こんにちは。

今回も前々回記事前回記事に引き続き、おもに福音書に書かれたイエス・キリストの御言葉や生き方を参照し、現代の人々の性質と比較していきます。如何に現代人のほとんどに正義感や真理を求める心が無く、キリストが示された模範、高潔な品性や生き方に程遠いか、まずは思い知り熟考すべきです。世の多数派が、神に反逆して堕ちた悪魔や悪霊と同じように神(イエス・キリスト)に従わず逆らうことで、世の中に平和も自浄作用も無いような酷い様相を助長していると言えます。

「人間として正しく生きたい」「腐った世の中に同調せず、悪に抵抗したい」等とお考えであるなら、是非最後までお読みください。ご自身の考えや行動を改めるため、聖書を手に取って学びを深めて実践するきっかけにしていただきたいです。誰であれ、「聖書なんて自分には無関係だ」と他人事に思って問題無い人なんて存在しないからです。

 

【発言の責任の重さを理解しない故の諸問題】

世間では、汚い言葉遣い、無駄な口論、誹謗中傷、軽率な発言、陰口、誤解を招く言葉等が多く見られます。これらの大きな原因の一つとして、発言に関して多くの人々はあまりに無頓着かつ無責任だからではないかと考えました。

聖書には、「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」「自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイによる福音書十二章三十六節~三十七節参照)とはっきり書かれています。

社会通念上、人の悪口を言うのは悪だ、言葉は適切に選ぶべきだ、場に相応しい発言をすべきだ等と認識されてはいます。ただ、聖書を読まず上記の御言葉の内容を知らない人なら、まさか自分の発すること全てにおいて責任を問われるとは夢にも思ってないはずです。「どうせ誰も自分の発言をそこまで気に留めてないさ」「陰口や愚痴なんて、本人にバレなければ良い」「(おもにネット上で)匿名だから問題無い」等と思っている、あるいは別に深いこと考えてないのでしょう。いくら本人が自分の発言を忘れても、自分の発言を勝手に正当化しようとも、責任を逃れられないでしょう。自分の発言に関して軽く考えている人ばかりなのは世の常なのか、聖書に「舌は火である。舌は『(欺きをはじめとした)不正、不法の世界』である」「人間誰も舌を制御することができず、(舌は)抑制無き悪、死に満ちた毒」「舌から賛美と呪いが出る」(ヤコブの手紙三章六節~十節参照)と書かれてます。見事に人間の本質を言い当てています。このヤコブの手紙にあるように、感情的になって勢いで物事を言ってしまった、こんなことを言うつもりじゃなかったのにと後悔した経験がありませんか。同書簡の三章二節には、誰かが言葉で過ち(特に罪)を犯さないなら、それは全身を制御できる完全な者であると言われてます。全身を制御できる、つまり完全に自制できるのであり、罪(神の律法に反する事柄全て)たる行い全てを忌避できると言えます。「完全な」を表す聖書ギリシア語の単語は、他にも「天に御座すあんた方の父(なる神)が完全であられるように、あんた方も完全な者となれ(マタイによる福音書 五章四十八節参照)。」等で使われています。創造主なる神に似た品性を目指すのであれば、神を第一に愛して神の律法、掟、戒めを守るのは必須です。聖書を読まずして、我々人類が守るべき神の律法、掟、戒めを知り得ません。聖書を避けても、上記のマタイ十二章の聖句及び古い契約の時代でもずっと言われているとおり、各自の行いや発言の責任が徹底的に追及され、裁かれる運命が待つのみです。(変わることの無い事実)

聖書の他の箇所を参照すると、複数の小さい子供が預言者エリシャを「禿げ頭」と嘲った場面(列王記下二章二十三節参照)の記録があります。子供の発言の意図は書かれておらず、わしの推測にはなりますが、(程度の差はあれ)子供は良くも悪くも単純で、自分が見慣れてない物事によく目が行き、思ったことを何でも言いがちです。最終的に、子供らはエリシャによって呪われ、出て来た熊に引き裂かれました。教訓は次のとおりだと考えます。悪意があろうと無かろうと、不適切な言動は避けるべきであり、そもそも心の中で悪い思いを抱いてはなりません。神には全て心の中まで見通されます。福音書においても、ファリサイ派や律法学者らが悪意を持って主イエスを試し、社会的弱者を軽蔑する発言をし、自らの卑しい品性を曝け出していました。「人の口からは、心に溢れていることが出てくる」(マタイによる福音書十二章三十四節参照)とイエスから戒められたように。

 

他にも、聖書を知らず言動に関し各自の責任を自覚しない人々によって、どんな問題に繋がっているでしょうか。まず考えられるのは、無責任な情報の拡散です。一部切り取りや印象操作、画像をいじったり、不確かな情報を拡散したりと手法は沢山あります。まあ、大衆を誤誘導させたいと考える工作員による仕業も多いけど、熟考せず安易に同調する人々もどうかしてます。神を畏れず平気で印象操作や嘘をつきまくる公的機関や(特に大手の)報道機関、それらを盲信する一般の人間も然り。また、聖書をまともに読みもしないくせに、聖書やキリストに関する嘘を平気で流布して誹謗中傷するのも少なくないです。「聖書は支配層の計画書だー」「支配層の人間は聖書になぞって行動している」「一神教はカルトだから、その根源の聖書も邪教だ」「聖書は他宗教のパクリ」といった、聖書全体を理解していれば絶対に思いもせん、しょうもない虚偽を真に受ける人も残念ながら見られます。預言の書だけ見ても、支配層と聖書に敵対する不信仰者らの滅びが予告され、偽ユダヤ人の実態等の支配層にとって不都合な情報が多いです。聖書は主イエス・キリストを証しするものであり、人間の視点で書かれてないし、人間を本来あるべき正しい品性へと導く。きちんと全体を見ろよと申したいです。政府や報道機関、国際的な機関や御用学者らのことについてはちゃんと疑いの目で見ても、聖書を熱心に調べて答えを出そうとはしないんですね。

 

それで、先程のマタイによる福音書十二章三十四節の言葉どおり、発言や行動にはそもそも人間の内面が大きく関わるのですが、結局のところ内面を改善しようと心から考えている人ってかなり少ないです。ネット上で、世の真相に気付いている人であっても例外ではありません。

ツイッターでは、例えば以下の投稿がなされました。

画像引用元:https://twitter.com/nbe222/status/1679049459945316353?s=20

 

日本に限らず世界中が、悪魔崇拝者の極悪人どもの意向の下、各国足並み揃えて新世界秩序(超監視管理社会、超共産主義社会)へ向けて絶えず動いています。多数派はいつまでも真相追及をせず世の権威を固く盲信する有様です。したがって、政府や大企業らがやりたい放題し続け、世の中が悪化していく中で、各自がどうすべきか考えて行動するのも確かに必要ではあります。それで、この投稿になされた返信投稿を幾らか取り上げ、端的に突っ込んでみると次のとおりです。

  • 「危機に気づき、人生の価値観の転換をしないと、この世で生きていくには絶望しかないと思う。」
    • →確かに、悪人どもが作り上げた間違った価値観を捨てることは重要だけど、従来通り世俗的な生活にまい進したところで間違った価値観を捨てきることはできない。そして、いずれこの世でしぶとく生き延びるために、遅かれ早かれ妥協して悪に屈することになるだろう。
  • 「いくら考えても、いくら行動してもムダよ、ムダ。あとは好きなことやって死ぬだけ。長生きしたら地獄よ。さっさと死ぬためにどうすべきか考えたほうがいいよ。世の中そういうもんだから」
    • →言ってることが、イザヤ書二十二章十三節にあるような、どうせ死ぬのならとことん放縦に振舞おうとする愚かな人々とよく似ている。好き勝手な人生を終えた先に待つのは、たっぷり積み重ねた罪深い行いの報いなのに…。
  • 「考え考察した結果運命は変えられない事に気づきました、私は傍観者でいることに決めました。みなさんに良い未来が訪れますように🙏」
    • →世の中の悪さを見聞きしても、何も有益なことをしない臆病な傍観者が多いなら、絶対に世の中が良い流れになるわけないとは考えられないのかと非常に不思議。傍観者で居るなら、いじめの傍観者が加害者であるのと同様、極悪人どもの悪に加担するのと同じ。

わしは偉そうに文句を言うつもりは全く無く、ただ冷静に分析しても、各々解決策の内容が益になるとはとても言い難いです。聖書の箴言にあるように、神への畏れも服従も無い人々に必要な理解力も知恵も備わらないのが、そのまま表れているのかなと考えられます。内面や行いから自分を正し、悪に抵抗し続けようという人がほぼ見られないです。

この投稿主もまた、この世で何とか生き延びるために行動させようとしてると思われ、この腐った何の希望も無い現世しか頭に無いです。聖書を知らずイエス・キリストへの信仰が無ければ、キリストの再臨時に腐ったこの世が一掃され、キリストが統治する義や平和に満ちた後の世への希望を見出だせるはずないのは当然です。すなわち、聖書を必死に学んで実践する選択を取らん結果、悪が支配するこの世に何とかしがみつくしかなくなり、悪に屈さず正義を貫く強さも決して備わりません。悪魔崇拝者どもの「父」である悪魔に抵抗するには、神に服従しその信仰を固持することです(ヤコブの手紙四章七節、ペトロの手紙一 五章九節参照)。反対に、神に服従せず信仰を固持しないなら、この世で少しでも長く生き延びる為、悪魔とその手先の悪人どもに屈するでしょう。主イエス・キリストは、最期まで主なる神に忠実で、忍耐し続ける者こそ救われると明言しています(マタイによる福音書十章二十二節ほか、ヨハネの黙示録二章十節および三章十節参照)。後の世へ入るに相応しいのは、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制(節制)を、自制(節制)には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には慈愛を加え、これらを備えて真に救い主イエス・キリストを知り、自らの聖別に努め、罪から離れて実を結ぶ人です(ペトロの手紙二 一章五節~十一節参照)。このように、人間の品性の良し悪しは極めて重要なのです。聖書どおりのことが正しいとは限らない、みたいに言う人が居るかもしれませんが、では輪廻転生がどうして正しいと言えますか。何故多くの人が天国に行けると信じられるでしょうか。前回記事やそれ以前から、わしは現代日本人の問題を徹底的に論証している連載「日本人の問題点(真の聖書福音と預言)」を紹介してきました。説明されている事実は、世の真相を求めている人であっても全く例外ではないし、わし自身も例外ではないけど、本当に真剣に現代の日本の問題、世界の問題を直視し、何とかしようと動く人が少なすぎます。日本においても、多くの日本人が自責せず、問題を解決しようともしないのに、世の中が好転するわけないのは明らかです。

 

人々の発言等への無責任さにより、舌を自制できない人々同士で問題になったり、無責任な情報の拡散、正しい情報やそれらを広める人々への中傷に繋がったりします。これも、神(主イエス・キリスト)を無視し、好き勝手振舞う人間だらけだからです。

 

 

【人間としての分や置かれた立場を知らず、確かな信念も持てない】

言葉や行いの改善の為には、そもそも根本的に内面を改善しなければならず、聖書理解が必要であることをお分かりいただけたでしょうか。世の中がおかしいと感じて自ら賢く情報を求めるようになった人であっても、聖書とキリストを信じるようになった人でも、気を付けなければならないのが、我々人間自身の分を弁えることです。分を弁えないのは高慢さ故であり、聖書全体で、とりわけ主イエス・キリストの御言葉の中に高慢さへの戒めが数多くあります。例えば、以下のとおりです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十三章十二節

但し、自分を高めようとする者は低くされ、自分を低くする者は高められるだろう。

〔引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 二 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

「低くされる」とは、意気消沈させる、恥をかかせるといった意味合いも含まれます。人間にできることなんてたかが知れているのに、分不相応に高慢になる人間は、決して神から評価されません。高慢な人間は、イザヤ書十四章にあるように、美しく高い能力と知恵を持ったが故に地に堕ち悪魔となった堕天使と同じように最後は滅びてしまいます。

高ぶらない人も中には存在するかもしれませんが、基本的に人間は自分を良く思いたい、他者に良く思われたい等と思うものだと感じます。わしも、振り返ってみると、いつの間にか高慢に陥り、憂き目に遭ったことがありました。高校のとある実験の時、物覚えが特別良いわけでも、器用ってわけでもないのに、何故か自分は出来ると勘違いして無駄に積極的になった(積極的な姿勢自体は間違ってないだろうけど)ものの、結局何度か間抜けた操作間違いをして恥ずかしかったことがありました。聖書を信じるようになってからも、自分を買いかぶってしまい、でも大した働きが出来ず落ち込む、そして余計にやる気を失くす悪循環に陥ることもありました。客観的に見れば、高ぶる態度、尊大な態度、不相応な自信過剰等は痛々しく、恥ずかしいものです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十章二十六節〜二十八節

「むしろ、あんた方の中で偉くなりたい者は、あんた方に仕える者になり、長になりたい者は、あんた方の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人にとって買戻金であるその命を献げるために来たのと同じように。」

〔引用元:神はあんたを見てて、見捨てはらへん | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

この御言葉の意味は、引用元の記事に併せて書かれており、以下のとおりです。

「長とか偉くなりたいという表現をしていますが、これは上記のような行動が神に喜ばれることなので、そのように説いているのであり、決して上下関係を肯定するものではありません。そして、主イエスが御自分の命を献げるために来たというのは、選ばれた神の民の罪を贖うために地上に来はって、十字架にかかって死なれた主イエスのことです。神の子である主イエスが、罪深い我々人間のために犠牲になられた愛を主イエス御自身が模範として我々に見せてくれはったんや。主イエスのように、愛を持って我々が隣人に奉仕するようにと教えはったんです。」

〔引用元:神はあんたを見てて、見捨てはらへん | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

その直前に、イエス・キリストは「民族の支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっているとも仰いました。遥か昔から人々は創造主なる神に従わず、各々勝手な振舞いをしていました。勝手にしょうもない上下関係を作ったり、権力者がやりたい放題したり…。カトリック、プロテスタント、正教会をはじめとした偽キリスト教(パウロ教)諸教派では、聖職者といった位が勝手に設けられ、献金と称して上の立場の人間が私腹を肥やしている現実があります。世の中のあらゆるカルトの構造も同様ですね。しかし、聖書では(とりわけ信仰の仲間同士では)おかしな支配構造や上下関係等を完全否定しています。これだけでも宗教全てが反聖書的で聖書とは無関係なんだと分かるでしょう、聖書をまともに検証もせず、勝手な偏見で聖書の信用性を貶める者達。

また、支配層とその傀儡たる各国政府や官僚、大企業(商人)等の有様も分かりやすい例です。日本国憲法の第十五条の二の内容は、公務員は全体の奉仕者であるという規定で、つまり国会議員及び官僚らは公僕です。この内容は、先程引用した御言葉の「仕える者になりなさい。僕になりなさい。」の内容に通じると思われる良い規定です。しかし、実際はほとんど無視されています。政治家たちの様々な言動からもよく分かります。最近だと、以下が挙げられます。

画像引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/4d77058d03ef6c6d1dbf9a9dde3622e6d22b4ecc

元の画像の引用元:https://twitter.com/qat8EJFlDVwxKGG/status/1673854587617558528?s=20

 

個人番号券(マイナンバーカード)に関する諸問題が露呈し、責任を追及されても「自分は悪くない」とでも言うかのような、国民に仕える立場とは思えない、無責任すぎる発言です。これに限った話ではないですが。そもそも、マイナポータルの利用規約の無責任さ、杜撰さからして問題が起こらないわけがありません。個人番号券は便利なものではなく、悪魔による新世界秩序(NWO)に基づいて徹底した超共産主義及び超監視管理社会実現に向けた道具です。国民一人一人の個人情報を掌握し、一挙一動を監視し、少しでも不都合な動きをする者に制裁を加えて抵抗させまいと企てています。もし個人番号券を作ってしまったとしても、早急に返還して、少しでも悪魔崇拝者に対して抵抗の意志を表すべきです。制度そのものをやめさせるには、訴えたり、政府側が無視できん位に国民が大勢で団結し猛抗議したりする必要があります。

こちら(ユーチューブ)は六年程とかなり前の動画ではありますが、自民党の議員の危険思想と発言(他の政党も似たような思想であろう)が見られ、彼らは自分達の立場を弁えないどころか、国民にとって有害極まりない思考だし、刑法の背任罪に該当しますよね。他にも彼らの醜悪な発言は、調べれば見つかります。こんな人らに憲法改悪されようとしており、国民の基本的人権、平和主義、国民主権が著しく制限され、戦前やナチスの過ちをも繰り返す生き地獄のような社会にがらっと変わってしまいます。国民全員に関わる憲法改悪の危機を話しても、「(憲法について)詳しいんですね~」なんてふざけてんのかと思いますし、気付いても何もしないなんてあってはならないですね。

政治に関わる人間の例についても、挙げたら切りがありません。世界中がですが、「民族の支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」そのままの様相であり、最高法規である憲法に平気で違反する犯罪者だらけです。また、その状況が長く続いているのは、それだけ国民の性質にも大いに問題があることを証明しています。仮に国民が正義を愛し、政治や法に関心を持ち、聖書を学んで実践し、悪政を許さないなら、違憲行為や違法行為を繰り返す反日売国奴なんか即罷免させられるでしょう。多くの人々が、日本国憲法前文、第十二条、第十五条を守り、国民主権を積極的に堂々と行使するはずだからです。当記事の中盤で取り上げたように、日本人の問題点の現実を受け入れられなかったり、日本人が悪いわけないと買いかぶったりするのも、一種の高慢と言えます。まず現実を直視せんかったら、何とか改善せねばと意欲すら湧きません。世の中が悪魔崇拝者どもに支配されてるのは変わらず、これまでの人類史から明らかなように為政者も悪です。であれば国民がまともでなければならんのに、むしろ大多数が世の権威を平気で盲信し、政治や法も全然知らない興味も無いといった惨状だから、世の悪化の助長になるばかりです。

 

悪い世の中の状況に抵抗すること、何とか行動する姿勢は必要ではあります。ただ、人間としての分を弁えない高慢は大きな落とし穴となります。人間の目には、人間がこの社会を動かしていると映るけど、実際は万物の創造主なる神によって絶妙な秩序を保って動かされています。そして、人間が様々なことを図って行動しようとも、実現するのは神の御計画、御旨の範囲内のことです(ヨブ記四十二章二節、箴言十九章二十一節参照)。一時的なこの世を支配する存在が極悪故、今後実現する事柄も我々にとって喜ばしいとは言えず、神に反逆する反キリストがほとんどである世の人間への神の激怒も甚だしいでしょう。しかし、聖書預言を丁寧に読めば分かるように、神は我々人間が為すべきことと救いの道を示しておられます。勝手にこじつけをして「聖書は支配層の計画書」だ等と言う人らは本当にお笑いものですし、「神が存在するなら、何故世の中こんなにもおかしいのか」と嘆く人らも、主なる神の忍耐強さと御意志(ペトロの手紙二 三章七節以降を参照)を調べるべきでしょう。それで、神や神の御心を無視して、ありのままの性質の人間であっても世の中どうにでもなると高慢にも勘違いしても、根本的な解決策は見出だせません。一つ目の話題の終盤で取り上げたように、人々がこの悪い世の中で各自どうすべきか考えた結果を参照しても、誰も有効な解決策を言えてませんでした。わしは、聖書を何度も通して読んで学んだからこそ、神の御国に相応しい主イエスに似た完全なる品性の形成という明確な目標を見つけ、聖書を参照しながら理解に努めて実践するという明確にすべきことを見つけられました。人間には、周りと同じだと安心する性質や、臆病さや怠惰さ、高慢さ、肉の欲、他多くの弱みがあり、完全に克服するのも時間は掛かります。しかし、聖書に出会わなければ、たとえ世の実態を見聞きして危機感を抱いたとしても、世の出来事に一喜一憂して不安や疑心暗鬼を生じさせたに違いありません。

 

ここで、主イエス・キリストの姿勢を見てみましょう。特に、ヨハネによる福音書を参照すると、自身ではなく神の御心に従って行動する、主イエスの教義は父なる神のものである、自身の栄光ではなく神の栄光を求める(五章三十節、七章十六節、八章五十節ほか参照)といった姿勢です。人間のようにコロコロ心変わりをせず一貫した神なので、主イエス・キリストとの新しい契約で教義が大きく変わるはずはありません。キリストの姿勢から人間は(主イエスは人性を取られた)神無しでは何もできず、神のあらゆる教えや御意志に沿って動くからこそ正しくあるのだと学べるのではないかと、わしは考えています。万物の創造主なる神が絶対的な基準です(律法を見ても、神の秩序の正しさは明白)。真のキリスト者であるなら、イエス・キリストを模範として聖書を基準に生活しますが、主イエスのこの姿勢とは逆で正しい福音の伝道よりも自身の栄光を求めた偽使徒パウロは、神の律法関連をはじめ勝手な独自の教義を作り出しました。何事も、イエス・キリストに逆らう人間が、悪をもたらすんです、残念ながら…。パウロの偽福音は、後のカトリックをはじめとした世の諸教派に継承され、現在も「キリスト教徒」と称しながらパウロ同様に度々偽教義を吹聴しています。聖書を読むようにわしは強く勧めてますが、偽使徒パウロの書簡には反キリスト教義が含まれており聖書には該当しないので、聖書全体の主旨を理解できてない人なら尚更パウロの書簡は読まなくていいです。偽使徒パウロの書簡に反キリスト教義が含まれていることを詳しく知りたい方は、以下をはじめとする連載の参照を強く勧めます。

 

 

 

【聖書は主イエス・キリストを証しし、人間を確実に正しく導く】

ここまで、特にキリストによる新しい契約において最重要であるイエス・キリストの御言葉や生き方と現代の人々の性質とを比較してきました。取り上げた内容はほんの一部で、他にも重要な言葉が数多くあるのは言うまでもありません。イエス・キリストに逆らう人類が世の中の悪化を加速させているのであれば、反対に聖書の十分な理解に努めて行いに反映させることで、悪から遠ざかっていけると受け取れます。支配層も大衆も悪人ばかりの世の中で、希望が持てるわけないのは薄々感じてませんか。経験上、他人を変えることは難しいです。自分自身の行動や意志を改善する方がはるかに実行しやすいです。偉大なる神の御国(後の世)に入るに相応しい清浄な者を目指して自らも鍛錬し、主イエスに依拠して忍耐しつつ御国を待ち望めば、怖いものも迷いも無いこと間違いありません。

日本人の問題点 五〔真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)〕では、多数派の邪悪な性質は「主なる神への不信仰が諸悪の元凶で、要改善」と書かれています。この記事でも、「確かにその通りだな」と一人でも多くの人に気付いてより理解していただけたら嬉しい限りです。

ただ、悪魔の新世界秩序(NWO)に基づく超共産主義かつ監視管理社会実現に向け、絶えず動いています。人々の動向の監視のための防犯カメラ設置推進や義務化の検討(こちら(日刊工業新聞社))、フランスの騒動のどさくさに紛れた悪法(警察が遠隔操作で個人のスマホを覗き見できる内容)の可決(こちら)、エチオピアでは銀行業務でデジタルID義務付け(こちら(Biometric Update))等、今に始まったことではなく怪しい動きは多いです。支配層にとって大層不都合な聖書も、いずれ自由に学べなくなります。聖書を学び、自身を変え、行動するならすぐ。

 

必要な情報が網羅されたキリスト道 (themedia.jp)

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