平成二十八年御聖訓一読集二十二日『祈祷抄』
「人間に生を得る事、都(すべ)て希(まれ)なり。適(たまたま)生を受けて、法の邪正を極めて未来の成仏を期せざらん事、返す返す本意に非ざる者なり」(御書635頁)
これは『祈祷抄』の御文でございますけれども、読んで字の如くございます。
われわれが人間に生まれてくるのは、非常に稀なことであると仰せであります。また、人間に生まれて、さらに正法に巡り会うということは、もっと稀なことなのであります。
「爪上(そうじょう)の土(ど)」の喩え、また、「一眼(いちげん)の亀の浮木(ふもく)」の喩えも、ある通りでございます。
けれども、「法の邪正を極めて未来の成仏を期せざらん事、返す返す本意に非ざる者なり」と仰せのように、折角、人界に生を受けても、法の正邪を極めて未来の成仏を期すことができないとしたら、これは大変に勿体なく、また、残念なことであると仰せでございます。
我々は、人界に生を受けられたのみならず、さらに、正法にも巡り会うことができ、今、こうしてお題目を唱えることができるわけでございます。
そのことは極めて稀なことなのでございますから、そのことに対する感謝の念を忘れてしまいますと、信心も薄れていってしまいます。
ですので、人界に生を受けられたこと、そして、さらに正法にめぐり会えたことへの感謝の気持ちを忘れることなく、今後も、御精進して行って頂きたいと存じます。
参考)人界出生、正法値遇(ちぐう)が稀であることについて。
「一眼の亀」(松野殿後家尼御前御返事)
「たまたま人間に来たる時」(新池御書)
「うれしきかな末法流布に生まれあへる我等」(新池御書)
「受け難き人身」「値(あ)ひ難き仏法」(持妙法華問答抄)
今回、上の『祈祷抄』の御文を拝して、改めて感じました。人界に生を受けられたこと、正法にめぐり会えたこと、これらのことに感謝の念を忘れると、人間は必ず不幸になると。
本来、これほど類い稀なことはないわけでありますから、言葉の正確な意味で、「有難い(有ることが難しい→滅多にない)」ことでありますから、「有難い!」と思えないのは、生命の状態が濁っているということであり、それは不幸の原因となるということであります。
この感謝を忘れた心というのは、本来の道理を無視しているために、生命が無明(煩悩)に囚われた状態であり、心が愚痴で充満している状態にあるということです。
ですから、本来は、有難く不思議なことであっても、感謝も感動もなくなってしまう。逆に、些末なことについての、愚痴と文句が、これでもかこれでもかと出てきてしまう。
有難いことを有難いと思わないということは、なんでも当たり前と思ってしまうということで、別にそんなことは当然で、有難くもなんともないという気持ちです。
そうなりますと、今度は、そうなっていて当たり前のことが、ちょっと自分の予想と違ってくると、今度は非常に不満に思えるわけです。当たり前の状況が得られなくなったら、そう感じるのは実に自然なことです。
だから、不平や文句が多くなるのでしょうし、また、そういう人の周囲には、いさかい、あらそい、口論、噂、陰口等が、いつも渦巻いている。家庭内の不和も国家間の紛争も、感謝の無いところから生じてくる。
自分自身がそういう不幸の渦を起こさないよう、あるいはそういう不幸の渦に巻き込まれないよう、心したいものですが、それはひとえに、「感謝」の一念を忘れないことです。
しかし、「感謝」といっても、やや、漠然としています。そこで、まずは、自分が人間としてこの世に生を受けることがいかに稀か、ということを知ることが大切なのだと思います。
そのことが実感できるようになれば、自然と、「ああよかった、人間に生まれてこれて。なんと、有難いことか。折角、人間に生を受けたのだから、人間として生きていられるうちに、人間でなければできないことをしよう(仏道修行はその最たるものです)」と、そのように思えるようになってくるからです。
「爪上(そうじょう)の土(ど)」と「一眼(いちげん)の亀の浮木(ふもく)」の喩えは有名なところでございます。
ところで、「一眼の亀」とは、どのようなお話でしたでしょうか。
●「一眼の亀」の喩え
大海の底に手足のない片目の亀がいた。腹の熱さは鉄が焼けるごとく、甲羅の寒さは雪山(せっせん)のごとし。亀の願いは、ただ、栴檀(せんだん)の木の穴に熱い腹を入れて冷やし、甲羅の冷たさを陽で温めることだった。しかし、千年に一度しか浮上できない。しかも、大海は広く、浮木は稀である。松や檜の浮木にはあえても、栴檀には会い難い。たとえ、栴檀に会えても、亀の腹に合うような穴があいているかどうか。いざ、そのような浮木が流れ来たとしても、一眼ゆえに、東を西、北を南と見誤って、なかなか近づけない。
この喩えには、以下のような対応関係があるようです。
大海 --- (生死流転)苦海
亀 --- 衆生
手足がない --- 善根が具わっていない
熱い腹 --- 瞋恚の八熱地獄
冷たい甲羅 --- 貪欲の八寒地獄
大海の底 --- 三悪道に堕ちた姿
千年に一度の浮上 --- 稀に人間界に生を受けること
片眼で方向を見誤る --- 智慧がなく法の正邪を判断できないこと
他の木と栴檀の木 --- 一切経に出会っても法華経には値い難いこと
穴 --- 法華経の肝心、南無妙法蓮華経の御本尊
(『法華講員の基礎教学辞典』35-6頁参照)
大聖人様は、『松野殿後家尼御前御返事』の中で、以下のように仰せです。
● 『松野殿後家尼御前御返事』の「一眼の亀」
「此の喩へをとりて法華経にあひがたきに喩ふ。設(たと)ひあへども、となへがたき題目の妙法にあひがたき事を、心ふべきなり。亀を我ら衆生にたとへたり。手足のなきをば善根の我等が身にそなはらざるにたとへ、腹のあつきをば我等が瞋恚(しんに)の八熱地獄にたとへ、背のこう(甲)のさむきをば貪欲(とんよく)の八寒地獄にたとへ、千年大海の底にあるをば我等が三悪道に堕ちて浮かびがたきにたとへ、千年に一度浮かぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生まれて釈迦仏の出世にあひがたきにたとふ。余の松の木ひ(桧)の木の浮木にはあひやすく栴檀にはあひがたし。一切経には値ひやすく、法華経にはあひがたきに喩へたり。たとひ栴檀には値ふとも相応したる穴にあひがたきに喩ふるなり。設ひ法華経には値ふとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきに、あひたてまつる事のかたきにたとふ。東を西、北を南と見る事をば、我等衆生かしこ(賢)がほ(顔)に智慧有る由(よし)をして、勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ」(御書1355頁)
ここでは、一眼の亀が海底から千年に一度浮上することを、われら衆生が地獄餓鬼畜生の三悪道の海底から、ごくまれに浮かびあがってきて人間界に生を受けられることに喩えられています。
この喩えで思い起こされるのは、あの有名な『新池御書』の一節です。
●『新池御書』の「たまたま人間に来たる時」
「一切衆生も亦復(またまた)是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度(このたび)人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」(御書1457頁)
われわれは末法の衆生ですから、過去世のことを覚えてはいない。過去には謗法の果報で地獄の炎にむせぶこともあったはずですけれども。
そうやって地獄の炎にむせんでいるときには、今度こそ、今度こそ、人間に生まれたなら、きっと諸事をさしおいて、三宝を供養して、成仏を期すぞ、と思っていたはずなのです。
そして、ごくまれに人間界に浮上してくるわけです。「たまたま人間に来たる時は」と仰せのごとく。
しかし、いざ人界に生を受けてしまうと、「名聞名利(みょうもんみょうり)の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」と仰せの如く、謗法の世間の風に流されて、仏道修行を忘れてしまうのだと。
どうかその轍を踏まないように、頑張っていきたいものです。
雪山の寒苦鳥の喩えも同じ趣旨でございましょう。
● 『新池御書』の「うれしきかな末法流布に生まれあへる我等」
同じ『新池御書』の冒頭で、大聖人様は以下のように仰せになられております。
「うれしきかな末法流布に生まれあへる我等、かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々」(御書1456頁)
この御文から想起されるのは、かの天台大師が、自分はたとえ癩人(らいにん)、つまり、癩病患者となってでも、末法の御本仏の御化導にあやかりたかったと言われていたということです。
天台の座主とは言っても、像法時代における迹面本裏(しゃくめんほんり)のお役目に過ぎない。それよりも、末法の御本仏にめぐりあいたかったと。
天台大師も、いよいよ末法になると、下種の御本仏様がお出ましになられる、ということをご存知だったということです。
それで、天台大師がわれら末代の凡夫(ただし正法護持の地涌の眷属であること)の境遇を羨んでおられるわけです。
天台、伝教、あるいは、竜樹、天神、または、釈尊在世の十大弟子等々の方々を、われわれが羨むのではなく、その逆だということなのです。
そのような境遇にわれわれが置かれているということを、果たして自覚できるでしょうか。
そのことの自覚を深めるのが、末法における独一本門の信心修行であると思います。
●『法華題目抄』のその他の喩え
一眼の亀は、たとえば、『法華題目抄』の中にも出てきますが、こちらの御書には、一眼の亀の他に、以下のような喩えも出て参ります。
― 三千年に一度しか咲かない花。
― 空から芥子つぶを投げて、地上の針の目に通すこと。
― 高山の上に立てた針の穴に、別の高山から大風の吹く日に放った糸を貫通させること。
仏様の目からご覧になると、正法にめぐりあうことが、本当に類い稀なことであり、それをなんとかして、我々末代の凡夫にわからせようとされていることがわかります。
御文は、以下のごとくです。
「この経に値(あ)ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華(うどんげ)、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり。大地の上に針を立てて、大梵天王宮(だいぼんてんのうぐう)より芥子(けし)をなぐるに、針のさきに芥子のつらぬかれたるよりも、法華経の題目に値ふことはかたし。此の須弥山(しゅみせん)に針を立てて、かの須弥山より大風強く吹く日、いとをわたさんに、いた(至)りてはりの穴にいとのさきのい(入)りたらんよりも、法華経の題目に値ひ奉る事はかたし」(御書354頁)
これほどの喩えをされているわけでありますから、いかに正法にめぐり会うことが稀であるか、だんだんと考え方を改めさせられていく思いが致します。当たり前だなどと、考えることは、やはり罰当たりだということです。
上の御文に続けて、大聖人様は、以下のように仰せです。
「さればこの経の題目をとなえさせ給はんにはをぼしめすべし。生盲(いきめくら)の始めて眼あきて父母等をみんよりもうれしく、強(こわ)きかたき(敵)にと(捕)られたる者のゆるされて妻子を見るよりもめづらしとをぼすべし」(御書354頁)
もし、生まれてこのかた、目が見えなかったとして、不思議なことにその目が始めて開いて、親の顔を始めて見ることができたとしたなら、どれほど嬉しく有難いことでしょうか。
敵の捕虜となっていた者が許されて、妻子に再会できたら、どれほど喜ばしく有難いことでしょうか。
それよりも、法華経の題目にめぐり会うことは稀であるとの仰せでありますから、それよりも、もっと嬉しく喜ばしいと感じられなくてはならないということであります。
はたして、そのようにお題目を唱える身の福運を、実感できますでしょうか。そのことを、絶えず自問していくことが、この信心修行においては欠かせないということであります。
その問を忘れて、形式に流されてしまえば、不思議にして有難い果報を忘れて、愚痴の充満した悪業の生活になってしまうからであります。
●『持妙法華問答抄』の「受け難き人身」「値(あ)ひ難き仏法」
『持妙法華問答抄』にも、短いですが大変に有名な御文がございます。
「受け難き人身を受け、値(あ)ひ難き仏法にあひて争(いか)でか虚しくて候べきぞ」(御書296頁)
「人生が虚しい」などと嘆く人がもし仮にいるとすれば、それはたとえ同志であってもですが、そのような方は、この大聖人様の御金言を胸に刻んで、真剣にお題目を唱えて、愚痴充満の生命を浄化していく他ありません。
以上、自戒の念をもって、記させて頂きました。