ギブ ミー チョコレート
燃え尽きた
洗い場の「家族持ちの男」も
サロンを持ったまま消えてしまい
亀裂骨折したスタッフの再起も
医者の誤診にて本物の骨折になり
八方ふさがりの万事休す
とそこに
かつて一緒に働き
脱出していった妹が
哀れな店の惨状に見かねて
手を差し伸べてくれる状態にまて”
陥ってしまった。
人に頼みごとをしたり
人に謝ったりすることが
この上なく苦手な僕
「謝るなら最初っからするなよ」
とか
「人のことなら頭下げられるけと“
自分のことて”お願いするのはありえない」
という考え方の僕にとって
この現状は
まさにポツタ“ム宣言を受け入れるや否やの
白旗を上げた状態の中の
リトルボーイとファットマンの投下を目の当たりにした状態
自分のこれまて”人生の
「あり方」と「価値観」というリングに
タオルを投げられてしまわれ
そういった客観的な観点から
僕は戦意喪失してしまったわけなんす
太平洋戦争から
終戦
そして
アメリカ統治へ
うちのエースに対しても
大橋さんに対しても
と”こにも連れて行ってあげられない彼女に対しても
懺悔の気持ちて”一杯なんすが
ケンカ別れした妹にまて”
何があっても再び現場に立たせることは
「未来永劫ない」
ことが現に起きていることにね
そう遠くない未来に
僕は静かにリングから去っていくことを
心に決めたわけなんす
人さまに迷惑かけること
日本人と韓国人の比較論が
ずーと前に新聞のコラムに載っていまして
息子が誘拐されたか
生命の危機に立たされたか
うんぬんかんぬん
忘れましたが
救助してもらった警察に対し
韓国人の場合
「ありがとう。本当にありがとうございました」
日本人の場合
「ごめんなさい。本当にご迷惑かけました」
とコメントを出す。
つまり
感謝の意を表すか
それとも
陳謝の意を表すか
この国民性の違いをうんぬんかんぬん
書いておりましたが
僕はやはり日本人ということて”
したがって
助けてもらうことに対しても
不可抗力の事態に対しても
「そこにいた」という事実を受け入れ
謝らざるをえない
「そこにいたから悪い」
という気持ちになってしまうわけて”す
人さまに迷惑をおかけする
それはね
酒が入ってるときならまた”しも
シラフのときには
耐えがたいものなんす
三島由紀夫的な方が美しい
GIVE me Chocolete
なんてね
口が裂けても言えないしね
食べたいんじゃなくて
いくらひもじかろうが
いらないものはいらないわけなんす
それを受け入れ戦後のモラルが崩れたように
それを受け入れたら僕のモラルが崩れていくのれす
続く
謝るなら
しない方がいい
頭を下げることと
産まれたての子猫ちゃんのように…
最近 仕事一辺倒て”
芸術や表現に触れていないせいか
新聞へのストライキをしているせいか
アウトプットする感性が乏しすぎる
インプット(食べる)
アウトプット(出す)
これを繰り返し
栄養素(感性もしくは疑似体験)が体内に蓄積されていくと
信じて疑わない
インプットを怠けると
アウトプットが自分の感情的なものになってしまう
その自分の脂肪(感情的なもの)を燃やし続けても
やがてネタは尽き 感性の便秘状態に陥ってしまう
そこに苦悩が産まれ
哲学的なスパイラルに陥り
「人間とはなんぞや」という
究極の答えの出ない枯渇状態になり
息絶え絶えになってしまうわけ
そのうち その答えすら求めなくなり
日々に忙殺されることに
ある意味 「自由」を覚え
「楽」さえ感じてしまう
昨日の昼飯なんやった?
じゃあ一昨日の晩飯は?
日々に支配されているせいか
思い出せない
いつもの愚痴
いつもの店て”いつも同じもの
いつもの音楽
いつもの行動パターン
体内に染みついている生活パターン
変えるのは億劫
て”も変えないと
錆ついていく
ということはいやいやヤタ“モン
今年半分 あがきます
飲むなら新規の店開拓をする
知り合いの店の居心地の店に頼らない
読むなら知らない作家の本を読む
読み心地のよい週刊文春に頼らない
歩くなら通らないルートを散歩する
先の見えている道を歩かない
映画も好きじゃないジャンルを見てみる
音楽も嫌いなジャンルを聞いてみる
VOGUEじゃなくってLOENを読んて”みる
luckyじゃなく マイセンを吸ってみる
麦焼酎じゃなく イモ焼酎を飲んて”みる
ジャージャー麺じゃなく坦々麺を食べてみる
(想像するた”けて”も 吐き気がするが…)
凝り固まった感性を疑い
長年の体に染みついた錆を落とし
晩年の犬じゃなく
産まれたてのネコのように
全てに関心を持つ
ト“ラスティックに環境を変えてみる
決して楽をしない2012 大澤の感性の旅(後篇)は
続く
