御聖訓一読集二十二日『三三蔵祈雨事』
「抑各々はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ。能く能く過去を御尋ね有らば、なにと無くとも此の度生死は離れさせ給ふべし。すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ。是偏に末代の今の世を表するなり。敢へて人の上と思し食すべからず」(御書877ページ)
 
 
 
今日は、この御書で、特に有名または大切と思われる箇所を、四箇所ほど引用させて頂いて、つれづれなるままに思いのおよぶところしたためさせていただきたいと存じます。ときに、以前の研鑽メモなども参照させていただくかもしれません。
 

1)仏道修行における善知識の大切さについて

「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん。たヾあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひせちなり。而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり。されば仏は善知識に値ふ事をば一眼のかめの浮木に入り、梵天よりいとを下げて大地のはりのめに入るにたとへ給へり。而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上の土よりもすくなし」

 

われわれ末代の荒凡夫は知恵才覚では生きていけないのであります。暑いか冷たいか。食べられるか食べられないか。その程度の知恵しか持ち合わせていない。これが仏様からご覧になられた我々の拙い境界でありますから、ひとえに、善知識を求めていくことが大切と拝します。

 

善知識には、教授の善知識、同行の善知識、外護の善知識があると教わるものであります。上の文脈では、主に仏祖三宝尊を教授の善知識と拝すべくその大事をお説きになられているものと拝されます。

 

以前、『祈祷抄』を拝させて頂いた折に、「一眼の亀」について研鑽メモを記させて頂いたことがございました。以下、復習の意味で、リンクを貼らせて頂きます。

 

 

 

2)文証、理証、現証について

「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」

 

いわゆる、仏法の証拠主義を貫く、三証についての御指南であります。文証、理証にすぎるものはないが、さらに文証、理証よりも現証が重要であるとの仰せであります。信仰は理論ではなく、実践であり体験であるという主旨の猊下御指南も想起されるところであります。

 

この三証という観点から、以前、キリスト教等の一神教破折について走り書きを行なったことがありました。以下がそのメモです。

 

 

 

 

3)真言の三師、祈雨で雨を降らすも大風で災いをももたらす

「善無畏・金剛智・不空等の祈雨に雨は下りて而も大風のそひ候は、いかにか心へさせ給ふべき。(中略)されば雨は下りて候へども大風のそいぬるは、大なる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし」

 

三蔵とはここでは、中国における真言宗の三師である、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵を指しておられます。法華経最勝の正理を捩じ曲げる真言亡国の教えによって、国家に災厄をもたらした様子が説かれております。真言破折は、大聖人様の晩年、主に身延期において本格的に展開されたと記憶しております。

 

4)須利槃特(無解有信)と提婆達多(有解無信)

「すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ。是偏に末代の今の世を表するなり。敢へて人の上と思し食すべからず」

 

我々は、提婆達多の頭脳ではなく、須利槃特の愚直さをこそ亀鑑と仰ぐべきでありましょう。六万蔵と呼ばれる仏典を読み切ってそらんじることができた提婆達多でさえ、不信のとがで生身に地獄に堕ちてしまったのです。

 

一方、須利槃特は、経典を覚えることはできなかったものの、釈尊からの仰せ(「(煩悩の)塵を払い垢を除かん」とひたすら唱えて修行せよ)を愚直に実践し自ら成道を遂げて衆生を導かれたのでありました。末法の衆生のまさに鏡と仰ぐべき存在です。

 

ちなみに、以前、仏乗寺さんの寺報を拝見した折、御住職様が須利槃特について解説をあそばされていて、あの天才バカボンの「レレレのおじさん」は須利槃特がモデルであるというくだりを読んでびっくりしました。

 

なるほど、だからいつも箒をもって塵を払っていたのだなと得心がいき、それ以降、寺院清掃のときには、できるだけ、箒を手にしては、「塵を払い垢を除かん」と自らの煩悩の浄化を願ってはき掃除をさせて頂くようにしております。

 

とりとめもなくなりましたが、以前、「無解有信」と「有解無信」について、勉強会の題材として扱ったことがありました。その折のメモのリンクを以下に貼らせて頂いて、一端締め括りたいと存じます。