★底本

第二部 p222~229

 

★手塚による要約

名声高い思想家たちは、民衆の奴僕(ぬぼく)であって、精神の真髄が何であるかを知らない。では精神とは何か、それを熱意をもって説く。

 

 

★解説

・この章でツァラトゥストラが語り掛けている相手は「名声高い賢者たち」である。「名声高い賢者たち」は真理ではなく民衆やその迷信に仕える(つかえる)ことで人々からの畏敬を受けている思想家や文筆家たちを指しており、手塚の脚注によれば、その具体例としてはヴォルテールが挙げられる。

 

・ヴォルテールは18世紀のフランスの啓蒙思想家であり、1750年代にはプロイセンの啓蒙専制君主であるフリードリヒ2世に招かれてサンスーシ宮殿に滞在し、フリードリヒ2世から財政的支援を受けるほど啓蒙専制君主といった権力者たちから支持されていた。

 

・名声高い賢者たちはキリスト教社会の因習から離脱するよう説いており、その点ではツァラトゥストラの思想と一致しているが、民衆を崇拝して、民衆の信ずる正義を是認し、弁護しようとする点でツァラトゥストラの思想と異なっている。

 

・p222でツァラトゥストラは「古代ギリシャの『驢馬の自由』のように、主人は奴隷に無礼講などで自由を与えることさえある。しかし、人間の支配を受けている犬たちが野生の狼を恐れ憎むように、民衆は自由な精神を持つ者を恐れ憎む」と指摘する。ツァラトゥストラの教えは多岐にわたるが、とりわけ新たな価値を創造することを重視している。本書の第一部と第二部を読む限りでは、ツァラトゥストラは権力者よりも民衆のほうを重点的に非難している印象を受ける。

 

・p223に「真理への意志」とあるが、ツァラトゥストラは「〇〇への意志」という表現を多用する。「12 新しい偶像」の「死への意志」しかり、「16 千の目標と一つの目標」の「力への意志」しかり、「30 毒ぐも」の「平等への意志」しかり。

 

・ツァラトゥストラによれば、名声高い賢者たちは獅子の皮を被った驢馬であり、彼らは崇拝意志(民衆とその習俗的価値への崇拝と従属の意志)を砕き捨てなければならない。というのも、崇拝意志は真の自由精神を妨げるからである。

 

・獅子は、(過酷な環境である)砂漠にすみ、奴僕(ぬぼく)的幸福から自由であり、飢えていて、猛々しく(たけだけしく)、孤独で神を持たない存在である。その一方で、驢馬は都会に住み、よく飼育され、民衆の荷車を引いている存在である。

 

・ツァラトゥストラは「肉体の軽蔑者」や「死の説教者」や「賤民」を猛烈に非難していたが、「名声高い賢者たち」に関しては少し評価している部分もある。p224でもツァラトゥストラは「わたしはかれら(名声高い賢者たち)に怒っているわけではない」と述べている。

 

・p225に「まことに、名声高い賢者たちよ、民衆の従者らよ、君たち自身、民衆の精神と徳といっしょに成長したのだ――そして民衆は君たちのおかげで成長した。君たちの名誉のために、わたしはこれを言っておく」とあるが、「民衆は君たちのおかげで成長した」というのは啓蒙思想家たちが、キリスト教の因習からの解放、絶対王政に代わる新たな政治システムの模索、古代ギリシャや古代ローマなどの古代文明への再評価、自然科学の進展や普及などに貢献してきたことなどを指しているのだろう。

 

・そのうえでツァラトゥストラは「しかしわたしから見れば、君たちはその徳において依然として民衆である。――弱視の民衆――精神が何であるかを知らない民衆である」と、名声高い賢者たちの限界も強調する。p225でツァラトゥストラは「君たちはすでにそのことを知っていたか」と4回も連続して、精神や「認識する者」に関する考えを、名声高い賢者たちに問うている。

 

・p225に「盲(めしい)」とあるが、「盲」という漢字の意味や「 29 賤民」で解説した動詞「廃う」の意味を知っていれば「めしい」という語彙を知らなくても「めしい」の意味を推測できる。「めしい」は盲者という意味の名詞である。

 

・鉄敷(p226):ハンマー台という意味。「かなしき」と読む。

 

・鉄槌(p226):ハンマーという意味。「てっつい」と読む。

 

・金属加工においてハンマー台とハンマーは非常に重要な道具である。加工のため高温となった金属はハンマー台のうえに載せられ、ハンマーによって打たれることで加工されてゆく。ツァラトゥストラは「君たちはただ精神の火花を知っているだけだ。しかし君たちは精神の本体である鉄敷を見ない。また精神の鉄槌の残酷さを見ない」という暗喩を通して、「名声高い賢者たち」の精神への見方は、金属加工において地味な鉄敷や鉄槌を見ずに目立ちやすい火花ばかりを見てしまっているようなものだと指摘している。

 

・ツァラトゥストラは「万事に君たちは精神を盲信しすぎるのだ。そしてしばしば君たちは、君たちの知恵を、単なるへぼ詩人たちのための救貧院、また病院にしてしまったのだ」と名声高い賢者たちに苦言を呈する。ニーチェは詩人としても評価されているが、21世紀の日本において、俗に「ポエム」と揶揄されるようなレベルの低い文章や詩が少なくないように、ニーチェが本書を執筆した1880年代のドイツにもレベルの低い詩人が少なからず存在していた。こういった「へぼ詩人」たちは啓蒙思想という世間のトレンドに追従するだけの安易な内容の詩を量産していたのだろう。

 

・p226やp227の内容は、既出のキーワードが複数、登場しているように感じられる。例えばp226の「鷲」は「ツァラトゥストラの序説」や「24 鏡をもった小児」で登場していたようにツァラトゥストラの同棲者であり、p226の「泉」も「29 賤民」で「エネルギー源(活力の源)」の暗喩として登場している。p227の「強烈な風」も「自分はあらゆる低地に対して強力な風である」とツァラトゥストラが自認していたことを思わせる。

 

・ツァラトゥストラは「名声高い賢者たちは謹厳なすがたで立っている」と指摘しつつ、「どうして君たちにできようか、わたしとともに行くことが」と語っており、超人思想を持つツァラトゥストラたちと、民衆の従者たちである名声高い賢者たちの方向性には、やはり大きな隔たりがあると述べている。そう述べたあと、「ツァラトゥストラはこう語った」という定型句が来て、この章は結ばれている。

 

 

 

 

 

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