〇ご承知の通り、魂の快適な状態は、どちらか一方の答えを与えることにはならない。魂は欲しいものをいつも正確に知っているとは限らないし、ためらっていることもある。もしその商品を一目見たときからあなたは気に入り、そのことをあなた自身もすぐに感じ取ったのであれば、魂の答えは「はい」である。その後、理性のスイッチが入り、選択についての分析と理由付けを始める。もし分析した結果でも、理性が「はい」というのなら、その商品はあなたのものなのである。しかし、あなたがその商品を一目見たときから気に入ったわけではなくて、その商品を買うことが目的になっているから買うと決めたのであれば、魂の不快が全くないかどうかに特別な注意を払おう。魂は、何を欲していないかについては、いつも正確に知っている。
もしあなたが躊躇してるのであれば、また、もしその商品の何かからあなたがちょっとした不安感や気詰まりを覚えるのであれば、さらにもし疑念や重苦しさが少しでも胸をよぎるのであれば、それは他人のものである。理性はあなたを説得しにかかり、優れた点を雄弁に並べ立てるだろう。もしあなたが、自分を説得していたり、スタイルやサイズが自分にぴったりだと言い聞かせていたりする自分に気付いたりしたら、そり以上執着せずにその商品を府放そう。それはあなたのものではないからである。
別の解釈を許さない選択の基準がある。それは、とても単純な言葉で表せる。つまり、も自分を説得しなくてはならないのなら、それは他人のものである。もしそれがあなたのものならば、自分を説得する必要はない。このことを、肝に銘じておいてほしい。ところで、選択する過程で、他人の意見に耳を傾ける価値はあるだろうか。私は、その必要はないと思う。あなた自身以外に誰もあなたのものを選ぶことのできる人はいない。もしあなたがそれを文句なしに気に入ったのであれば、それを手にしているあなたを見た他の人々も、喜んでくれるに違いない。
価格について、私は一つのことしか言う事が出来ない。あなたのものは、高級品店に飾られているとは限らないという事である。しかし、もし高級品店で見つけたとしても、事象選択はあなたの人生における金銭問題を解決する手伝いをする事になるだろう。もしあなたが自分の目的を定めて、お金ではなく、その目的を勝ち取ろうとするのであれば、お金は自分の方から、それもたっぷりとやってくることになる。
このように物を選ぶプロセスには主な原則がすべて含まれている。あなたは展覧会場にいるようにして、店内を歩き回り、ただ観察しよう。必ず何かを見つけるという課題を自分に課してはならない。つまり、目的を達成するという願望を断念するという事である。あなたの品物はどこかであなたを待ち受けていて、あなたは自分の品物と他人の品物とを見分けることが出来る。穏やかな気持ちでそう認識する。つまり重要性は最低レベルにある事になる。決定を下した後、すぐにあなたは目を覚まし、すべてがどのように起こったか、ハッキリと把握する。あなたは意識して行動しており、自分でゲームのシナリオを決めていることになる。あなたが最終決定を下す時には、魂の快・不快に頼ろう。
そして、間違うことはない。なぜならば、この不安定極まりない世界において、頼りになる支えがあるからである。それは魂と理性の一致である。さて、これであなたは、きついスケジュール管理をせず、自分を義務でがんじがらめにすることもせず、そして、自分の考えを頑固に押し通す事などもせずに、自分が抱えている課題を大幅に軽減し、事象の流れを信じて身を任せることになる。思い切ってそうなることを自分に認めてあげさえすれば、あなたの人生はのんびり過ごすことのできる休日となるのである。執着することなく穏やかな気持ちで、自分のものを手にするのである。
さあ、これであなたは簡単で強力な技法を手に入れた。落ち着いた気分で目指す店へと出かけることが出来る。もし何も買わなくても、それは他人のものから自分を守ったことになる。あなたは悠然と自信に満ちた振る舞いが出来る。なぜなら、あなたのものはどこかにあって、あなたを持っていてくれるからである。あなたはそれを必ず見つけるだろう。大事なことは、「買う」「買わない」を意思表示する前にを覚まし、忘れずに自分の感覚をしっかり把握する点にある。
あなたが自分のためでなく、例えば、子供のために洋服を選ぶ場合、この技法は機能しない。正確に言うと、機能することはするが、制度がそれほどではなくなるのである。あなたの魂は他人のためのものを選ぶことが出来ない。だから、子供の服を選ぶ場合は、実用性を考えて判断するしかなくなる。あるいは、子供自身に自分で選ばせる機会を与えてはどうだろう。子供は、大人と違って、自分のものを見つけることが上手である。
もちろんこの技法は、洋服選びだけにとどまらず、自分のために何かを選ぶどのような場合にも利用可能である。そんなわけで、今あなたが読んでいるこのブログがあなたのものであることを切に希望する。

〇今回は、始終コマが私たちに押し付けてくる偽りの目的と、魂が本当に向かおうとする目的の見分け方について述べよう。偽りの目的は、魅力的に見えても、あなた個人には失望以外に何ももたらしはしない。偽りの目的を追いかけても、あなたが費やした労力はコマの餌となるだけで何も得るものがないか、目的を果たしてもそれが不要な事であったと気づくかのどちらかとなる。人生というまたとないチャンスを失い、かけがえのない時間を間違いの修正に使うのは価値のある事なのか。人生は長いように見えるかもしれないが、月日は気付かぬ間に足早に過ぎていくものである。だからこそ、あなた個人の幸福をもたらすあなたの目的の見つけ方を学ぶ必要がある。
ここでは理論から始めようとは思わない。たぶんあなたはこれまでのややこしい論理的な理由付けに閉口されたことであろう。難解な表現はできるだけ優しくするよう務めたが、すべてうまくいったかどうかについてはあまり自信がない。取り上げている問題が尋常ではなく、結論はさらに衝撃的なのだから、どうしようもない。もし私が何らかの論拠を挙げないとしたら、あなたの理性は事象選択の考え方を真面目には取り合わなかったことだろう。しかし、最もややこしいところはもう超えてしまったので、ここでは応用的な性格の問題から始めよう。
自分の目的を知るための最もわかりやすく簡単な例で、能力トレーニングにもなるのは、必要な服を選ぶことである。自分に似合いそうだと思って買った服が、後になってから気に入らなくなったり、似合わなくなったり、欠点が見つかったりしたことが無かっただろうか。そうかと思えば、目にした途端に躊躇することなくすぐに買い、今日までずっと気に入っていることもあるだろう。その違いは、最初の服は他人のもので、二番目のはあなたのものという点にある。
魅力的に思われた最初の服は、他人のために縫われたものである。その服を知り合いが来ていたがマネキンに着せられていたのだろうが、他人が来て似合うからと言って、あなたにも似合うとは限らない。スタイルに問題があるというのではない。自分らしいさの問題である。何でも似合うように見えるマネキン人形になることはいただけない。強い印象を与えるのは、一般受けする美しさではなく、程よく強調された個性の方である。
私からこんなことを言われるまでもなく、あなたは十分承知していることだろう。しかし、それでもあなたは長い間商店街を歩き回り、何を買ってよいかわからずに悩んでいる。流行についての知識やモード・センス、それに趣味の良さなど何にもならない。長い時間をかけて選び抜いたはずの服も決して満足行くものではない。他でもないあなたこそが必要な服をいつも見つけ出すようにするには、他人のものと自分のものとの見分け方を学ばなければならない。それにはどうすればいいのか。とても簡単すぎて、あなたには信じられないだろう。
まず、選択するという問題で決して悩んではいけない。悩むことは明らかにバランスを欠いた行為である。選ぶことで気を張り詰めると、その分結果は悪くなる。長い時間をかけて商品を見て回り、それぞれの長所・短所を比べることは不要である。理性を選択に参加させてはならない。なぜなら、理性とそれによりる思考は本当のあなたではないからである。それは、コマからの攻撃による影響を受けているのである。何も考えず、展覧会場にいるように見て歩く。
最初に、あなたが欲しいと思う形を大まかに頭に描く。細部までは考えなくてもいい。唯一必要なのは、服の種類である。例えばオーバーコートが欲しいなら、オーバーコートを選ぶという目的だけをセットして、ほかの条件は一切つけてはならい。あなたの魂が品定めするように持って行くのである。魂は本当のあなたに一番近いところにいる。魂はどんな小さな細部も見逃さないし、必要な時に正しいものを指し示してくれ、たくさんある商品の中から、どれに特別な共感を示すことが出来るか見るのではなく、感じるのである。このことについて、あなたはすぐに納得がいくだろう。
もう一度繰り返しておこう。なぜその商品に共感が湧くのか分析しても始まらない。ただ気に入っただけのことである。「これが欲しかったものだ」と言えるだけ。あなたはそれをあれこれ考えたりせずに買うことになる。
たとえもし長く捜し歩いたのに、見つけられなかったとしても、あなたのための商品はどこかの店に必ずある。それを疑ってはならない。三軒目の店にも、十件目の店にも無いかもしれない。しかし、あなたのための商品はじっとあなたを待っている。だからあなたも粘り強さを発揮して、うろたえたり、無いのではないかと疑い悩み、自分を責めたりしてはいけない。絶対の自信を持つようにするため、他人のものと自分のものとの見分け方の秘訣を話そう。それはとても簡単で、頼りにもなる方法である。
既に触れたが、選択する過程では、品物の長所と短所を考えてはいけない。さぁ。店員に購入するかしないか、態度をハッキリ告げるときがやってきた。この瞬間、あなたはそのように思っていなくても、本当はすやすやと眠っている。もし隣に店員や知り合いがいて商品について何か話しているのであれば、そんなときのあなたは特に深く眠っている。
あなたが決断を下す時には、あなたの理性しか働かない。理性は長所と短所を分析し、合理的で説得力のある自分のコンセプトを組み立て、ついでに周りの人々の意見にも耳を貸す。理性はそうしたプロセスに心を奪われているため、魂の感覚には少しも注意を払おうとしない。そうような意味で、理性はぐっすり眠っていると言えるのである。
理性が決心するまでは邪魔しないこと。さぁ、理性が決心した。その瞬間、誰の言う事も聞かないで、目を覚まし、決心した時にどんな感覚を味わったか、ハッキリ理解するようにしてみる。魂の快・不快の状態が、理性の決断に対する魂の反応なのである。

〇もし考えていたことが実現したら、あなたは何を感じるかをイメージしよう。頭の中で目的が達成されるスライドを何回か再生し、その後で、スライド全体から一つにまとめられた複製であるフレームを取り出してみよう。例えば、あなたは喜びに浸りながら、契約書にサインしている。または、試験がうまくいって、先生があなたと握手している。または、一等でゴールし、胸でテープを切ろうとしている。このようなフレームは、ちょっと開いた小窓にはめ込むためのものである。フレームには、「勝利」「やった」「できた」、またはあなたが気に入った一言で表題をつけてもいい。そういう表題は支えとなってフレームを呼びだしてくれる。
小窓が開いている機会をとらえる事は難しい。なぜなら、それを行うのはあなたの理性だからである。たとえまどろんでいるといっても、つまりそれは目を覚ますことに他ならないし、そうすれば小窓はすぐにパタンと閉じられてしまう。新しいことに慣れるには時間が必要である。そして、確固たる意図と忍耐が必要なのである。最初は、理性の助けを借りて、出来事が現実化されたときに体験するであろう感覚についてのフレームを創る。理性にはフレーム作りに積極的に参加してもらう。その後、小窓が開いている瞬間を捉えることはさておいて、全体をまとめ合わせた感覚がどこにあるのかハッキリさせるため、そのフレームを再生してみよう。一つにまとめられた感覚とそれを呼び出すための引き金となるキーワードを作る。ここまで準備してから、小窓が開いた瞬間をとらえて、そこにフレームをはめ込む。
まどろんでいた理性が、自分がうとうとしていたことに突如気づき完全に覚醒する前に、フレームを小窓にはめ込むと言いうことが、あなたに起こるはずである。これで、内なるモノローグが停止しているときに魂の意図が作用することになる。
うまくいかなくても、何度も試して見ることで次第に習慣となり、あなたの理性は小窓にフレームをはめ込むことを機械的に行うようになる。フレームの意味は、理性が覚醒する前に自動的にフレームを活性化させるという点にある。
しかしながら、もしフレーム技法を実践することがとても難しいと思っても、がっかりしないでいただきたい。そして、このやり方はわきに置いて置く。単に一つの情報として、フレーム技法を紹介しただけのことである。もし試してもすぐにはうまくいかないのなら、それはあなたに必要ないという事である。いつものスライドを利用し、プロセスの視覚化を実践するばよい。
いずれにせよ、開いた窓に注目する事を習慣づけるのは、とても有益なことである。もしあなたが小窓の開いている瞬間をとらえる方法を会得すると、直感的閃きはもっと頻繁に訪れることになる。

〇現実の生活では、魂の意図の仕事は一凪では終わらない。意図の風が吹いても、フリゲート艦は微動だにしない。もし魂と理性の一致が起こると、帆は必要な方向を向けて据え付けられる。帆の大きさは、一致の程度による。風は一瞬にしてフリゲート艦を必要なセクターに移動させることは出来ない。思考放射エネルギーのパラメーターは目指すセクターに一致しているが、物質的現実化は元のセクターで少し遅れて現れる。そのため、目指すセクターを現実化するためには、魂の意図の風は仕事を継続して行わなければならない。
しかし、夢を見ているときに魂の意図は、フリゲート艦をピクリとも動かすことできない。理由か簡単で、夢の中では紙の船のため帆の代わりとなる羽しか据え付けることが出来ないからである。ところが問題のフリゲート艦の方は帆がついていない。魂の意図の風は紙の船くらいなら移動させられるが、すでに物質的に現実化しているフリゲート艦にはほとんど影響を与えることが出来ない。
そのため、夢の中でスライドを再生しても、物質的現実化は促進しない。夢の中での魂の帆は仮想空間を飛行することを可能にしてはくれるが、物質的現実化の働きは何の関係も持たない。夢の中での魂の帆は仮想空間を飛行する事を可能にしてはくれるが、物質的現実化の働きそのものとは何の関係も持たない。意識してみる夢の中でのスライドの唯一の役割は、快適域を広げることにある。しかし、これはなかなか大切なことなのである。そのため、あなたが夢の中でスライドを再生するのを繰り返すことは、快適域を拡大させるために理想的な手段となる。
現実の生活では、あなたの意識と潜在意識は、物資的世界の範囲内にある。理性は魂の焦点を物質的現実化されたセクターに合わせるようにする。ご理解いただけたと思うが、理性は定められたパターンにしたがって常に知覚を修正する。あなたは目を覚ましている状態でスライドを再生しながら、思考放射エネルギーの周波数を現実化されていないセクターに同調させようとする。魂と理性の一致の程度によって帆は魂の意図の風を受けて膨らみ、フリゲート艦でも徐々にゆっくりと目指すセクターに向かって動き始める。魂の意図の働きは、物質的現実化が目的地に到達するまで続く。
さて、どこに違いがあるか、お判りいただけるだろうか。夢を見ているときの魂の意図の働きは終わってしまうのに現実の世界であなたがスライドを再生していると、物質的現実化されたフリゲート艦に帆が据え付けられ、外的意図は夢の中の紙の船ではなく、フリゲート艦を動かすのである。
ややこしい問題を説明するのにあえて単純なたとえを用いたが、どうか当惑しないでいただきたい。理性の記号リストにはこれ以上適切なアナロジーは存在しないのだが、こう例えることで本質部分は最も明確に伝わったと思う。
しかし、理性が短時間の眠りに入る瞬間に亜空間に開いた小窓は、知覚の焦点を物質的現実化された現在のセクターの文脈の中に合わせたままにしておく、いつもの夢とは異なり、小窓から見えるフリゲート感の帆は、あがった状態のままになっている。もしこの瞬間に、小窓にスライドを埋め込むと、魂の意図の風が急激に高まり、現実化をかなり先へと推し進める。小窓の効果は、魂と理性の一致がこのような状態で最高のレベルで現れるという点にある。まどろんでいる理性はコントロールの手綱を放し、夢の中で起こることと同じように、自分の知覚パターンに非現実的なものを入れる。帆はかなりの大きさになり、魂の意図は最大の力で作用する。
今述べた技法は非常に難しいが、あなたは試すことが出来る。常に直感的な予感に注意を払い、自分を観察することから始めるべきである。そうすると、一日のうちでかなり頻繁に窓が開くことに気付くだろう。時々、理性は自分のコントロールやおしゃべりに疲れ、極めてわずかな時間、警戒心を失うのである。この瞬間に、あなたが誘導したい出来事についての感情を意図的にはめ込むことが可能なのである。はめ込むのは、感情であって、言葉による表現ではない。

〇魂の漠然とした感覚は、不安や沈んだ気分、または意気込みや高揚として現れる。これらすべての感覚は、もどかしさという言葉によってくくることが出来る。魂はあたかも理性に何かを伝えようとするが、説明することが出来ない。思うようにならない不安、罪悪感、義務からの重圧、落ち込んだ気分などは、悪い予感として現実化する。これらすべての感覚では、魂と理性の一致が起こる。私たちは、魂の意図が働いた結果として、自分の悪い予感の現実化した物を受け取るのである。
災難は起こると続くことが良くある。思考放射のパラメーターによって、私達は災難が一つだけでは終わらない悪い人生ラインへと乗り移るからである。時には、誘導移転が私たちを幅の広い黒い帯へと追い込む。そして、長い間そこから抜け出すことが出来ない。気落ちする状況が発生すると、あなたは自分の悪い予感が現実化したものを間もなく受け取るという事に注意していただきたい。魂の意図があなたを不運な人生ラインへと移動させるからである。そこでは状況が見る間に深刻化していく。
魂は災難の予感を感じると同時に魂と理性が悪い予感で一致することにより災難の現実化をついでながらに手伝う羽目になる。そこで、良い予感で魂と理性が一致する可能性を利用すれば魂の意図を自分のために振り向けることが出来るようになる。そのために事象選択では、重要性やネガ・フィルムと縁を切り、思考エネルギーを目的の達成に意識して向けるよう提案するのである。すでにご理解いただいているように、思考エネルギーのパラメーターは、意識のある状態ではスライドを用いて調整される。小窓が開いた瞬間をとらえることが出来れば、あなたはこの技法を利用することが出来る。
直観的な情報は、自然発生的に訪れる。この場合、理性は魂の可能性を受動的に利用する。つまり理性は痛ましいがぐ銭入り込んだセクターから持ってきた情報単に受け取るだけである。そこであなたがやらなければならないのは、自分の中に直観による予感を意図的に呼び起こすことである。これは魂の帆を必要な方向へとむけるために、後になって必要となってくれる。
では、どうすればそれが出来るのか、あなたは、理性がそれまでやっていたことを中断した瞬間をとらえなければならない。しかし、これからは感情をとらえる必要はなく、意図的に誘導する。つまり、小窓に瞬間だけ投影するためのスライドをはめ込むのである。そのスライドには、あなたがスライドの中で味わう感情が含まれていなくてはならない。開いた小窓にスライドをはめ込むことで、あなたが魂の情報ただ座して受け取るのでなくなる。より積極的に、魂を亜空間の目指すセクターへ差し向けることになるのである。もしこれがうまくいったら、あなたの理性は魂の意図に軽く触れたことになる。
さて、もしベッドに横になりながら眠る前にスライドを再生すれば、同じ効果を達成できるのではないかと思われるかもしれない。スライドは知らないうちに夢になり、魂と理性の一致が達成できることになるだろうから…。ところが不可解なことに、それは何ももたらしてはくれない。次にこの点を解明してみよう。しばらくは、「夢の中でスライドを再生することには、なぜ意味がないのか」という質問への答えを考えていただきたい。
魂の意図によってもたらされる出来事と、直感による予感によって示される出来事との間には、過渡的領域が存在する。言い換えると、何らかの出来事が起こるはずだとあなたは直感的に予感すると、その出来事について、目的の方向性をハッキリとさせて考えることなく、自分の想念によってその出来事に軽く触れることになる。その後、通常、この出来事は実際に現実化する。理性が魂の予感に同意する場合は、特にそうである。ここで一つの疑問が出てくる。あなたは、出来事が起こるはずだとただ単に予感しただけなのか、されとも、あなたの潜在意識の想念が魂の意図として働き、出来事を誘導したのか、という疑問である。
この疑問に対しては、明確な答えは無い。どちらの可能性もある。夢では全てがもっとハッキリと起こる。出来事がこのように展開するべきだとあなたが一瞬考えたり感じたりするだけで、直ちにシナリオは現実化される。夢の中での魂の意図は、間違いなく働く。これは私たちに何をもたらしてくれるのだろうか。
見ている夢の中で、期待しているシナリオの現実化を受け取るというだけのとである。夢を見るという事では、物質でできた実際の現実には何の影響も及ぼさない。仮想現実は、そのまま残る。夢を見ているときの魂の意図は、なぜ仮想セクターを現実化しないのか。それは物質的現実化における物質の完成と関係があるように思われる。
実は、夢を見ることを物質で出来た実際の現実と比べることは、神の船と大型のフリゲート艦とを比べるようなのである。神の船は、魂の意図の非常に微かな人梵でもまっしぐらに飛んでいく。ところが、思いフリゲート艦を動かすには、大きな帆と長い時間が必要である。
いずれにせよ、夢を見ているときの魂の意図が仮想セクターを現実させないのは、慣性が存在するせいでは決して無い。あなたは、意識してみる夢の中でさえ、好きなだけ自分のスライドを再生することが出来るが、そうしてもあなたの目的に一歩も近づくことは出来ない。なぜならば、夢を見ている時に魂の意図は、魂をある仮想セクターから別の仮想セクターへ移動させる働きしかないからである。夢の中では、次のようなことが起こる。理性が、期待していることに応じて魂に帆の代わりとなる羽を据え付けると、魂の意図が神の船をふさわしいセクターへと瞬間に移動させる。それでおしまいである。仕事は成し遂げられ、魂の意図の使命はそこで終了する。

〇意識してみる夢は、魂の意図を対象とした興味深い実験やトレーニングとして利用することが出来る。ところで、意識下で内なるモノローグを停止した状態を利用することはできるだろうか。実は、一つ抜け道がある。それは、理性のコントロールが緩み、魂の直感的な感覚が意識へどっと流れ込んでくる瞬間に、自然に開いた小さな窓のことである。
直観は、内なる声とも呼ばれる漠然とした予感として現れる。理性がそれまでやっていたことを中断すると、その瞬間、魂の感覚や情報を簡単に感じられる。あなたは心のさざめき、つまり、言葉のない声、思考の無い想念、響きの無い音を聞いたことになる。あなたには何かがわかっているのだが、それはぼんやりとしている。あれこれ考えずに直感的に感じてみよう。だれでも直観と呼ばれるものを体験した事があるはずである。例えば、今誰かがくる。何かが起こる。何かするよう無意識に駆り立てられる、何かをただ単に知っている。というようなことをあなたは感じたこがあるだろう。
思考のゲームが進行しているとき、レフリー役は理性の分析官が務める。理性は、すべてが論理的かつ合理的であるようにするため、あらゆるデータを記号の棚のあちらこちらに迅速にしまい込む。内なるモノローグの停止は、レフリーがホイッスルを取り上げられて、ベンチに座らせられることである。理性は見ているが、ゲームをコントロールする事はもう出来ない。
理性はデータを自分の都合のいいように扱いながら、短時間の休憩をとる。理性には、瞬間だけ丁度ベンチに腰を下ろして休むような時がある。その時直観的な情報のための小窓が開く。そのようなとき、あなたは一番自然な形で眠っている。あなたには信じられないかもしれないが、これは本当にそうである。どんな人でも、一日のうちで何度も眠る。小窓は非常に短い間しか開いていないから、そのことに気付かないだけのことである。
理性はまどろんだ後に目を覚まし、自分のモノローグを続ける。ときどき、小窓から見た印象が直感的情報という形で意識まで届く。しかし、理性は瞬間目にしたものに注意を払わないことの方が多い。なぜなら、理性は自分の思考で忙しいからである。
夢の中で魂は明確な目的もなく飛び回っている。魂はどこへでも行く。目覚めているときに瞬間的に開いた小窓から、魂の終点は亜空間のセクターに合わせられる。いつもの夢と違い、理性が現在考えている文脈を背景にする。理性の思考の文脈が、魂の視線を亜空間のしかるべきセクターに向けるのである。そこで魂はその時点での思考の中身に関係した情報を目にする。小窓が開くや否や、こうした情報が理性へと流れ込んでくる。もし目が覚めた理性が、魂の印象に注意を払う、つまり自分の夢に一瞬の選考を思い出すならば、理性は直感的情報と呼ばれるもの、つまりどこからともなく降りてきた情報を受け取ることになる。
通常、直感的な閃きは理性の洞察力の自然発生的な閃光である。一方では、突如として理性に答えが舞い降りてくるとされ、他方では、理性がその答えを自分で見つけるとされている。どこからともなくもたらされるこうした情報の発生源は何なのか。通常の世界観では、理解できない事実に対しては目を閉じて、それが理性の本質なのだというような手を抜いた対応をする。
事象選択モデル仮すれば、閃きのメカニズムは全く別の本質を持っている。理性は自分の答えを論理的推論によって見つけ出す。いまここに論理の鎖があるとしよう。そこにかけている鎖の輪は今ある論理の鎖からは決して得られず、閃きによって補われる。閃きは亜空間から、魂を介して届けられる。

〇ところで、魂の快適な状態を注文しても意味がないことを付け加えておきたい。魂の快適な状態とは、ここに取り上げられた案件で魂と理性が合意した結果の事である。抽象的な自己暗示によってでは、魂と理性を一致させることは一般に不可能である。具体的なスライドを用いて、魂を慣らし、安心させることだけが可能なのである。
もしなあなたか過剰ポテンシャルの発生しない感情ゼロの状態でいるならば、その場合に限り肯定表現は一番効果的に作用する。潜在意識を説得したり命令したりすることは出来ない。いろいろな感情を取り組むことによって、あなたはバランスを崩す。もしあなたが同じ考えを粘り強く頭に叩き込もうとすると、あなたの魂は耳を塞いでしまうだろう。もっとも効果的なのは、力を抜いた状態でストレスをかけずに繰り返すことである。そうすれば、たぶんあなたの理性は潜在意識の扉を叩くことになるだろう。さて、もし理性が強烈に魂を説得しようとするのなら、それは理性自信が信じていないことを意味し、どんなフレーズを繰り返しても理性が持つその疑念を振り払うことはできないだろう。
理性が魂に圧力をかけても、あなたは何も達成できないだろう。重要性などによって感情が高ぶったときに所有する決意を創り出すことはできない。あなたが所有しているものはありふれていて、それが当たり前になっている。あなたは郵便受けからハガキを取って来るように、穏やかな気持ちで、執着することなく自分のものを手にするのである。もしあなたが自分の粘り強さを所有する決意と勘違いしているのなら、コマと手を取り合って同じ場所をくるくる回っていることになる。そのうちコマは手を放し、あなたはもんどりうってこれまで通りの優柔不断という穴の中に落ちていく。では、あなたの所有する決意から所有する願望がなくなったらどうなるだろう。その時は、コマにとって掴むところがなくなってしまうことになる。
もうご理解いただけたと思うが、肯定表現を唱えることは、ある意味、音声スライドである。ビデオスライドでも肯定表現は利用できる。すべてを全部使えば、最高の効果が得られるだろう。総合的なスライドの利用例を挙げてみよう。そのスライドにはあなたの新居の画像が移っているとしよう。あなたは暖炉のそばに座っている。ロッキングチェアのきしむ音がする。薪が朗らかな音を立ててはじける。炎を見つめるのは何と心地よいことか、窓の向こうからは雨果然音が聞こえてくる。しかし、あなたのいる場所は快適で暖かい。サイドテーブルにはあなたの大好物が置かれている。そして、テレビでは面白い番組が放映されている。あなたはそのすべてを見て、聞いて、感じて、つぶやく、「快適だ」あなたはスライドを見たり聞いたりしているの場なく、その中に住んでいるのである。
人間の頭の中では、コントロールできる想念とコントロールできない想念が常にかけめぐっている。これを内なるダイアローグと呼ぶ人もいるが、本質的にはそれはモノローグである。理性としては自分以外にはだれともおしゃべりをしない。魂は考えたり会話したりはできず、感じたり知る事だけを行う。内なるモノローグは、魂の物言わぬ知覚とは対照的に、非常に大きく響く。そのため、直感はごくまれに、どうにかそれとわかる程度でしか現れない。
もし内なるモノローグを止めたら、理性は直感的な情報を利用できるようになるだろうとの考え方がある。確かにその通りだが、意識下で理性を完全に止めることだけは不可能である。あなたが集中し、思考や言葉の展開を止めたと仮定してみよう。思考はなくなり、内側は無の状態であるが、だからと言ってそれはモノローグの停止では無い。その瞬間も理性は眠っておらず、かえって非常に覚醒した状態になる。理性のこと瞬間の過大は、考えない、喋らない、というものである。理性はたぶんこういうだろう。「まぁいい。少し黙ってあげて、お前さんが何をするのか見物していよう」
それはモノローグが停止したという幻想にすぎない。内なるモノローグの停止は、理性が自分のコントロールを止めたり、または、せめて自分の警戒心を緩めたりしたときに起こるものである。偽りのモノローグ状態では理性は警戒していて、自分の「大きく鳴り響く」沈黙により、魂の感覚をさらに伝わりにくくしている。
もし理性が自分のコントロールを辞めたら、あなたの知覚は亜空間へと消え失せるだろう。内なるモノローグの実際の停止は、夢の中か深い瞑想状態のときに起こる。そのような状況から実用的なメリットを得ることはできるが、それは意識してみる夢の場合か、あなたが自分の意識を消すほどの深い瞑想を行う技術を持っている場合に限られる。

〇人は知覚の特性によって、視覚系、筋感覚系、音声系の三つに分類できるという。ある人々は視覚的な方法をうまく利用し、ある人々は筋感覚に対するセンスが優れ、また、ある人々は音声に敏感である。これまでにスライドについての話が出てきたが、スライドには視覚的な表現と筋感覚的な表現が主に使われている。精神修養を積むためのいくつかの訓練では、アファメーションが利用されている。人は頭の中で一定の目的を目指すことを何度でも繰り返す。例えば、こんな肯定表現がある。「私はとても健康で、エネルギーに満ち溢れ、心は快適この上ない。気分は穏やかで自信に満ちている」こうしたフレーズを何度も声に出したり、頭の中で唱えたりすることは、音声系の人には特に効果がある。ところで、しいて三つに分けたが、純粋なタイプの人は存在しないから、肯定形式の表現を唱えることは、誰にとっても効果があるだろう。
肯定表現はスライドと同じような働きをする。しかし、魂の言語と理性の言葉の違いを効力に入れて用いる必要がある。第一に、魂は言葉を理解しない。もしあなたが深く考えることなく何かを繰り返して言ってみても何にもならない。魂は言葉の向こうにある言葉にならない思いや感覚を感じ取る。言葉は想念や感覚をある程度かたどるのだが、それはもう元のものでは無い。なぜなら、言葉は二義的なものだからである。何度も繰り返し唱えるよりは、一度感じる方がずっと効果的である。だから、あなたが繰り返し唱えていることと同時に体験するような試みが必要である。
第二に、それぞれの肯定表現は方向性が絞られていなくてはならない。いくつかの目的をひとまとめにしてはならない。例えば、先に挙げた肯定表現は内容としては結構なものに思われることだろう。そこには必要なものがすべて盛り込まれている。しかしながら、そのような肯定表現を繰り返す時、あなたは求めている感覚の全てを呼び起こすことはできない。
第三に、変化に乏しい単調な一本調子は避ける必要がある。肯定表現を繰り返すたびに、新たな感銘や感覚が伴わなくてはならない。例えば、「私は気分が穏やかで自信に満ちている」というフレーズを常時自分に言い聞かせていると、あなたにとってこれらの言葉は当初帯びていた意味をすぐに失ってしまうだろう。自信は、自信を持とうという意図が発生した瞬間に現れる。願望は胸にしまって温めておくことが必要である。そうすれば長い時間をかけて自分をその気にさせてくれる。逆に、意図は、「自信を持ちたいなら、そうなるがいい」というように、すぐに作用する。また原因を取り除かないまま、肯定表現を結果との戦いに向けてはならない。例えば、心配の原因がそこにあるのに、「私には恐れるものはなく、心配することもない」と繰り返しても意味の無いことである。また、肯定表現はポジティブな調子でなければならない。避けたいことを再現なく繰り返す代わりに、勝ち取りたいと思う成果に向けて肯定表現を作ってみよう。例えば「私は怖くない、不安ではない」というネガティブな肯定表現は、「万事うまくいく」というポジティブなものに置き換えた方がいい。その際、言った何がうまくいくのか、心配の種にならないよう、具体的に示そう。
「万事うまくいくだろう」ではなく、「万事うまくいく」という必要がある点に注意を払っていただきたい。肯定表現を未来形にすると、未来が一向に現在になってくれず、どこか遠い先にあるが決してたどり着けないオアシスのようなものになってしまうかもしれない。注文しようとするものをあたかもすでに所有しているかのようにして、あなたの思考放射パラメーターを調整する必要がある。
〇魂の予感をどの程度信頼していいのだろうか。ある特定の出来事について、それが起こって当然というような予感をもしあなたが抱いても、そうした予感は信じなくてもよい。理性が魂の情報を正しく解釈する保証はない。唯一頼りになる解釈は、理性による決断に対する魂の不快だけである。
魂が快い状態にあっても、それで魂が「はい」と言っていると保証することはできない。魂は答えようがないのかもしれないからである。しかし、魂が「いいえ」と言っているとき、あなたはこれを非常にハッキリと感じ取ることが出来る。これまでの話で述べてきた事からもお分かりいただけると思うが、魂は、理性の決断が実現される場合の亜空間のセクターを覗く能力を持っている。魂は結果を覗き見て、肯定か否低かの態度を示す。魂が「いいえ」といったときに、それがいつも正しいことを、あなた自身も個人的な経験から納得されているはずである。
このように何かの決断を下す時、これからのあなたには魂の不快という頼りになる真実の基準がある。もし魂が「いいえ」と言って、理性が「はい」と言っているのなら、できれば勇気をもって断ろう。魂は自分から悪いことを望みはしない。それでも、もし理性が「必要だ、義務なのだ」というのであれば、状況に応じた行動をとることになる。人生では時として避けられないことと折り合いをつけるしかないときもある。いずれにせよ、魂の不快という基準は、どちらにしたらいいか判断をためらう問題をハッキリさせてくれる。
選択された目的について、魂と理性が合意に達したら、あとは所有し行動る決意において、魂と理性を一致させるだけである。理性の意図と魂の意図とを融合させるのである。もしあなたが愛の意図の枠内で行動しているとして、この時魂の意図も同じ方向に向いているならば、目的はすでに達成しているとして、目的はすでに達成したも同然と考えてよい。また、どのような手段で目的を達成できるのかはっきりイメージできず意思の意図が漠然としている場合には、所有する決意に取り組んでいただきたい。魂の意図は意思の意図よりもずっと強力なので、自然にあなたのための事象を見つけ出してくれるに違いない。
所有する決意における魂と理性の一致については、それが強い感情となって表れるような達成をする必要がある。通常、魂と理性は、熱愛、憎悪、危惧、悪い予感において一つになる。私たちは心底から愛し、憎み、恐れる。魂と理性が一つになると、すさまじい感情が生まれる。「憎むことのできないものは、愛することを学ぼうとしない」とは、有名な言葉である。
もし目的が正しく選ばれたならば、魂も理性も満足することだろう。満足な気持ちに水を差すかもしれないのは、目的達成の難しさか魂の快適域の狭さからもたらされる思いだけである。理性が実現に疑いを抱き、魂は「新たな椅子」にぎこちなく座っているという状況は、スライドを用いることで修正可能である。それはどうすべきかについて、あなたはすでにご存じのハズである。快適域を広げることが出来たあなたは、魂がウキウキし理性は満足そうに揉み手をするというように魂と理性の一致による狂喜ともいうべき感情に襲われるだろう。
もう一度繰り返す。目的について考えるときは、その格式の高さや近寄りがたさ、それに達成手段を考えず、魂の快・不快だけに注意を払おう。気分はどうか、いいか、悪いか。こうする事だけが意味を持つ。さもないと、あなたは魂のぎこちなさを魂の不快と取り違えてしまうかもしれない。魂のぎこちなさ、または、ある種遠慮がちな状態は「本当にこれをすべて私に」というような状況の持つ非日常性からきている。魂の不快は、抑圧、負担、重苦しい義務、憂鬱、危惧、やりきれない不安を死す。もし魂のぎこちなさがスライドでも治らない場合は、それは明らかに魂の不快である。自己欺瞞に陥ったりせず本当にその目的があなたにとって必要なのか、もう一度考えてみる方がいいだろう。

〇成功をつかむためには自分を変える必要があるなどという人を信じてはいけない。あなたは似たようなことを耳にした覚えがあるのではないだろうか。それはコマが好んで用いる処方箋である。もしあなたに何かうまくいかないことがあると、もっと自分を磨かなくてはならないとコマたちは言うのである。あなたが変わるというとをコマの立場で見るとどういう意味になるのだろう。それは、あなたが自分自身から顔を背けコマの方に注目して、彼らの要求を満足させ、彼らの利益のために行動するようになるという意味である。「私のようにやってごらん」という彼らの手管にはまることに他ならない。自分を変えるとは、自分と戦うという事である。これでは、魂とと理性の一致などありえない。あなたは自分を受け入れず、自分を愛する事もなく、自分と戦うばかりなのだから、魂は偽り、目的は受け入れない。魂には自分の好みや望みがある。あなたが偽りの目的を追いかけているうちは、とんどなにも達成できない。もし達成できたとしても、それがあなたに必要のないものだと思い知ることになるだけである。
事象選択はコマとは何のかかわりも持っていないので、全く正反対の方法を提案している。自分を変えるのではなく、自分を受け入れるのである。コマが押し付ける見せかけだけのものとの関係を断ち、理性を魂に向けるのである。魂の願いに耳を傾け、意識して重要性を放り捨て、所有することを自分に認めてあげよう。そうすればあなたは、魂が求めるものすべてを受け取るとが出来るだろう。
魂と理性が一致するためには、魂の快・不快に頻繁に注意を払う必要がある。もし現時点で不安に思ったり心に重くのしかかるものがなく、心地よく穏やかな気分であるならば、あなたは魂が快適であると感じている事になる。魂が不快である場合は、逆の信号を送ってくる。あなたには漠然とした不安があり、何かに悩まされ、何かを心配し、心に圧迫感や重苦しいものを感じている。ところで、もしこうした感覚が漠然とではなくハッキリと表れていて、自分でその発生源を自覚しているならば、それは理性の不快である。通常、理性は、何が自分を怯えた背たり、心配させたり、苦しめたりしているか、知っているはず。このような場合、あなたは理性に頼ることが出来る。理性はあなたに解決方法を教えてくれるだろう。
魂の不快という問題はもっと厄介である。なぜなら、それは漠然とした胸騒ぎというように、ハッキリとは現れないからである。すべて素晴らしい、すべて順調だ、心配する理由がない、と理性は請け合う。理性の論拠を聞いているにもかかわらず、それでもあなたには心に何か引っかかるものが残る。これこそ心のさざめきである。魂の声を聴くことはそんなに難しい事ではない。魂の声に注意を払うようにすれば良いだけのことである。論理的な考察が伴い理性の声は非常に大きく響くため、人は不明瞭で漠然とした予感に意味を感じ取ることが出来ない。理性は自分の物事の論理分析や予想にすっかり気を奪われていて、魂の感覚に注意を払ってみようという気になれない。
明け方の心のさざめきを聞くようにするためには、魂の快・不快に注意を払う習慣をつける以外に方法はない。あなたが何らかの決断を下す時は、その都度、まず理性の声を聞き、その後で魂の感覚を訪ねよう。理性が決断を下すと、すぐに魂はその決断に対して肯定か否定かのどちらかで反応する。魂が否定的な反応をする場合、あなたは魂の不快という漠然とした感情を味わう。
もしあなたが魂の快・不快に注意を払う機会を逸してしまったならば、その時どのような感じがしたか後で思い出してみよう。決断を下した瞬間に訪れた何かをあなたは感じたはずである。その瞬間、理性は分析作業に忙しく、感覚を味わうどころではない。最初に瞬間的に訪れた感覚がどんなものであったか、今思い出してみよう。理性が背後で楽観的な見解を披露しているにもかかわらず重苦しい感じがしたのであれば、それは魂がはっきり「いいえ」といったことを意味する。

