今回は日本地政研究会(FaceBook:https://www.facebook.com/chiseiken)のフィールドワークに参加させていただき、いろいろ学習させていただいた。
実際に現場を見る学習は、ネットやテキストを読むより、はるかに学ぶことが多いと強く感じました。
ただ、ぼくの携帯の記録によると17.06キロを歩き、1038キロカロリーを消費したことになっています。途中から足の裏が痛くて痛くて…。
少し太りすぎかもよ。
まぁ、それは良いとして早速当日の復習をしよう。当日のコース順ではなく、歴史順に述べ、この町の変遷を明らかにしたい。
一、江戸時代まで
品川区には大森貝塚がありますから、少なくとも縄文時代以降は人が住んでいたことになります。
そのとおり。目黒川、立会川流域には貝塚が発見されている。やはり、川の存在が町の発展のもとになるね。
海にも面していますね。
そう。奈良時代から平安時代以降は交通の要衝であったことは間違いない。その証拠が↓だ。
これは荏原(えばら)神社だ。1062年源頼義・義家は奥州安倍氏征伐(前九年の役)に際し荏原神社と府中(昔の国府)にある大國魂(おおくにたま)神社に参籠し、品川の海中で身を浄めた。府中については府中探索から考えたこと1(原始~古代編) | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)を参照してほしい。
では、品川は、当時の国府である現在の府中とつながっていたということいになりますね。
そうだ。国府の港であると考えられている。上の源頼義らの参詣以来、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣して禊を行う。
二、江戸時代
さて、武蔵国の表玄関として栄えた品川ですが、江戸時代には
五街道で最も交通量が多い東海道の最初の宿場として栄えていきました。↓が昔の東海道のあとです。
また、品川宿は、江戸四宿(品川宿・千住宿・板橋宿・内藤新宿)のうち唯一海に面した宿場でした。だから、名所や魚介類の名物が多く、風光明媚な地として、四季折々に江戸市中から多くの人々が訪れ、ますます栄えていったのです。
魚介類といえば「クジラ」も獲っていました。↓に注目です。獲ったクジラの供養のためのものです。このあたりは旧目黒川の河口の海に突き出た砂洲だったんです。
そうだ。江戸時代といえば、将軍が鷹狩りの際に通った「御成橋」が目黒川沿いに残っている。↓だ。将軍も品川を通行したのだな。
江戸時代には血なまぐさい事件も起きていますね。
まずはキリスト教の弾圧です。↓を見てください。
(カトリック高輪教会にて撮影)
50名のキリシタンが現在の田町駅付近から品川にいたる小高い丘で処刑されたと言われます。
1859年に日本最初のイギリス公使館が当寺に置かれました。1860には、公使オールコック付きの通訳が門前で 殺害されました。さらに 1861年、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東 禅寺事件)。この時は書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死 傷者が出ました。1862年には護衛役の 松本藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃さ れ、イギリス人水兵 2 名が殺されました(第二次東禅寺事件)。
当時の攘夷(外国勢力を追い払おうという思想)の風潮の強さを感じます。
拙著です↓。講師と生徒二人の会話形式で社会科を語る本です。 ゼミナールに参加する気分で、単なる暗記じゃない、基本から説き起こす社会の参考書をぜひ知ってほしいです。 以下から立ち読みも可能です。
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拙著に込めた思いについては
「やさしい中学地理」について | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)
「やさしい中学歴史」について | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)
「やさしい中学公民」について | やさしい社会ブログ (ameblo.jp)
を参照してください。
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