「仏法の道理」に「キリスト教の奇跡」がはるかに及ばないのはなぜか
今回は、文証・理証・現証という三証の観点から、仏法の道理とキリスト教などの一神教外道の相違について考えてみたい。
まず、あらゆる教えや言い伝えの正しさをチェックするのには、以下のように、理証・文証・現証の三証がある。
理証とは道理にかなっていること。
文証とは文献上の根拠があること。
現証とは、現実に影響があること。
しかし、歴史上の事象など自分がみたこともない出来事で、人々のあいだで言い伝えられてはいるものの、必ずしも文書に残されていないこともある。そのような場合は、それが信じるに値するか否かは文証では計れない。そこで、その種の事象は、理証つまり道理にかなっているか否かという点からふつう判断される。道理にかなうか否か、それは言い換えれば、因果の法則に反していないかということである。また、それを踏まえて、現証と照らし合わせて判断される場合もある。
たとえば、「キリストは神の子で、聖母マリアの処女懐胎で生まれた」などと言う。しかし、人間界に生を受けるもので、父母のいない者は存在しない。これは科学や医学の常識からして当然の道理である。人工受精であっても受精と言う以上、父母がいる。したがって、処女懐胎でキリストが生まれたというのは明らかに道理を無視している。
ちなみに、「父(神)と子(キリスト)と聖霊の三位一体」説(アタナシウス派の正統神学)というのは、ローマ帝国がキリスト教を国教にして国家統一のために利用した政治的な道具に過ぎない。それ以前のキリストは父も母ももつ人間であった、しかも、妻や子もいたとする趣旨の文書(ナグハマディ文書等)が実在する。これらの文書の内容は、聖書の記述とは異なるが、どちらが道理にかなうかは明白である。このように、2つの矛盾し合う文証がある場合も、理証や現証において勝れる方を用いるのは当然である。
仏は、父も母もおられる人としてこの世に生まれ、修行をされて仏となる。そして、衆生のために法を説かれる。つまり、因果があって道理にかなう、ゆえに、救済の力がある。
一方、キリスト教などの神は神になる因果がまったく説かれず、しかも、この世に現れない。つまり、存在しない。それを無理やりあることにしている虚構に過ぎない。そんな教えに、衆生救済の力があるはずがない。
キリスト教では、神が天地を創造したという。では、神は何から創造されたのか。それも分からない。つまり、因果の筋道が通らない。さらに、何から生まれたかも分からないような神が、天地を創り、人間を作ったかと思えば、今度は、気まぐれで洪水を起こしたり、奇跡を起こしたりする。実は、こんなものは「奇跡」ではなくて、スケールの大きな虚構に過ぎない。さらに、このような低級な教えが仮に表面上美しさをつくろって、愛や道徳を説いたとしても、教えが道理にまったく反しているために、信ずる者はかえって二重人格的な偽善者になってしまう。これは、道理にかなわない(理証を伴わない)教えを信じる結果としての悪い果報(現証)である。
キリスト教では、宇宙は天地創造で始まるとされる。では、天地創造の前には何もないのか?これでは因果の筋道が徹底しない。仏法では、この宇宙は成住壊空を繰り返し無始無終であるととらえる。ちなみに、最近の宇宙物理学では、ビッグバンは何度も起きていると言われている。これは学問的仮説が天地創造説よりも仏法の叡智に接近しつつあるということを示唆している。このように、仏法で説かれる真理に対して、科学の発展などが後から追いついてきて理証を追加していくという場合もある。逆に、科学の発展はキリスト教などの低次元の教えの作り話を次々暴いている。地動説しかり。エコロジーしかり。
神になぞらえて創られた人間は、他の生物や環境を支配できると教えられ、結果として、環境破壊がもたらされた。これもやはり、道理を無視した教えによる現証である。仏法では、環境と生命主体は一体不二であると説いているから、環境と融合した生き方を大切にする。つまり、エコロジーというのは、キリスト教などが説く環境支配の思想に対する反省から生じた理論だが、仏法では衆生世間と国土世間がひとりの人の命にもそなわると説いていることから、ここでも仏法の叡智に環境論が追いついてきたということである。
仏教では、宇宙の森羅万象(しんらばんしょう=すべての物)が成住壊空(じょうじゅうえくう=生まれて、安定して、壊れて、空に帰すというサイクル)を繰り返すと説く。また、生きものにおいては生老病死を三世(過去世・現世・未来世)において繰り返すという輪廻の法を説く。その点、宇宙空間の日月星辰(太陽と月と星)も山川草木も、動物も人間界も、成住壊空または生老病死からのがれるものはない。つまり、仏の教えは一切を網羅していて、矛盾がなく道理にかなう。ゆえに、衆生の救済も国土の安穏も可能にする道理を説く教えである。天地創造とか処女懐胎とかの浅はかな虚構とはまったく次元が異なっている。
仏法では、生きとし生けるものがすべて仏の命をそなえていて、修行によって仏の境涯が得られると説く慈悲の教えである。神の教えでは、人は決して神にはなれない。神は地上に姿を現さぬ絶対者、人間は罪をもつ不完全な存在に過ぎないとされるためである。しかし、これが政教一致の強大な権力装置となるのも分かりやすい道理である。神の側に立つ権力者は絶対不可侵な存在になってしまうのだから。かつて、日本の国家神道もその種の愚かな間違いを犯した。その現証はといえば、原爆投下を含む国土の崩壊である。
仏法では、一神教の創造神ではなく、昔から「正直者の頭に神宿る」と言われるごとく、正直者を守る様々なはたらきを諸天善神として、仏様の家来として位置づけている。なぜ仏様の家来になるかと言えば、仏様は法華経という最も正直な教え(一切衆生が成仏できるということと、仏様の命も衆生の命も永遠であるということ)を説かれた方だから、最高に正直な方として諸々の神が家来となる。太陽は日天、月は月天といって、これらもちゃんと守護の善神に含まれる。一方、キリスト教などの教えに、仏を含むことはあり得ない。天地創造の神は因果を無視するから、因果の法を説かれる仏を含むことが不可能だからである。よって、神を含む仏様の教えの方が、仏様を無視する神の教えよりもはるかに広くて大きい教えである。
キリスト教では、すべての出来事が神のおぼしめしとされ、人間の意志や努力が軽視されてしまう。そこから、責任転嫁、無気力、厭世観(この世を嫌う)の傾向も生じる。仏法では、さまざまな現象を因縁果報(原因と縁と結果とその報い)として捉えるから、己の責任と他者との縁をとても大切にする。
キリスト教では、都合の悪い事は全て外から生じると捉えられる(つまり、なんでも人のせいにする)傾向がある。これは、善は善、悪は悪で、善に悪は含まれず、悪に善は含まれないという、次元の低い「二元論」と、自分は善で、悪いことは全て自分以外から来るという「独善」からくる。つまり、キリスト教やイスラム教などの一神教は、「自分は絶対善」で「相手は絶対悪」という考え方を生みやすい。これは、「善なる自分と悪なる他者」を「神に仕える自分と悪魔に使える敵」の対立に置き換えて、この世界を捉えるという考えに至る。そこからさらに、自分の信ずる神を認めない相手を、悪魔の手先とみなしてそれを殲滅するという聖戦の思想も生じる。それが現代のテロとその報復合戦を生み出しているのである。
一方、仏法では、因縁の法、つまり、内にある因と、外にある縁が、和合することで、結果が得られ、その報いが生じるという、「因縁果報」の道理を説く。さらに、善は悪を含み、悪も善を含むという「相即不二」(互いにそなわりあっていて、二であって二でない)の法門がある。ゆえに、自分が善だとしても悪の要素もあり、相手が悪であったとしても善も含まれると捉えるから、己の謙虚さと、他者への慈悲心へとつながる。
戦乱について、仏法では、「合戦は瞋恚より起こる」と説く。つまり、争いは、内面にある瞋恚の命によって生じると。であれば、その怒りの命をいかにして鎮めるか、己の心を観じて、それを正す術が解かれなくてはならない。それがまた、最勝の御本尊を拝む所以である。
奇跡を説くにもかかわらず、神の子とされるキリストは磔刑の難を逃れることすらできなかった。末法の御本仏日蓮大聖人様は、竜口法難、小松原法難等の刀杖の難を逃れられ、また、生きて帰る者がいなかった極寒の佐渡に流罪されながら、足掛け四年の後に御赦免となった。また、この大難は法華経に予証されている。法華経は釈尊の最も正直な教えであり、三世の生命と一切衆生成道が説かれた最勝の経である。たしかに、法華経もその他の経も、仏典結集によって口伝により文字に記されたものだが、これほどの究極の教えを伝える仏や菩薩の智慧(たとえば、一度聞いたことは絶対に忘れないという記憶力など)や境涯を、末代の三毒(貪欲=むさぼり、瞋恚=いかり、愚痴=道理をわきまえないこと)強盛の凡夫が、安易に判断できるものではない。むしろ、経文に説かれた道理に照らして、その深く尊い教えを信ずべきである。紙に書かれた教えがすべて正しいのではなく、そこに説かれた道理こそが大切である。最も道理にかなった教えを信ずるならば、そのとき、最も勝れた現証が生じることは疑いない。逆に、末法の法華経つまり大聖人様の教えを誹謗する者の現証から照らしてみれば、やはり、疑いを抱く者の浅はかな考え方が道理からはずれているということになるのである。
この仏法と外道の教えの次元の相違は、個人、家庭、社会、国家、あらゆる階層に決定的な相違を生む。つまり、道理を無視した教えでは、個人の幸福も、国家社会の繁栄も、世界の平和も覚束ない。逆に、三世の道理を徹底して説く仏法によれば、あらゆる次元の幸福と繁栄が揺るがぬものとなるのである。