そんな話をしていると次の客が入ってきました。いつもの常連の仁さんです。10時を回っていました。
私の店は小さいので大勢で来ることはありません。大半が一人での客となります。
「マスター おいしい魚の日干しが手に入ったよ」と熱海の地名のある袋を持ってきました。
私の店は、持ち込み自由なのです。客によっては、寿司を持ってきたりしますが私はいいと思っています。
フードがないので持込自由としているのです。ただ、匂いの強いものは他の客の迷惑となりますから、禁止しています。仁さんは、大手家電メーカーの会社員です。九州出身でこちらに住んで10年になるそうです。
私は早く嫁でももらえばと言っているのですが、今の生活が自由だからと言って結婚する気はないそうです。
「みんなで食べようよ」と仁さんからの提案で袋を開きました。仁さんの最初の一杯は生ビールです。
最初に来ていた客にも勧めたら、遠慮なくいだきますということでした。最初の客の名前は大場さんといいます。いづれ、この店で出会った客と結婚することになるのですが後に記述します。
「仁さん この日干しはいいね。海に行ったの」と聞くと、「そうだよ、彼女と行ってきたよ」とのこと。
「彼女はどうしたの」と聞き返すと、帰りの車の中で大喧嘩してしまって帰ったとのことである。
「今夜は飲もうよ。マスターも和夫くんも一杯飲んでよ」とのこと、早速生ビールをいただきました。
この仁さんも32才なのですが、何人もの女と付合っていたのに結婚の意志がないのでいつも彼女にふられるということを言っていました。今は結婚しない女や男が増えている気がします。私の店でも30才代以上の独身がとても多いのです。かくいう私は、離婚暦があります。今は妻と子供に恵まれましたが、若いころに勢いで結婚して半年もただずに離婚したのです。
「お名前は存知あげませんが、日干しを食べるのは久しぶりで美味しい。ありがとう」と大場さんが口を開きました。何か大場さんは、嬉しそうです。さっきの暗い話が嘘のようでした。
人は、そのいる場所が楽しいなら笑えるものです。人に話しを聞いてもらうと心が落着くものです。
そういう場がバーなのだと思っています。悲しみや辛さを一人で払拭する人は少ないと思います。
そういう私もそうです。みんな心に秘めた悲しみを持っているのだと思います。
悲しみは一人では倍増、二人なら半減するという言葉が大好きですね。
さて、日干しを食べながら、いつものくだらない話になってきました。大場さんも仁さんもグラスが進んでいます。後、8人くれば今日の売上は達成かなと思った矢先でした。
カタンとドアが開いて、女神の登場です。11時半になっていました。女神といっても普通の女の人なのですが
彼女が来ると店の中に花が開いた感じになるのです。誰とでも気さくに話し笑うめぐみさんです。
めぐみさんが来ると店が盛り上がって、客単価が増えるのはいいことなのです。当たり前ですが。
彼女のファンは結構いると思います。29才独身です。普通のOLです。後に記述する美紀子さんの親友です。
これでカンウターには3人の客になりました。確かに遅い客足でした。
しかし、今日はちょっと雰囲気が違っていました。
めぐみさんが席に座ると同時に泣き出してしまったのです。私もあわてましたが他の客もどうしたのという目になっています。私はとりあえず手拭を出しました。開口一番。
「どうしたの」と優しい口調で聞いたのですが、彼女の口からは信じられない話が飛び出したのです。
「歩いていたら2人の男に襲われてバックや携帯をとられたの」ということです。全員固まってしまいました。
「警察には行ったの」と仁さんが聞くと「今、警察の帰りなの」という泣き声です。
どこでなのと聞いたら一軒行った店を出た時に道でからかわれて怒ったら奪われたそうなのです。
「怪我はないの」と私が聞くと「何もない」とのことでした。何と言っていいのかわからないので、とにかく暖かい飲み物を出しました。ホットミルクです。少し落着きを取り戻したようなので、話を聞いてみると、私の店に行こうとして他の店を出たところ道で2人の若い男に囲まれたそうです。つまり、軟派されたということです。そこでキッパリと無視して歩いていたなら後ろからバックと手に持っていた携帯を取られたということなのです。よくある話かもしれませんが、私の客では初めてでした。
私も昔若いころにからまれて抵抗したら棒のようなものでなぐられた経験もあります。
めぐみさんに怪我がなくて何よりでした。そして「マスター 電話貸してくれる、カードと携帯とか止めないといけないから」ということで彼女は電話にかかりっきりになったのです。
なにやら今日は厄日のようです。スタートから今までが大変な日になったなという感じでした。
それはなによりめぐみさんの心のケアが必要だと痛感しましたので、彼女の話をゆっくり聞いてあげることに
したのです。他の仁さんや大場さんもじっと黙って聞いてくれています。
わたしも聞いてあげて時おり相づちをうつ程度です。このような時には黙って聞いてあげるのが一番です。
めぐみさんの話が一通り終わったところで、次の客が入ってきました。
それと同時に大場さんもお帰りなられました。
「マスター とてもいい店でした。明日も時間をみて寄らせてもらいます」と大場さんの帰宅です。
次の客は、高橋さんです。自営で防水関係の仕事をしている方です。まだ若いのですが独立されています。
以前は、鳶の仕事だと聞いています。また、高橋さんは別の顔を持っていて輸入の会社も経営しているそうです。実は私の店が以前水漏れした時にも修理してもらいました。
「どうも みんないるね」と赤ら顔の高橋さん。どうやら他で結構飲んできたようです。
和夫くんが手拭と灰皿を出しました。それと高橋さんにはピクルスを出すのが日課となっています。
どうやらピクルスのようなすっぱいものが大好きのようです。
「マスター なんで今日客が少ないの」ときつい一発。
「高橋さん こんな日もあるんだよ。いつも混んでいたら蔵たてられるよ」とお返しの言葉。
高橋さんはかなり上機嫌です。いつもの寿司屋で飲んでいたようです。彼は、一生独身と決めているらしく
女はいらない、邪魔なものはいらないというのが口癖なのです。本当は心の優しい人なのですがいつもから威張りなのです。しかし、仲間の面倒見もいいし兄貴分的な男なのです。
「めぐ(さっき泣いていためぐみさんのことです)何か落ち込んでるのか」と肩をたたきながら聞いています。
私は、あっ高橋さん・・・と言いかけたのですが時すでに遅しでした。
「今日は話しかけないで」とめぐみさん。ちょっと怒ったような感じの返答。
「なんだよ 何かあったのか」と高橋さん。ここで他の話題にふろうとしたのですが、また、時すでに遅し。
「めぐは笑っていないとめぐじゃないぞ」と手遅れの言葉を発したのでした。
「今日は笑えないの、ほっといて」と喧嘩になるような感じになりました。
でも、さすが高橋さんです。「マスター 何かあったのだよね」と言って、バーボンを注文しました。
何か殺気を感じたのだと思います。とりあえずその場はおさまりました。
でも、これは一序章に過ぎない日なのでした。 悪魔が近づいていたのです。
めぐみさんは一人で静かにしています。他の客はいつものくだらない話で盛り上がっています。
私も仲間に入り、やれゴルフだ野球だとわいわいがやがやの時間が過ぎていきました。
時間も1時半近くになっていたでしょうか。次の客です。2人で来店されました。
カウンターではなく、テーブルへ座ったのです。男と女です。女は以前一度来店されたことがあります。
和夫くんが接客することになりました。
モスコミュールとモルトのシングルです。何やら小声で話しているのですが何かは聞こえません。
顔と顔をひっつけて話しています。カウンターはめぐみさんを除いては盛り上がりのままです。
高橋さんがみんなを引っ張って会話の中心になっています。これが普段の店の感じですからいい感じです。
客も5人になっていましたし、2時から4人が来るという電話も入っていました。
このままで今夜が無事に終わってくれたなら問題がなかったのですが。
テーブルの客は追加注文もなく話ばかりしている。複数で来た客でテーブルに座ると客単価が伸びないのである。つまり、話に夢中になってドリンクの注文がないのである。これはどこの店でも同じである。
私の店の客単価は、3500円前後です。中には一人で1万円以上も飲む人もいますがめったにないことです。
一番安いアルコール飲料が600円。一番高いのが4000円です。4000円のモルトは4人しか飲みません。
4000円は高いのですが仕入れも高いのです。一本の720mlの瓶からは、約22杯のシングルです。
さて、めぐみさんは何となく落着いた感じでみんなの仲間に入っています。高橋さんもおおよその事情を理解したようで、そのことにはふれないで他の楽しい話題になっていました。
実は、私は20年以上も前から占いに凝っています。何かあれば占ってあげるというのが好きなのです。
本格的に勉強したこともあるのです。ある先生について2年間勉強しました。それが今役にたっています。
話のツマとしての占いですから、たいしたことはありませんが結構当たるとの評判はあります。
手前味噌ですが一昨日も、ある女性から占って欲しいとのことで占ったのですが、彼女の過去の70%が当たっていたのです。これには彼女は驚いていました。もちろん、当たらないことも多いですよ。
客の仁さんの彼女のことも気がかりなのです。喧嘩して別れたということでしたので、その後が気になります。
仁さんはいたって平気で酒を飲んでいます。明日が日曜日ということもあるとは思いますが。客の私生活に入らないというのが鉄則ですかから、そのことにはふれないでおいています。男と女はなるようにしかなりません。店で大喧嘩しても次の日には仲良く来店するということは多々あるのです。逆に喧嘩してそれっきりということも多々ありました。バーとは出会いの場であることもありますが、別れの場にもなるのです。
そうこうしているうちに、めぐみさんと仁さんのお帰りとなりました。2時少し前です。
客はテーブルの2人とカウンターの1人になりました。テーブル客は相変わらず追加注文はありません。
グラスの中は空っぽなのですが話しに夢中になっています。そして、2時10分過ぎに予約の客が来店です。
4名です。全員カウンターです。中に常連さんが一人います。大手の車関係の会社の小川さんです。
彼は歩く辞書というくらいの物知りです。その彼の仲間たちなのです。明日が休みということで飲み歩いていて最後に寄ってくれたようです。ここから朝までの長いこと長いこと、これから事件は起こったのです。
小川さんが「マスター 全員に例のバーボン」という注文です。例というといつものノブというバーボンなのです。ノブというのは、アメリカのケンタッキーのバーボンで少しスモーキーな味がします。
私も大好きなバーボンの一つです。
「乾杯」と小川さんの一声です。仲間の人も適度に酔っていますから、2杯程度でお帰りになると思っていました。ここからが事件の始まりでした。