大場さんは本当に来たのです。昨夜の雰囲気がよかったのでしょうか。嬉しい限りです。
たわいもない話が続いてたのです。書き忘れましたが、真紀さんという常連さんは、39才で独身、子供が一人いますが高校生なので夜は一人で飲みにくるのです。週に2回くらいですね。また、真紀さんには別の名前があります。「女帝」なのです。何故女帝かというと歯に衣着せぬ話かたなのです。つまり、姉御肌という気質の持ち主なのです。ですから、みんなから女帝と呼ばれているのです。真紀さんのいつものねというお酒は、
モルトなのです。つまりはウイスキーです。彼女はモルトが大好きなのです。たまにカクテルも飲みますが普通はモルトオンリーです。特にグレンフェデックは大好物です。女帝というだけあって身長170cmはありますね。体重は勿論わかりませんが、そこそこはあると思いますよ。昼は電気関係の工場で働いているようです。
ご主人とは死別したと聞いています。5年くらい前とのことでした。真紀さんのことはこのくらいにしておきましょう。「さっき何かあったの」と大場さんが聞いてきたので、さっきの田代さんのことを詳しく話したのです。「本当にそんな人がいるのだね。話には聞いたことがあるけどマスターも大変だね」とタバコをふかしながら生ビール2杯目です。もう外は本格的な雨になっていました。すでに10時半過ぎになっています。
「真紀さん 紹介しておくね。こちらが大場さん」と真紀さんに大場さんを紹介したのです。とりあえず客は2人だけですから、私の独自判断で紹介したのです。普段は客同士を勝手に紹介することはないのですが、今日は紹介して3人で楽しくなればいいとの考えなのです。
「はい 大場です。真紀さんですよね。さきほどからマスターが呼んでいたので、今後も宜しく」
「大場さん 真紀です。店では女帝とか呼ばれているのですよ、女帝はひどいですよね」と真紀さんが大場さんの横顔を見ながら苦笑しています。数ヵ月後にこの二人に大きなことがあるとは知る由もありません。
「女帝ですか、そんな風には見えませんけどね」と大柄な大場さん。大場さんも大きな方で180cmはあると思います。二人は4つ席があいて座っているので、私の話も話しづらいので「大場さん 一つ右に移ってもらえますか、近いほうが話しやすいでしょ」と大場さんに勧めたのです。
「そうですよ、もう少し真ん中によられたらどうですか」と真紀さんも勧めてくれました。
「はい」と大場さん。大場さんもなかなかいい感じで席を移動されました。
これで話がしやすくなりました。外は雨足がひどくなってきました。今夜は客が来ないと思いましたね。
「大場さん ちょっと聞いていいですか」と真紀さんが「何のお仕事なんですか、私はOLみたいなものです」
「今は車の会社で期間工しています、九州出身ですよ」と大場さん。「えっ 九州のどこですか私は佐賀です」
と真紀さんが微笑みながら聞きました。「佐賀ですか。僕は長崎なんです、隣ですね」と大場さんも嬉しそうです。そうか真紀さんは佐賀なんだ、ぜんぜん知りませんでした。真紀さんの素性は話したことがないので、てっきり地元の人だとばかり思っていたのです。どうやら高校卒業してこちらに来たようです。
たまに話し言葉の中にイントネーションが違う時があったのですが。これで理解しました。
私も地方から出てきて30年になりますが、今は地元の方言も忘れてしまいました。生家はありますが妹夫婦と両親が住んでいます。両親も高齢なので心配なのですがいたって健康のようです。とてもいいことです。
と二人を見ると思いのほか盛り上がっているのです。同じ九州出身ということで何か親近感があるのでしょう。
私にも経験がありますが、ただ同郷という、それだけで10年来の友人のような感覚になるものです。
過去には、初めて言ったクラブで中学生の時のクラスの女の子と遭遇したことがあります。これにはびっくりしました。彼女は劇団に入っていて夜はクラブでホステスをして稼いでいるということでした。
もう、20年も前の話になります。この時も思い出話で盛り上がってしまいました。気がつくと閉店の時間までいたのです。それから喫茶店に行って朝まで思い出話に花が咲きましたね。その後彼女は店を辞めてしまったのですが、風の噂によると同じ劇団の人と結婚したとのことです。後でわかったのですがその劇団というのは国内ではかなり有名な劇団でした。誰でも知っている劇団です。
それはそうと店の中に話を戻しましょう。
相変わらず、真紀さんと大場さんはいい感じで話しています。今日初めて会ったという感じではないのです。
カウンターの中から見ていると何でもよく見えるのですが、この二人はとてもいいカップルという雰囲気。
カウンターの中に入るとわかるのですが、座っている客のことは何でも見えるのです。
これは経験してみると楽しいですよ。知り合いの店があったら一度実験してみて下さいね。
なごやかな雰囲気で話していると真紀さんの女帝という雰囲気は全く感じません。普通の女性という感じです。
真紀さんの違う一面を見た思いでした。やはり真紀さんも苦労人ですから心おきなく話せる人が欲しかったのかもしれません。二人の過去のことや将来の夢の話までしているようです。こんなに急速に話が盛り上がるというのも久しぶりの経験です。よほど相性がいいのでしようか。こちらも嬉しくなってしまいました。
だから、話の間には入れませんし、私に話しをふってくることもないのでちょっと暇でした。
すると突然の電話。「はい 営業しています。何名様ですか。お待ちしています」と2名様の予約です。
既に深夜0時をまわっています。今夜は客が来ないかと思っていたのですが有り難いことです。
どうやら今の電話の客は、常連の方からの紹介の客ようです。
真紀さんたちは、既に二人で10杯近く飲んでいます。相変わらず楽しそうに話し込んでいます。
私のでる幕はないようです。バーテンダーですから酒を作るという行為のみになっていました。
客が楽しいのが一番ですね。客の中には、あまり話し込むとお酒を飲まない人がいますが、どうやらこの二人は違うようですね。嬉しい限りです。
ドアがカタンと開いて一人の客が入ってきました。仁さんです。昨夜は彼女と大喧嘩した人で魚の日干しをお土産に持ってきた方です。「あー ひどい雨になったよね マスター」と傘をたたみながらカウンターの隅に腰掛けました。「女帝さん こんばんわ」と真紀さんに挨拶です。「あれっ 昨日の大場さんもいる」と二人のほうを見て何故この二人が知り合いなのという不思議な顔をしています。それもそうですよね、大場さんは昨日初めて店に来た人ですから無理もありません。
「マスター いつものバーボンをダブル」と仁さんの注文です。彼はバーボンも好きですね。特にターキーの12年がお気に入りです。「真紀さん 大場さん 申し訳ないのですが後で2名来られるので2つ左に移ってもらっていいですか」と予約客が来るので二人に移動してもらいました。これで真ん中が空いたのです。
カウンターは8席ですから、左端に真紀さんと大場さん。右端には仁さんという形になったのです。
「仁さん あれから昨日はどうなったの」と暗に彼女との喧嘩のことを聞いてみました。
「あれね。 今日は彼女と買い物に行ってきたよ」と至極あっけらかんとしています。男と女はわからないものです。「そうそう後で彼女も来るよ、今実家に寄っているから」と仁さん。なんだ心配して損したなと可笑しくなりましたね。もうすぐ1時になります。雨は相変わらず降り続いています。外を走る車のタイヤの音でわかりますね。私の店は道路に面している1階ですから車の音は嫌でも聞こえてくるのです。BGMはスイング系のJAZZを流しています。私がJAZZ好きということもあるのですが。昔は音楽をやっていたので音楽には強いとは思います。ギターやドラムを担当していました。今もたまに弾きますが本格的に練習していないので指がついていかないのが悲しいですね。
ドアがカタンと開いて、予約していた客が入ってきました。年のころなら20才前半の女性と40才後半と見られるカップルです。見た限りフリンという雰囲気ですね。不倫というカップルは何となくわかるものです。
これは長年の経験で商売柄自然と身につくものなのです。
「いらっしゃいませ。谷原さんの紹介の方ですよね。こちらにどうぞ」と真ん中の席に座っていただきました。
「いい店ですね。彼から一度行ってみたらと言われまして」と男の方が話してきたのです。
「ありがとうございます。何を差し上げましょう」と手拭タオルと灰皿を出しました。
「メニューはないですか」と男の方の質問です。私は「申し訳ありません。当店にはメニューはないのです」