信解(しんげ)について  平成21年12月29日

 

今回は、信がいかに大切であるかということ、「無解有信」は成仏するが、「有解無信」では堕獄の因になってしまうということ、それらの文証を少し整理してみました。御書はそのタイトルと大石寺版平成新編のページを付しました。

●「若し智慧有って信心あること無き、是の人は即ち能く邪見を増長す」(顕謗法抄 p.290)

 

智慧があって御法門を理解できたとしても、信ずる気持ちがないと、邪見がふくらんでしまうということ。これは涅槃経の御文を御書で引用されています。つまり、経文にそのような仰せがあるということです。

●「有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書p.1461)

 

頭でわかっても命で信じられなければ成仏しないということですね。やはり信心は頭でするものではなく、まずわが心に抱くものなのでありましょう。

●「すりはむどく(須梨槃特)は三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ」(三三蔵祈雨事 p.877)

 

有解無信と有信無解の相違を、具体例をあげてお説きになられております。やはり、末代の凡夫にとっては、提婆達多の頭脳よりも須梨槃特の愚直さがまずは大切なのでありましょう。

●「たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡堤の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にありと聞く。又鈍根第一の須梨槃特は、智慧もなくさとりもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ。(中略)仏説きて云はく『疑ひを生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし』等云々。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり」(法華題目抄 p.353)

 

やや長いですけれども、同じ趣旨のご文ですね。

●「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたげに候人々はあしく候げに候」(上野殿御返事 p.1218)

 

ここでは仏様の甚深無量のご法門を、「わかったわかった」と思って慢心を抱いてしまうことに警告をくだされています。

●「末代の衆生は法門を少々こころえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこころえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の知識を仏と敬ふべし、争か徳分なからんや。後世を願はん者は名聞名利を捨てて、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり」(新池御書 p.1461)

 

末法の衆生は法門が少しわかってくると、僧を敬うことを忘れて、やがて悪道に堕ちてしまうと釈尊が予言されていると。ですから、法を心得たのであれば、その印として、僧を敬って、法をあがめ、仏を供養しなくてはならない。仏がましまさぬ今は、解悟の知識すなわち僧侶を仏と敬わなくてはならないと。それがいかに賎しい方であっても、法華経を説く僧を生身の仏様と敬うべきであると。
 

やはりいくら理論を学んで仏法を語っているとしても、寺院参詣をして、僧を敬い、御供養をするという実践なくしては、真の意味で善業を積んでいるということにならないということでありましょう。

●「仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪えざれば信を以って是に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡堤謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(四信五品抄 p.1112)

 

戒定慧の三学は仏道修行のすべてを含みますが、そのうち、戒も定も末法の衆生には無理であるから、慧の一分に限る。それでもまだ堪えられないから、信をもってこれに代えるのであると。これが、「以信代慧」の御法門です。ということは、信がなければ絶対に智慧は湧かないのでありまして、慧がなければ、他の戒も定もなく実質的には全滅になってしまいます。いかに信が大事かということお分かり頂けるかと思います。これと同じ趣旨で、「以信得入」(法華経開結 p.175)ともいわれますが、これは智慧第一の舎利弗でさえ、信をもって難解難入といわれる智慧の門に入ったということでした。

●「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は元品の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり。解とは智慧の異名なり。信は価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。信は智慧の因にして名字即なり。信の外に解なく、解の外に信無し。信の一字を以って妙覚の種子と定めたり。(中略)信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり」(御義口伝 p.1737)

 

信とは無疑曰信の絶対信。それによって三世の諸仏に智慧を賜って、そこに御法門の領解もおのずと生じてくると。信が智慧の種であって、智慧=解が信の種なのではないと云う仰せでもあります。

●「信の処に解あり、解の処に信あり。然りと雖も信を以って成仏を決定するなり」(御義口伝 p.1774)

 

信と解はともにあるとはいえども、成仏を決するのは「解」ではなく「信」であるとの仰せですね。
 

また、日如上人猊下は、涅槃経の「信解四句分別」にふれられて、「信ずるけどよくわからない(信而不解)」「理解はできるのだけれども信心がない(解而不信)」「信じまた解する(亦信亦解)」「信も解も両方ともだめ(非信非解)」のうち、理想は亦信亦解であり、最悪なのが非信非解である。折伏には御法門の智解が必要で、相手に理解されるためには、信行学とあるように学も絶対に必要である。しかし、その元に信がなくてはならない。四つの中で理想は亦信亦解であり、そうなれるよう頑張っていくべきである。その上から、はっきり言うと、正しい信さえあればなんとかなる。須梨槃特の話もありますように、信心があれば成仏できる。しかし、広布に生きるためには、理想として亦信亦解をめざすべきである、という主旨の御指南をくだされております。

 

以上、何某か参考にして頂ければ幸いです。