
あなたは本当に唯一無二の個性を持っており、その点で誰もあなたのライバルにはなれない。ただありのままに自分になりさえすればいい。独自性という点で、あなたの右に出る者はいない。唯一無二の存在になるという自分の権利を思い出し、他人の経験のまねばかりすりる人々よりもずっと大きなメリットを受け取って頂きたい。誰かと同化しようとしても得るものは何もない。思い切ってありのままの自分になろう。実在するスターの仮面をあなたが被っても、それはコピーかパロディーである。他人を真似ても、スターにはなれない。
