〇人間は、別に存在するリアリティを目にするだけでなく、現実を歪曲された色彩で知覚することもある。人間の知覚は、幼年時代からインプットされてきた情報によって、非常に大きく左右される。わかりやすい例として、有名な二匹の子猫の話を上げよう。そのうちの一匹は誕生した時から垂直なものが存在しない状態に置かれ、もう一匹は水平なものが何もない状態に置かれた。ある時間が過ぎてからの、子猫たちは普通の部屋に移された。最初の子猫は始終机の脚にぶつかっていた。この子猫にとっては、垂直な線は存在しないのである。もう一匹の子猫の方には、水平な線を理解出来ないため、階段から転げ落ちてばかりいた。
もちろん理性は想像や空想にふけることが出来る。しかし、それは自分のこれまでの限られた狭い体験の枠内でという事である。理性は古い積み木から新しいタイプの家を組み立ていることが出来る。空想というものと別に存在するリアリティの知覚というものとの境目は、いったいどこにあるのだろう。その境目にはハッキリした腺がない。しかし、私たちには、それはそれほど重要なことではない。ここで意味があるのは、現実を知覚する際に、自分の内部に存在する思い込みがどのようにして影響を及ぼすかという事と、それは人間の生活にどのように反映されるかというとである。現実を歪曲して知覚することは何に基づいているか、そして、このような歪曲が現実にどれほど強い影響を与えているか、これから述べたい。
人間は自分を取り巻く世界を完全に客観的に知覚することはできない。それは、あなたが映写機にスライドを差し込んで映像を見ることに似ている。普通の均一な光がフィルムを通過し、スクリーン上で映像に変換される。スクリーンは知覚のことであり、光は取り巻く世界のことである。では、スライドは何かというと、私たちの世界観、つまりこの世界に関する私たちの理解を現したモデルである。
自分と取り巻く世界とに関する各人のイメージは多くの場合、真の姿とはかけ離れている。私たちのスライドは歪曲させられている。例えば、あなたは自分のいくつかの短所を心配していて、それにより劣等感を感じているとしよう。なぜなら、他者にとってもあなたの短所は好ましくないものと、あなたは思っているからである。そうすると、人々と交流する際にあなたは自分の「映写機」に劣等感のスライドを差し込み、すべてを歪んだ色彩の中で見ることになる。
今、あなたは自分の着ているものを気にしているとしよう。他の人たちがあなたに気付き、意地悪そうに笑いながら眺めていると思っている。しかし、周囲の人々の頭になかにはそのような考えは微塵もない。あなたの思いは実際の状況を歪めるスライドという形であなたの頭の中だけにある。普通、人の頭の中は、あなたと同じように九割方自分のことについての思考で占められている。たとえあなたが会社採用にために面接を受けている真っ最中であっても、会社側の質問者自身が一番気を使っていることは、どうしたら自分の役割を良く演じられるかについてであると思って間違いない。
スライドは、他人があなたについて思っているイメージに歪をもたらす。スライドとは、現実が歪曲された画像である。スライドとは、あなたの頭になかにあるもので、ほかの人の頭になかにあるものではない。例えば、あなたは自分の容貌がそんなに魅力的ではないと思っているとしよう。もしこの思いがあなたをそれほど不安にさせていなければ、歪曲は起こらない。あるがままというわけである。しかし、問題は、自分の容貌についてのあなたの思いにあるのではなく、スライドがあなたの人生に及ぼす影響にある。もし自分の容貌に不安を抱いているならば、あなたは頭の中で、(私は美しくない」というスライドを作り上げており、フィルターを通すように、そのスライドを通して周囲の世界を眺めている。これがスライドである。それはあなたの頭の中だけに定着している。
要望とは評価されるもの、つまりそれには意義が与えられることになるのだが、それを行うのは、人生のパートナーになる可能性のある人たちだけである。このような人たちは非常に少ない割合しかいない。あなたの周囲にいる残りの人々にとっては、あなたの容貌は問題ではない。信じられないか。それでは、最も権威ある審判員であるあなた自身に訪ねてみよう。あなたの潜在的パートナーやライバルに教えてあげられることのない人々の要望について、あなた自身はどれほど気にしたことがあるだろうか。あの人は魅力的かどうか、などという事すら考えたこともないだろう。あなたの周囲にいる人々も考える事は同じわけである。あなたが自分のことを不細工だと確信している場合でさえ、同じことが言える。初対面の瞬間だけは、何らかの印象を与えるだろうが、その後は、普段の舞台装置同様、注意を向けるのをやめてしまう。
