〇意思の意図は、「私が要求したい事は」という常套句で特徴づけられる。魂の意図は、「状況は…になる」または「結局・・・になってしまう」というように、全く別の規則に従っている。前者の場合、あなたは世界が服従するよう、積極的に世界の影響を及ぼす、後者の場合、あなたは傍観者という立場をとり、あたかもすべてが自然にそうなるように、結局あなたの意思の通りになる。変えるのではなく、選ぶのである。夢の中での飛行は、まさに「私は飛ぶことにってしまった」という表現がふさわしく、(私は飛ぶことを要求する)というものではない。
意思の意図は、まっしぐらにがむしゃらに目的に向かう。一方、魂の意図は、目的がひとりでに現実化するプロセスに向けられる。魂の意図は、目的を達成と用途焦ったりしない。目的はポケットの中に入っているのだから、目的が達成されるであろうことには、ほとんど疑問の余地がないので、議論してみるまでもないことである。魂の意図は、目的の現実化を、不動のもの、不可避のものとして、容赦なく冷静沈着に推し進める。
作用しているのがあなたの意思の意図なのか、それとも魂の意図なのかを見極めるには、例えば、次のような疑問文を利用していただきたい。この世界から何かを獲得しようとしているのか、この世界自らがあなたの欲しいものを与えてくれるのか。日の当たる場所を求めて戦っているのか、世界があなたを包容しようとして手を差し伸べてくるのか。閉ざされた扉に押し入ろうとしているのか、壁があなたの目の前で崩れ落ちて道を開けてくれのか。あなたの人生において何らかの事柄を呼び起こそうとしているのか、何らかの事柄がひとりでにやって来るのか。一般的に言うと、意思の意図によってあなたは事象の空間に対する自分の現実化の位置を移動させようとするのに対し、魂の意図は、あなたの現実化が必要な所に位置するよう、亜空間そのものを移動させる。どこに違いがあるかご理解いただけただろうか。結局は同じだが、達成への道すじは大きく異なる。
もしあなたの行動が、先に紹介した疑問文の後半部分で表すことが出来るならば、あなたは魂の意図を捕まえたことになる。あなたが戦う時は、亜空間での自分の現実化を推し進めるよう努力する。あなたが選択を行うときは、亜空間は自分からあなたの方へとやってくる。もちろん、亜空間の方からあなたの現実化に対する位置を自然に動かしてくれるような事はない。そうなるためには、あなたは一定の行動をとらなければならない。ところが、この行動は、一般的に受け入れられている聞きなれた考え方の枠外にある。ここまで読み進めていく過程で、魂の意図を意思の意図とで、どのようにアプローチが違うのか例で示してみよう。魂の意図は事象にとっての礎石ともいうべきものである。そこには監視員の謎を解くカギ、すなわち、なぜこの世界と戦う必要がなく、ほしいものをこの世界でただ選択するだけなのかという理由が隠されている。
魂の意図にとっては不可能なことはなにもない。もしあなたにキリストが持っていたような魂の意図があれば、現実の世界でも空を飛ぶことが出来るし、水の上を歩くこともできる。この場合、決して物理法則に違反するわけでもはない。なぜなら、物理法則が働くのは、ここに選択され、物質的に現実化された同じセクター内だけだからである。ところが魂の意図の働きは、亜空間の様々なセクターを経由する現実化の働きの中でのみ現れる。したがって、現実化された一つのセクター内で空を飛ぶことは不可能なのである。可能とするためには地球の引力に対抗する必要があるが、それは意思の意図の仕事であり、重力を克服するためにエネルギー消費が求められる。自由飛行は、夢の中であっても、現実世界であっても、物質空間ににおけるリアルな運動ではなく、あなたの現実化の相対的状況の変化なのである。言い換えると、肉体が物理空間において次々に新しい位置で物質化されていくことである。
もう一つ付け加えると、あなた自信が空間を飛ぶのではなくて、あなたの魂の意図の選択に従って、空間があなたと相対的に動くのである。おそらくこの説明もそれほど正しいようには聞こえないかもしれないがここで私は相対性理論に深く立ち入るつもりはない。私たちに出来ることは、これが本当はどのようにして起こるのかを推量することだけである。

〇残念ながら、現代人の場合、魂の意図をコントロールする能力は退化してしまっている。人々は昔こうした能力を持っていたことをきれいさっぱり忘れてしまった。大昔の伝説の中でほんの少々漠然とした言及が残されているだけである。エジプトのピラミッドやその他の建造物が魂の意図の助けを借りて建てられたという事を証明しようとすることすら、今となっては出来ない。どんな仮説でも受け入れるが、それだけは認められないとあなたは思われるだろうか。ピラミッドを建設した人々の末裔である私たち現代人が、古代の祖先たちの文明を立ち遅れたものとみなし、意識の意図だけでピラミッド建設の秘密を解き明かそうと必死になっていることを古代の人々が知ったら、おかしくて仕方がないだろうと思えるのである。
しかし、人々は魂の意図を完全に失ってしまったわけではない。ただしっかりと遮断されているだけである。魔法とされているものの全ては、ほかでもない魂の意図を働かせようとした企てである。錬金術師たちは、どんな物質も金に変えてしまう賢者の石を見つけようとして、何百年間も無駄な努力を積み重ねた。錬金術については、難解で込み入った数多くの本が書かれた。しかし、本当のところは伝説が伝えているように、賢者の石の秘密とは、エメラルド・タブレッドに刻まれた数行のことを示す。そのために一体何冊の本が書かれたことか。その数行を理解する為なのである。
おそらくあなたは永遠の命をもたらす聖杯という言葉を聞いたことがあるだろう。それを求めてたくさんの人々が探し回った。ナチス・ドイツも含まれる。無限の力と権力を得られるというような伝説はいつの時代にも語られる。浅はかな思い違いである。どんなものも力を与えてはくれない。呪仏、呪文、その他魔術に使う道具などは、それ自体としてはどんな力も持っていない。魂の意図の力は、そうしたものの属性を用いる人々に備わっている。その属性は、発育が遅れてまどろんでいる魂の意図の退化器官にスイッチを入れるよう潜在意識をある程度手助けするだけ。属性の持つ魔力を信じることで、魂の意図を目覚めさせるための刺激が与えられる。
古代文明は、魔術のために儀式を行わなくてもよいほどの完成域に達していた。当然のことながら、その威力は強力な過剰ポテンシャルも生み出した。そのため、魂の意図の秘密を発見したとされるアトランティスのような文明は、平衡力によって滅亡の危機に瀕することが度々あった。そこに秘められた知識の断片は、失ったものを再生するための魔術の実践方法として私たちの時代にまで引き継がれた。しかしながら、それは、意思の意図の誤ったルートを通して行われる拙劣で上っ面をなでるだけの試みにすぎない。力と偉大さの本質である魂の意図は、依然として謎のままである。
人間の意思の意図が優先的に発達し、魂の意図が失われたのは、コマによる誘導である。なぜならば、コマは意思の意図のエネルギーを摂取しようとするからである。魂の意図をコントロールする事は、コマから完全に自由な状態を手に入れて初めて可能となる。この点でコマは、人間との戦いにおける最終的な勝利を収めたといえる。
目的の達成に向けられた思考エネルギーは、願望、意思の意図、魂の意図の三つの形態で表れるという事を、これまでに明らかにしてきた。願望とは、目的そのものに注意を集中すること。お判りいただけたように、願望は何の力も持っていない。目的についてどれだけ思おうが、目的をどれほど臨もうが、何も変わらない。意思の意図とは、目的へと向かう自分の進む過程に注意を集中することである。これは作用するのだが、多大な労力を要求する。魂の意図とは、目的そのものが現実化する様子に注意を集中することである。魂の意図とは、目的がひとりでに現実化することをただ単に容認する。この際、目的の現実化の事象は既に存在し、それを選択するだけだというゆるぎない確信があることは言うまでもない。目的は、意思の意図によって達成へと向かわされ、魂の意図によってその選択が現実化される。

〇あなたがある島に上陸し、そこで未開人たちと出会ったとする。今やあなたの命は、そこでいかに振る舞うかに掛かっている。第一の事象は、あなたが生贄になるという事である。許しを請い、贈り物をし、言い訳を並べ、そうした事をくたくたになるまで続ける。しかし結局この場合のあなたは、食べられる運命にある。第二の事象は、あなたの方が征服者になろうとするものである。あなたは攻撃性を発揮し、襲い掛かり、服従させようとする。あなたの運命は、勝利するか戦死するかのどちらかである。第三の事象は、あなたが主、つまり支配者になるというものである。あなたが権力を持つ者がするように人差し指を立てると、未開人たちはあなたに屈服することだろう。自分自身の力に疑いを持っていないならば、他者もそのように思い、ほかの見方をすることが不可能になる。この時あなたの思考エネルギーの放射は、あなたが支配者となる人生ラインに調整されている。
第一と第二の事象は意思の意図の働きと関係し、第三の事象は魂の意図の働きを示している。魂の意図はただ単に必要な事象を選択するだけである。
開け放たれた小窓の隣の窓ガラスにぶつかるハエは、意思の意図を持っている。このハエにとっての魂の意図とはどのようなものになると思われるだろうか。開いている小窓から飛び立っていくという答えを思いつくだろう。しかし、そうでは無い。もしハエが舞い戻ったら、よく全体を見回して、閉ざされた窓と開け放たれた小窓とを目にする事だろう。ハエにとってこれは単に現実世界の見方が広がっただけのことである。純粋な形での魂の意図は、ハエの目に前にある窓をいっぱいに開けるのである。
意思の意図は、同じ人生ライン上において、取り巻く世界に作用を及ぼそうとするあらゆる試みに関係する。亜空間において選択されたそれぞれのセクター内で可能なことは全て、自然科学の著名な法則によって表され、物質的世界観の枠内に収まる。一方、魂の意図は、望んでいることが現実化される人生ラインを選ぼうとすることと関係している。
これであなたはわかったであろう。閉じた窓を貫いて飛び出そうとすることは、意思の意図である。魂の意図はその窓が開いている人生ラインへ乗り換えることである。思考の力によって鉛筆を動かそうとする人間業ではない努力をすることは可能である。また、魂の意図だけによって、亜空間をスキャニングし、鉛筆が様々な位置にいる事象を探し出すことも可能なのである。
クリスマス・イブの日、スーパーマーケットのわきの駐車場が満車状態だとしよう。意思の意図は、だれもが買い物で忙しいので駐車スペースを見つけられるわけはないと確信する。魂の意図は、すべてを承知のうえで、あなたがスーパーマーケットのわきの駐車場が満車状態だとしよう。スーパーマーケットに行くと丁度その時一台分の駐車スペースが開くことを容認する。魂の意図は、そうした可能性を断固として信じることではなく、冷静に無条件で自分のものを受け取ることである。
魂の意図は、即興の中で生まれたものであり、閃きにも似ている。魂の意図への準備をしても無駄である。魔法につきものの儀式はすべて魂の意図だけを呼び起こすために向けられている。しかし、儀式は魔法の前の単なる準備であり、劇場でで奏でられる前奏曲や舞台装置にすぎない。夢の中であなたは絶壁がら飛び降りることをイメージするとしよう。しかし、地面に激突しないように、あなたは宙に浮かぶという意図を呼び起こさなければならない。心の準備をしたり、呪文を唱えたりする時間はない。飛ぼうと意図するだけで、あなたはそうなっている。呪文や魔法のために付属品は、だれでも持っているのに利用することが出来ないあの力を引き起こす手助けをするだけなのである。

〇意図とは、願望に行動が結びついたものだ。自分の力で何かを行うという意図は誰でも知っているが、これを意思の意図という。意図の作用を外部世界へ及ぼすことはずっと難しい。これを行うのは魂の意図という。
魂の意図を利用すれば、世界をコントロールする事が可能である。正確に言うと、取り巻く世界の振る舞い方のモデルを選択する。または、シナリオと舞台装置を決めるという事である。
魂の意図の概念は、事象モデルと強く結びついている。時間、空間、物質が関係する一連のプロセスで、筋道だった説明ができないものは全て魔法又は超常現象とされる。このような現状は、魂の意図の働きを示すものである。魂の意図は、亜空間における人生ラインの選択に向けられる。
意思の意図には、小道に生えているリンゴの木をナシの木に変える力は無い。魂の意図も、何も変えることはしないが、亜空間の中でリンゴの木のある小道の代わりに、ナシの木のある小道を選択し、乗り換えを行う事はできる。これで、リンゴの木はナシの木に入れ替わったことになる。リンゴの木そのものには何も起こらず、ただ取り換えが行われた事になる。亜空間において、あるラインで行われていた物質的現実化が別のラインへと移動したのである。どのような力であっても、何らかの魔法のような方法で、あるものを別のものに実際に変化させることはできない。そうしたことへは意思の意図が向けられるが、実現する可能性は極めて限られている。
もし机の上にある鉛筆を思考エネルギーで動かそうと試しても、何も起こりはしない。しかし、もし鉛筆が動くことをイメージするのに十分強固な意図のエネルギーをあなたが持っているとしたら、うまくいくかもしれない。あなたが鉛筆を動かすことに成功したとしよう。おそらく、これから私が言おうとしていることは、薄気味悪いくらい不思議に思われるだろう。本当は鉛筆は動いていないのである。そして、同時にあなたには単にそう思えないだけである。前者の場合、あなたは自分の思考エネルギーで鉛筆を動かそうとしている。そのエネルギーは、物質である対象が移動するには明らかに足りない。後者の場合、鉛筆が様々な位置にある人生ラインへと、あなたの方が滑り移っている。違いを感じていただけるだろうか。
鉛筆が机の上に起これている。意図の力により、あなたは鉛筆が動きだことをイメージする。あなたの意図は、亜空間において、鉛筆が次々に新たな位置を占めるセクターをスキャニングする。もしあなたが試してみて、何も起こらなくても、驚くにはあたらない。ほとんどすべての人間では、こうした能力の発達が不十分である。これは、あなたのエネルギーが弱いからではなく、そうした可能性を信じることが難しいため、純粋な魂の意図を自分の中から呼び起こすことが出来ないからである。テレキネシスの能力を持つ人々は、対象を触れることなく動かす、彼らはまれにみる意図の能力を持っていて、自分のエネルギーを亜空間における物質的現実化の移動のために振り向けることが出来る。
魂の意図に関係することはすべて神秘、魔法、または説明のつかない現象などとして受け止められ、そうしたものの証拠品はせいぜいほこりだらけの棚に収められるくらいが相場である。通常の世界観からすれば、そうした現状はキッパリと跳ねつけられてしまう。不合理なこととは常にある種の恐怖を引き起こする。UFOを見たことのある人々は、似たような恐怖を味わったり、茫然自失の状態になる。説明のつかない現象は、見慣れた現実から桁外れに乖離しているため、それを信じたくないという気持ちになる。そうはいっても、そうした現象はやはり現実であるという驚くべき大胆不敵さを持ち合わせているために、それを見た者は戦慄する。
魂の意図とは、「もしムハマドが山へ行かないならば、山がムハマドの方へ行く」というようなケースである。あなたはこれを単なる冗談と思われるだろうか。魂の意図の働きには必ず超常現象が伴うというわけではない。毎日の生活で、通常私たちは外的意図の作用による結果に遭遇している。とりわけ、私たちの抱く危惧や最悪の予感はまさに魂の意図によって現実化される。しかし、その場合、魂の意図は私たちの意図とは関係なしに働くため、私たちはどのようにしてこうなるのか認識していない。魂の意図は、意思の意図よりもコントロールするのがずっと難しい。

〇最高の力の類に願い事をするのは無駄なこと。それは、店に行って商品をただでくれというのと同じ事である。もし人々があなたを助けようという気持ちになっているのなら、あなたは分別のある範囲で頼むことが出来るだろう。しかし、こうしたケースは例外であり、この世の中は、だれかを助けようという望みではなく、客観的な法則によって築かれている。
地球が太陽にほかの軌道に映らせてくれるよう頼んであるところを想像していただきたい。馬鹿げていると思われるだろう。人間以外のものに頼みごとをするなどという事は、もちろん馬鹿げている。これと同じことである。選択する意図だけが意味のあることである。実際にあなたは自分自身で自らの運命を選択している。あなたからの思考放射のパラメーターがあなたの選択したものに合致していて、その際、法則に違反していなければ、あなたはそれを受け取る。選択とは願い事ではなく、所有し行動するという、あなたの決意である。
意図は過剰ポテンシャルを生み出したりはしない。なぜなら、願望のポテンシャル・エネルギーが行動することで消費されるからである。願望と行動とは、意図で結びついている。行動しようという意図は、願望によって生じた過剰ポンシャルを、平衡力の関与なしに、自然な形で散らしてくれる。問題を解決しようというのなら、行動すべきである。厄介な問題を考えあぐねていると、過剰ポテンシャルを生み出し、コマにエネルギーを与えることになってしまう。あなたは行動することで、意図のエネルギーを現実化する。「案ずるより産むがやすし」とはよく言われる。意図を現実化しつつ、事象の流れを信じれば、問題はおのずと解決される。
期待、不安、思い煩い、願望は、エネルギーを奪い取るだけ。行動しようという意図は、ポンシャル・エネルギーを消費してくれるだけでなく、それを人間のエネルギー・フィールドに注入してくれる。あなたはこの事を学習の例で納得するだろう。丸暗記は膨大な労力を奪い取り、得られるものは少ない。しかし、行動を学習する場合は、実際の作業や課題の解決が行われたりして疲れ方がそれほどではないだけでなく、精神の高揚や喜びをもたらしてくれる。
このように、意図とは、亜空間にあるセクターを現実化させる原動力なのである。しかし、そこで次のような疑問が浮かぶ、なぜ私たちの不安も現実化されるのか。果たして不安を意図と同列に並べても良い物だろうか。夢を見ているときも、現実の生活でも、常に私たちは自分で抱く不安、危惧、反感、憎悪のシナリオを持つ事象に付きまとわれている。そのような事象を欲しくないとしたら、そのような事象を所有することを意図しないという事だろうか。しかしながら、いずれにせよ私たちはそうであってほしくないことを受け取る。という事は、私たちの願望の方向性は意味を持たないという事だろうか。謎は、もっと不可思議で強力な力に秘められている。その力の名前を、魂の意図という。

〇腕を持ち上げることについて、もう一つの例を挙げる。腕を持ち上げようと望んでいただきたい、願望はあなたの思考の中で形作られる。あなたは腕を持ちあげたいという事を理解している。願望が腕を持ち上げるのだろうか。いいや、願望だではいかなる行動も生み出しはしない。願望についての思考がその役割を終え、行動する決意のみが残ったときに、腕が持ち上がるのである。では、腕を持ち上げるのは、行動する決意だろうか、これも違う。あなたは、腕を持ち上げるという最終的な決意を固めているが、腕はまだ動かない。何が腕を持ち上げるのか。決意の次に続くものをどう定義すればいいのか。ここで理性の頼りなさが現れてしまう。意図が何なのかという事に理性が明快な説明を与えることが出来ないからである。意図を、所有し行動する決意とすると、それは行動を実行する力そのものへと続く前奏曲を奏でているに過ぎないことになる。腕が持ち上がるのは、願望でも無く、決意でもなく、意図によるという事実をただ確認するしかないようだ。私は理解しやすくするために「決意」という表現を導入した、しかしこの言葉を用いなくでも、あなたの筋肉を収縮させる何らかの力があることを、もちろんあなたは感じていることだろう。
意図とは一体何かという事を説明するのは、本当に非常に難しい。手足をどのように動かすかについて私たちは疑問に思わないし、歩くことが出来なかった頃を思い出す事もできない。これとは全く同様に、人は初めて自転車にまたがった時には、正しい操作をまだ知らない。しかし、たとえ自転車の乗り方を学んだあとでも、どのようにすれば良いのか、説明することはできない。意図とは非常にとらえどころの無いものである。意図を得ることは難しく、失うことは簡単である。例えば、完全にマヒした人の場合、意図の力が失われている。足を動かしたいという願望はあるが、願望を行動に変更する能力が欠如している。麻痺した人が、催眠術の作用や奇跡的な回復の結果、歩き始めたりすることが知られている。これは、患者に意図が戻ったことによる。
このように、願望自体は何ももたらしはしない。逆に、願望が強ければ強いほど、平衡力の反作用もその分強くなる。願望は目的そのものに向けられ、意図は目的の達成プロセスを向けられる事に注意を払っていただきたい。願望は目的を達成するという願望そのものの過剰ポテンシャルを発生させることで、自らを現実化する。意図は、行動で自らを現実化する。意図は、目的が到達可能かどうかについての判断はしない。決断が下されたら、あとは行動するだけである。もしあなたが夢の中で飛び立とうと思いっているときに、それが可能かどうか考えあぐねたら、何も起こらないだろう。飛び立つためには、意図によって宙に浮き上がることだけが必要である。夢を見ているときのいずれのシナリオの選択も、願望によってではなく、望むものを受け取るという固い心構えによって実現される。あなたはあれこれ判断したり望んだりするのではなく、ただ所有し行動する。
願望の無益さについて考えてきたが、それでは願い事についてはどうだろうか、言うまでもない。天使、神、その他高みにある何らかの力に対しては、お願いしても意味はない。宇宙をつかさどる法則は、絶体的で非常なものである。願い事につきもののあなたの不平、恨み、呻きなど、誰も必要としていない。しかし、感謝は違う。なぜなら、感謝は性質上、絶対的な愛に近いものだからである。心からの感謝は、建設的なエネルギーの放射である。逆に願い事による過剰ポテンシャルは、停滞、つまり同じ場所にエネルギーが濃縮されることである。不平、依頼、要求などは、人々からエネルギーをかき集めるためにコマが発明したものである。「頂戴」とか「ほしい」という言葉が使われている思考は、自動的に過剰ポテンシャルを発生させる。あなたに過剰ポテンシャルがなくても、自分の思考によって、それを自分の方へ引き寄せようとしていることになる。

〇これまでに、私たちの思考や願望が亜空間における私たちの動きを方向付けることを明らかにしてきた。夢の中では、この動きに対して、物質的現実化の完成にブレーキが掛からない。思考のほんの微かな揺らぎであっても、夢を見ている人を瞬く間に亜空間のしかるべきセクターへと運んでいく。現実化されたセクターでは、質量をもつ物質の完成のためにそんなに早くは事が進まない。しかし、思考が私たちの人生の事柄の展開に直接的な影響を及ぼすという同じ原則が、現実の世界でも働いている。
「本当」と、この不思議な事象選択モデルの軌跡にまだ混乱をきたしていない人は、皮肉を込めてこう質問するかもしれない。「私に分別がなかったのかもしれないいけど、今までは思考ではなく行動が人生の歩みを決めていると思っていた。でも、これでやっと納得した。大事なのは、何をするかではなく、何を考えるかである。」
この言葉には本当に何の矛盾もない。人はまず考えてからその後で行動する、という事だからではない。人々は何よりも行動による結果に注意を払うことに慣れてしまっている。なぜなら、それは表面に現れていてわかりやすいからである。思考による結果はそれほどハッキリとしていないことが多い。これは平衡力による作用と関係している。すでに、平衡力による作用の結果が予期していたものと全く正反対になるケースの説明をした。人があるものを望んでいるのに、正反対の結果となる。過剰ポテンシャルが強ければ強いほど、その結果は望んでいるものから遠ざかる。世界のこうした不思議な振る舞いに筋の通った説明を見つけられないまま、それでも人は、自分のとった行動が正しくはなかったとか、世の中はそうなっているとかの説明で自らを納得させようとする。そして、望みのものが手に入るのは、大変な苦労をした後で、という事になる。
事象選択モデルには矛盾があると思われるかもしれない。私たちの思考は、私たちを経由して行くエネルギーをある型にはめ、それによって人々をその思考に相当する人生ラインへと運ぶと言い、あるいは思考が私たちをしかるべきシナリオと舞台装置を持った亜空間のセクターへと移動させると主張する。夢の中では、まさにその通りのことが本当に起こる。ところが、他方では、現実の生活においては私たちの思考はほとんど影響を及ぼさない。なぜなら、私たちは思考することだけで望むものを得ることが出来ないからである。長椅子に横になってどんなに考え、また、物質的現実化につきものの慣性による遅れを効力に入れても、ほかの人生ラインの乗り換えは、なぜか起こりはしない。「ほら、それだよ」と心配症の読者は途端に活気づくかもしれない。「行動することが必要だ、思考しているだけじゃ、ラインの乗り換えなんて起こるわけがない」それは形式的には正しい。
ただし形式的にである。本当はこの矛盾とは、ただそう見えるだけなのである。望んでいるものを視覚化しようとして見ても、たいていの場合、結果が得られないのはなぜか。その説明に、私たちはどんどんと近づいて来ている。ご承知の通り、まず最初に挙げられる明らかな原因は、過剰ポテンシャルである。これは、私たちが望むものを手に入れようとするときに、自らが生み出している。
二つ目に原因は、事象の物質的現実化の際に現状の慣性が邪魔することである。私たちがしばしば目的を達成できないのは、根気強く目的に向かおうとしないからである。人はすぐに気持ちが覚め、自分の望みを見込みがないものとして諦めるが、多くの目的はただ単に現実化するのに時間が足りないだけなのである。望んでいたことが遅れてやってきて、その時にはもう期待感も消え、自分がそれを注文したことすら忘れている。自分のそれまでの人生で、思い当たる節がないか。
もう一つ多くの人々が良くやる典型的にな違いは、すべてをすぐに手に入れようとすることにある。もし互いに何の関係もないたくさんの目的を設定したら、すべての思考エネルギーが無駄に費やされるだけになってしまう。事象の流れの中にあるあなたは、同時に必要なセクターへの調整が最も効果的に行われる。
夢を見ているときには、今あげたような有害な要因は存在しない。夢の中では、重要性による過剰ポテンシャルに煩わされることもそれほどなく、慣性が邪魔することもない。それに、昼間、目的達成を目指して戦った理性は、疲れて休息をとっている。しかしながら、夢の中であっても、すべての願望が実現されるわけではない。意識してい見る夢を実践している人たちは、思考のどんな揺らぎであっても、夢を見ている本人をしかるべきセクターへと運んでいくわけではないことを知っている。では、いったいどこに障害があるのだろうか。
答えは非常に簡単であると同時に、基本的なことでもある。どんな障害も存在しない。問題は思考そのものにあるのではない。秘密は、現実化へと導くのが願望自体ではなく、望んでいるものに対する心構えにあるという点に隠されている。働いているのは、望んでいるものについての思考自体ではなくて、ほかのものである。しかし、これは言葉では表現しにくい。何らかの力が、思考ゲームの展開されている舞台の裏側にある。そして、この力の向こう側に、最後の言葉がある。もちろんあなたは察しがついたであろう。意図について話している。理性は自分が持っている記号の棚の中で、意図を適切に定義づけできないままいる。ここで、意図を所有し行動する決意と定義したみたい。
そうすれば、亜空間のセクターに同調する過程で思考そのものは実際には何の役割も果たさないことを理解するだろう。思考とは、意図の波のてっぺんにできる泡にしか過ぎない。現実化されるのは、願望ではなく、意図の方である。

〇あなたの思考は一定の人生ラインの周波数によるエネルギー放射である。現実の生活では、このラインへの乗り換えは、様々な物質的要因によってブレーキを掛けられる。亜空間の現実化されたセクターは、現実化されていないセクターと比べ、粘着性を持つ。これは水に対するタールのようなものである。潜在的に可能な亜空間の物質的現実化は、遅れて起こる。しかし、夢の中では慣性による障害は何もない。そのため、セクター間の移動は瞬時に行われるのである。
さて、ここで、なぜ夢を見る事についての話を持ち出したのか、理解していただきたい。自分の運命をコントロールするには、どのようにして私たちの思考が私たちをあるセクターから別のセクターへと移動させるのか、また、私達の願望はすべて現実化されるわけではないのか、解明しておく必要がある。しかしながら、そのために意識して見る夢を実践すことはもどうしても必要というわけではない。私たちの目的は、現実の生活でシナリオを選択する能力を得るという事にある。非現実の生活においてではなく、現実の生活において目を覚ますことを学ぶ方がずっと大事なことである。それに、意識して夢を見ることには、すでにお話したようなある危険性が潜んであるのだから、なおさらである。
意識して夢を見ることを実践している人に尋ねたら、「そうすることには何の危険もない」あなたに言うかもしれない。だが、それは、彼らがいずれにせよ刀の切っ先を歩いていることを理解していないだけである。あなたが意識してみる夢から帰還できることについては、だれも保証してくれない。現実化されていないセクターを魂が飛び回っている間は、何も危険なことはない。しかし、魂が夢の中で偶然に亜空間の現実化されたセクターに行き当たったらどうなる事だろう。仮設では、あなたはそのセクターで現実化されることになる。私たちはたいていの憶測では怯えたりしなくなっているが、この憶測には恐怖を感じてしまう。もしこれが事実なら、どうなるのか。
夢を見る技法を完全に会得した古代の魔法使いたちは、意図して永久にほかの世界へ立ち去ったことが知られている。彼らの肉体もこの世界から消えたのである。魔法使いたちは、あまりにも無謀であったか、それとも何をなすべきか非常に良く知っていたのだろう。現代では、毎年数万人が消息不明になっている。彼らはただ跡形もなく消え去った。宇宙人が彼らを誘拐したという説をあなたは持ち出すかもしれない。証明出来ることは何もないが、彼らは見ている夢から戻っていない言う可能性もあり得る。なぜなら、魂がすでに現実化されたセクターに飛んで行き、無意識の休息をとっているかもしれないからである。
こうした意味では、意識してみる夢は、ずっと危険性が高い、なぜならば、制約のない自由を感じた理性は、注意力を失い、好きな所へ飛んで行ってしまうかもしれないからである。魂が戻ってこられるかどうかは分からない。肉体は残っていることもあるだろう。そうするとこの場合、夢を見ている状態で死亡が確認される事になる。私はあなたを驚かししているわけではない。ただ夢は幻ではない事を忘れないでいただきたいだけである。意識して見る夢では、めちゃくちゃをやってみたいという誘惑が起こる。頭に思い浮かぶことすべてをやってみても、罰を受けることもなければ、他人に迷惑をかけることもないのだから。または、ただ飛んでみたり、ほかの世界を探検したりするかもしれない。魂が現実化されていない仮想セクターにふらりと入り込まない保証は何もないという事である。理性は、仮想現実と思いっていたことが物質的なものに現実化されることをすぐには認識しないだろう。私たちが目で見ている世界は、全宇宙の中で唯一のものであるなどという希望によって、自らを慰めてはならない。亜空間は果てしなく、そこには疑いなくありとあらゆる生命体が住んでいるたくさんの現実化されたセクターが存在する。
あなたが偶然に入り込んだ世界は、私たちの世界に比べて、天国のように思えるところかもしれないし、地獄のように思えるところも知れない。そうした世界がどこにあるのかもわからない。ひょっとしたら、それは私たちの地球から数百万光年離れたところにあるのかもしれないし、あなたが飲もうとしているコーヒーの入ったカップの中にあるのかもしれない。それは別次元の非常に遠いところにあると同時に、とても近い所にあるのかもしれない。空間の無限性は、まともに見る場合に限っては、果てしのないものである。しかし、そのパラレルワールドが遠いのか近いのかという議論には意味がない。なぜならば、そこで姿を消すのは簡単なことだが、戻ってくるのは極めて難しい。
物質的世界における星への旅について触れるつもりはない。そこにあるのは別のメカニズムであり、事象とは関係がなく、非常に危険でもある。一般的に言って、夢を見ることは、間接的にであるが、事象と関係がある。私たちの課題は、過酷な現実生活から夢の時空に逃げ出すことではなく、現実そのものを自分たちにとって快適にすることにある。
夢を見ることを恐れてはいけないが、軽率に対処してもいけない。もし、あなたが意識して見る夢について考えるとき、あなたの魂が不快感を示すようなら、それを行ってはいけないという事である。あなたの魂が、危険の有無をほのめかしてくれるだろう。不快なことが近づいてくることを魂は理性よりも強く感じ取る。だから、理性からの積極的な干渉なしに夢をることは、ずっと安全である。それでも、もしあなたが意識して見る夢を試してみようと決心したのならば、夢の中でも注意を怠らず、無謀な行動には走らず、最大限の自覚を持ってもらいたい。現実の世界と同じようにくつろいでも結構だが、客人であることを忘れてはならない。
〇現実の生活では、魂は近づきつつある事柄を本当に予知することが出来る。魂の感じる快・不快は、最も信頼のおけるサインである。現実の生活では、魂は現在いる人生ラインか、または近づきつつある流れのカーブに対して、快か不快かを示す。他のサインは現実化された今いるセクターや近接するセクターに関するものである。しかしながら、夢の中で魂がどこを飛び回っているかは、神のみぞ知るである。魂はどこでも好きな所へと飛んでいけるため、その情報を当てにしてはならない。
次の疑問は、もし夢が想像力によって生み出されたものではないのなら、だれが夢のシナリオを決めるのか、というものである。シナリオは亜空間にあるセクターに組み込まれている。魂は、世界がまどろんでいる間は、亜空間を勝手気ままに旅することが出来る。時々、理性は非常に深い眠りに落ちるため、私たちは自分で見た夢も覚えていないことがある。理性が眠っているときに、事柄がどのように手近海されるのかは、だれも知らない。現実の生活では、私達の振る舞いは理性によってコントロールされる。私たちが夢を見ているときは、理性は傍観者として振る舞い、状況をコントロールしようとはせず、すべてを当然のこととして受け入れる。
全てはセクターに組み込まているシナリオに従って生じる。魂がセクターに達するとすぐに、現実の生活で魂と理性が得た期待、不安、イメージに従って、そのセクターに存在する事柄が展開される。期待や不安は瞬時に現実化される。例えば、舞台上に現れ出た対象が、理性にとっては脅威をもたらすとすると、驚異のシナリオが現実化される。追跡されそうな危険があるという考えがひらめくや否や、怪物があなたを追いかけ始める。
こうなってしまうのはなぜかというと、思考上にひらめいた事象に魂が瞬時に同調するからである。魂は、思考や期待に従って、シナリオの事象を選択する。亜空間における魂の動きは、思考や期待と同時に起こる。まさに思考と期待こそが、映画フィルムを回す原動力である。もし脳の働きを完全に止めることが出来たとしたら、光影は凍り付いたように静止してしまう事だろう。けれども、思考は止まることなく、常に頭の中を駆け巡っている。
夢の事柄は、通常の理解とは矛盾して展開する事がある。これは、理性のコントロールが弱まっているからである。ありとあらゆる非常識が起こり、信じられない光景が繰り広げられ、物理法則は作用しない。意識してみる夢の中でも、信じられないことが起こる。なぜなら、理性はこれがすべて空想に過ぎないことを理解しているため、どんな非常識でも容認するからである。
これであなたは、なぜ夢の中では何でも可能なのかわかっただろう。夢を見ることは魂が亜空間を旅する事であり、そこにはどんなシナリオも存在する。この理由により、意識して見る夢では、意図的にシナリオを変更することが可能である。実際には、シナリオは変わらず、意図する事によって選択されるのである。追っ手との役割を後退しようとする意図が思考上で生じると、魂は正反対のシナリオを持つセクターに同調しなおす。意識してみる夢の仕組みは、シナリオが意図によって選択される。という事にある。
もし理性が、目の前で繰り広げられている出来事のシナリオをコントロール出来ると認識したら、理性は願望を創り出す。例えば、飛び立とうとする願望を持ったとしよう。この考えは、すぐ意識上で閃き、魂の中で意図に変換される。意図は、夢見ている人をしかるべきシナリオのあるセクターへと運んでいく原動力である。
亜空間における魂の旅は、物体の慣性による影響を受けない。そのため、夢の中での動きは大変滑らかである。注文したシナリオは間髪入れずに現実化される。では、現実の生活では何が起こっているのだろうか。原則として全く同じことが起こっている。違うのは、シナリオが遂行されるスピードにある。現実では、夢の中と同じ法則によって事柄が展開されるのであるが、電光石火の早業でというわけにはいかない。なぜならば、事象の物質的現実化には慣性が働き、スピードが遅くなるからである。こうしたことから、私たちの人生は夢であるという主張は正しくはないだろうが、また意味がなくはないともいえる。どのようにして思考が人生におけることかがらを形成していくのか、すでに説明した。あなたは、考えていることを、遅かれ早かれ受け取ることになる。

〇仮想セクターが現実化されている現在のセクターとどれほど離れているかによって、取り巻いている状況もまた変わってくる。あなたは自分が住んでいる街を眺めているのだが、いつもとどうも様子が違う。通りや街並みがどこかおかしい。まるで幻を見ているかのように、あなたは途方に暮れる。魂が夢の中で、今いるセクターへかなり遠いところまで飛んで行ったならば、あなたは全く見たことも無いような環境に遭遇する。そして、あなたは現実の生活では会ったことのない場所や人々を目にする。そこでは全てが仮想の生活として営まれている。ところで、そこでの生活で、あなたはどのような役割を演じているのだろうか。そこで繰り広げられていることはすべて非物質的なものである。あなたの役割も仮想ではあるが、同時に、幻ではない。
おそらくそこでは二つの状況がある。つまり、あなた個人の事象がそのセクターに存在するか、または存在しないかのどちらかである。もしあなた個人の事象が存在するとしたら、あなたはそこで自分の分身と出会うことが出来るだろうか。これは非常に複雑な問題であって、私にはまだ答えることが出来ない。おそらく魂はそのセクターのシナリオに記されている役割をただ単に引きついているに過ぎないのだろう。夢を見ている人は、鏡に映った自分の顔を他人の顔として認識するという事実がその証拠となる。
他にもう一つ興味深い疑問が生じてくる。亜空間の情報が棚に保管されている映画フィルムのように静止状態にあるならば、なぜ私たちは夢の中で動きを目にし、仮想ゲームの中に参加しているのだろうか。すべての事柄が情報フィールドに同時に存在している。過去に起こったことも、未来に起こることも、今すでにそこにある。魂は亜空間を飛び回りながら、なぜ止まった光景ではなく、動いている生活を見るのだろうか。私たちの知覚が映画フィルムの動きだけを受け入れる能力を持っているからなのだろうか。あるいは亜空間の特性がそうなっていて、私たちには事象の流れという形でしか見せてくれないという事も考えられる。魂がセクターからセクターへと飛び回るのであれば、それはつまり魂が自らの動きを観察しているという事でもある。このような場合、魂は夢の中でどれくらいの時間間隔で、過去や未来または現在を訪れるのだろうか。
夢見空間に関することでは、答えよりも疑問の方が多い、一つだけ断言できるのは、夢を見ることは幻を見ることでは無いという事である。まさかと思いながらも少し薄気味悪い気持ちになっているだろうか。毎夜、私たちは皆、夢見空間で仮想生活を体験している。この仮想生活には蝕知できる物質的基盤はないが、同時にそれはリアルである。
夢の意味の解釈について、何をいうことが出来るだろうか。答えはあなたにとっては予期せぬものに思われるだろう。きっとあなたはこれまで述べてきたことからすれば、夢は迫りくる事柄の前兆になるはずと思っていたことだろう。しかし、事象選択における夢というのは、前に述べたサインとして考察することはできない。
夢は、過去や未来に置いて起こり得る事を示してくれる。過去について、私たちは知っている。未来は、亜空間では非常に多様であるから、私たちが夢で見たことが、まさにこちらに迫りる現実化される予定のセクターであるという保証は何もない。隣接するセクターも似たようなシナリオと舞台装置を持つている。すなわち、もし夢で見たセクターが今いる人生ラインから遠くないところにあるならば、その夢は間もなく実際に起こるであろうことがについての情報を含んでいる可能性もある。とはいえ、夢で見たセクターが今いるラインから本当に近い場所に位置しているかどうかについて、保証することはできない。

