こんにちは。

 

世の中、聖書についてまともに知ろうともせんくせに、勝手な憶測だけは立派に立てる人がいます。ローマ・カトリックや正教会、プロテスタントといった各教派、およびその他「キリスト教」を騙った新興宗教がインチキなのに間違いはないです。しかし、「聖書そのものが悪魔崇拝者の計画書」、「出回っている聖書は支配層によって信用ならぬほどに改ざんされている」、「キリスト信仰は悪魔崇拝と変わらない」といった虚偽を平然と言う人間が少なくありません。このような人らは、自らの判断や直感こそが正しいという高慢さと自己陶酔、人間中心主義的な思想、世の権威や「知識」への盲信をやめない限り、考えを改めることもないのでしょう。

一方で、聖書に関心を持ち、そこから真理や正しい道を見出だそうとする人も少数ながら見かけられます。中には、ただ自らの知識欲を満たそうとするだけの人もおるのは残念ですが…。せっかく聖書を学ぶ機会があっても、聖書に関して語っている人全員が聖書で教えられている通りのことを述べているとは限らず、むしろ主観的で間違いだらけの反聖書的な見解を持つ「偽キリスト者」が非常に多いことを認識しなければなりません。特に、主なる神が旧約時代から一貫して教えてこられた内容である、神の律法、掟、戒めを守る必要性を無視し、キリスト者は恵みの下に居るのだから律法の下にない(律法を守る必要のない)等の反キリスト教義を唱えたパウロの言葉を重視し、神(主イエス・キリスト)の御言葉に逆らう世の諸教派。パウロが使徒言行録の一章二十一節~二十二節にある使徒の要件に当てはまらないという客観的な根拠にも楯突き、「パウロが偽使徒なんてあり得ない」とただ感情的に罵るパウロ狂信者たち。当記事でも、引き続き「キリスト者」や「クリスチャン」を自称する偽キリスト者のおかしな発言を取り上げ、具体的にどこがおかしく、こちらはどのように認識すべきかを明らかにしていこうと思います。例として取り上げる人々自体を晒すのが目的ではなく、あくまでも真実を探求する方々にとって、偽り者に騙されないための一つの参考にしていただきたいのが狙いです。あらかじめ誤解なきよう断っておきます。

 

今回取り上げるのは、以下の項目への注意です。

  • 律法廃止論者の戯言
  • 相変わらずのパウロ教徒の性悪さ

 

一、律法廃止論者の戯言

パウロに叱られるって何でしょうか。神にではないんですね。実際、旧約時代の各書は言うまでもなく、福音書でも主イエス・キリストは律法が一点一画たりとも消え去らずに有効であり(マタイによる福音書 五章十七節 参照)罪を犯すのをやめない人は滅びること(ルカによる福音書 十三章三節、五節 参照)を明言されました。キリストから直々に教えを受けたペトロ、ヨハネといった使徒たちによる書簡では、罪に陥らないように喚起する内容はあっても、律法を守ることはごく当たり前だという前提から言及があまり無いだけです。それでも、使徒ヨハネが丁寧に、罪の定義は法(すなわち神の律法)に違反することだと説明している(ヨハネの手紙一 三章四節 参照)と聖書をまともに読んだ人であれば容易にわかります。

律法の行いによっては、誰も神の前で義とされへんやろうからや。律法によっては、罪の認識やから。」(ローマ三章二十節)

それ故、そないな希望を持ちながら多大な大胆さを用いる。そして、その顔に覆いを付けたモーセのようやのうて、廃止されたものという結末に向けてイスラエルの子らを見張ったんやない。しかし、彼らの心は鈍くさせられた。今日までその覆いが古い契約の読解において取り去られずに残ってるからや。それはキリストによって廃止された。」(コリント二 三章十二節〜十四節)

(いずれも 引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 六(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))

パウロの書簡だけです、このように上記をはじめ、恵みの下にいて律法の下にないから律法を守ろうとしても無駄だとか、律法が罪の力だとか、神の秩序に対して僭越にも侮辱的な発言が書かれたのは。実際、当時からパウロはモーセ(の律法)から離れるように教えていると指摘を受けた(使徒言行録 二十一章二十一節参照)くらいでもあります(肉の割礼がとりわけ間違った行為というわけではないし、聖書通りの祝祭に関しては多くが今なお有効)。そんなパウロの書いた書簡にある反キリスト的な偽教義を真に受けて、他の書での一貫した真理を蔑ろにし、人間として当たり前に守るべき神の律法を無視する不法者が多いから、あえて律法がずっと有効であること等を言う必要が出てくると考えたことはないのでしょうか。洗礼者ヨハネもヘロデの律法違反を率直に非難した旨の記述があり、彼が現代の有様を見たら、当時よりもずっと厳しく律法廃止論者を咎めるに違いありません。本来、現実のように律法を守る必要があることを繰り返し言わなければならない状況の方が、異常極まりないです。この社会においても、普通に考えて、「法律を当たり前に守りなさい」と呼びかけたとしたら限りなく奇妙に映ると思います。大抵の人であれば法律については守るのが当たり前、守ったから偉いわけでもないと認識しているのに、それよりもずっと尊い創造主なる神の律法を堂々と無視できる放縦なパウロ教徒、不信仰者、その他異教徒たちの思考こそ正常ではありません。別にパウロに叱られようが、律法廃止論者に文句を言われようが全く問題ありません。信仰や恵みによって律法は守る必要がなくなった~とか反聖書的なことを主張する無法者が何か言ってきたところで、それは相手する価値も無い野次にすぎないからです。

 

また、一か月くらい前に、わしと同じ信仰を持つ兄弟の一人である結士(@yuishi_branch)さんが、Seraphia(@ponpon_flowers)という口座名の自称キリスト者に対して聖書の内容を根拠に指摘してました。

この人は、結士さんの発言に対して「聖句の切り取りで付け足して判断している」と言っていますが、まず根拠となる聖句を何も引用せずにどうして聖書に沿った説明ができるのかとても不思議です。それを言うなら、ペトロの手紙一の二章六節をはじめ、聖書から切り取って引用しながら説明がなされていることについて、どのように思うのでしょうか。確かに、文脈無視で聖句の意味を捻じ曲げるような切り取りはがあってはなりませんが、結士さんが別に文脈無視なんかせず適切に根拠としていることを見ていきます。もちろん、聖書の内容を基にですよ。

まず、マタイ五章十七節~十八節については、文字通り主イエス・キリストが律法を廃止しないと明確に仰せになった場面です。続く十九節~二十節からわかるのは、律法を守り他人にも守るように教えることの重要性と、ファリサイ派の義よりも優れている必要があること。文脈としては、マタイ五章十七節~二十節が、律法は廃止されることはないしそれを守る必要があることを示すひとまとまりです。マタイ五章十七節~十八節を用いて決して律法が廃止されていないことを説明するのは適しています。

次に、ヨハネによる福音書 八章十一節についてです。ここは、律法学者やファリサイ派の人らが姦通の罪を犯したある女を連れてきて主イエスを試そうとしたが、主イエスは罪を犯したことの無い者が女に石を投げるように要求し、結局該当者が存在せずに皆が立ち去り、そこでは女が罪に定められなかった場面です。ただし、もう罪を犯すな、すなわち二度と神の律法に反する行いをしてはならないと主イエスは仰いました。この内容は、罪に弱い性質を持つ人間が神を礼拝し、律法に違反する行為をやめて心を入れ替えるならば、これまで犯してきた罪の赦しがあるだろうという、聖書全体からわかる内容に即しています。この場面を読む我々も自分事として捉え、また主イエス(神)の御心を説明するのに根拠とするのは何らおかしくないと思います。

ヘブライ人への手紙 十章二十六節の内容は、ペトロの手紙二の二章二十節で同様の説明がなされています。「最期まで耐え忍ぶ者が救われる」というのは、何もマタイによる福音書 十章二十六節に限らず同書の二十四章十三節にもあり、黙示録等他の書にも忍耐の必要性が書かれています。これらは揺るぎない事実です。仮に信じるだけで救われるのなら、最期まで忍耐なんて不要であり、そもそも律法すら守らない我儘で利己的な人間が苦難を耐えられるわけがありません。

以上、聖書の内容から客観的に判断して、これだけでも結士さんがおかしな聖句切り取りをしているとは判断できず、むしろSeraphiaという人こそ、相手が自分の認識と違うことを述べているから正しくないと思い込んで幼稚な物言いをしただけだと判断しました。この人の解釈は、四十年キリスト者をする宣教師から受けたものであり、本人曰く一切間違いはないらしいです。けど、四十年キリスト者をやって聖霊を受けていると自称する人が言うから絶対だと言い切れる根拠が全くないですね。じゃあその宣教師とやらが酷い誤解釈をしていたらどうするつもりなのかと思います。実際に突っ込みどころ満載だから、他者から諸々突っ込まれているんですけどね。やり取りの中でこの人が添付した画像にあるように、主イエスの血によってあらゆる罪から清められるというのを都合よく持ち出す人は多いですが、それが適用される前提と条件がヨハネの手紙一で言われているのを無視する人が多いので要注意です。以前「偽キリスト者の実態を知り、惑わされないように」でまとめた、ヨハネの手紙一の一章七節にて「光のうちに歩む」者の条件として、罪を犯さない者(→律法を学び実践すること)、神の掟を守る者(もちろん律法も含む)、神の御言葉を守って主イエス・キリストに倣う者(ヨハネ十三章十五節~十七節にも通じる)と挙げ、この前提があってこそ主イエス・キリストによる罪の赦しがあることを無視してはなりません。それで、突っ込みどころ満載なのに、他人から受けた解釈が聖書の通りであるかを自分で吟味しようとしない神経が恐ろしいです。神による一貫した真理よりも、パウロ書簡が発祥のお手軽な偽教義や、その他反聖書的な人間の教えを信じ込む偽キリスト者で溢れているこの世にて、そんな怠惰さでは聖書の真理に辿りつけるはずはなく騙されるのがオチ。そんな分際で、相手の主張を検証もせず逃げるだけなのに、一丁前に他人の意見に対して「偽の福音」と野次を飛ばせるのがある意味すごいですね。

先ほど添付した結士さんとの会話も、的確におかしな点を指摘されてもまともな反論はしないまま逃げるような態度でした。それどころか、一人で愚痴をこぼし、その上他者を貶していますね。自分がとんでもない解釈を盲信しているから、率直におかしいと指摘を受けたのだというのは微塵も思わず、なんかよくわからんけど色々言われた私可哀想…ってか。聖書通りの慈愛の精神の欠片も無いどころか、もはや人としての最低限の礼がなっておらず言っている内容も論外でしかないけど、聖書をよく知らんとこんな程度の人にも騙される人がおるかもしれないと考えました。ただでさえ、人は耳触りの良い甘い言葉に弱いです…。というわけで、Seraphiaという人のいくつかの投稿の中で、おかしいところを見ていきます。

初めに、「イエス様が十字架で罪と律法から我々を帳消しにして救ってくださった」とあるけど、そんなことどこに書かれているんでしょうか。こちらは聖書に真理があることを確信してから聖書を複数回通読し、かつ何度も読み返したりしてきました。それで、律法について、まさに先のマタイ五章十七節をはじめとした御言葉はあっても、「我が十字架の業を成し遂げてからは、あんたらは神の律法を守る必要がない」という内容の御言葉は一度も見たことがありません。「律法を守らないと、反キリストなんだって~」とあるが、はい、その通りです。反キリストの定義や特徴について書いた使徒ヨハネの手紙を、原語から分析して十項目にまとめてある、こちら(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))がわかりやすいでしょう。この記事の中に書かれた反キリストの特徴の一つとして「キリストの教えに違反して留まらない者」とあります。神の律法を無視して守らない者はまさにこれ。主イエス・キリストは神であり、根本的にはキリストの教え=旧約聖書から続いてきた神の教え(律法、あらゆる掟や戒めをひっくるめて)と考えるのが普通です。その証拠に、四福音書に書かれている主イエスの伝道の内容は、旧約聖書に書かれていることが土台にあります。キリスト御自身も、「我が言葉は我をお遣わしになった父なる神のもの」(ヨハネによる福音書 十四章二十四節 参照)と仰せになった通りに。主イエスが受肉して人間と同じ性質を取りながらも神の律法に違反したことがなく(ペトロの手紙一 二章二十二節 参照)、人間にとっての模範となられました(ペトロの手紙一 二章二十一節 参照)。にも拘らず、悪魔と同じように律法を「束縛」と捉え、平気で律法違反を繰り返す人がどうして反キリストでないと言えるでしょうか。守るべき内容として、旧約時代の内容から一部廃止や必要なくなったものがあるのは、福音書等から知ることが可能である通り。

左下の、特に主イエスが律法に殺された、律法に勝利したって何って思いました。制定者(主イエス)が御自身の品性が表れた律法に殺されたとは。勝利したとは何だろう。意味不明すぎるので、突っ込みようが無いですね。一つ言えるのは、この人は主なる神を心の奥底では憎んでおり、救いや癒しといった利益のために神を利用して自らを安心させようとしているということでしょう。例えますと、相手そのものが好きなのではないため相手の言うことを聞く気はないが、相手の莫大な財産を目当てにすり寄って媚びているような感じ…。

右二つは、言っていることが矛盾していますね。既に罪が無いと言いながら、一方では多くの人間は悪に浸って罪に進んでいると言っている矛盾。サタンからの支配がないのであれば、不信仰の者や異教徒はもちろん、なぜ「キリスト者」を名乗りながら神の律法違反をする人が後を絶たないのでしょう。「悔い改め」という言葉を用いていますが、この人は悔い改めの定義(→律法違反をやめて内面ごと罪の要因から離れること)をわかってないでしょうね、以上の数々のぶっ飛んだ発言から考えて間違いなくそうです。

律法廃止論者の無法者は当然罪の赦しの対象外で、神と和解できるどころか神から拒絶されます。以下の御言葉のとおりにです。

 

「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節〜二十三節

(引用元:自分で考えることの勧め(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))

 

律法廃止論者たちはこうも総じて酷い発言を平気で並べる有様であり、詩編で書かれた以下のダビデによる賛美の姿勢とは大違いです。

 

主の律法は完全で、魂を立ち返らせる。主の戒めは確かで、単純な者を賢明にする。

主の教えはまっすぐで、心を喜ばせる。主の掟は清く、目を明るくさせる。

詩編 十九章八節~九節(拙訳)

 

この言葉のとおり、聖で完全なる御方である神の品性や秩序を反映した律法は、当然ながらいつの時代においても完全であるといえると思います。神の律法によって真に善悪とか人間に必要な要素がわかるのであり、神のように内面に落ち度ない完全な者となる(マタイによる福音書 五章四十八節より)ために必須な項目の一つです。なのに律法の行いでは救われないだとか、律法を守る必要ないとか言う人らの反キリストぶりがより際立つと感じます。

 

 

二、相変わらずのパウロ教徒の性悪さ

なぜパウロが偽使徒であるという事実を嘘と断定するのか、その根拠は絶対に言わないくせに、決定的な嘘を混ぜるだのと愚かな中傷を懲りずに続けています。この「ムーちゃん」という人に限らないけれども。パウロという人間が、使徒言行録一章二十節~二十二節にある、使徒ペトロによる唯一使徒の要件を示す言葉にどう頑張っても当てはまらず、使徒ではあり得ないからって、我々にとって何か問題でもあるのでしょうか。そんなパウロが使徒じゃなきゃ困る理由は何でしょうか。ずっと疑問で仕方ありません。過去にわしが「偽キリスト者の実態を知り、惑わされないように」にて取り上げた「パウロが使徒でなければ、異邦人に広く伝道して聖書やキリストの御名が広まることもなかった」という謎の主張の因果関係も意味不明であると申し上げたように、パウロが偽使徒と言う事実を拒絶する人たちの言論はめちゃくちゃです。

それで、まともに根拠も提示せずに勝手な思い込みで中傷する分際で、相手(「日本中のみんな!~」という口座名の人)に対して「その考えから抜け出せるようお祈りしておきました」と偉そうに言う有様です。そういえば、パウロ教徒は度々「祈った」「祈ります」と口にする気がします。この場合「ムーちゃん」という人は、主イエスが教えられた「敵を愛する精神」を実行しているつもりなのかもしれませんが、心がこもってないし敵意むき出しなのが隠せていません。というより、この場合自分自身の方が間違っていることは微塵も考えずに相手をその間違った方へ引き込もうとしているわけであり、何だか「その(悪人の)口には正しく導くものが無く、彼ら(敵対者)の内面は破滅で、彼らの喉は開いている墓、彼らの舌はお世辞を言う。(詩編 五編十節 拙訳)」で言われているダビデに敵対した者と同類です。この例に限らず、以前わしもこちらの意見に反対する者(パウロ教徒)から、敵意むき出しで心にもないお世辞のような「祈ります」の言葉を受けたことがあります。

それにしても、「聖書書いてる張本人を否定する意味がわからん」ということは、現在の聖書の「正典」にパウロ書簡が大々的に掲載されていて、そんなパウロ書簡に誤りがあるなんておかしい…みたいな主張なんでしょうかね。相変わらず全く客観性のない意味不明な理由です。いつまでそんな幻想を信じるのか。まるで、多くの医師たちが勧めているのだからコロナワクチンは危険ではないとか、学校の教科書で教えられるしテレビでも言われているから進化論や球体説は正しい等、何の恥じらいもなく言ってる人たちと何も変わりません。パウロ教徒でもコロナ関連の嘘に関して気づいている人は一部見られますが、肝心の聖書の編纂の経緯や背景に関しては全くの無知な人ばかりであるため、結局悪魔にとって「ハハハ、んなことも見抜けねーのか。莫迦だな。」ときっと笑いものです。パウロ書簡については、四世紀に主イエスへの信仰が無いローマ人ら異邦人が勝手に組み込んだにすぎないこと、そして神にとってはパウロの数々の書簡が不信心なものに対する篩の役割を果たしていることを「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))」をはじめ繰り返し聖書を根拠に説明をしている媒体があるにも拘らず、彼らはただ自分らの信じていることを真向に反対する言論で気に食わないという幼稚すぎる理由から意図的に無視し続けますよね。世の中のおかしさに気づいた人であれば、見聞きした世の中の実態を周囲に伝えると思いますが、その際に洗脳され切った人だと本当にしょうもない主観的な考えに基づいて事実を拒絶すると思います。ここまで決定的な証拠が揃えられたにも拘らず、未だパウロやパウロ書簡の実態に疑いもしない人は、そんな洗脳され切った人らと全く同じ。もし当記事をご覧くださっている貴殿が、今は「パウロ書簡に誤りはない」とお考えだとしても、真実を追求する気持ちと理解する頭をお持ちであれば、以上のことに気づいて考えを早急に改めてください。

 

 

このように、聖書のことについて触れているようで実際は好き勝手に反聖書的な発言をする人が多く、聖書をまともに読まないなら何かしらの偽教義に引っかかってしまうでしょう。彼らのような偽キリスト者に騙されないための対策としては、自ら聖書を複数回通して精読し教えられたことを実践して内容を十分に理解すること、そして思い込みや主観に囚われずに聖書を学ぶことが重要であると考えています。聖書の内容を知らなければ、当然ながら誰が聖書に沿って説明ができているのかを判別することは不可能です。それに、自ら努めて学んだ過程で得た確信は、受動的に教わった内容よりも自分にとっての印象が強いのもあるのか記憶に残りやすいと感じています。これは聖書の学びに限らず、他の世の学問を習う場合でも同様でしょうし、実際にそんな感覚を持った経験のある人はいらっしゃるのではないでしょうか。また、以前のわしは「パウロが偽使徒で、明確な反キリスト教義がある」とは想像できませんでした。それは間違いなく、現在の「新約聖書」に書簡が多数掲載されているという一種の色眼鏡によるものだったと思います。しかし、そんな奇妙な思い込みを素直に捨てた結果、今のようにパウロについてほとんどの人が認識しなかった欺瞞がすんなり入ってきた次第です。

聖書に興味があってまだきちんと読んだことの無い人であれば、今すぐにでも手に取って夢中になって読むことを勧めます。ですが、日本では多くの人が政治や法や聖書にはそっちのけ、コロナ犯罪の状況下でもわかるように多数派が支配層の犯罪に加担しているという助長している現実が続いています。日本ではまだ日本国憲法のおかげで辛うじて自由や人権があるものの、今の日本人の有様では一度改憲の発議や国民投票がなされたら、あっという間に憲法改悪(著しい人権の制限や戦争の容認、緊急事態条項、等…)が実現してしまうに違いありません。

 

画像引用元:https://twitter.com/HANADA_asuka/status/1603121421198073856

画像引用元:https://twitter.com/allimomac/status/1603216875839979520?s=21&t=SzFoEvy-aM3EZHyQ9u96Tw

 

そうでなくとも、近頃でも行政が余計な義務化を進めており、名ばかりとはいえ、仮にも「公共放送」名乗るNHKが上記のような醜悪な洗脳をやめません。まあ報道機関が国の広報機関のようなもので、為政者らと同様に悪なのはわかりきってますが、今でさえこんな人権侵害(信教の自由、思想良心の自由の侵害等)を平気で犯すくらいだから、いざ日本国憲法が改悪された時の惨状はどれほどでしょう…。政府は憲法改悪を虎視眈々と狙っており、秒読みともいえる今日、自分の都合や欲を優先してダラダラしている暇もありません。ちなみに、聖書は夢中で読めば旧約聖書と新約聖書を合わせて一か月程度で読み終えることが可能です。むしろ、ダラダラ時間かけて読んでも内容が頭に入らないと思います。わし自身、はじめ聖書を時間かけて読んでしまい、その結果、内容を忘れてしまったり一貫した教えを掴めなかったりした記憶があります。第一に、正しい行動については、素早い実行をしてください。。

 

また、わしが普段から学びを頂いている「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」では、知ってる人は知ってるように本気で真面目に聖書に依拠して励む仲間が集まる場所(神のイスラエル教会)が提供されています。聖書が正しいと確信し、まずはそこに入るまでの繋ぎである「兄弟の集いの場」を目指そうとは思っても、結局お越しにならない人が少なくありません。別に、自分の能力に見合わないすごいことをやれなんて一切言われないですし、ただ自分の成長を目指しつつ、神や隣人や信仰の兄弟たちのためにできることを懸命に励む気持ちが本当に重要だと感じています。躊躇いがある人は、「兄弟と交流しなくても成長できるはず」「今の状態では入っても駄目だ(人に弱みとかも見せたくないし…)」という自尊心や高を括る気持ちがないでしょうか。ご自分の気持ちを確かめてください。もちろん、全てはご自分次第だけん、強要するつもりは微塵もありませんが、どうか後悔せぬように、時機に遅れたりしないように願っています。