五、第三代会長池田大作の入信はどのようなものだったのか
池田大作は、昭和二十二年 八月二十四日、創価学会幹部であった 小平芳平によって折伏され、日蓮正宗へ入信しました。
池田は『人間革命』のなかで、戸田会長との最初の出会いのとき、あたかも自分が「地涌の菩薩」であるかのような即興詩を詠み、その後、入信を決意したと記していますが、それは自分を美化するための 作り話です。
「南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。(中略)家に帰っても三日間は おがまずにほっておきました。三日目に ものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って 私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」
(新心理学講座四 宗教と信仰の心理学 五七頁)
六、池田大作は、第二代会長から直接、第三代会長に指名されたのか
創価学会では、池田大作が 戸田第二代会長から 直接次期会長に指名されたかのように会員に教え込んでいます。しかし、実際は側近幹部から後継者について尋ねられた 戸田会長は、
「それは、お前たちが決めるんだ」
(『有徳王』一三九頁)
と答えたと、その場に立ち会っていた 龍年光氏が述懐しています。
つまり、池田大作は戸田会長より直接、第三代会長に指名されたのではなく、戸田会長の亡きあと、学会本部内の 権力闘争によって会長職を手中に収めた、というのが真相です。第二代会長の死後、会長職が二年間にわたり 空席だったことも、それを物語っています。
昭和三十五年 五月三日、池田大作が第三代会長に就任しましたが、池田はのちに、
「自分は会長になりたくなかったので辞退したが、当時の小泉理事長から再三にわたって要請されたので、やむなく会長職を引き受けた」
(池田大作『私の履歴書』一二八頁 趣意)
などと、会長職を渋々受けたように語っています。
しかしこれは、のちのためのポーズであり、むしろ、ひそかにねらっていた地位をようやく掌中に収めたというのが 池田の本音だったのです。
それは、会長に就任した池田が、のちに自分を第三代会長に推薦しなかった中枢幹部を 次々に左遷したり、閑職に追いやった事実からも明らかです。
七、創価学会が政界に進出したのは、どのような経緯によるのか
創価学会が政治の分野に進出したのは、昭和三十年 四月・五月に行われた 統一地方選挙が始まりでした。このとき、創価学会員 五十三名が地方議員となりました。
翌 昭和三十一年 七月に行われた 参議院通常選挙で、創価学会は「王仏冥合」をかかげて六名の候補者を立て、そのうち三名が当選しました。
このとき、第二代戸田会長は、
「わしの力あるかぎりは、断じて政党などやらんぞ」
(『総合』昭和三十二年七月七日号)
と述べ、あくまでも政党を結成する意志がないことを表明していました。
池田大作も会長就任直後は、
「創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから」
(会長講演集 一―八六頁)
と述べていました。
しかし、昭和三十六年 十一月には、「王仏冥合」をスローガンとした「公明政治連盟」を発足し、昭和三十九年には「公明党」を結成して、突如、衆議院進出を決定しました。
このとき池田は、本部総会において、
「恩師戸田先生も時きたらば衆議院へ出よとのご遺訓があったのであります」
(聖教新聞 昭和三十九年五月五日付)
と、「恩師のご遺訓」なるものを持ち出して、自らの前言を翻しました。
そして公明党は、次第に池田の私党としての色彩を濃くし、変節を繰り返しながら、池田を守るために政治権力にすり寄っていったのです。