「何しても駄目って言っていたら先に進まない。時間は解決するかもしれないけど解決しなかったらどうするの」永井さんはたじたじになっています。どうやら永井さんという人は優しいのですが優柔不断という感じを受けました。それが貴子さんにはじれったいのかとも思いましたね。時間は午前3時過ぎになっています。

また、今日も朝までの雰囲気が漂ってきました。外は車の通りもめっきり少なくなったようです。

まだまだ由美さんの一人舞台は続きます。

「ねぇ 貴子さん。後何年くらいなら待てるの」と本気モードになっています。

お酒の量も増えてきました。私は作る人、あなたは飲む人の図式がはっきりしてきましたね。

仁さんは黙って聞いているだけです。

「うーん 2年かな。それ以上は辛いから」と貴子さんがはき捨てるような感じで永井さんの顔を見ています。

「おいおい 2年しか猶予はないのか」と永井さんが不安そうに聞き返してきました。

「だって そんなに待てないよ」貴子さんは半分泣き声です。大変なことになってきました。

バーではたまにあることなのですが、聞いていて気持ちのいいものではないですね。楽しく飲んで欲しいのですが場合によってはこんな展開になってしまうのです。

永井さんは、困ってしまっています。「永井さんがしっかりしたらいいのよ、何とかしてあげてよ」と由美さんが懇願状態になっています。女として何とかしてあげたいと思う優しい心なのだと思いたいです。

しかし、酒が入っているので大きな声と大きな態度になっていますからはたから見ていると永井さんが一方的に怒られているというシチュエーションになってしまっているのです。同じ男として悲しいやら切ないやらで見ていたくないというのが本音ですね。

「彼だけが悪いということはないし、私も何とかしたいけど何もできないから」と貴子さんのか細い声。

永井さんはモルトを一気に飲み干してから「今年中には結論はでないかもしれないけど何度も妻にアタックしてみるよ。場合によっては誰か間に入ってもらうことも考えるから」ちょっと強気になった永井さん。

いい調子になってきました。それでこそ男です。心の中でエールを送っていました。しかし、普通に考えたら不倫している人を応援するというのもおかしなことです。何故こんなことになったのか。

バーという雰囲気とお酒の力がそうさせたのだと思いました。この永井さんの発言から店内は一転してなごやかなムードになったのです。貴子さんも落着きを取り戻したように見えました。

初めて会った客同士が自分の生活や人生について語り合うというのもバーの魅力の一つなのかもしれません。

もう、4時過ぎになってしまいました。4人はなごやかに談笑しています。どうやら今度バーベキューに行くとの話で場所はどこにしようかとか話しています。4時だよ4時と心の中で呟いても仕方ないですよね。

とまさに私が心に思った瞬間にドアが開いたのです。あっそうだ外の看板の電気を消してなかったのです。

「まだやってますか」と近所の居酒屋の店員の佐藤さんである。ここまできたらやるしかない。

「やってるよ」と佐藤さんに告げると席に座りました。

4時にやっと閉店できたよ。疲れたよ。とりあえず生ビール」との注文。4人は相変わらず話して盛り上がっています。「3時閉店じゃなかったっけ マスター」と佐藤さんが言ってきました。ええそうですけど時間は関係ないですよ。と答えると。永井さんが「マスター すいませんね、時間オーバーしていて」と優しい永井さんらしい言葉です。「気にしないで下さい。昨日も8時までやっていましたから平気ですよ」

そろそろ帰ろうかという話で、4人は帰っていきました。4時半になっていました。

「マスターも1杯飲んでよ」と佐藤さん。ぐっと飲み干すと疲れが吹っ飛びました。

足はパンパンになっています。立ち仕事ですから仕方のないことですから。

たまに、客足がなくなると逆立ちしたりしています。血が足に溜まってしまうのです。

佐藤さんとも長い付き合いです。以前は自分で店を経営していたのですが閉店されたそうです。

46才の方です、今は従業員として働いていますが、また、店を出すようなことも言っていましたね。

佐藤さんには特技があるのです。プロではないのですがプロ並の手品ができるのです。

指先はかなり器用ですね。以前、店の中で手品をしてもらってお客の喝采を浴びていました。

今は、月に1回くらいですが都合のよい日に店内で手品を披露してもらっています。

この手品は、評判がよくてファンの人も多いのです。佐藤さんの都合で前日までは確定しないのですが

その日に来店した客はラッキーなのです。お代はいりませんし1時間くらいのショーなのです。

みんなに喜んでもらえる楽しい日なのです。

「マスター 来週の月曜日なら手品できるよ。休みだから」これは早く日にちが確定しましたね。

「来週の月曜日なら17日だね。OK宣伝しておくよ」早速店内に張り紙をしようと思いました。

特にトランプ手品が凄いのです。テレビによく出ている人と差はないと思います。20年以上前から趣味で始めているのだそうです。私とも7年の付き合いになりますしなかなか楽しくて面白い人なのです。

「マスターの顔の広いとこで、このあたりに良い物件はないかな」と佐藤さんが聞いてきました。

どうやら店を出すことに決定したようです。

「居酒屋なの」と聞くと「違うのよ 和風スナックやろうと思う」和風スナックとは意外でした。

てっきり居酒屋だと思っていたのですが、スナックらしいです。

「料理もうまいし何故スナックなの」と聞くと。「前に居酒屋をつぶしたから居酒屋はやりたくないし、客と会話したいからスナックみたいなのがいいのよ。女の子も一人雇って」そうです。佐藤さんは会話が面白いのです。今は居酒屋の厨房に入っていますが本意ではなかったのです。

「不動産の友人が沢山いるから聞いておくよ。何坪くらいなの」と聞くと7坪あれば十分とのことでした。

実は、みんなに隠していることがあるのですが昔不動産業にも従事していたことがあるのです。宅建の資格も持っていますし不動産のことなら普通の人よりもはるかに詳しいのです。ですから法律的な話もできますし

家庭の問題や不動産等の法律相談みたいなこともやっています。ただ、資格があったり不動産会社で働いていたことは秘密にしています。ですから客によっては、マスターって何でも知っているよねと言われますね。

ここだけの話です。それ以外にも色々とあるのですが機会があれば書きたいと思います。

「マスターは店を他に出さないの」といきなりの質問です。

「今のところは考えていないよ」と答えたのですが実はこれも秘密なのですがバー1軒と居酒屋をやっているのです。近い場所ではないからみんなは知らないと思いますね。これも秘密なのです。

「そうか マスターなら他にも店の一つや二つくらいあってもおかしくないのに」と言うのです。

「そうだね。何かあったらとは考えているよ」と笑いながら答えました。

いつかはみんなに話そうと思って何年か過ぎたのでそのままにしてあるのです。

「佐藤さん いつごろからと考えているの」と聞くと、来年までには店を決定したいとのことでした。

もう、5時になってしまいました。佐藤さんも2杯飲んで帰られました。

今日も楽しくもあり何かおかしなことが起こった日でありました。これがまた面白いのですが。

平凡な日の連続が一番とは思っているのですが、なかなか神様はそうはさせてはくれません。

もっと修行しなさいということでしょう。

帰り際に、店内と天外に佐藤さんの手品の日の告知ポスターを作って貼りました。

今日は6時には家に帰れそうです。今日は月曜日です。

「そうですか、ではお薦めのカクテルをお願いします。おまえもそれでいい」と女に聞いています。

「はい いいですよ。あまり強くないのがいいです、それとジンベースで」と女のほうは慣れている感じです。

男は僕も同じものをと言いました。どうやら女のほうが主導権を持っているような感じです。

私はショートカクテルを作り差出しました。そこで真紀さんと大場さんのお帰りです。どうやらタクシーを呼

んだので大場さんが真紀さんを送っていくことになったようです。店を出ていく後姿はカップルそのものです。

とてもいい感じに見えました。二人が帰られると同時に仁さんの彼女の由美さんが入ってきました。

「マスター 久しぶりね」と由美さん。「久しぶり 元気 今日はどこに行ったの」と由美さんに聞いたら、

どうやら近くのデパートで買い物をしていたようです。「マスター 今日は車だから帰りに代行ね、それと私はいつものロングカクテル」の注文です。由美さんはいつもロングカクテルなのです。

仁さんとべったりくっついて話しています。とても微笑ましい雰囲気で昨日の喧嘩は嘘のようでした。

「すいません ウイスキーもらえますか」と真ん中の男が2杯目の注文です。この二人は話すというよりも何か静かに飲んでいるという方です。「何か銘柄でお好きなものはありますか」と私が聞いたら特に何もないとのことでしたのでサントリー山崎を出しました。なにやら意味ありげなカップルです。

仁さんと由美さんは、いつもと変わりなく話しています。「仁さん 明日 仕事はないの」と私が聞いたら

明日は遅番なので夕方からの出勤ということでした。由美さんも明日は休みというので飲みにきたということです。「マスター 女帝と大場さんは知り合いだったの」と仁さんです。何か気になっていたようですね。

「今日知り合ったんだよ」と言うと、「そうなんだ 女帝が女帝に見えないよね」と不思議そうに聞いてきたのです。「女帝も女だからね」と私が答えると「だね」と仁さん。それはそうと仁さんと由美さんは結婚するって噂を聞いたけどそうなの?と聞いたのです。「来年の予定です」と由美さんが答えました。

「そうなんですよ これで終わりです」と笑いながら仁さんが答えると、すかさず由美さんが、「何が終わりなのよ 始まりでしょ 私は終わりだけど何人の男が泣くと思うのよ」と仁さんの頭を叩いています。

さすが、由美さんの爆裂トークです。その会話を聞いていた不倫かもしれないカップルが笑い始めたのです。

「おめでとうございます」と女のほうが由美さんに会釈しています。「ありがとう 男は終わりっていうけど 本当は女が終わりで 男は始まってもらわないといけないのよねぇ」と由美さんが女のほうに向いて話し始めたのです。ここからが今夜のメイントークとなっていくのです。

二組のカップルの爆裂トークの始まり始まりです。結局朝5時までの営業になったのです。

どうやら由美さんとこの女は相性がいいようである。

「そうですよね 私たちも付合って4年になるけど長い春に終止符したいわ」と彼女が男のほうを覗き込むように目で訴えている。彼女は貴子といい、男は永井さんということがわかりました。

やはり何か意味深な関係のようです。二人の年齢ははっきりしませんが私の感は当たっていると思いますね。

お酒が進むにつれて会話もはずんできました「貴子さんと永井さんは4年というけど同じ会社なの」と由美さん。「違うの 彼とは前の会社で上司だったの」と貴子さんが彼に同意をもとめるように覗き込む。貴子さんは話すたびに彼を覗き込む仕草が癖のようである。

「そうなんだ じゃ お互いに早く結婚しないの」と核心に触れるような質問である。私は二人の話を黙って聞いていることしかできない。何か話しに入れない雰囲気なのである。

また、貴子さんが永井さんを覗き込むように「私は早くしたいのよ、でも彼が」と言って黙ってしまった。

やはり何かある。「ええ 僕のほうに色々と問題があって無理そうなのです」永井さんはタバコに火をつけるとため息をついた。「そうなの 私たちも色々と問題はあったけど今は何もなくなったよ」と由美さん。

「いいよね 彼には奥さんがいるから」と貴子さんがはっきりとカミングアウトしたのです。

「そうなの でも時間が何とかするんじゃないの。私も仁が結婚する気がなかったのに何とかなりそうだし」と由美さんがまくしたてています。仁さんは照れくさそうにうんうんとうなづいていました。仁さんは前にも書いたように結婚の意志はなかったのですが由美さんとであってからは変わったということでした。人は出会いによって信念が変わっていくということでしょうか。私は1度離婚経験があるので言えたぎりではないのですが、最初の女性とはとにかく結婚したいと思う願望が強かったのを記憶しています。今の妻はなりゆきです。

「奥さんはどうしているの」と由美さんが聞いてきました。「今は別居しているけど離婚に応じてくれないのよねぇ。子供もいないし何にも障害はないけど意地だけなのよ。彼も慰謝料払うっていってるのだけど駄目なの、どうしょうもないのよ」

と貴子さん。「離婚の調停なんかしたの」と何やら法律的な話になってきました。

「提案したけど相手が応じないのです」と永井さん。「そうなんだ でも二人の関係は知られているの」と由美さんが本調子になってきました。「3年前から知られているし、それが原因で別居したから」と貴子さん。

「難しいね それならなかなか進まないかもね。でもどうするの」と由美さんが興味本位で質問です。

「今は半分諦めているのよ。 どうしようもないし。説得できないし」と悲しそうな貴子さんです。

「諦めないでよ。そんなことならずるずるといっちゃうよ。困るのは貴子さんなのよ。永井さんはどうするの」

由美さんの爆裂トークが始まってしまました。これからは由美さん中心にお届けします。私と仁さんは聞いているだけなのですから。仁さんもやれやれという顔です。由美さんの本性がでましたね。

「僕も何とかしたいけど妻に話そうとしても電話は切られるし手紙は受け取り拒否されるし、どうしようもないですよ」と永井さんが諦め顔になっています。

「永井さんは男でしょ。何とかしないと貴子さんがかわいそうじゃない。待たされるのは貴子さんだからね。」

と永井さんにきつい一発。永井さんは聞いているだけです。

「電話も駄目というけど、このままなら貴子さんは一生日陰の女ということになるのよ」

「永井さんがしっかりしないと駄目でしょう」初めて会った人にここまで言うかという強い口調です。

大場さんは本当に来たのです。昨夜の雰囲気がよかったのでしょうか。嬉しい限りです。

たわいもない話が続いてたのです。書き忘れましたが、真紀さんという常連さんは、39才で独身、子供が一人いますが高校生なので夜は一人で飲みにくるのです。週に2回くらいですね。また、真紀さんには別の名前があります。「女帝」なのです。何故女帝かというと歯に衣着せぬ話かたなのです。つまり、姉御肌という気質の持ち主なのです。ですから、みんなから女帝と呼ばれているのです。真紀さんのいつものねというお酒は、

モルトなのです。つまりはウイスキーです。彼女はモルトが大好きなのです。たまにカクテルも飲みますが普通はモルトオンリーです。特にグレンフェデックは大好物です。女帝というだけあって身長170cmはありますね。体重は勿論わかりませんが、そこそこはあると思いますよ。昼は電気関係の工場で働いているようです。

ご主人とは死別したと聞いています。5年くらい前とのことでした。真紀さんのことはこのくらいにしておきましょう。「さっき何かあったの」と大場さんが聞いてきたので、さっきの田代さんのことを詳しく話したのです。「本当にそんな人がいるのだね。話には聞いたことがあるけどマスターも大変だね」とタバコをふかしながら生ビール2杯目です。もう外は本格的な雨になっていました。すでに10時半過ぎになっています。

「真紀さん 紹介しておくね。こちらが大場さん」と真紀さんに大場さんを紹介したのです。とりあえず客は2人だけですから、私の独自判断で紹介したのです。普段は客同士を勝手に紹介することはないのですが、今日は紹介して3人で楽しくなればいいとの考えなのです。

「はい 大場です。真紀さんですよね。さきほどからマスターが呼んでいたので、今後も宜しく」

「大場さん 真紀です。店では女帝とか呼ばれているのですよ、女帝はひどいですよね」と真紀さんが大場さんの横顔を見ながら苦笑しています。数ヵ月後にこの二人に大きなことがあるとは知る由もありません。

「女帝ですか、そんな風には見えませんけどね」と大柄な大場さん。大場さんも大きな方で180cmはあると思います。二人は4つ席があいて座っているので、私の話も話しづらいので「大場さん 一つ右に移ってもらえますか、近いほうが話しやすいでしょ」と大場さんに勧めたのです。

「そうですよ、もう少し真ん中によられたらどうですか」と真紀さんも勧めてくれました。

「はい」と大場さん。大場さんもなかなかいい感じで席を移動されました。

これで話がしやすくなりました。外は雨足がひどくなってきました。今夜は客が来ないと思いましたね。

「大場さん ちょっと聞いていいですか」と真紀さんが「何のお仕事なんですか、私はOLみたいなものです」

「今は車の会社で期間工しています、九州出身ですよ」と大場さん。「えっ 九州のどこですか私は佐賀です」

と真紀さんが微笑みながら聞きました。「佐賀ですか。僕は長崎なんです、隣ですね」と大場さんも嬉しそうです。そうか真紀さんは佐賀なんだ、ぜんぜん知りませんでした。真紀さんの素性は話したことがないので、てっきり地元の人だとばかり思っていたのです。どうやら高校卒業してこちらに来たようです。

たまに話し言葉の中にイントネーションが違う時があったのですが。これで理解しました。

私も地方から出てきて30年になりますが、今は地元の方言も忘れてしまいました。生家はありますが妹夫婦と両親が住んでいます。両親も高齢なので心配なのですがいたって健康のようです。とてもいいことです。

と二人を見ると思いのほか盛り上がっているのです。同じ九州出身ということで何か親近感があるのでしょう。

私にも経験がありますが、ただ同郷という、それだけで10年来の友人のような感覚になるものです。

過去には、初めて言ったクラブで中学生の時のクラスの女の子と遭遇したことがあります。これにはびっくりしました。彼女は劇団に入っていて夜はクラブでホステスをして稼いでいるということでした。

もう、20年も前の話になります。この時も思い出話で盛り上がってしまいました。気がつくと閉店の時間までいたのです。それから喫茶店に行って朝まで思い出話に花が咲きましたね。その後彼女は店を辞めてしまったのですが、風の噂によると同じ劇団の人と結婚したとのことです。後でわかったのですがその劇団というのは国内ではかなり有名な劇団でした。誰でも知っている劇団です。

それはそうと店の中に話を戻しましょう。

相変わらず、真紀さんと大場さんはいい感じで話しています。今日初めて会ったという感じではないのです。

カウンターの中から見ていると何でもよく見えるのですが、この二人はとてもいいカップルという雰囲気。

カウンターの中に入るとわかるのですが、座っている客のことは何でも見えるのです。

これは経験してみると楽しいですよ。知り合いの店があったら一度実験してみて下さいね。

なごやかな雰囲気で話していると真紀さんの女帝という雰囲気は全く感じません。普通の女性という感じです。

真紀さんの違う一面を見た思いでした。やはり真紀さんも苦労人ですから心おきなく話せる人が欲しかったのかもしれません。二人の過去のことや将来の夢の話までしているようです。こんなに急速に話が盛り上がるというのも久しぶりの経験です。よほど相性がいいのでしようか。こちらも嬉しくなってしまいました。

だから、話の間には入れませんし、私に話しをふってくることもないのでちょっと暇でした。

すると突然の電話。「はい 営業しています。何名様ですか。お待ちしています」と2名様の予約です。

既に深夜0時をまわっています。今夜は客が来ないかと思っていたのですが有り難いことです。

どうやら今の電話の客は、常連の方からの紹介の客ようです。

真紀さんたちは、既に二人で10杯近く飲んでいます。相変わらず楽しそうに話し込んでいます。

私のでる幕はないようです。バーテンダーですから酒を作るという行為のみになっていました。

客が楽しいのが一番ですね。客の中には、あまり話し込むとお酒を飲まない人がいますが、どうやらこの二人は違うようですね。嬉しい限りです。

ドアがカタンと開いて一人の客が入ってきました。仁さんです。昨夜は彼女と大喧嘩した人で魚の日干しをお土産に持ってきた方です。「あー ひどい雨になったよね マスター」と傘をたたみながらカウンターの隅に腰掛けました。「女帝さん こんばんわ」と真紀さんに挨拶です。「あれっ 昨日の大場さんもいる」と二人のほうを見て何故この二人が知り合いなのという不思議な顔をしています。それもそうですよね、大場さんは昨日初めて店に来た人ですから無理もありません。

「マスター いつものバーボンをダブル」と仁さんの注文です。彼はバーボンも好きですね。特にターキーの12年がお気に入りです。「真紀さん 大場さん 申し訳ないのですが後で2名来られるので2つ左に移ってもらっていいですか」と予約客が来るので二人に移動してもらいました。これで真ん中が空いたのです。

カウンターは8席ですから、左端に真紀さんと大場さん。右端には仁さんという形になったのです。

「仁さん あれから昨日はどうなったの」と暗に彼女との喧嘩のことを聞いてみました。

「あれね。 今日は彼女と買い物に行ってきたよ」と至極あっけらかんとしています。男と女はわからないものです。「そうそう後で彼女も来るよ、今実家に寄っているから」と仁さん。なんだ心配して損したなと可笑しくなりましたね。もうすぐ1時になります。雨は相変わらず降り続いています。外を走る車のタイヤの音でわかりますね。私の店は道路に面している1階ですから車の音は嫌でも聞こえてくるのです。BGMはスイング系のJAZZを流しています。私がJAZZ好きということもあるのですが。昔は音楽をやっていたので音楽には強いとは思います。ギターやドラムを担当していました。今もたまに弾きますが本格的に練習していないので指がついていかないのが悲しいですね。

ドアがカタンと開いて、予約していた客が入ってきました。年のころなら20才前半の女性と40才後半と見られるカップルです。見た限りフリンという雰囲気ですね。不倫というカップルは何となくわかるものです。

これは長年の経験で商売柄自然と身につくものなのです。

「いらっしゃいませ。谷原さんの紹介の方ですよね。こちらにどうぞ」と真ん中の席に座っていただきました。

「いい店ですね。彼から一度行ってみたらと言われまして」と男の方が話してきたのです。

「ありがとうございます。何を差し上げましょう」と手拭タオルと灰皿を出しました。

「メニューはないですか」と男の方の質問です。私は「申し訳ありません。当店にはメニューはないのです」


綾さんを迎えにきた店員さんは帰して、みんなで飲みなおしということになったのです。

私としては、売上が多くて嬉しいのですが、何とも言えない一日だったのです。

言うまでもないことですが、綾さんが一番元気になってタクシーで帰っていきました。

そのタクシーに同乗したのは小川さんでした。これが後で悲劇の話になっていくのです。

というのは、綾さんと小川さんは家も車で3分という近い距離なのです。

ですから、同乗してあいのりで帰ったのですが、小川さんには付合っている彼女がいたのです。

どうやら、あまりうまくいっていないということを人から聞いたことがありました。小川さんは綾さんを

気に入っていたらしいのです。書き遅れましたが、ちなみに小川さんは39才の独身です。

小川さんと綾さんが店で出会ったのは数回しかないと思います。それでも男女なのですね。

何かピンとくるものがあったのだと思います。

閑話休題。

その日の朝タクシーで帰って、小川さんの家の前で小川さんが降りていたのを彼女が目撃してしまったのです。

なんという悲惨なことでしょう。タクシーの中には派手なホステス服を着た綾さんが乗っていたのです。

小川さんの彼女も何度か店に来られました。結構気の強い人のように見えましたね。なんでも、昼は介護の仕事で夜は週に2日スナックでバイトしているとのことでした。

その彼女に見られてしまったのです。後で聞いたところによると、小川さんからの連絡がないので小川さんの家に向かうところだったそうです。店内で色々ともめごとがあったので小川さんは携帯の着信チェックをしていなかったそうです。確かに小川さんは携帯をセカンドバックに入れていてバイブにしている人です。

その日は、夕方まで小川さんの彼女との別れ話や再度やりなおすかという話に終始したということです。

結局のところ、お互いが信用できないということで別れたということでした。

私の店は休みという日はありません。週に一日を和夫くんと交代で休むのです。

今日は日曜ですから、私ひとりの日です。和夫くんは木曜日が休みです。

寝たのは11時になっていました。起きたのは午後6時です。なんだかとても疲れた日でしたね。

午後7時に店に向かいました。今日こそはいい日であるように祈って電車に乗りました。

電車で1駅なので普通の帰りはタクシーです。和夫くんは自転車で通える距離です。

7時半に店について開店の準備に入ります。昨夜は思ったより氷が出たので、作りおきしている氷を割る作業からです。慣れるまでは手が冷たくて大変なのですが、慣れればさほど感じませんね。

日曜日は客の入りが少ないので、少しのんびりできるかと思っていますが、どんな展開になることやら。

店が開店して、すぐに客が入ってきた。一見客である。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と迎える。50過ぎの男であるが、どうも足元がおぼつかない。

どこかで飲んできたようである。「どこでもいいのか」とカウンターの真ん中に座った。

なにやら目線もはっきりしない。かなり酔っているようである。何もなければいいが、ちょっと不安である

結局不安は的中するのであるが、とんでもない客であった。

「とりあえず生だ」との注文でした。手拭をあわてて手渡しながら「はい」と言いました。

「この店は何時までなのか」「何人でやっているのか」との色々な質問だらけです。

なんとなく嫌な雰囲気が漂ってきました。私の経験上において来店直後より色々な話をしてくる客は、まともな客でないことが多いのです。この客もそのような感じがしてきましたね。

生ビールを出すと、「グラスが小さい」とのクレームです。私は「居酒屋と違いますから」と答えましたが

どうも気に入らないというそぶりです。「小さいのだから安いのか」という、ばかげた質問です。

600円です」と答えると、「居酒屋なら380円だ」と言って値切ってきたのです。

やはり変な客との思いが当たってしまったのです。それもしらふではないのですからたちが悪い。

それからもなんだかんだといちゃもんばかりつけてきたのです。

私としてもそんなに言われる筋合いはないので、はっきりと言ったのです。

「当店には当店のやり方がありますから、嫌なら他店へ行かれたらいいではないですか」と少し強い口調で話したのです。これには客も少しあわてたようで少し静かになってきました。それはそれとしてよかったのですが、今度は私へ一杯飲めということです。別に拒否する理由もないので素直に受けました。

「お客さんはお近くですか」と酔っ払っている客に静かに質問をしました。「23分のところ」と少し考えて答えてきました。なんですぐに言葉を返さなかったのだろうと少し疑問に思ったのですが酔っているので仕方ないかと思ったのです。その客は5杯くらいビールを飲んだでしょうか。私にももう一杯飲めと話し、結局私は3杯のビールをいただいたのです。1時間くらいが経過したでしょうか「よし 帰るぞ、マスター 紙と鉛筆をくれ」というのです。私は素直に渡しました、何なのだろうと思ったのはいうまでもありません。

そうすると名前と住所を書き始めたのです。そして「これが俺の名前と住所だ。今日は金がないから来月の5日に払う」と言うのです。これには閉口しました。「お客さん それはできません。貸し売りはしていません。合計で4500円になります。今払って下さい」とかなり強い口調で支払うことを言ったのですが、「ないものはない」の一点張りです。数分間のやり取りで「無銭飲食になりますから警察を呼びます」と声を荒げたのです。

「それは困る、家が近いから今戻って金を取ってくる」というのです。確かに書いた住所は店から数分のとこですが信用はできません。「家族がいるのか」と聞いたら一人暮らしだとのこと。これでは益々警察を呼ぶしかありません。電話を持って110番に電話しようとした矢先でした。カタンとドアが開いて常連の真紀さんが入ってきたのです。「マスター あれっ 田代さんがいる」とその客と知り合いのようなのです。

私たち二人の変な雰囲気を察知したようで真紀さんは「何かあったの マスター」と聞いたのでいきさつを話したのです。「田代さん あんたまたやってるのいい加減にしなさいよ」どうやら常習のようです。

その田代さんという人は何度も無銭飲食ではないのですが、金を持たずに店で飲んだりしているというのです。

「警察を呼ぼうと思っているのだが」と真紀さんに話したのですが、真紀さんは「そうねぇ 仕方ないかもね」と田代さんのほうを見ています。「家に帰れば金があるから許してくれ」と田代さんは言うのです。

そこで私は「真紀さん 僕が田代さんといっしょに田代さんの家に金を取りに行くから、その間留守番してもらえる」と話したのです。「いいわよ 行ってきて」ということで、私は田代さんの家に行ったのです。酔っ払いだから歩くのが遅いのには閉口しました。家につくと彼は玄関を開けて金を持ってきたのです。

「田代さん あなたは今後出入り禁止としますから、いいですね」と強い口調で話しておきました。

小走りに店に戻ると、昨夜の期間工の大場さんが来ていました。

「いらっしゃい ちょっと待ってて下さいね」と二人に話して準備に入ったのです。

「マスター 大変だったわね」と真紀さんが苦笑しています。「あの人は有名なの」と聞いたら居酒屋では出入り禁止になっている店が何軒もあるとのことです。金は払うのですがツケにしてくれと初めての店でも言うようでした。とりあえず一件落着です。

ちょっと店の外に塩をまいておきました。さてさて今日もスタートから変な客でしたが真紀さんがグッドタイミングで来店されたのでよかったですね。

さて、気を取り戻して営業開始です。外は曇りから小雨になってきました。雨の日は客が少ないのでちょっと不安です。雪の日はあまり関係ないのですが雨の日は来店客が少ないのが一般的です。

「真紀さん 大場さん 何にしますか」と手拭を渡しながら注文を聞きました。

「いつものね」と真紀さん。「マスター 今日も来てしまったよ。生ビール」と大場さん。

大場さんは、昨夜が初めての来店でしたが、明日また来るねといって帰られたのですが本当に来るとは思っていませんでした。大半の客は明日とか近いうちにとか言うのですがそんなことはあまりありませんから。

「マスター 今日は朝まで飲むよ」と小川さん。「いいですよ 小川さんがいる限り閉めません」と言ってしまいました。小川さんは、この店でも一番か二番にお金を使っていただける客なのです。

そんな常連さんに言われたなら閉めるわけにはいかないですよね。本当は早く閉めておくべきだったのです。

営業時間は、20時から3時までなのですから。

カウンターに5人。テーブルに2人。テーブル客の追加注文がありました。同じものということです。以外とテーブル客は同じものというケースが多いですね。カウンター客は違うものの追加が多いです。

さて、2時半を回ったころでしょうか。開店前に入ってきたキャバクラの綾さんが再度来店です。店が終わったのでさきほどの件の謝りを言いたいとのことで来られました。これでカウンターは満席です。

小川さんと綾さんは知り合いなので隣の席になりました。高橋さんも結構酔われていたので3時前には帰りました。テーブル客の二人も3時過ぎに帰りました。これで客はカウンター5人となったのです。

話さなくてもいいものを綾さんは自分が騙されたことを小川さんに真剣に話しています。小川さんも親身になる優しい人ですから、真面目にアドバイスしたりしています。仲間の3人は仕事の話で盛り上がっています。

私と和夫くんは、仲間の方の仕事の話・・車の関係の話・・に入って談笑していました。

と、突然、あの温厚な小川さんが怒り出したのです。それも尋常ではありません。

どうやら綾さんに向かって怒っているのです。

「綾さんが騙されてどうするの、しっかりしてよ」と小川さんの声。「だって仕方ないじゃないの」と綾さん。

二人とも酔っているので声が大きく自制心を失っているように見えました。

「相手の男を捜す手伝いをするから教えてよ」と小川さん。「これこれこうこう」と綾さんが説明していますが、小川さんに怒られたことで綾さんは萎縮しているようにも見えました。私としては楽しく飲んで欲しいのですが収拾がつかないかとも思って静観することにしたのです。他の客も一時はドキッとしたようでしたが今は勝手にやればという感じになっています。

「綾さん 男の言っていた会社に行ってみよう」と小川さん。「でも、あいつが話したことは全部嘘だと思うから無理だよ」と綾さん。「調べもしないで、嘘とかわからないでしょ」と小川さん。「警察は何もしてくれないよ。民事だからね」と小川さん。このようなやり取りが続いたのです。

この時、少しわかったのですが小川さんは綾さんに好意を抱いていたと思います。そんな雰囲気は微塵もなかったのですが。私も色々な男女を見てきていますから雰囲気でわかるのですが小川さんはポーカーフェースですからなかなか分からなかったのです。

そうこうしているうちに小川さんの仲間3人が帰っていきました。残っているのは、高橋さん、小川さん、綾さんの3人になりました。時間は4時になっていました。もう誰も来ないだろうということで看板の電気は消しました。ここからです。

高橋さんは酔ってカウンターでうつらうつらしています。和夫くんはグラスを洗ったり簡単な掃除をしています。

1時間でみんな帰ると思っていました。

突然、ドアがカタンと開いたのです。そこには例の男が立っていたのです。

以前に同伴で来たことのある見覚えのある顔です。

「あっ どうしたの」と綾さんの奇声です。綾さんがお金を貸した男が立っていたのです。

どうやら、閉店した店に寄ったら片付けをしていた従業員の人が綾さんの居所を教えたようなのです。

綾さんは、店の男の人に送迎してもらっているのですが、今日は店で終わった後に男性スタッフだけのミーティングを行ったので閉店後でも遅くまで残っていて片付けが終わったなら綾さんを迎えにいくということだったようでした。

「村岡さん どうしたのよ。お金はどうなったの」と怒鳴り声です。

どうやら村岡さんという人が、この人のようです。

私は、まあ座ってくださいと促しました。綾さんの横に座ったのでした。小川さんも高橋さんもきょとんとしています。

「ごめんなさい 綾さんに連絡しようと思ったのだけど携帯を忘れてしまって・・・」としどろもどろです。

「店の番号なんかは分かっているのに何で連絡しないの・・・」と言い返しています。

村岡さんは、しどろもどろになりながら弁解しています。何やらつじつまが合わないのですが・・・

それでも、一生懸命に謝っているのです。

「言い訳はいいから、お金持ってきたのよね」と綾さん。「50万円は用意したから持ってきた」と村岡さん。

「足りないじゃないのよ。店のつけと合わせて40万円はどうしたの」と畳み込むように綾さん。

「明後日には必ず返すから今日は50万円でお願いします」と村岡さん。でも、怒り心頭な綾さんは許しません。今、払いなさいとのマシンガントーク炸裂です。私たちは見守ることしかできません。

村岡さんという人は、見た限りでは気弱な人のようです。どうみても会社の専務という雰囲気ではないのです。

ここで登場するのが、小川さんでした。「あんた 本当に払う気があるの」と小川さんの言葉。

「絶対に明後日には払いますから今日は50万円で許してください」と村岡さん。

「綾さん じゃ この人に誓約書を書いてもらおうよ。みんなが証人になるから」という小川さんの一言でした。それで客の2人と私と和夫くんが証人として誓約書にサインしたのです。誓約書は知識豊富な小川さんが作成しました。そこで村岡さんに免許証の提示を求めたり、専務なら名刺くらい持っているだろうということで出させたのです。免許証の住所は隣の市になっていました。名刺も隣の市の住所になっていたのですが、

なんと高橋さんの会社と付き合いのある会社の下請け会社だったのです。専務というのも本当でした。

社員3人の建築関係の会社なのですが、金が入ってくると見込んだ仕事がなくなって支払いがきつくなったようでした。それで言い訳をしていたようです。確かに、店につけができるということは信用があるということなのですから。店としてはホステスにつけが回ってホステスから回収すればいいのです。ですから今月に回収できないなら綾さんの来月支払いの給料から20万円が引かれるのです。

どうやら50万円というのも借りてきたようでした。残りの40万円も月曜日に借りて返すということがはっきりしました。それよりも高橋さんと繋がりのある会社の専務ということで村岡さんは絶対絶命なのです。

綾さんに謝ることもそうなのですが、高橋さんには盛んに頭を下げていました。もう、5時過ぎです。

外が明るくなってきました。小川さんの作った誓約書にサインして一件落着となったのです。

後で聞いたところによると全額返済されたようでした。

この日は結局、朝8時までの営業になってしまいました。

そんな話をしていると次の客が入ってきました。いつもの常連の仁さんです。10時を回っていました。

私の店は小さいので大勢で来ることはありません。大半が一人での客となります。

「マスター おいしい魚の日干しが手に入ったよ」と熱海の地名のある袋を持ってきました。

私の店は、持ち込み自由なのです。客によっては、寿司を持ってきたりしますが私はいいと思っています。

フードがないので持込自由としているのです。ただ、匂いの強いものは他の客の迷惑となりますから、禁止しています。仁さんは、大手家電メーカーの会社員です。九州出身でこちらに住んで10年になるそうです。

私は早く嫁でももらえばと言っているのですが、今の生活が自由だからと言って結婚する気はないそうです。

「みんなで食べようよ」と仁さんからの提案で袋を開きました。仁さんの最初の一杯は生ビールです。

最初に来ていた客にも勧めたら、遠慮なくいだきますということでした。最初の客の名前は大場さんといいます。いづれ、この店で出会った客と結婚することになるのですが後に記述します。

「仁さん この日干しはいいね。海に行ったの」と聞くと、「そうだよ、彼女と行ってきたよ」とのこと。

「彼女はどうしたの」と聞き返すと、帰りの車の中で大喧嘩してしまって帰ったとのことである。

「今夜は飲もうよ。マスターも和夫くんも一杯飲んでよ」とのこと、早速生ビールをいただきました。

この仁さんも32才なのですが、何人もの女と付合っていたのに結婚の意志がないのでいつも彼女にふられるということを言っていました。今は結婚しない女や男が増えている気がします。私の店でも30才代以上の独身がとても多いのです。かくいう私は、離婚暦があります。今は妻と子供に恵まれましたが、若いころに勢いで結婚して半年もただずに離婚したのです。

「お名前は存知あげませんが、日干しを食べるのは久しぶりで美味しい。ありがとう」と大場さんが口を開きました。何か大場さんは、嬉しそうです。さっきの暗い話が嘘のようでした。

人は、そのいる場所が楽しいなら笑えるものです。人に話しを聞いてもらうと心が落着くものです。

そういう場がバーなのだと思っています。悲しみや辛さを一人で払拭する人は少ないと思います。

そういう私もそうです。みんな心に秘めた悲しみを持っているのだと思います。

悲しみは一人では倍増、二人なら半減するという言葉が大好きですね。

さて、日干しを食べながら、いつものくだらない話になってきました。大場さんも仁さんもグラスが進んでいます。後、8人くれば今日の売上は達成かなと思った矢先でした。

カタンとドアが開いて、女神の登場です。11時半になっていました。女神といっても普通の女の人なのですが

彼女が来ると店の中に花が開いた感じになるのです。誰とでも気さくに話し笑うめぐみさんです。

めぐみさんが来ると店が盛り上がって、客単価が増えるのはいいことなのです。当たり前ですが。

彼女のファンは結構いると思います。29才独身です。普通のOLです。後に記述する美紀子さんの親友です。

これでカンウターには3人の客になりました。確かに遅い客足でした。

しかし、今日はちょっと雰囲気が違っていました。

めぐみさんが席に座ると同時に泣き出してしまったのです。私もあわてましたが他の客もどうしたのという目になっています。私はとりあえず手拭を出しました。開口一番。

「どうしたの」と優しい口調で聞いたのですが、彼女の口からは信じられない話が飛び出したのです。

「歩いていたら2人の男に襲われてバックや携帯をとられたの」ということです。全員固まってしまいました。

「警察には行ったの」と仁さんが聞くと「今、警察の帰りなの」という泣き声です。

どこでなのと聞いたら一軒行った店を出た時に道でからかわれて怒ったら奪われたそうなのです。

「怪我はないの」と私が聞くと「何もない」とのことでした。何と言っていいのかわからないので、とにかく暖かい飲み物を出しました。ホットミルクです。少し落着きを取り戻したようなので、話を聞いてみると、私の店に行こうとして他の店を出たところ道で2人の若い男に囲まれたそうです。つまり、軟派されたということです。そこでキッパリと無視して歩いていたなら後ろからバックと手に持っていた携帯を取られたということなのです。よくある話かもしれませんが、私の客では初めてでした。

私も昔若いころにからまれて抵抗したら棒のようなものでなぐられた経験もあります。

めぐみさんに怪我がなくて何よりでした。そして「マスター 電話貸してくれる、カードと携帯とか止めないといけないから」ということで彼女は電話にかかりっきりになったのです。

なにやら今日は厄日のようです。スタートから今までが大変な日になったなという感じでした。

それはなによりめぐみさんの心のケアが必要だと痛感しましたので、彼女の話をゆっくり聞いてあげることに

したのです。他の仁さんや大場さんもじっと黙って聞いてくれています。

わたしも聞いてあげて時おり相づちをうつ程度です。このような時には黙って聞いてあげるのが一番です。

めぐみさんの話が一通り終わったところで、次の客が入ってきました。

それと同時に大場さんもお帰りなられました。

「マスター とてもいい店でした。明日も時間をみて寄らせてもらいます」と大場さんの帰宅です。

次の客は、高橋さんです。自営で防水関係の仕事をしている方です。まだ若いのですが独立されています。

以前は、鳶の仕事だと聞いています。また、高橋さんは別の顔を持っていて輸入の会社も経営しているそうです。実は私の店が以前水漏れした時にも修理してもらいました。

「どうも みんないるね」と赤ら顔の高橋さん。どうやら他で結構飲んできたようです。

和夫くんが手拭と灰皿を出しました。それと高橋さんにはピクルスを出すのが日課となっています。

どうやらピクルスのようなすっぱいものが大好きのようです。

「マスター なんで今日客が少ないの」ときつい一発。

「高橋さん こんな日もあるんだよ。いつも混んでいたら蔵たてられるよ」とお返しの言葉。

高橋さんはかなり上機嫌です。いつもの寿司屋で飲んでいたようです。彼は、一生独身と決めているらしく

女はいらない、邪魔なものはいらないというのが口癖なのです。本当は心の優しい人なのですがいつもから威張りなのです。しかし、仲間の面倒見もいいし兄貴分的な男なのです。

「めぐ(さっき泣いていためぐみさんのことです)何か落ち込んでるのか」と肩をたたきながら聞いています。

私は、あっ高橋さん・・・と言いかけたのですが時すでに遅しでした。

「今日は話しかけないで」とめぐみさん。ちょっと怒ったような感じの返答。

「なんだよ 何かあったのか」と高橋さん。ここで他の話題にふろうとしたのですが、また、時すでに遅し。

「めぐは笑っていないとめぐじゃないぞ」と手遅れの言葉を発したのでした。

「今日は笑えないの、ほっといて」と喧嘩になるような感じになりました。

でも、さすが高橋さんです。「マスター 何かあったのだよね」と言って、バーボンを注文しました。

何か殺気を感じたのだと思います。とりあえずその場はおさまりました。

でも、これは一序章に過ぎない日なのでした。 悪魔が近づいていたのです。

めぐみさんは一人で静かにしています。他の客はいつものくだらない話で盛り上がっています。

私も仲間に入り、やれゴルフだ野球だとわいわいがやがやの時間が過ぎていきました。

時間も1時半近くになっていたでしょうか。次の客です。2人で来店されました。

カウンターではなく、テーブルへ座ったのです。男と女です。女は以前一度来店されたことがあります。

和夫くんが接客することになりました。

モスコミュールとモルトのシングルです。何やら小声で話しているのですが何かは聞こえません。

顔と顔をひっつけて話しています。カウンターはめぐみさんを除いては盛り上がりのままです。

高橋さんがみんなを引っ張って会話の中心になっています。これが普段の店の感じですからいい感じです。

客も5人になっていましたし、2時から4人が来るという電話も入っていました。

このままで今夜が無事に終わってくれたなら問題がなかったのですが。

テーブルの客は追加注文もなく話ばかりしている。複数で来た客でテーブルに座ると客単価が伸びないのである。つまり、話に夢中になってドリンクの注文がないのである。これはどこの店でも同じである。

私の店の客単価は、3500円前後です。中には一人で1万円以上も飲む人もいますがめったにないことです。

一番安いアルコール飲料が600円。一番高いのが4000円です。4000円のモルトは4人しか飲みません。

4000円は高いのですが仕入れも高いのです。一本の720mlの瓶からは、約22杯のシングルです。

さて、めぐみさんは何となく落着いた感じでみんなの仲間に入っています。高橋さんもおおよその事情を理解したようで、そのことにはふれないで他の楽しい話題になっていました。

実は、私は20年以上も前から占いに凝っています。何かあれば占ってあげるというのが好きなのです。

本格的に勉強したこともあるのです。ある先生について2年間勉強しました。それが今役にたっています。

話のツマとしての占いですから、たいしたことはありませんが結構当たるとの評判はあります。

手前味噌ですが一昨日も、ある女性から占って欲しいとのことで占ったのですが、彼女の過去の70%が当たっていたのです。これには彼女は驚いていました。もちろん、当たらないことも多いですよ。

客の仁さんの彼女のことも気がかりなのです。喧嘩して別れたということでしたので、その後が気になります。

仁さんはいたって平気で酒を飲んでいます。明日が日曜日ということもあるとは思いますが。客の私生活に入らないというのが鉄則ですかから、そのことにはふれないでおいています。男と女はなるようにしかなりません。店で大喧嘩しても次の日には仲良く来店するということは多々あるのです。逆に喧嘩してそれっきりということも多々ありました。バーとは出会いの場であることもありますが、別れの場にもなるのです。

そうこうしているうちに、めぐみさんと仁さんのお帰りとなりました。2時少し前です。

客はテーブルの2人とカウンターの1人になりました。テーブル客は相変わらず追加注文はありません。

グラスの中は空っぽなのですが話しに夢中になっています。そして、210分過ぎに予約の客が来店です。

4名です。全員カウンターです。中に常連さんが一人います。大手の車関係の会社の小川さんです。

彼は歩く辞書というくらいの物知りです。その彼の仲間たちなのです。明日が休みということで飲み歩いていて最後に寄ってくれたようです。ここから朝までの長いこと長いこと、これから事件は起こったのです。

小川さんが「マスター 全員に例のバーボン」という注文です。例というといつものノブというバーボンなのです。ノブというのは、アメリカのケンタッキーのバーボンで少しスモーキーな味がします。

私も大好きなバーボンの一つです。

「乾杯」と小川さんの一声です。仲間の人も適度に酔っていますから、2杯程度でお帰りになると思っていました。ここからが事件の始まりでした。

「テキーラの味は如何ですか」と彼に聞いたのだが、聞くと同時に「もう一杯」との注文。

「お客さんはテキーラが好きなのですね」と聞いたら「今日はね」と言葉が返ってきた。

「同じものでいいですか」と聞くと、同じというように首を立てにふった。

2杯目を飲み干すと「この店はいつからやっているの」という質問があり「もう、16年になります」と答えると「そんなに長いの、僕も昔はバーテンダーになりたかったよ」との答え。

私は、何となく場慣れしていると思った直感に少しの嬉しさを覚えた。店の中にいると客の素性の推理をしてしまうことが多々ある。100%はわからないが、どんな仕事なのかと思う時があるのも事実である。

「お客さんも、バーテンダーの経験があるのですか」と聞くと「若いころに3年」と答えてきた。

3年やられていたのですね。それ以来はないのですか」とちょっと突っ込んで聞いてみた。

バーテンダーは、あまり客のプライベートに突っ込んで聞かないのがルールであるが、今回の客は客のほうからバーテンダーになりたかったというので敢えて聞いてみたのである。

「長崎にいたころ、憧れていてね。もう、25年も前のことですよ。20歳のころ」と苦笑しながら話してきた。

私は、やはり年齢は45前後だと思っていたのが当たっていたのがとても嬉しくて小さな幸せであった。

「マスターでいいの。別にオーナーはいるの」とちょっと失礼だと思ったのだが質問をしてきた。

「私がオーナーです」と話すと「年とると辛い仕事だよね」との返答。

そんなことはわかっている。一日中立ち仕事だから年とると大変なのは当たり前である。

「そうですね。慣れてしまえば大丈夫ですかね」と疑問形式で話すと彼は「僕の仕事も立ち仕事だから」との

返答。「僕は車会社の期間臨時工だから生産ラインで立ってばかりだよ」と。

建設関係ではない。工場なのであった。確かに、このあたりには大手の自動車会社がある。

私は、この客は全国の自動車会社の期間工として働いているのだと直感した。私の店に来る客の中にも期間工の客がいる。その客から聞いた話である。彼は、フゥーッと手拭で再度顔を拭くと、生ビールを注文してきた。

普通の客とは逆の注文順序である。すでに時間は9時を過ぎている。どうやら今日は客足が遅いようだ。

キンキンに冷えた生ビールを出すと、追加でピーナツを注文してきた。

ピーナツを食べながら、ぽつりぽつりと話始めた。横で従業員の和夫くんは手持ちぶさたでグラスを拭いている。

「マスター 僕はね、色々な事業をしたのだけど全部失敗して破産したのだよ」といきなりの言葉。

「そうですか。それは大変でしたね」とさりげなく話した。

「家も担保に取られたし、家内とも別れた。子供は成人しているから関係ない」とはき捨てるというより

寂しい感じの言葉であった。「それとね。人にも散々騙されたよ」まるで、さっき来た綾と同じような感じである。今日は、こんな日なのかと少し寂しい気がした。でも、バーテンダーというものは、客の愚痴を聞くのも仕事であるから仕方のないことである。この客にも人に言われない過去があるのだと思った。

さらに続けて「30才のころは天下を取ったような気持ちだったね。家も建て高級車を乗り回していた。」と遠くを見るように話始めた。

「マスターも横の彼(和夫くん)も聞いてくれるかな。僕は何とかして再起したいのだけど何から始めたらいいのかが何にも思い浮かばない。今は、流されるだけ流されている」と私の顔をじっと見て話したのである。

ゆっくりでもなく早くもなく坦々とした話ぶりである。過去に社長を経験したことのある人であることが

伝わってくる感じがした。「調子に乗って、色々な事業に投資したのだが全てが悪い方向になってしまった。あせればあせるほど深みにはまっていくのを実感したよ。金融機関からの融資も駄目になり、数千万円という借金を背負って倒産した。家内は、錯乱状態になり、子供を連れて家出した。私は、やむなく破産という道を選んで今があるのです。若いころに地道にバーテンダーにでもなっていたらよかったと思うよ」という内容の言葉を続けて発したのです。唯一の救いは、彼の話す言葉の中に悲壮感があまり感じられないということです。

笑顔もあるし、過去との決別はできていると思いました。そして「ここにきて、初めて話したよ。くだらない話を聞いてくれてありがとう。少し胸のつかえが降りたよ」と生ビールを飲み干した。

彼の目の奥には、まだ、光が残っている。この人は絶対に再起すると確信しましたね。私にも似たり寄ったりの経験があるから他人ごとではなかったのです。

私は、店の従業員へ、「開店から嫌な感じだね」と話した。従業員といっても一人だけなのである。

彼はバーテンダーになりたくて私の店で修行している和夫くんである。まだ、23才なのだが、一応、物怖じしない性格と覚えが早いので助かっている。

彼が「そうですよね。彼女も大変ですね。」と他人ごとのように呟いて天井を見た横顔が嬉しそうに見えて

私は苦笑してしまった。確かに他人ごとであると同時に昔の私を思い出していた。

かれこれ20年前になると思うが、私も友人に30万円貸して逃げられたことがある。10年来の友人であったが借金がかさみどうしようもなくなって私のところに助けにきたのである。貸した次の日には連絡がつかなくなってしまってあせった記憶がある。誰でもそんなことの一つや二つはあるのだろうか。

何かやりきれない気持ちになったところで、ドアがカタンと開いて一見客が入ってきた。

「いらっしゃいませ。お好きなところへお座り下さい。」と静かな口調で対応した。

私の店は決して大きくはない。カウンターで8人。テーブルで4人という小さな店である。

「カウンターいいですか」と、年のころなら45あたりのTシャツの男性である。

カウンターの一番奥の席に座った。バーでは面白いことにカウンターが空いていると大体奥の席から座り、

次の客は入口、その次はカウンターの真ん中と埋まっていく。人間の心理なのだと思う。

私は、彼に暖かい手拭と灰皿を出した。彼は手拭を顔に当てていっきに拭いてしまった。

格好からいうと何か建設関係なのだと思う。何故かというとズボンが建築関係の人がはくものであった。

「何にされますか」と私が聞くと、「テキーラありますか」といきなりテキーラである。

「何種類かありますが」と質問すると「何でもいいから」と少しぶっきらぼうな返答であった。

私は、店で一番のテキーラを出すことにした。大半のオーセンティックなバーにはメニューがないのが普通である。私の店もメニューはない。フードもないしチャームもないのである。チャームとは付け出しのことであるが、客が欲しいなら400円でピーナツ等を出している。種類にしても5種類程度である。

食事をすると店の中の匂いや利益が少ないので出していないのである。これは昔から変わっていない。

修行中はフードの店でも働いたのだが何か違和感があり独立以来出していない。

彼は私の出したテキーラグラスのテキーラを一気に飲み干した。

仄暗い長方形 Ⅰ



バーテンダーの見た人間模様   ※登場する人物名等は仮名です。

午後8時になる20分前である。開店の前20分というのは一番忙しい時間である。

突然、カタンとドアが開き、赤いドレスの女が入ってきた。いつもの女である。綾という37才。

「マスター 時間前だけどいい」と息せき切った言葉であった。

あーいつもの人だと思うと同時に、何でこんなに早い時間に来たのかとふと疑問に思ってしまったのである。

「マスター いつもの彼は来ていない」とかのやつぎばやの早口の質問というかマシンガンのようにどこかで見てないとかである。確かに、彼女と同伴する男は同じ人物であった。

その男と約束したのだが待ち合わせの場所に2時間前から待っているのだけれど現れないというのだ。

私は心の中で、たかが同伴をすっぽかされただけだろうと思っていたのだが、実際は違っていた。

「マスター 私困るのよ。彼にお金貸していて今日返すと連絡があったのよ」という内容であった。

私は、携帯に電話したのかと問うと、「彼の携帯は、何度電話してもお客様の都合で通話できない」となっているということであった。よくある話ではある。

「綾さん いくら貸していたの」と氷を割りながら聞いてみたのだが驚く金額なのである。

70万円も貸していたのよ」と怒りの鬼の形相である。

「なんでそんな大金を貸したの。彼の自宅は知っているの」と聞いてみたのだがなんともはっきりしない。

彼女の店(キャバクラ)で出会った会社の専務ということであった。確かに、何度か私の店に二人で同伴したのは覚えている。年のころなら40過ぎのやせ男という感じでもの静かな雰囲気の紳士とまではいかないが

落着いた感じの男であった。いつもスーツで靴もピカピカに磨かれていたのを覚えている。

しばらくの沈黙の後、彼女は「もしかして騙されたのかなぁ」と呟いた顔が悲しそうであった。

70万円だけじゃないのよ。店にもつけが溜まっているの。そうねぇ20万円くらいかな」と言ってフウーと

ため息をついた。その間にも店の女の子や店の店長にさかんに電話している。彼の居所を探すためだ。

「マスターも見かけたら連絡頂戴ね」と携帯番号を書き置いて店を出ていった。ちょうど815分である。

その後のことは後で記述したいと思う。さらなる結果があったことは後で記述しますね。