最弱のブログ
今 文章を一通り考え
書いてみたものの
あまりにもつまらないから
こうやって書き直している
「最強の二人」の話を書こうかな
と思うものの
僕にとっては最強じゃなかったしね
フム
あまりに面白い 面白いって周りがいうからね
なんしか
期待が強すぎたんやろね
タイトル的にも「最強の」ってね
日本語的ニュアンスて”言えば
最強って最上級
比較対象があって
対外的に遣う言葉と思うし
じゃあその最強をアピールする対象はなんなのか
物語の中には他の
並の二人は現れなかったし
悲惨な二人も現れなかった
から
訴える対象はあくまて”も
われわれ観客となる
物語の背景における主人公たちの
ジョイントするパワーが圧倒的なんよ
あんたらも劇場というリングに上がって
戦って最強を堪能してみろよ
となり
なんか高圧的な感じを受けなくもない
喧嘩しているカップルが見に行くものなら
「やつらと比べて うちら 最弱の二人やね」
って見終わった後 やられた感満載になっちゃうかもしんない
僕は一人て”見に行ったから
「二人じゃないの?既にアウト」
みたいなね
まあいいや
しかしながらじゃあ
百歩譲って何が最強なのか
と考えてみる
二人の主人公たちは
黒人 と 白人
若者 と 老人
アングラ と ハイソサエティ
無知 と 博識
ナンパ と ロマンティスト
健常者 と 障害者
現在進行形と 現在完了形の考え方
主人公たちの共通項と言えばが男くらいなものて”
あとは
社会の両端にいる
なーんも接点が無い二人が
お互い 理解し合って 分かち合って
譲り合って その真ん中をとりもって
前に進んて”いく姿を
思い返してみるが
やっぱり
「もっともつよい」という言葉
最強という言葉が使われる意味が分からない
(むしろ黒人におされっぱなしやったけと”ね)
そのタイトルに画点が行かなかったから
僕は「最強の二人」に思えなかった
と同時に
「最強の二人」を見に行ったのに
最強とは感じることが出来なかった
このなんともいえない
「タイトルと鑑賞後のGAP」の後味の悪さ
ひょっとすると
この映画に感動出来なかったのは
このタイトルを付けた人間のせいやねって
話にならなくもない
内容も知らず
口コミも耳にしなかった
おおよその人は
「きっとアクションにちがいないね」
と思うやろうし
その人たちが
何を見るか決めておらず
新聞の映画案内を見たり
映画館に直接来たりしても
アクション嫌いな人は
この映画をきっと見ないやろうね
(人並み以上に映画が好きな僕も
噂をきかなければきっと見なかったと思うしね)
と言う意味じゃ
興行成績にももちろん影響していくに違いない
つまりタイトルが全く違っていたら
僕は「良い映画やったね」と
かいていた可能性は大いにある
初めての店にいって
「最強のパスタ」ってメニューに書いてたら
いくら繊細な味やったとしても
新規客やったら
「バリバリにんにくが入ってるんやろね」
とやっぱり思っちゃいませんか?
店員に中身聞くのは別としても
聞かなきゃ
明日 仕事に差し支えあるしなぁ
やめとこ
とイメージが勝手に働いちゃう
もちろん 店やったら
リピーターがきて
口コミがじわりと浸透して
「あっこの最強のパスタ
繊細て”美味しいらしいよ」
となるかもしれないけと”
映画はね
それらと違って
上映期間が決まってるしね
そういう映画って非常に多い
なにこれ?
日本語の使い方間違ってない?
ってね
実際 映画を見終わった後に思うこともしばしば
そのたびにね
こんなに日常の日本語の中に
英語やフランス語が混じるように
なってるんやからね
もう現地語のタイトルのままじゃ
あかんのかいね
と思っちまうわけさ
「否定ばっかりせずに
じゃぁ タイトル考えてみろよ」
ってなるよね
うーん
「もしもマセラティに乗れたなら」
※マセラティじゃなかったらごめんくさい
あ 違う?
お後はよろしいようて”
続く
継承
先日、日本に観光で来られている外国の方に向けての
お茶会のお手伝いをさせてもらう
という機会があった。
もちろん初めてお抹茶というものに触れる外国の方達がほとんどで
眼差しは、真剣で興味津々。
一つ一つの動作の意味を質問され
何気なく、意味を見出ださずに行っていた行為が
いちいち、意味のあるものだと気付く
そして、この人たちが祖国に帰って
この事を一人に伝えて
そして、その人が別の一人に伝えて
と、考えてみると
勝手に、否応なく
これが彼らにとってのお茶会という行為の決定項になるんだと思うと
自然に背筋は伸び
責任重大だね、と
勝手に使命感もわいてきたりした
他に情報がなければ、見たもの全てを信じてしまうから
きっと、よく知らずに勘違いして
そういうもの、とか思い込んで
そのまま過ごしたり
人に知ったかぶって伝えたり
そんなことは日常茶飯事で
そうやって、それが逆に、なんとか風
とかになって
別のものになったりするんだろうと思う。
思い込み、っていうのも悪いことだけではないね。
つづく。
そもさん
FACEOFF(facebookoffね 念のため)をしてから
様々な人から心配の℡がかかってくる
「いきてるの?」
「何してるの?」
「心配やわ?」
そんな℡を受けるたびに
僕は同じ調子て”
「僕にはそんなことすらする
暇が無くなってるんよね」
と答える。
覗くことくらいは出来るが
いちいちコメントをして
返信のコメントを確認して
アップして
コメントを確認して
そのコメントを返して
〇〇さんに
この前コメントもらったから
「いいね」押さなきゃ
っということて”
その日の一通りの記事に目を通して
ということをしていると
もはやバーチャルがリアルを支配しているのと
同じようになる
ということて”
中途半端にいいとこト“リップな参加や
広告的なアップをするのも可能やけと”
節操無いやつみたいな感じがするしねぇ
と節操無いやつのアップにあきれていた
かつての僕と会話して
いいとはとても思えないから
携帯自体に触れるのを最近止めている
じゃーあ
なぜ 時間がそれほと”惜しくなったかと言うと
何回か記事に書いたことがあるが
僕の心の支えの「70歳おじいちゃんシェフ」が
ついに年明けから引退することになった
となると
月曜日から日曜日まて”
朝7時半から夜6時まて”363日はたらなければなくなるし
「じゃーあ それに代わる人雇えばいいじゃん」
と思うかもしれないが
当店は僻地にあり
ちょっとやそっとの時給じゃ働き手はいないし
社員として雇うくらいの売り上げは立っていないから
いまのうちから
僕は「2013年 無休の旅」に備えて
今ある シェフが働く木金土の午後二時まて”の自由な時間を
そして
仕事上がりの翌日の朝を気にしなくていい水木金の夜を
謳歌しているわけて”ある
2013年が始まれば
仕事あがりに
このブログを書いて、全紙に目を通して…
なんて気力もなくなっているかもしれない
その一方
最近はその自由な時間を新聞に
二時間もつかっていいのかも
ひそかに疑問を抱くようになり
そんな薄っぺらい時事よりも
今まて”歴史に評価され これからも刻まれていくに違いない
小説や哲学書や歴史を学ぶ方が賢明なのかもッて思って
近頃は小説や本に時間を割くようにしている
今日から太宰治の斜陽を読むのを再開した
僕が好きなモノカキは決まって太宰を絶賛するから
読んテ”いるにすぎないが
はっきり言って 暗過ぎて好きじゃないし
読み手のこっちも「ぐわーん」と背景て”音がなるくらいに
落ちる 堕ちる 墜ちる
初めて人間失格を読んた”ときも同じように落ちた
が
前述のとおり
僕が好きな物書きにいかにして間接的に
多大な影響を与えたのかを知るべく僕は我慢をし続け
限りある優雅な時間を落ちる文章のために費やしている
これがはたして
僕の人生にとって
生産的なのか 有意義なのかは
分からないが
少なくともFACEOFFする意味合いはそこに存在するし
年内は時間の許す限り
知的・感覚的エナジーチャージをし続け
総じて日本人が
なぜ「破滅的な美しさ」を支持するのか
に対しての答えを出せればいいなと
思っている
つれつ”れなるままに
こんなこと書くつもりなかったけと”
まあいいや
素敵な日曜日をお過ごし下さい
続く