こんにちは。

二千二十一年からパウロに関する連載がこちら(真の聖書福音)をはじめ行われ、管理人のミカエル氏が聖書全体を原語から調査して精読した結果に基づくパウロについての実態が明らかにされてきました。そのおかげで、長年の「キリスト教(=パウロ教)」の実態がまた一つ明らかとなったのです。パウロが使徒であるというのは単なる本人の自称にすぎず、実際は真っ赤な嘘で、しかも、パウロ書簡には聖書全体の主旨に反した反キリスト発言が含まれていることについて認識したものの、自分自身最初は衝撃を受けてにわかに信じがたかった覚えがあります。しかしながら、これまで数年間聖書を隅々まで読んで学んできて、神(主イエス・キリスト)を信頼して旧約時代から続く高潔な教えや秩序を実践しようと努めてきたおかげで、聖書で一貫して教えられている内容や神の御計画を認知するに至り、主イエスの御言葉とパウロの教義の違いにも納得がいきました。

一方で、この期に及んでも、世間の自称キリスト者らのほとんどは主イエス・キリストよりもパウロを崇拝するパウロ信仰から足を洗うことがありません。聖書全体によって裏付けられ論証されたパウロの実態について頑なに認めず認識を改めない人らは、どうぞ各々好き勝手に道を歩めばいいと思います。汚れているものはなお汚れさせよ(黙示録 二十二章十一節 参照)の通り、神も頑なに改めない人間については放置しておくように考えておられるからです。しかし、パウロの偽教義から発生した世の諸教派における偽福音を拒否し、真の聖書福音を理解して真心からの信仰に基づき神の御意志を実行する人が一人でも多く居って欲しいと、これまでと同様に願っているところです。そのため、世の自称キリスト者(という名のパウロ教徒)が如何に主イエス・キリストとは程遠い存在で、間違いばかり吹聴しており迷惑な存在であるか、まだまだとことん明らかにしようと思います。

 

使徒言行録によれば、確かにパウロはキリスト者を迫害するのをやめて回心したと記録され、特に異邦人に対しキリストの御名を広める役目を果たしたのは事実です。しかし、以下の引用で示されているように、そんなパウロが自らキリスト者の仲間ではないことを明らかにしたことに悪い意味で度肝を抜かれました。

 

我はファリサイ派だ。ファリサイ派の子だ。」(使徒言行録二十三章六節拙訳)と最高法院の場でパウロは自分で言うたがな。あれれー。あの目が見えなくなって劇的な回心とされる話は何処に行ったのか(そもそも、その話の内容がすべて矛盾してる事実も過去記事「パウロは偽使徒」で指摘済)。最高法院の議員にサドカイ派やファリサイ派といったユダヤ教徒が居ったことをパウロは知って、パウロが自分はファリサイ派やと証言したと使徒言行録に記録されてる。拙者の言うとおりやろ。パウロは人々の歓心を買うためや、惑わすためや、保身のために言うことがコロコロ変わるし、「自分はキリスト者だ」と言わへん、否定することさえやってのけた。「我はファリサイ派だ」なんて言うようでは主イエスを否定してることになり、主イエスから「あんたのことは知らん」と言われる羽目になる(マタイ十章三十三節参照)。パウロの悪質な人間性が分かるであろう。これで十二使徒に引けを取らへんキリストの使徒だと(コリント二 十一章五節、十二章十一節参照)。

(引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 七 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

ファリサイ派(律法学者とかサドカイ派等も同様)については、主イエスから神への信仰が無く見かけだけ敬虔さを装う偽善者であると明らかにされていました。神である主イエス・キリストに敵対したファリサイ派たちが悪人であることは、聖書の内容を知っている人なら周知の事実です。なのに、パウロはそんな悪魔の子ら(ヨハネによる福音書 八章三十九節 参照)の仲間だと自ら証言したんですね。恥ずかしながら以前わしはこの部分を軽く読み流していました。でも、確かに本人が堂々と言っている…。パウロが回心し(たとされ)てから自分がキリスト者ではなくファリサイ派のままであると認識していたのかとか、詳しいことまではわかりません。ただ、少なくとも回心後において自分はファリサイ派の仲間であると微塵も心に思ってなければ、如何なる時でもそのように発言するはずはない(マタイによる福音書 十二章三十四節 参照)とは思いませんか。いずれにせよ、一世紀当時の形だけの大祭司とサドカイ派の人々らに捕らえられた時の使徒ペトロたちの断固たる姿勢(使徒言行録 五章二十九節 参照)と真逆の姿勢なのは明らかでしょう。行いによって信仰の有無や程度が裏付けられる(ヤコブの手紙二章参照)とはまさにここでも表れているなと感じる次第であり、こちらも十分に注意していかねばと思います。

 

いくら頑張ってもパウロは使徒言行録一章二十一節~二十二節にある使徒の要件にも当てはまらないにも拘らず、おまけに上記したのをはじめとした情けない姿勢にも拘らず、自ら使徒を名乗って自分に栄光を帰そうとしたことからも、まさにマタイ二十三章の御言葉通りとなっています。パウロが使徒ではなく、主イエス・キリストが説いた福音とは甚だ異なる偽福音や偽教義を混ぜたような反キリストの一人であることは、もう一切の反論もしようがないほど「偽使徒パウロの反キリスト教義 七(真の聖書福音と預言)」他関連記事にて論証されているのにと思います。何度か申したように、わしもこのパウロの実態に関する連載を読んだのを受け、自分でも聖書全体とパウロの言葉の内容の違いを読み比べた上でのパウロの反キリストぶりについての確信です。あくまで聖書の記述に基づくと強調しておきます。それでも、今なおパウロの実態についてどうしても信じられないのであれば、改めて繰り返し聖書全体を読み、パウロの書簡を読み、納得いくまで読み比べて精査したらいかがでしょうか。何人かパウロ教徒らとやり取りした感じ、彼らは結局上記の論証記事をまともに読んですらないと思わせられる発言しかしないという感じですね。そのような人は主なる神によって拒絶され頑なにされていて手遅れなのかなと思います。

 

律法学者やファリサイ派たちよ、あんたら偽善者どもは災いだ。杯や皿の外側は清めるが、内側は強奪と放縦で満ちているからだ。盲目なファリサイ派よ、まず杯と皿の内側を清めよ。外側もまた清浄になるために。

律法学者やファリサイ派たちよ、あんたら偽善者どもは災いだ。白く塗られた墓に似ており、それらは外見上実に美しいと目に留まるが、内部では死者の骨やあらゆる汚れでいっぱいであるからだ。このように、あんたらも外見上は実に人に正しく見えるが、内側では偽善と不法でいっぱいだ。

マタイによる福音書 二十三章二十五節~二十八節(拙訳)

 

偽使徒パウロの「恵みによって救われる」という教義は、今まで何百億人以上もの人々に神の王国に入る権利を与えず、躓かせてきたし、品性の悪い自称キリスト者を量産してきた。まさしく反キリストの業と言えよう。これは主イエスが言わはった「あんたら律法学者たちとファリサイ派どもよ、あんたら偽善者は災いや。改宗者を一人作ろうと海と陸を歩き回り、改宗者が出来ると、その者をあんたらよりも倍悪い地獄の子にするからや。」(マタイ二十三章十五節拙訳)に当てはまる。パウロはファリサイ派やし、熱心に西方に伝道旅行をしてローマに拠点を置き、悪い改宗者を量産してパウロ教信者は地獄の子になってるし、ぴったりと合致する。

(引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 四(真の聖書福音と預言)

 

そんなパウロの言葉等を信じる人らも、パウロと同様に、イエス・キリストに敵対したファリサイ派や律法学者といった悪人たちといかに同じ品性であり似たような行動をしているか、聖書の記述から再確認します。

まず、こちらの画像ですが、ツイッターにて「律法」と検索した時に出てきた自称キリスト者たちの投稿の例を何個か集めたものです。主イエスは、天の父が完全であるように人間も完全な者となれ(マタイによる福音書 五章四十八節 参照)とお命じになり、当然神に罪などあるわけもなくこの御言葉は神の秩序たる律法を当たり前に守ることも含まれているでしょう。しかし、これに反して平気で「律法を誰も完璧には守れない」と誤りを言い、悔い改めなければ滅びる(ルカによる福音書 十三章三節、五節 参照)という真理を無視しています。相変わらず、律法廃止論の主張は話になりません。エフェソの手紙を引用した人をはじめとして、パウロの書簡の言葉をこれ見よがしに複製貼り付けする人も結構見られます。決まって、主イエス・キリストや使徒たち及びその他のキリスト者による書簡や言葉に合致しないパウロの反キリスト教義の根拠となる箇所を平気で繰り返し投稿したりしている人が多く、ものすごく奇妙です。まさに、神(主イエス)の一貫した掟を捨て去り、パウロという最早純粋なキリスト者ですらない人間の教えを教えたり守ったりしてる様は、マルコによる福音書七章八節~九節の御言葉そのものだと常々感じます。当然ながら、その直前の七節(イザヤ書からの引用の内容)の言葉の通りでもある。先程引用したマタイ二十三章二十五節~二十七節のとおり、敬虔さを装いながら、実際は偽善や不法に満ちているというのも然りです。「不法」を意味する原語「ἀνομία」には「法の違反」「違法行為」すなわち神の律法に反する不法者の意味があり、理由問わず神の律法を蔑ろにする人たちはまさにこれです。

ヨハネ七章十七節や同書八章二十八節をはじめ、主イエス・キリストは天地創造、旧約時代から続いてきた一貫した神による真理に基づいて語っておられることがわかります。主イエス御自身が神であるから当然です。旧約聖書の律法の書、預言書、詩編や箴言等の書に基づいて語っており、決して「イエスという人物がユダヤ教を否定してキリスト教の開祖となった」わけではありません。にも拘らず、真理からずれたパウロの言葉に重きを置き、律法廃止論(十戒のみ有効論も含む)が圧倒的多数派となってしまっているのだから、いかに彼ら自身自ら不信仰であることを証明していることがはっきりしています。現在の「キリスト教」の実態はパウロ教だから、キリスト者やクリスチャンを名乗って敬虔そうに見せようが、醜悪な自我や欲が残り、聖霊によって新生しないため神の品性が備わるはずはなく、おもに過去の白人の侵略のような残酷な出来事も起きてしまった、このように考えるのが自然ではないでしょうか。実際、一世紀当時のファリサイ派等のユダヤ人らは、主イエス・キリストが神であることを見抜けず、敵意や殺意すら剝き出しでした。現代の自称キリスト者(パウロ教徒)が大好きなパウロだって、キリスト者を迫害し殺していたのは事実。現代のパウロ教徒は、それこそ今の聖書のおかげで、主イエス・キリストが神であり唯一の救い主であることを認識できているにすぎません。彼らの行いや言動を見てみれば、パウロ重視、福音書での主イエスによる厳しい御言葉はまるで無視…これはすなわち、行いでは一世紀当時のファリサイ派や律法学者たち同様、神に逆らう姿勢であることが明らかとなっています。実際、福音書での御言葉を引用して律法は今なお当たり前に守る必要のある神の秩序の一つであることを唱えれば、「律法主義者」と的外れな中傷をする始末。彼らが殺意を沸々と生じさせているのかまでは不明ですが、少なくとも敵意は丸出しです。律法の必要性は、聖書全体(パウロ書簡以外)から簡単に導き出せる真理の一つなんですけどね。本当に彼らが現代のファリサイ派ということに納得しかできないし、それゆえにヨハネによる福音書でユダヤ人の大衆に言われている御言葉、モーセの書いたことを信じない(五章四十七節)、うわべで判断している(七章二十四節)、罪のうちに死ぬ(八章二十一節)、悪魔に属している(八章四十七節)、その他すべてが彼らにも大いに当てはまる内容です。ファリサイ派らが敵対したのも、自分を客観視できんかった結果でもあり、それは現代の彼らも一緒。彼らはこれらの主イエスによる警告が、まさか自分たちに当てはまるとは夢にも思ってないと考えられますが…。もっとも、わしも死ぬまで決して油断ならないことを承知しております。それで、とりわけヨハネ八章三十九節~四十七節の箇所(反キリストの父は悪魔である)がパウロ教徒に当てはまっていることを、以下ツイッターの投稿をまとめた画像を添付しながらお示しします。

 

まず、「むにゃ」という人がミカエル氏を「ネット教祖」と根拠も無く言っていますが、「教祖」というのはある宗教の創始者を意味する語です。何故パウロ否定が反支配層の仕込みであるのかという説明も無く、論理性が皆無で、ただ感情的になって妄想を繰り広げていますね。絵文字使ってヘラヘラしながら他人を莫迦にしたような言い方も、キリストの品性とは程遠い。「真赤礼火」とう口座名にしていた中田という人は、これまた根拠も提示せずにミカエル氏を偽預言者raptと同様と貶しています。「RAPTの聖書曲解とその対極にある真理である主イエスの教え(真の聖書福音と預言)」をはじめとした記事からraptの悪質さはよくわかると思いますが、いずれにせよミカエル氏が「教祖」として新たな宗教を創設した根拠が全くないし、彼が聖書の真理について述べる際にraptのように聖書から裏付けず独自の教義を教えている内容が一度でもあったのか。しかも、わしはミカエル氏を兄弟として尊敬はしていても、決して彼を崇めたりしてませんからね。そして、何も知らんくせに、同じ認識を持つ我々を「特定の人間を崇める偶像礼拝者」と偽証するとは不躾にも程があります。何より、言葉も誤用するという無教養さも曝け出しており、見てるこっちが恥ずかしくなるほどです。

それで、わしと同じ信仰を持つ兄弟の一人の栄光さんが左下のように彼らにした非難は尤もであり、かつ右下の「日本中のみんな~」という口座名の人とともに明確な論証を求めていましたが、一切応じず無視して逃げたままです。まあ、彼らが聖書をまともに理解せずにパウロを使徒と崇めて思い込んでいるだけであり、まともに聖書から論証できんのは初めからわかりきっています。パウロが神から選ばれた使徒であり義人であると思い込んで「パウロ教」の教祖パウロを崇める人々は、「パウロの御言葉から聖霊を感じる」「現代の聖書に誤りがあるはずない」と譲らず、簡単にテレビや政府を盲信する人々と何も変わりません。正しい叱責を拒絶する反抗期の子供のように、パウロが偽使徒かつ反キリストであることの確固たる証拠をまともに調べもしません。パウロ狂信者らのこのような態度は、ファリサイ派たちが主イエスから的確に論破された時の有様と似ており、大変惨めでもあると思います。それで、栄光さんの警告どおりに彼らは行いで自分たち自身が嘘つきであることを示しましたが、それにしても嘘ついてる自覚がないのってとても怖いですね。まさに彼らはヨハネによる福音書の八章四十四節どおりです。

 

また、過去記事「偽キリスト者の実態を知り、惑わされないように」で取り上げた立野恵祐という人も、やはり一切改心することなくこちらを敵視し続けています。パウロは偽使徒と説明するこちら側を「工作員」と決めつけていますが、「工作員」の意味は裏に回って秘密の活動をする人のことです。パウロが偽使徒かつ反キリストであるというのは、聖書を理解すればすぐにでも理解できるはずのわかりやすい内容であり、理解できない方が正直脳内どうかしてると思われる程です。こちらは、ひそひそと聖書について間違った教えを広めようと画策なんて一切しておらず、工作員と呼ばれる筋合いは全くありません。この人もまた、言葉の意味を間違えて他人を貶しており、極めて恥ずかしい限りです。そして、返信では「けんみすけんすみ/ケンタロウ」という口座名の者が同調して、こちらを北朝鮮の軍隊のように足並みが揃っていると陰口叩いて莫迦にしていますが、聖書の真理は一貫しているのだから、聖書に関して正しい説明をするなら自ずと一致するのは当たり前だと思います。とても的外れな野次であり、むしろパウロ信者の方こそ、皆が耳触りの良いパウロ書簡をこぞって引用し、全く当てにならない主観に基づいて感情的に物事を言ってばかりで、ある意味足並み揃えて神(主イエス・キリスト)に敵対しています。あと、それ以前に立野恵祐という人は、「パウロは偽使徒だって言う人にめちゃくちゃ絡まれる」と文句言っているけど、そちらの発言が聖書の真理に反しており突っ込みどころ満載であるが故の突っ込みでしょ…、って思いました。自業自得です。なのに自分たち自身を客観視して自責することなく、自分とは異なる意見で気に食わない相手を感情的に中傷し相手を責めるのも、繰り返しますが主イエスから完璧に言論で打ち負かされて殺意まで抱いたファリサイ派や律法学者といったユダヤ人らと一緒の品性だとしか思えません。やはり当時のファリサイ派と現代のファリサイ派(パウロ信者)同士で共通しているみたいです。

 

パウロ教徒でも、コロナ犯罪関連では比較的まともなことを言ったり、世の中は悪魔に支配されており聖書の真理から引き離そうとする罠で溢れているといった旨を言ったりする者はある程度存在しています。厄介なのが、世の実態をある程度知った方々にとって、そんな人々がまともな人間に見えてしまうであろうということです。それ故、聖書をよく知らない人は、彼らの醜悪な態度や嘘つきぶりを学習し、聖書全体の内容を早期に理解してどうか惑わされないでください。

 

また、他にも気になることとして、わざわざ本名や本人の写真(と思われる)ものをSNS上に掲載している人もわりと見かけられます。見えないだけで簡単に個人情報等が盗まれ悪用されたりするようなこのご時世において…。パウロ教徒らは無駄に自分を公開し自分に栄光を求めたい(パウロ含めファリサイ派らも同様)ようにしか見えず、脳内のお花畑具合も酷いんでしょうね。かつてのファリサイ派や律法学者らのこれ見よがしな態度にも似てると感じます。彼らは尤もらしい持論で自身を正当化していると思われますが、悪人どもから少しでも私事を守りたいなら尚更、絶対に真似すべきではありません。

 

以上、偽使徒パウロやその教義を頑なに誤りなしと看做す人らが、パウロと同様にいかにファリサイ派や律法学者たち、すなわち主イエス・キリストに敵対する悪魔の子であるかを再確認してみました。残念なのが、世の中の「キリスト教徒」「クリスチャン」を名乗る人間のほとんどがこれということです。この有様で、自分たちは神様から恵みを受けており救ってもらえる前提でいられるのがある意味恐ろしいと思います。これについても、マタイ二十三章三十節にあるファリサイ派らの台詞を取り上げた内容と似ており、まさにかつての多数のファリサイ派等の人々の高慢で醜悪な部分を受け継いでいると感じます。

 

ここまで説明を申し上げたように、少しでも聖書に依拠するきっかけ、認識を改めるきっかけとなれば幸甚です。パウロが偽使徒の反キリストであるという事実については、何ら洗脳や色眼鏡も無くて普通の理解力がある人ならとても単純ですぐに理解できるものであり、狂った人が多い中でもこの事実に納得できる人はおられるはずです。しかし、この事実(もちろん他の聖書の真理についても同様)を広める声が小さく少なくともパウロ信者の方が目立っている状況もまた嘆かわしいなと思います。我々世における権力も富も無い一般人ができることは限られているとはいえ、主イエス・キリストを愛するなら、偽使徒パウロの書簡由来の偽福音ではなく真の聖書福音が広まること、偽使徒パウロ由来の教義等に騙されている人らを可能であれば助け出す、新たに聖書に関する欺瞞に惑わされる人が出ないように呼び掛けること等を積極的にしたくなるはずなのに。真理を擁護し積極的に広める人がもっと居って欲しいと強く思います。パウロが偽使徒と知っても周知すらしない人は、ファリサイ派の人々を恐れて神からの誉れを捨てた議員たち(ヨハネによる福音書十二章四十一節参照)にそっくりな神の敵です。

 

ここで、ついでに世のパウロ教における「牧師」という肩書が全く信用ならず、如何に頓珍漢な聖書理解をしていらっしゃるかをご覧になってください。こちら(YouTube)、数週間前に投稿された、ハーベスト・タイム・ミニストリーの中川健一氏の艱難前携挙の根拠を改めて説明した動画です。艱難前携挙の嘘についてはもはや真新しくも何ともないですが、未だこの偽教義は撲滅せず尤もらしく説明しているので、こんなのに騙される人がなるべく出んようにと願い、一応おかしなところをいくつか挙げてみます。

まず、根拠の一つとして、「艱難期を預言している黙示録六章~十八章には、教会への言及が無く、この時教会は天に上げられ地上に存在しない」という内容です。教会への言及が無いからといってそれが天に上げられたとどうして決めつけられるのか、そもそも理解不能です。例として福音書にある終末の預言(マタイ二十四章、マルコ十三章、ルカ二十一章)から参照しても、この時に教会(=キリスト者の集まり)が天に上げられるという旨の言葉は見られません。とりわけ真のキリスト者に苦難があることならよくわかります。キリスト者への迫害が激しくなると、もはやキリスト者がまともに集まることもできなくなる(ネット含め)というのが一理あるのではないでしょうか、あえて「教会」の言及が無い意味を考えるのであれば。例えば黙示録十三章~十四章を参照しても、獣の刻印を拒否するキリスト者が今のように移動の自由があり、自由にインターネットが使えるとも思えません。

次に、「艱難期の目的は不信仰を裁くこと、キリスト者は信仰と恵みによって救われており艱難を通過する必要が無い」という内容です。確かに、特に大艱難では激しい災難があるとわかりますが、この頃はもう神による恩恵期間はとっくに終わっているし、キリスト者が信仰や恵みによって既に救われているというのはパウロ書簡由来の偽福音です。人間が救われるかはこの世での命尽きるまでわからず、だからこその黙示録十三章十節をはじめとした御言葉のとおり、最期まで信仰や忍耐が必要であるということと考えます。マラキ書の三章等にあるように、艱難は真のキリスト者を清めるのにも必要と思われ、苦難を経験し真に清められて完成されると考える方が、辻褄が遭うと思いませんか。また、「信者が艱難期から救われる聖句がいくつもある」として挙げられた、テサロニケ一の一章九節~十節、黙示録三章十節及び二十二章二十節ですが、いずれも艱難期前の携挙の根拠になるとどうやったら捉えられるのかとても不思議ですね。

世の終わりまでにキリスト者が迫害され肉体の死に追いやられることは十分に考えられますが、総じて艱難前携挙についての根拠が無理やりなこじつけでしかありません。むしろ、死んでも復活することの方が希望だと思います。幸いなのは、主イエス・キリストを模範とし、神の律法、掟、戒めを最期まで喜んで守り神に忠実な人(詩編 百十九編一節、イザヤ書 三章十節、ヨハネによる福音書 十三章十七節 ほか参照)です。艱難前携挙に希望を置くことは、断じて「幸い」ではありません。携挙については、死にたくない思いが強く臆病な人が誤って「希望」としがちで、簡単に騙される人は絶えません。携挙について、聖書全体を根拠にした「携挙の真実(真の聖書福音と預言)」をご覧になることを勧めます。ある程度聖書を理解した上で読んで検証すれば、この記事の説明は聖書の御言葉に沿っており合理的で納得できると感じられるはずです。

 

世の中について、こちら(週刊現代)では、熱海や箱根といった有名な温泉地にて支那の資本の手が伸びているという内容が書かれております。支那人が日本各地の土地や水源等の買い占めを行っているという事実は真新しいことではなく、支那による静かなる侵略行為が進められ、支配層の犬である日本政府も日本と日本人を潰したいと考えて後押しているのが実態です。記事内では、やってきた支那人らが現地の風情を打ち壊したり組合に入らなかったりしていることに対し、現地の人が不満を漏らしているというのもあります。それは、彼らの身勝手な気質は当然あると思いますが、それよりも彼らは純粋に日本を好いてやってきているのではなく日本侵略の一環である故に日本に合わせる気が全くないと考えるのが自然でしょう。彼らは相手の心情を察する精神も遠慮も持ち合わせておらず、黙って指をくわえているようではどんどん付け上がるだけだと思います。目先の利益に目が眩んで簡単に海外資本の手に渡すのも愚かであり、何より国民主権の行使として悪政には大多数が立ち上がって抗議しようともしないのなら世の中はますます悪くなる一方です。

それに、未だに日本ではこちら(Yahoo!ニュース)のような事態もありました。三年経っても相変わらずコロナは全て嘘で支配層の政治であると気づく人がごく少数なままだし、マスクの強要という法的根拠がないどころか基本的人権の侵害で違憲の規則(ルール)自体がそもそもおかしいのに、思考停止して「規則を守らないのが悪い」と言う奴らが多く見られる始末です。行政、報道機関が邪悪なのは言うまでもないけど、あらゆる機関や国民の大多数がそもそも法に無知で人権意識も皆無でどうしようもない程、世の権威を盲信していることを改めて強く感じます。

ツイッターとかでも、世の中や多くの人々の狂った有様を見聞きして嘆き、平和を求める人もいます。もちろん世の中が善良であるのが良いのは当然ですが、世の動向を追って世間を見渡しても、この世に自浄作用が無いのがわかると思います。聖書でもこの世が悪の支配にあること(ヨハネの手紙一 五章十九節)が明記され、神の律法でも悪の大勢の仲間になってはならない(出エジプト記二十三章一節の一部より)ことが示されています。多くの人に知っていただきたいのは、この世の好転への期待は虚しく、いつ終わるかわからない人生の中で神への真心の信仰から罪を悔い改め、善行に励み、神のために働くのなら、死んでも復活して救われ、後の世で憩うようになることです。神は、如何なる状況でも御自身に従う人間かどうかを試しておられます。正常な人であれば、人間のためになる高潔な秩序を示し人間に無償の慈愛を与え、義を重視される主なる神(主イエス・キリスト)か、人間を甘い誘惑で釣って自身の地獄行きと滅びの運命に巻き添えにしようとする悪魔のどちらが正しいか、一目瞭然だと思います。悪魔の手先である支配層による、新世界秩序への動きは現在進行中です。決してコロナが騒がれなくなったら安心とかではありません。

日本では個人番号券(マイナンバーカード)のことで、つい最近の事例として、岡山県備前市が元々小中学校の給食費を無料にしていたのに、新年度から世帯全員が個人番号券を取得しなければ無料にならないようにする方針をしました。これは差別であり、国の最高法規たる日本国憲法で規定された基本的人権や平等を明らかに無視し、違憲行為に走ってまでごり押しする姿勢に呆れを通り越しました。このまま、法に無知な多数派がこのような違憲と言える施策にまで賛同すれば、全国的に広くなされる可能性があります。大きな災害の危険性、憲法改悪の危険性、色々と問題を挙げたら列挙しきれない状況下にあり、時間が無くもたもたできません。遠くないうちに来る大艱難まで、それ以前にいつ終了するかは不明の人間各自に定められた恩恵期間までの悔い改めや確固たる神への服従が必須です。神への愛を抱いて感謝を示すことなく、ただ自己保身や利益信仰として従うふりをしても全く成長しません。以前のわしの、救われたい、良いように導かれたいという利益信仰が愚かにも強かった時を振り返ると、そう強く実感します。

 

大学等各種学校で卒業するための単位が足りなくとも最悪留年して単位を取り直すことは可能であり、何かの試験に合格しなかったとしてもその次の回にいくらでも挑戦し直すことは可能です。しかし、定められた時までに、神の律法、掟、戒めを尽く守って罪を心まで完全に悔い改めることが必須であり、その上で、日々福音伝道や奉仕活動といった善い行いを日々真心から自発的に行うくらいになっていなければ、もう手遅れに違いありません。聖書を手に取らず、神に立ち返らず、たとえ聖書を学んでも、偽使徒パウロの書簡由来の偽福音に魅了されたまま、悔い改めを拒絶し、そのまま手遅れになったらもはやどうにもならないというのは、創世記のエサウの大失敗からも学びになります。聖書に少しでも関心があるのなら、今すぐ手に取って真剣に読むことを強く勧めます。そして、当記事で警告させていただいたように、パウロ狂信者らには厳重に警戒してください。彼らが吹聴する、「罪を告白し、主イエス・キリストを救い主として信じれば、行い関係なく救われる」等の偽福音に惑わされることなく、神(主イエス・キリスト)が仰る真の聖書福音を学び実践しましょう。世の「キリスト教」を騙る諸教会に通ったところで、聖書の真理がわかるはずがないし、救われることもないでしょう。わしが普段から同じく信仰を持つ兄弟たちと、交流、学び合い、励まし合いや高め合い、世の動向含めて有益な情報共有をしている「神のイスラエル教会」(キリスト道)について、本気でキリストを模範とする道を共に歩みたいという方にとってかけがえのない場です。目指そうと思う方は、条件や要項をよくご覧になり、自由のあるうちに早いうちにいらしてください。