〇お金を自分の目的とする誘惑には負けないようにしよう。もしお金が会ったらそれで何を買えばいいかは分かっているから、すべての問題を解決することが出来ると言われている。スライドの詳細のところに戻って、お札の詰まったトランクケースについて述べたことを思い出してほしい。お金は目的にはなりえず、随伴する属性に過ぎないことを説明した。あなたはすぐにそれに同意するだろうが、それは決してありふれた主張などでは無い。私たちはみな、お金に慣れきっているので、ほとんど全てのものをお金に換算してしまう。しかし、お金は理性のために定められた抽象的なカテゴリーであって、魂のためのものではない。魂は嘲笑的な思考ができないので、お金をどうして良いのか全く分からない。最終的な目的は、魂にわかるものでなくてはならない。あなたが注文したお金で、家、カジノ、島などを買いたい事を魂が知らなくてはならない。だから、お金という手段については、魂がそれを気に入っているのならば別だが、そうでなければ話題にすべきではないのである。
 あなたの内なる会計課ともいうべき理性が目的を達成するための手段を算定しているうちは、目的を定める事も、目指す人生ラインに同調する事もうまくはいかないだろう。自分の見張り役の働きを活発化させ、「私は人生に何を求めるのか」という質問に答えを出すことから理性が逃げだとそうとしたら、その都度、自分をきつくたしなめよう。目的が達成困難であるという固定観念は、最も執念深いので、忍耐が必要である。理性は、「これをどうやって達成するのか?」という質問に擦り変えようとするだろう。さぁ、ここで、あなたの魂から理性にこう言ってもらおう。「黙れ、これはお前さんが心配する事じゃない。玩具を選ぶのだから」
 あなたは破壊的コマから自由な状態に居なくてはならないが、それは自分を孤立化させるという事では無い。社会全体がコマによる影響の上に築かれているので、それが嫌ならヒマラヤへでも逃げ込むか、あるいは、自分のコマを見つけるかしか無いのである。隠遁者はコマから遠く離れているので簡単に「永遠性との会話」を行う。しかし、そのような隠遁者はコマだらけの好戦的な環境に戻すや否や彼らは世俗にまみれ自分のバランスを失う事だろう。
 あなたの目的も何らかのコマに属している。しかし、目的が本物である限りは、あなたにとってコマに属する事に何の恐れもないはずである。自分の目的を見つけよう。コマはあなたをお気に入りにせざるを得なくなるだろう。新たなコマを創り出すことだってできる。大事なのは、選択の自由という自分の権利を行使し、コマから支配されないようにすることにある。
 分析や思惑によって目的を決める事はできない。本当の目的を見分けられるのは、あなたの魂だけである。分析や思惑は理性の活動である。魂は考えることが出来ない。魂は見て感じるだけである。
 目的を探すプロセスにおける理性の課題は、探すことにあるのではない。理性が目的を探すとなると、広く一般に通用している固定観念や紋切り型の考え方をベースに分析を行い論理的な鎖を組み立てるという方法による。こうした方法で自分の道が見つかるのならば、だれもが幸せになれるに違いない。
 理性にとっての課題は、すべての外部情報を自分経由で通過させ、その際に、魂の快・不快に特別な注意を払うことにある。理性にはこんな設定をしてあげるだけで十分である。「何が人生をお祭りに変えるか探し出してみよう」。その後、すべての外部情報を理性経由で通過させながら、理性にセットした観点から魂の感覚を観察するだけでいい。
 躍起になって道を探しても、何にもならない。心配せずに、観察しながら待つことにしよう。目的を探す設定にしてあれば、必要な情報はひとりでにやってくる。その瞬間が訪れたら、何らかの情報を受け取ったあなたは急に活発な興味を示すようになるだろう。大事な点は、その瞬間に理性が自分の思考によって自分自身を邪魔することなく、ただ魂の快・不快に注目していてくれることだけである。

〇次の質問に答えてみよう。あなたの魂は何を気に入っているのか? 何があなたの人生を祝日に変えてくれるのか? 目的が持つ威厳性や近寄りがたさについて考えるのはやめよう。どんな制約も無視しよう。信じられないのなら、あなたはすべてが手に入るというふりをすするだけでもいい。そのうえで目的を選ぶのである。ためらわずに、限度いっぱいまで注文しよう。
 あなたは手ごろな値段の土地を買って、家を建てたかったそうだね。それより地中海の島なんてどうかな。
 このように「…ではどうだろう?」という例は、数限りなくある。もしあなたの扉を通って、あなたの目的に向かって進む場合に、あなたが手に入れられるものと比べたら、今のあなたの要求はどれほど控えめなことか、想像すらできないだろう。
 願望を理性によって推し量ろうとしてはいけない。あなたの魂が欲しいものを明らかにさせるための時間を惜しんではいけない。「これは私の心にかなう」という表現は、うまく本質を言い表している。この表現は意見を示しているのではなく、関係を示している。意見とは、理性の知的活動による産物である。関係とは、魂の奥から来るものだから、自分の目的と他人の目的とを見分けることが出来るのである。あなたの目的を決める際には、自問していただきたい。「目的が達成されたとしたら、私はどんな感じがするだろうか」と。
 あなたが自分の願望の検討をつけたとしよう。それがあなたの願望であるかどうか確かめるために、自分に二つの質目をしてみよう。一つ目の質問。それがあなたに本当に人用なのか? 二つ目の質問。それでもやはり本当に必要なのか? その願望に他人の目的を選んだ場合の兆しで当てはまるところはないか、確かめてみよう。
 本当にあなたはそれを心から望んでいるのだろうか。それとも、それを望むという行為がしてみたいだけなのか。あなたは他人に目にものを見せたいだけではなかろうか。あんたは本当にそれを望むのか。流行や威厳に惑わされているだけなのかもしれない。足の不自由な人がスケートに乗ってみたいと強く思っているようなものである。本当はこの目的は心の奥からきているのではなく、自分に障害があるという悔しい気持ちからきているのかもしれない。目的は達成が困難であれば魅力も大きくなる。もし目的の達成が難しいのであれば、それを断念して、しばらく自分を観察してみよう。もしホッと安堵するのならば、それは他人の目的だったことになる。もし憤慨や抗議といったような感情を覚えるならば、その目的はあなたのものかもしれない。
 目的を選ぶ際に、唯一頼りにして良い基準は、魂の不快である。これは理性が既に下した決定に対する魂からの否定的な反応のことである。魂の快・不快については、理性が自分に目的を定めた後であれば、確かめることが出来る。あなたはすでに目的を成し遂げ、すべては過去のもとなったとイメージしてみよう。イメージしたら、目的についてどうこう議論することは中止し、魂の感覚に注意を払おう。気分はどうだろうか。良いか悪いか、どうだろう。もし喜びの中に懸念、重苦しさ義務感などが混じっているなのなら、魂はハッキリ「いいえ」と言っていることになる。理性は、美しく包装された目的の中に何らかの不快な成分が含まれていることを推測できない。だが、魂はこれを感じ取る。
 魂の不快な感じは、不明瞭で漠然としているかもしない。魂のぎこちなさを魂の不快と取り違えないようにしよう。前章でも触れたとおり、ぎこちなさやある種のためらいは、「本当にこれを全部私に」というように非日常的な状況から発生する。魂の不快とは、気落ちしたら重圧を背負ったりしているような重苦しい感じのことで、理性が楽観的な見解を披露する背後で微かに表れてくる。魂のぎこちなさはスライドを利用することにより解消できるが、魂の不快はどうしても解消できない。あなたがそうした物を得るに値しないと考えることこそが、最も大きな過ちである。本当にそれは馬鹿げたことである。そんな幼稚なレッテルをあなたに貼り付けたのはコマである。あなたは最もよいものを受け取るべき価値がある。とにかく、結論を急いではいけない。自分の目的をスライドにして試してみよう。もし時間が過ぎても重苦しい感じが消えないのであれば、魂の不快と関係があることになる。
 もしあなたが目的自体のどこかに魂の不快を感じるのであれば、その目的は他人のものという事である。もし目的が達成困難なのものという認識から魂の不快を感じるのであれば、その目的は快適域に入っていないか、または、あなたが他人の扉を選んだ事になる。自分の目的をハッキリと決めないうちは、達成手段について考えてはならない。もしある役割に就いた自分を明確に維持することが出来ないならば、あなたにはまだそれを受け入れる準備が出来ていない。快適域はスライドを利用して広げることが出来る。扉について心配するにはおよばない。あなたに求められているのは、所有する決意だけである。所有する決意があれば、魂の意図は遅かれ早かれ必要な扉を探し出す。

〇あなたには自分の胸の奥にしまっている願望があり、それを達成するにはどうすべきか、およそでいいからイメージしてみることを前提で私は最初から話してきた。願望がどのような形で実現されるかについて、たとえ全然予想がつかなくても、それは少しも構わない。あなたに事象をを所有する決意があれば、事象は見つかるだろう。一番大事なことは、胸に秘めていた本物の願望を特定し、それを所有し行動する決意を持つことなのであり。意図は願望を目的に変える。意図のない願望は決して実現しない。ともあれ、最初は、あなたが人生から何を欲するのか、明らかにする必要がある。「お金持ちになって幸せになりたい」というようなあいまいな表現は効力を発揮しない。
 何ら具体的な目的もなく街を歩いているところを想像願いたい。気の向くままにただのんびりと歩くのである。あなたはどこへたどり着くだろうか。わからない。もし具体的な目的地があるならば、たとえ行き方を正確に知らなくても、遅かれ早かれあなたはそこへ度りつく事だろう。人生でも同じことである。あなたに目的がなければ、あなたは荒れ狂う川に浮かぶ紙の船となる。もし目的があって、あなたがそれに迎え撃とうとすれば、たどり着けるかもしれない。しかし、たどりつけないこともある。
 百パーセントの保証付きで目的を達成できる場合が一つだけある。目的があなたのもので、あなたが自分の扉を通ってそれに向かう場合である。この場合は、だれからも何からも邪魔されない。なぜならあなたの魂のフレイルの鍵は、あなたの道へと続く扉の錠前にぴったり一致しているからである。あなたの進もうとする道を奪い取ろうとするものは誰もない。そんなわけで、目的達成にかかわる問題は何もない。問題なのは、あなたの目的と扉を見つけることだけである。
 まず第一に、目的は何らかの一時的な欲求によって決まってくるものでは無い。目的とは、「あなたは人生から何を欲しているか?どんなことがあなたの人生に喜びにあふれた幸せなものとするのか?」という質問に答えるものでなくてはならない。ただのこのことだけが重要なのである。残るすべてはコマによる見せかけだけのものとみていい。
 一番大事な目的を一つ見つけていただきたい。その目的が達成されれば、残るすべての願望も達成されるだろう。もしあなたに何も浮かんでこなければ、最初は、例えばこんな目的を作って見よう。あなたは人生から快適さと幸福を欲する、というものである。快適さと幸福とはあなたの理解ではどういうものだろう? 家、車、センスの良い服、その他快適な生活につきものの品々を持つという要求は、高収入の仕事を持つという一つの目的に置き換えられる。しかし、すでにご承知の通り、これはまだ目的ではなく扉なのだが、それもぼんやりとした輪郭の扉である。
 高収入の仕事は、独自の分野において右に出る者のいない優秀な専門家になりという具体的表現に置き換えられる。あなたの魂は何を気に入っているのだろうか。だが、疑問が生まれてくる。この仕事が人生の全ての意味にを満たしてくれるのか、というものである。もしそうであるなら、それは幸運な事である。あなたの目的と扉は一致している。仮に、あなたの魂が科学、文化、あるいは芸術の一定分野に惹かれているとしよう、そういう時はあなたは好きな仕事に従事しながら発見を成し遂げたり、傑作を作ったりする事だろう。そんな人生ラインの幸せは今ここにあるのであって、どこかこの先にあるのではない。快適な生活につきもののその他すべての条件は、ほかの人々にとっては大変な苦労の末に手に入れるものなのに、あなたの場合はそうなることが当たり前のように、ひとりでに集まってくる。なぜならあなたは自分の道を進んでいるからである。
 もし喜びをもたらし快適さの属性が一生涯を満たしてくれるような好ましい仕事が、たった一つでは無いとしたらどうだろう。その仕事はおそらくあなたの扉だと識別するあらゆる属性を伴い、人生を祝日に変えてくれるという事を忘れないでいただきたい。目下のところは、達成手段、つまり扉のことは考えないようにしよう。大事なのは目的を決めることである。扉は時間の経過とともにひとりでに見つかるだろう。

〇私たちは深く根を張っている固定観念にあまりにも慣れっこになり、そうしたものを人類が営々として築き上げてきた貴重な経験として受け入れてしまう。実際には、コマが固定観念を作り上げ、人々は固定観念に同意させられるのである。社会全体が駒の上に築かれている。コマは、信奉者たちを自分に従わせるエネルギー情報体として、自分のルールによつて生存し、独自に成長していく。コマによる人間への影響は大変に強いため、人間の理性は朦朧となり、自立して意識的に思考する能力を失う。
 第二次世界単線中のドイツ・ナチスが犯した犯罪を例に挙げてみよう。彼らは大変おぞましいことを行った。ファシストたちは、病的にサディズムの傾向を持つ非常に冷酷な人々だったのだろうか。いいや、そうではない。彼らの大部分は私たちと同じような普通の人々であった。彼らには家族がいて、親しい人々を愛し、面倒を見た。戦争が終わり、復員後は平和な生活に戻り、再び普通の善良なドイツ市民となった。
 一体なぜきちんとした家庭人たちが戦争中は獣と化したのだろう。なぜなら彼らの理性がコマに支配されていたからである。コマ同士の戦いに引きずり込まれた信奉者たちは文字通り何をしていのか分からなくなる。未成年者らの無分別で残酷な行為に、こうしたことが特に顕著に見られる。若くて不安定な精神はコマからは無防備で、その影響を受けやすい。未成年者一人一人を取り上げてみると、残区そうにはとても思えない。親たちもその点に関しては請け合う。だが、コマの影響下に陥り、例えば群衆の一部になってしまうと、自分が何をしているのか把握する事をやめてしまうのである。群衆の各メンバーの理性は、文字通り眠っている。なぜなら理性がコマの罠にはまってしまったからである。誘導移転の仕組みを覚えておられるだろうか。
 この世界における全ての悪意、残虐性、暴力は、人々の本性が低次元にあるからではなく、コマの本性が貪欲であることから起こる。人間の魂は悪意というものを知らない。すべての悪意は、破壊的な影響を持つコマからの攻撃として、理性において具現化される。
 コマは他人に対してだけでなく自分に対しても暴力を用いるよう、人々を先導する。「リスクを冒さぬ物は、シャンパンを飲めない」。こんな勇ましいスローガンはお好きだろうか。ここには、自分の幸せをかけた勝負に出るか、それとも他人の考えに操られた人生を送るか、いったいどちらを選ぶのかかという挑発が含まれている。もしその考えが他人のものではなく自分のものであれば、リスクには正当な根拠ができ、おそらくリスクを冒すに値するものとなるだろう。そうではなく、健康や命を危険にさらすような正当化のできないリスクであれば、それ以上に愚かな行為はないことになる。
 リスクを冒すような行動に人間を駆り立てるのはコマである。なぜなら、リスクを犯そうとするものが味わう恐怖、緊張、興奮はコマが大好物とするエネルギーだからである。コマは、偽りの勇気という固定観念を利用して、あるいは自分の具体的な信望者の助けを借りて生贄を手に入れようとする。「ほら、怖気づく。出来るところを見せてみろ。臆病者に見られたくないんだろ」。内的重要性で満タンになった人間は、自分が弱虫でないことをみんなに証明しようとする。その人は偽りの固定観念の罠にかかってしまった。だれに何も証明してやる義務はなく、人形使いの意見は無視すればよいという事が、その人の頭には浮かんでこないのである。
 自分の劣等感は、コマの言うなりになるようにその人を強いる。正当化できないリスクを冒すことは、決して勇気を示すことにはならず、やはりこれも自分を偽りコンプレックスを隠そうとすることに他ならない。理性は、疑わしい固定観念に従って、自分の魂を粗末に取り扱う。小さい哀れな魂はさらに小さく縮まり、向う見ずな理性が何をするのかと、慄きながら見ているばかりで、手を出すことはできない。魂にとっての理性とは、良くてせいぜい自分の役立たずぶりを家族に当たり散らす失敗続きの負け犬程度である。悪くすると、酔っぱらって逆上し、自分の赤ん坊を殴る畜生にまでなり下がる。
 あなたの理性がしつこい幻影から目を覚ますことを祈る。理性には、魂という計り知れない価値を持つ驚くべき宝物がある。魂と理性を一つに結びつけることで、あなたは本物の自由と力を得ることが出来る。コマにとって形作られた固定観念の打破を恐れてはならない。この世界における多くの物事の本質があなたの目の前に明らかにされるだろう。あなたは、固定観念を打破することで、閉ざされていた扉を開けることになる。

〇コマについてはすでにたくさんの事を語ってきたが、また新たな例を紹介しよう。どうやってコマはあなたが道に迷うように仕向けるかという事についてである。コマがもっともらしい何らかの口実を設けて、他人の目的をあなたに押し付けてはいないか考えてみて欲しい。例えば、「善良なるあなたの魂」に助けを求めるアピールがある。あなたに示される対象は、絶滅に瀕する動物、負傷兵、飢餓に苦しむ子供たち、または、世話を必要とする誰かであったりする。あるいは、どこかで自由のための闘争が繰り広げられていて、勇敢なあなたの参加を求められている。善良なるあなたの魂は、自分が必要とされている彼の地へと直ちに急行することになる。
 実はこれは、善良なる魂ではなく、善良なる理性である。いや、決して善良ではない。魂の伴わない薄情ぶりを示しているだけである。この場合の理性は、自分の魂の事を忘れ、ほかの人々の魂の救出にとりかかろうとしている。これは、災難の真っただ中にいる自分の子供を放り出して、よその子供を救うのと同じである。善良なる理性は魂を箱の中に追い込み、自分の筋の通った考えだけを通そうとする。当然、あなたの心に空白が生まれ、それを何かで埋め合わせなければならなくなる。
 ここでコマはありとあらゆる種類の埋め合わせ材料を提案する。そして、自分のエネルギーを他人の幸福のために使う様々な方法が載っているリストをあなたに示す。しかし、心の空白を満たすためと言って、人は他人からの誘いにそれほど元気よく反応するものだろうか、広く受け入れられている固定観念を善意や思いやりに見せかけることの方がよほど心の空白になるというのが本当のところでは無いか。理性は心の空白を他人への心配によって補おうとするのだが、その一方で、魂の要求は満たされないままの状態であり続ける。コマにとっては、他人について心配することを心の寛大さであると見せかけることが有益なのである。
 このようにコマは非常に説得力のある固定観念を巧みに作り上げる。しかし、そうしたすべては美しく装われたデマなのである。あな個人の魂はいかがであろう。本当にあなたの理性は他人のために自分の魂を放り捨てるだろうか。そんな事はあるはずがない。だから私はあなたのコマとの関係を断ち、あなたの魂を箱から出してあげるようにとしつこいくらいに進めているのである。自分を愛するようになると、自分の目的がわかるだろう。目的まで続く道で、あなたは真に善良で人の役に立つ多くのことを成し遂げることだろう。そいして、多くの貧しい人々や不幸な人々に救いの手を差し伸べるるのはもちろんのことだ。なぜなら、あなたの目の前にはそのための大きなチャンスが現れるからである。
 けれども、まだ目的が決まらない内は、どんな呼びかけに対してもほどほどの対応をすべきだろう。あなたの内的重要性と外的重要性は、最低のレベルに維持されていなくてはならない。次に述べるコマ同士の戦いでは、コマはさらなるエネルギーを必要とするのである。
 ここで二つのコマが戦いを開始しようとしているところを思い浮かべてほしい。一方のコマは自分を正義の解放者だと名乗っている。そして、あなたのコマは独裁者であり、危険極まりない者略者に変身する可能性もあり得るとして非難するのである。しかし実際のところ正義のコマと名乗る側にとっては、自分のライバルを呑み込み、石油その他の資源を占領しさえすればいいだけなのだ、そのことについては一言も触れず、自由と正義を守るためというプロパガンダのキャンペーンを広範囲で展開する。
 重要性で染まっているためまんまとコマの罠にはまってしまった人は、こういう。「私が虐げられている民族を解放してやろう。独裁者や侵略者に思い知らせてやろう」そうこうしているうちに、相手のコマは信奉者たちをまとめて陣営を組織する。独裁者のコマは、自分は本当はいいやつで、解放者と自称するものこそ略者なのだと断言する。やはり重要性であふれんばかりになっている別の人が、憤慨してこう言う。「なんだと、奴らが宣戦布告しただと。私に知らせもせず、勝手に、通りへ出て行って、声を限りに怒りの講義をしてやるぞ」。この人は、戦争に突き進み、自らの命を他者の自由のために譲れ渡すことならやりかねない。                                                                                                                                           
 どちらの陣営の信奉者たちもコマ同志の戦いに同じ理由で引き入れられようとしていることがお分かりいただけるだろう。その理由は、信奉者たちの内的重要性と外的重要性が高まり、自分たちの内部には心の空白が生じ、それが結局は埋め合わされるどころか、かえってますます大きくなってしまったことにある。戦いに引き荒れられた信奉者たちは何を得るのだろう。戦争支持者たちは、「我々は騙されていた。本当は、この戦争は不要であった。それはすべての参戦者に災いをもたらしただけだった」と断言する。平和支持者たちも痛い目にあう。侵略者でありコマが襲い掛かった寄る辺ない民は、は敗北した自分たちの為政者に早々と見切りをつけ、保護国の大使館を激しく非難し、人道援助物資を盗み出し、侵略者の前では平身低頭を始めるのである。
 コマ同士の戦いに参加し、あらゆる高潔な理想のために戦ってきた信望者たちは、明らかにシャボンだまのようなものである。内側には心の空白ができ、表面は見せかけ倒しの重要性による虹色の幕をまとっている。このような苦労の全てが、信奉者たちの魂に必要だったのだろうか。
 あなたが定めた目的が具体的にあなた故人に役に立ってくれず、他人の役に立つのであれば、簡単な方法でその目的の進化を確かめることが出来る。もし他人への心配が外から押し付けられたものであれば、どのような方法によって押し付けられているかには関係なく、それは他人の目的である。もし他人への心配が内側から、つまり心の奥深くからくるものであれば、その目的はあなたのものである。例えば、「ただ私は自分の子供たちの面倒を見ることが好きで、それがちっとも苦にならない」、あるいは「私は自分の子供たちが大好きで、世話をしたり、成長する様子を見守り、一緒に喜びたいだけ」というケースがあるだろう。それもいいが彼らが大きく育ったら、あなたは別の目的を見つけなくてはならない。
 あなた以外に誰もあなたの目的を指し示すことはできない。あなたの目的をみつける方法が一つだけある。それは、重要性を振り払い、コマとの関係を断ち、自分の魂に注目することである。誰よりもまず自分を愛し、自分のことについて第一に心配するのである。あなたの目的ーと続く道を見つけるには、この方法しかない。
 理性の過ちは目的達成の現実性をすぐに評価し、前もってすべての手段を計算する点にある。すべてが合理的でなければならないのである。もし目的達成の現実性に疑問が出てくるならば、目的は根本から否定されるか、またはずっと先に延期されてしまう。こんな調子では、人は目指す人生ラインに決して同調することが出来ない。逆に、達成手段をあれこれ考えていると、人は失敗の人生ラインと同調してしまう。なぜなら、頭の中では、ありとあらゆる失敗のシナリオが展開されているからである。通常のやり方では目的は達成できないし、奇跡も起こりはしない。実際に、ありふれた世界観の枠内では、達成困難な課題はまれにしか実現されないし、それは本当にそうならざるを得ないのである。なぜなら、疑いを持っている人の思考放射のパラメーターは、どうしても目指すラインとは合致しないからである。
 奇跡が起こるのは、あなたがお馴染みの固定観念を叩き壊し、目的の達成手段については考えず、目的自体について考えるときに限られる。そうすると以前は非現実的と思えていたことが、突如、予期しない方角から姿を表す。予想外で、まるで偶然のように、目的達成のための極めて現実的な道が開けてくる。通常の世界観では、これは奇跡的な偶然の重なりに見えることだろう。こんな場合、理性は両手を広げてこう言うしかない。「こんなこと、だれも予想できるわけがないじゃないか」
 事象選択の観点からすれば、ここに奇跡は何もない。あなたは目指す人生ラインの周波数に同調し、所有する決意を得たため、魂の意図がその人生ラインへとあなたを移動させただけの話である。新たな人生ラインでは、これまでの人生ラインで思ってもみなかったような新たな可能性が現れ、扉が開かれる。

〇他人の目的は魂の不快を引き起こす。通常、偽りの目的は、とても魅力的なものである。それに熱を上げた理性は、目的のありとあやゆるメリットとを鮮やかに描き出す。ところが、目的がこれほど魅力的であるにもかかわらず、あなたがどこかが重苦しく感じられるのであれば、自分に正直になる必要がある。もちろん理性は何も聞こうとはしない。すべては素敵で素晴らしいのだから、それではちらつく不快な気持ちは、いったいどこからくるのだろう。ここで前章からの重要な法則を繰り返すことにしよう。目的について考えるときには、それの持っている威厳性、近寄りがたさ、達成手段については考えないようにして、魂の快・不快についてだけ注意を払う。では、すでにあなたは目的を達成し、すべては過去のことになったと想像してみよう。気分はどうだろうか。良いか、悪いか。もし喜びに不安や重苦しい感じが混じっているとしたら、それは魂の不快である。他人の目的とつながる価値はあるのだろうか。あなたの目的は遥かに魅力的で、一転の曇りもないずっと大きなヨ喜びをもたらすだろう。コマからの申し出を撥ねつけて、あなたの目的を見つければよいだけである。
 もしこの世界であなたが占めている場所が満足をもたらさず、あるいは、不運な出来事が立て続けに起こるのであれば、あなたは折悪く破壊的コマの影響下に陥り、他人の扉を通って、他人の目的へと続く道を進んであるのである。他人の目的を追いかけることは、多くのエネルギーと労力を必要とする。反対に、あなたの目的を達成することは、まるですべてがひとりでに起こっているように、スラスラと進む。他人の目的と扉は、いつもあなたに苦悩を背負わせる。自分の目的と扉を見つけ出そう。そうすれば、あらゆる問題は消えてなくなる。
 「もし私が何を欲しいのか自分で知らないとしたら、それをどうやって知ることが出来るのだろう」とあなたは言うかもしれない。それに対しては、こうした質問をしてみたい。「一度でも自分でその事について真剣に考えたことがあるだろうか」と。不可解なことだが、大半の人々はコマにかかわる仕事で頭がいっぱいで、まるで駒鼠のように走り回ることに忙しく、自分や自分の魂のための時間をみつけることが出来ないでいる。彼はら、コマの影響下に置かれたままの状態で、自分の人生に一体何を望むかについて、走りながら、仕事の合間に、瞬間的に、深く考えることなく、結論を出す。しかし、本当は、自分を深く掘り下げることなど必要はなく、ある時間一人になり、気持ちを落ち着けて心のさざめきを聞くだけでよいのである。
 もし全く何もしたくないというのならどうだろう。それは、あなたのエネルギー・ポテンシャルが極めて低いことを示している。抑うつ状態や無気力状態は、生命を維持するだけで精一杯のエネルギーしか無いことの証明である。あなたはエネルギーを増強しなければならない。あなたの魂が何も欲していないわけがない。魂の声を聞いてあげる力があなたないだけなのである。

〇他人の目的は、その近寄りがたさであなたを誘惑する。人間は、鍵の掛かっているもの全てに引き付けられるようにできている。近寄りがたさはそれを所有してみたい願望を生み出す。このような人間心理の特徴は、たくさん欲しいのにほんの少ししか許されなかった子供時代にまでさかのぼる。もし赤ん坊が欲しいおもちゃを断られたら、へとへとに疲れ果てでも、それを手に入れようとするだろう。だが、手に入れてしまったら、そのおもちゃへの興味をすっかり失ってしまう。大人には別の意味のおもちゃがあるが、彼らも子供と同じように振る舞う。例えば、赤ん坊のような大人が、音感もなく、良い声も出せない癖に歌うことが天分だと思ったとしよう。実際、このコマドリさんは、歌が自分の進むべき道では無いことを認めたがらないのである。「他の奴らはうまくやっているのに、自分のどこが奴らよりも劣っているというのだ」目的の重要性をふりはらってから、次の質問に応えよう。あなたは本当に心の底から望んであるのか、それとも、望む行為だけがしたいのか、もし目的を達成する行為によって自分やほかの人々に何かを見せつけたいのであれば、つまりそれは偽りの目的である。あなたは本来の目的は、首にかけられた重たいおもりではなく、あなたに本当の喜びしかもたらさないのである。
 他人の目的は、他人によって押し付けられたものである。あなた以外に誰もあなたの目的を定めることはできない。どのように振る舞うかについて「知識や経験の豊富な人々」の教訓を静かに傾聴する事はあるだろう。自分としての結論を出して、学んできたとおりに振る舞おう。しかし、だれかがあなたの目指すべき方向について教えを垂れようとし始めたら、その人があなたの魂に押し入ろうとしているのである。そうした許しがたい行為は即座にはねつけよう。そうでなくても魂は理性による馬鹿げた考えで手一杯なのである。だれもあなたの目的を指し示すことはできない。一つだけ例外がある。何気なく投げかけられた言葉には真実があるという事である。思い出していただいたように、偶然に発せられた言葉はサインになる場合がある。サインであれば、あなたはすぐに感じ取ることだろう。誰かの口から出た前もって用意されてはいなかった言葉は、突如、あなたの魂に小さな灯をつけることがある。もしそれがあなたの目的に触れたのであれば、俄然、あなたの魂は活気づき、「これこそ必要なのだ」とあなたに認識してもらおうとする。しかし、そういう瞬間とは、何かについて人があなたを説得しようとしたり、真実の道へと教え導こうとしている時のことではない。なたが誰かに何らかのコメントをもらったり、アドバイスしてもらったりしているときに訪れるはずなのである。 
 他人の目的は、あなたが他人の幸せに貢献するものでしかない。もし目的があなたの人生に好転をもたらさなければ、その目的はあなたのものものではないことになる。本当の目的は、いつもあなたのため、あなたの幸福や成功のために作用するものである。あなたの目的は、あなただけにとって必要とされる。もしそのも目的が他人の求めるものを満足させるためや他人の幸福に貢献するために直接や役立っているのであれば、その目的は他人のものという事になる。コマはもっともらしいあらゆる口実を使って、他人に使えようあなたを強制しようとする。様々な手段が存在する。罪悪感を募らせている人々には、通常「・・・・ねばならない」とか「・・・・という義務がある」という言葉が効力を持つ。そのような人々は、自分の幻の罪悪感を作り上げることに慰めを見出す。「君の助けが必要なんだよ」という文句に動かされる人たちもいる。この文句はよく聞くのである。ご理解いただいている通り、これらの方法は内的重要性や外的重要性によって保たれる。私たちは何よりもまず自分のために生きているのであって、誰に対しても何の義務も借りも無いという事を覚えておくべきである。あなたは他人を幸せにすることはできない。しかし、もしあなた自身が不幸であるなら、彼らにちょっと嫌がらせをすることくらいはできるだろう。

〇魂は、コマに熱を上げた理性が人生を台無しにする様子を眺めているが、自分では何も変えることはできない。理性はこの世界にやってきても、何をするべきか、何が欲しいか、何に向かっていけばよいか、ハッキリとは知らない。魂は、正確に走らなくても、少なくとも検討をつけることが出来るのであるが、理性は魂の伝えたいことを聞こうとはしないい。そこで魂たちは理性を自分の意思に従わせようとして、理性に自分の目的とゲームのルールを押し付ける。コマたちは人々が他人の目的を選び、他人の扉の前に群がるよう仕向ける。理性に影響を与え与党とする魂の弱々しい試みは何の効果もない。コマたちからの影響は、それほど強力なのである。
 私たちの多くは子供のころから、成功とは、たゆまぬ努力によってしか達成できないものだと教え込まれて来た。また、障害を克服しながら自分の目的を目指して粘り強く進む必要があるとも教えられてきた。そこにある最も大きな誤解の一つが、幸福を得るためには忍耐と我慢を重ねつつ戦い、たくさんの障害を乗り越える、すなわち、日の当たる場所を奪い取る覚悟が必要という点である。これは非常に有害な誤った固定観念である。
 この固定観念がどのようにして形成されたのか見てみよう。通常、人はコマの影響下に陥ると、自分本来の道から外れてしまう。当然のことだが、その人の進もうとする道には、障害が山のように積まれている。しかし、人は幸福をつかみたいから、山のような障害を乗り越えるしかなくなる。ここでその人は何を誤解していのだろうか。他人の扉を経由して、他人の目的に向かおうとしている点だろうか。否、答えは、あなたにとっても読者にとっても、またしても意外なものである。
 人が誤解しているのは「もし私が障害を乗り越えたら、その先には幸せが待っているに違いない」と思い込んであることにある。これは幻想以外の何物でもない。その先には幸せなど待っていない。どんなに頑張っても、いつもその人は沈もうとする夕日を追いかけるような状態のままなのである。他人の人生ラインでは、近い将来においても、遠く離れた将来においても、どんな幸せも待ってはいない。
 掲げた目的を大変な苦労をして達成した多くの人々は、無気力以外に何も感じてはいない。幸せはどこへ行ったのか。幸せなど、そこには始めから無かったのである。幸せだと思われたのは、コマによってもたらされた蜃気楼であった。コマはそうする事で、幻の幸せへと向かう途中の人間からエネルギーをもらうことが出来るのである。もう一度繰り返す。その先に幸せは待っていない。幸せは現在いる人生ライン上の今ここにあるか、それとも、全くないかのどちらかなのである。
 それでは事象選択モデルにおける幸せとは、いったいどこにあるのだろう。もし自分の目的を達成したなら、幸せはやってくるのだろうか。そうではない。幸せは、自分の扉を通って自分の目的へと進んでいる時にやってくる。もし人が自分の人生ライン上、つまり自分の道の上にいるのであれば、たとえ目的はまだ先にあろうとも、いま既に幸せを味わっている。そういう時、人生は祝日に変わる。そして目的が達成されたら、喜びは一段と大きくなることだろう。このように、自分の目的へと向かうことそのものが既に毎日を祝日に変えてくれる。他人の目的へと向かうことは、いつも祝日を幻の未来に預けておく事になる。他人の目的の達成は、幸せではなく、絶望か無力感しかもたらしはしない。
 あなたの目的は、あなたに本当の喜びをもたらす。それは一時的な満足感をもたらすものではなく、人生の喜びという感覚をもたらすものである。あなたの扉は、人の目的へと続く道である。あなたはその道の途中で幸福とインスピレーションを感じる。そこを進むと、いつもすべてが簡単に与えらられるとは限らいな。なにはともあれ、あなたの扉を通って進めば、無力感に陥ることはなく、逆に力がみなぎってくるのを感じるのである。
 もし自分の扉を通って自分の目的へと進んでいるのなら、障害を乗り越えることも容易で、苦労も大した負担にはならない。もし目的へ続くはずの道で、あなたが全力を傾けて苦労しても、インスピレーションがもたらされず疲れ切ってしまったのであれば、それは他人の目的へ向かおうとしているか、自分の扉ではないところへ押し入ろうとしているのである。そこで、他人の目的に向かって進む場合の特徴的な兆しとはどんなものか見てみよう。
 他人の目的に向かうことは、いつも自分自身への暴力であり、強制であり、義務である。もしあなたの目的と思うものの中に、たとえほんの少しでも強制力を感じるのであれば、勇気をもってその目的とは縁を切ろう。目的があなたのものならば、自分を説得する必要はない。目的へと進むことは心地よいからである。目的の達成プロセスは喜びをもたらす。ところが、他人の目的へと突き進むあなたは、たくさんの障害を乗り越えることになる。他人の目的へと続く道は、常に戦いの連続である。コマにとって必要なのは、皆が駒のメカニズム全体のためにねじくぎとしての仕事をきちんとこなしてくれることなのである。あなたにとってもつらい事だろうが、あなたはそれをやり遂げることだろう。なぜなら、コマはあなたに、すべては重労働によって与えられると吹き込んだからである「もしお前さんが気丈な奴なら、自分に打ち勝ち、自分の道から邪魔なもの排除し、たとえ火の中、水の中、お構いなしにくぐりぬて突き進み、日の当たる場所を勝ち取ることだろう。もしお前さんが気弱な奴なら、身の程ってものを知り、少し黙ってな」
 他人の目的は、流行や権威といった仮面で装う。コマにとってはあなたを他人の人生ラインへとおびき寄せる必要があるため、どんなことでもやりのける。人参はとてもおいしそうに見えなければならない。そうすると、理性は向う見ずに飛びつくという寸法である。コマはどんな場合でもあなたに「私のようにやってごらん」と強制できるとは限らない。そのため、スターたちの成功物語という伝説が作られた。あなた自身がそれを真似したくなるように。そうなるように、コマはスターたちが成功した方法をアピールする。他人の経験を繰り返してみるか、何も得ないままであるか、どちらかしかないというのである。あなたに成功をつかむ方法がわかるはずも無い。だが、コマは知っている。成功は目前だという。ところが、既に述べたように、スターたちが成功を手にしたのは、まさに「私のようにやってごらん」という手口に乗らず、自分の道を進んだからに他ならない。あなたが成功する方法は、あなたの魂のほかに誰も知らない。

〇成功の秘訣は、あなたがコマの影響から解放されて、自分の道を進むことにある。地平線上に新たなスターが現れようとしている様子を見て、コマに何ができるだろう。前に述べたように、スターを輝かせるのはコマである。コマにとって、あなたをスター、すなわちお気に入りにする以外の手は残されていない。コマは全てをコントロール下に置こうとするので、あなたが輝くことまで手伝おうとするのである。もし運が良ければ、自分のコマを作り上げて、そのお気に入れになることもあるだろう。
 今述べたことは洋服だけに限らない。その原則は、あなたが行っているあらゆることに応用可能である。ありのままの自分になることは、大変贅沢な特権である。そして、それを思い切ってやろうとする者は一握りしかいない。その原因は、「あまりにも強くコマに依存しているから」というただ一つの点にある。コマたちにとって必要なのは、自由な個人ではなく忠実な操り人形の方である。こうした事情を理解し、コマからの余計な影響から脱却して本当の自分になろう。
 言い換えると、あなたの理性は自分の認識回路に、次のように単純な真実を書き加えるべきだという事である。それは、「一つ一つには、それぞれの魂の独自性というかけがえのない宝物がある」というものである。どんな人でもポケットの中に成功への鍵を持っているのにそれを使おうとしない。あなたの理性が魂の手を取り、おもちゃ屋へ連れていき、魂自身に好きな玩具を選ばせてあげるようにしよう。
 魂と理性が一致することはまれにしか起こらないので、それを売り物にすれば、文字通り有益となる。文化・芸術分野のあらゆる傑作は、魂と理性の一致により出現した本質部分である。スターがスターとなっていられるのは、人々にはないものによって人々を引き付けるからである。それは魂と理性の一致である。
 これまでに私たちは、人生ラインで繋がっているセクターを持つ亜空間と言いう人間にとっての外部世界について考えてきた。もし人間の思考放射エネルギーのパラメーターがあるセクターに合致したら、そのセクターは物質的に現実化される。しかし、エネルギーという面について言えば、人間自身も独自のユニークな放射スペクトルを放つ個体としての本質を持っている。個々人が亜空間に、その人の魂のフレイルに最もふさわしい「自分自身の」人生ラインを持っている。
 自分自身の人生ラインでは人は最小限の障害にしか遭遇せず、すべての状況が自部に有利になるよう展開する。人の魂のフレイルはジフンの人生ラインと融合し、簡単に自分の目的を達成する。同様に、専用のカギは鍵穴で楽々と回り、閉まっていた扉を開けてくれる。こうしたことの全てがなぜどのようにして起こるのか、私たちが正確に知る必要はない。各人が自分のための道を持っているという事実だけが意味を持ち、もし人が自分の扉を通って自分の目的に向かって進んでいるのなら、すべてはうまくいくだろう。
 そうではなく、もし人が自分の道からそれたとしたら、その人にはありとあらゆる困難が襲い掛かり、人生は生存をかけた戦いの連続に変わる。魂にとって、それは本当の悲劇である。あなただって、もし休日に天気が悪ければ、調子をおかしくすることだろう。魂に与えられたこの人生というまたとないチャンスが無駄になるとしたら、魂の気持ちをあなたも容易に察することが出来ると思う。

〇あなたは流行の発信者になりたくは無いだろうか。いままでは、ほかの人々がどのような服装をしているかに注目し、流行に遅れないようについて行くだけだった。いったい誰が流行というものを作るのか、あなたは考えたこともなかった。流行はトップを走る服装デザイナーたちのサロンで誕生するのでなく、彼らが流行のネタを拝借してくるだけなのである。流行の新たな傾向は、コマから比較的自由な人々によって生み出される。このような人たちは、自分独自の判断や価値観を持っている。だから流行の発信者になることが出来る。彼はら、心が命じるままに服装を着込むので、とてもよく似合う。その後、そうした着こなしのアイデアを他の人たちが気づき、取り入れ、自然に広がっていくわけである。
 流行を無批判に追いかけると、自分の外観を根本からゆがめる恐れがある。注意して観察してみると、全く流行とは関係のない服装をしたエレガントな人々を発見するだろう。彼らの服装には何かがあることは明らかで、流行から外れていることを批判してみようなどとは思いもよらない。こうした人たちとは反対に、あらゆる流行を取り入れて着飾っている人々をよく見かけるが、全く似合わないので見ているのがつらくなってくる。模倣する人々は、流行のコマが定めた他人の目的めがけて、意思の意図の道を向う見ずに突き進む。そのような人々は、自分の好みについて深く考えた試しがない、(私のようにやってごらん)というコマの手口に嵌まっている。ここでフランスの諺を引用しておこう。「流行から外れることを恐れるな、滑稽に見えることを恐れよ」
 流行はスタイルが外面に出るが、内面にはそのスタイルがまさしくあなたに似合っているかどうかという本質がある。あなたは何を望んでいるのか、ハッキリとイメージする事だけは必要である。流行を追っているように見られたいのか、それとも、エレガントに見られたいのか、どちらなのだろう。どちらも同じというわけではない。あなたはどちらが良いと思っているのだろう。自分の精神に全く合わない恐ろしくレトロな服装で派手に着飾ることもできる。しかし、もしそれがあなたのものであるならば、周りのみんなはうらやましくて仕方がないだろう。
 流行を追いかけることは、流行のコマが主催するゲームに参加することに他ならない。おそらくあなたはそれに気づかれたと思う。流行の潮流は、次々と現れては消える。これは最も短い命を持つコマのことつである。それなコマの影響下にあなたが置かれても、恐ろしいことは何もない。大事なことは、あなたがそれを理解し、コマに代償を払うのではなく、流行から利益を引き出そうとする点にある。
 あなたは難なく自分自身の流行のコマを創ることが出来る。それはとても簡単なことである。他のコマから顔を背け、自分自身と向き合うのである。魅力的でエレガントに見えるようにするという目的を掲げよう。具体的に行うことは何もない。これまでに説明した方法に従って、商店街を歩き、商品を見て回ろう。いまの流行の事は忘れよう。商品を見ている時の感覚にだけ注意を払おう。自分自身の分析機関はオフにしておこう。思考、比較、判断はすべてやめにしよう。あれこれ考えたり分析したりしようとする自分に気付いたら、すぐにその無益な行為をやめよう。心のさざめきに聞き入ろう。
 きっとすぐには何も起こらないだろう。多少の時間を使って、自分の目的を実現する願望と縁を切ろう。何も起こらなくても、失うものは何もないではないか。目的を達成する義務から自分を解放しよう。重要性を振り払い、強く握りしめているものを手放そう。歩き回り、商品を眺め、気が向いたら試着してみるのもいいだろう。事象の流れを信じよう。
 同時に、頭の中であなたの目的のスライドを再生することは有益である。しかし、それはあなたの外観についての具体的な画像であってはならない。あなたが周囲の人々の注意を引き付けていて、エレガントで魅力的で個性的に見えるときに感じた感覚から出来ているスライドを再生するのである。
 他と大きく異なっていたり、デザインが凝っていたりするものを見つけようとする願望とは縁を切ろう、突飛なものが必ずあなたに似合う保証があるわけでは決してない。そんなことをしなくても、きっと予想外の発見があなたを待ち受けているはずである。しばらくしたら、あなたは必ず独創的で個性的な解決策を見つけるだろう。魂と理性の一致が達成されると、すぐに何物にも比べようのない感情を経験することになる。それは驚きと喜びの入り混じったものである。あなたはすぐにそれを理解するが、「これが必要だったんだ」と独り言を言うような程度では済まない。「まさか、頭が変になる」というくらいにあなたは興奮し、叫びたくなるだろう。あなたの可能性を限定するのは、自分自身の意図だけである。