曾御婆ちゃんの思い出
私の祖父は日中戦争にて戦死し、祖母は私の生まれる5か月前に亡くなったのですが、曾祖母は私が小学校2年生の時まで生きていました。私が持っている写真の中で曾祖母の写真を探したのですがなかなか見つからず、唯一見つけたのが下の写真です。まだ私が生まれる前の、夏の写真のようで、中央から右に向かって腰を曲げて歩いているのが曾祖母です。まわりにいるのは民宿学生村のお客さんたちです。
両親が外で働いている間は、よく曾祖母に子守りをしてもらっていたのを覚えています。曾祖母の事は、家族も親戚も近所の方々も「おばば」と呼んでいました。その頃は、我が家はおばばと両親と姉と私の5人家族だったのですが、コタツに座るときは、私以外は定位置があり、私はいつも端っこの方に座っていたので、「おばばが居なければ僕もちゃんと座れるのに。早くおばば死なないかな。」と言っては、「そんなこと言うもんじゃない!」と両親に怒られていたそうです。そんな時でも、おばばの私を見る顔はいつも笑顔でした。2階の日当たりの良い南向きの部屋が、おばばの機織り(はたおり)部屋で、私はあまり記憶にないのですが、そこで機(はた)を織っていたそうです。その部屋はその後、姉の部屋になり、今は私の部屋となっています。
私が小学校2年生の秋、当時アメリカの高校に一年間留学していた姉の帰りを待つようにして、帰国後しばらくしておばばが亡くなりました。私はコタツでおばばが座っていた位置に座れるようになりましたが、とても悲しかったです。子供が5人、孫が17人、曾孫は50人くらいはいたのではないでしょうか。89歳の大往生でした。近所の方々も大勢集まり、大声で泣いている人も沢山いました。
民宿開業当初の我家と古民家の魅力
昭和37年に我が家は養蚕農家をやめて、民宿を開業しましたが、その頃の写真と思われます。
養蚕も下火になり、農業での収入も減少してきた折に、当時の白馬村の村長さんからの勧めで、夏の学生さんを対象にした民宿を開業したと聞いています。私が生まれる3年前のことです。
我が家は白馬村とは言っても、中心地から10km離れた南西の外れで、国道からも2kmほど入った山あいにあります。20軒ほどの小さな集落で、近所に友達も少なかった私は、小さな頃の休日の思い出といえば、お客さんに遊んでもらったことばかりです。お客さんのほとんどが常連さんでしたので、家族のようなお付き合いをさせていただいた方々が大勢いらっしゃいます。民宿は休日が稼ぎ時ですので、家族で旅行に行った思いではありませんが、お客さんに色々なところに連れて行ってもらいました。近くの観光地はもちろん、初めて糸魚川で海を見たのもお客さんと一緒でした。またお客さんと触れることで、田舎の良さを再認識でき、自分のふるさとを興味をもって見ることができるようになったと思います。もちろん、今でもその方々とは交流を続けています。
このようにお客さんたちと家族ぐるみのおつきあいをさせていただいているのも、今思えばこの古い家のお陰だと思っています。まるでおとぎ話に出てくるような、茅葺き屋根で板張りと漆喰の外壁。中に入れば囲炉裏が赤々と燃えており、太い梁と柱に、使い込んだ建具と立派な床の間。誰しも言うのは「ふるさとに帰ったような気分。」とか、「本当に落ち着く。」という言葉です。一度来た方は、ほとんどが二度三度訪れ、やがて常連さんになっていくというのも、この佇まいと雰囲気からくる物だと思います。
私は今、実家から遠く離れた広島県に住んでいるのですが、年をとればとるほど実家に帰った時の安心感というか、居心地のよさは増していくような気がします。古民家の良さと言うのはこういうことだと思います。時が経てば古めかしくなっていく最近の建物に比べ、年が経つほど味が出てくるのが古民家の魅力であると思います。
この家に生まれ育ち、自分の故郷として帰れることを本当に幸せに思うとともに、この家を今のまま後世に残していかなければならないという責任感に強くかられています。あと何年かしたら家に戻り、曽祖父から祖父へ、祖父から父へ受け継いできた、この古くて大きな家を私も守って行きたいと思っています。



