午後からわたしのこころのクリニック診察だったのだが、予約時間より1時間45分ほどたってから診察室に呼ばれた(泣)。

 

今月の中旬から下旬にかけ、予定が重なり、わたしが出掛ける日が多いので、鹿のすぐるちゃん(♂5歳)が、今朝、そのことに抗議をしていた(わたしの背中を少し強く噛む)。

 

今、ブログを書いていて、うっかり忘れていたことを思い出した。

 

すぐるちゃんを保護したのは今から5年前の5月12日だった。

 

すぐるちゃんを保護した2017年は、実はすぐるちゃん以外のメスの子鹿もレスキューしていたのだ。

 

メスの子鹿は保護した際、非常に落ち着いており、草むらでジッと母親を待つことができたので、山に返すことができた。その後、母親と再会できたようで、メスの子鹿の姿はなかった。

 

念のために、メスの子鹿を置いた場所付近を探したが(弱って動けなくなっていないか?)、姿がなかったので、母親と少し移動したのだと思う。

 

今の時期は、メス鹿の出産シーズンだが、裏山は鹿たちの気配がなく静かだ……。

 

この山にいた鹿たちは、みんな人間に殺されたか?移動を余儀なくされたか?

 

生き物たちの気配がない山は寂しく、不気味でもある。

 

わたしたちの社会では、鹿は厄介者扱いをされていたり、観光資源として利用されていたりする。

 

農業被害を出す鹿はわたしたちに「敵」とされ、観光資源として利用されている鹿はわたしたちに「歓迎」されている。

 

どちらも、人間都合による認識であり、鹿にとっては非常に迷惑であり、生活に支障をきたし、生命の危機をもたらすものである。

 

わたしが鹿を保護した当時、獣医師は鹿は「敵」だとわたしに言ったことが非常に衝撃的だった。

 

そして獣医師は、「鹿と『共生してやってもいいい』というほどの鹿の数に鹿を減らす」と言った

 

これには、人間至上主義・人間中心主義にさらに驚いたが、世間の認識はそうなのだ。

 

鹿はわたしたちの「敵」であるということは、刷り込みである。

 

鹿を「敵」として社会に広げているのは、政府や政府の言うことをそのまま垂れ流しているメディア、政府の方針に従う研究者などだ。

 

誘導情報関係なく、個人が鹿を「敵」と認識していることもあるだろうが、社会に浸透している認識や概念は、報道が非常に大きく影響している。

 

特定の野生動物を「敵」と言い出す背景には、本質から人々の目をそらすという意図のある場合が往々にしてある。

 

これは昔から行われてきた手法である。

 

現在もなぜ、同じことが起きているか?というと、昔に行われた問題などのすり替えに人々が気付いていないということがある。

 

人々が気付かない手法は何度も繰り返し使用できるというわけだ。

 

これは、鹿だけの話ではなく、社会で起こっているほとんどの事に言えることである。

 

このことから、わたしたちの社会は昔から同じことを繰り返しているというわけだ。

 

「敵」を作り出すのは意図的に行われる。

 

そのため、社会で「敵」とされる者が騒ぎたてられ始めたら、わたしたちは十分に注意する必要がある。

 

「敵」という背景に隠された本質を見極められる知識や目をわたしたちは養わなくてはいけない。

 

「鹿は敵」という背景には、問題の本質である、自然環境の破壊や汚染、癒着、政府による農家の生活の補償放置などの数々の問題が隠されているのだ。

 

歴史を知り、クリティカルシンキングに磨きをかけ、事物の本質に気付けるおとなになろう。

 

鹿は「敵」だと言っていた獣医師は現在、鹿との共存を意識し始め、鹿を殺すことに抵抗を感じている一面も見られる。「鹿を殺す」(個体数管理)を支持するのは、鹿を殺さずによい方法を知らないがために、固められた思考でもあると思ったので、「殺さない方法」をどんどん広げようと思っている。

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