こんにちは。

色々な世の中のきな臭い動きがある中で、世の中の実態に気づいて危機感を抱いている人であっても、自らの行いや価値観が多数派と大差なければ最期まで悪に抵抗して生きることはまず不可能です。当記事をご覧くださった方々には、ご自身の歩む道や環境を見直し改めるきっかけとしていただけたらと思います。

 

大多数がまずそもそもコロナという偽りの感染症の実態を知ろうともせず、多少おかしいなと思っても従順に有害無益な「感染対策」とやらに従う人ばかりなのが変わりません。それで、もうこのような嘘だらけの偽騒動が始まってから、二年半以上も経過してしまいました。感染症の診断用ではなく、遺伝子検査に使うPCRによって「陽性判定」された者を感染者とでっち上げる虚偽をやめることなく、「第八波が始まった」と最近また同じようなことが繰り返されています。今年になって、ようやく「二類相当なはずがない」「マスクやワクチンなんか要らない」という意見を目にすることが多少増えた気がします。しかし、周囲を見れば屋内でマスクを着用する者の割合は二年前とかと大差なくほぼ十割、たとえ屋外であっても過半数は未だ大事にマスクを手放さないかのような状態…。さすがに人口密度の少ない郊外や田舎ならまだしも、ある程度の人口がある都市の街中だと屋内とあまり変わらないマスク着用率だなと感じます。マスクをあたかも日本の文化のようにして他国からの笑い者にでもなりたいんでしょうか。当然ながらテレビ等も無視してそもそもコロナは無いと認識して不服従の姿勢でおれば、日常的なマスクに限らず「コロナ対策」という有害無益なことは一瞬で終わることなのに、国民の大多数が今なお従うせいで、三年前まで普通だった光景がいつまでも戻ってくることがなく、「対策」を強要する人権侵害の悪人たちも野放しになっています。いつまでもこんなのが続くせいで、従わない人への不当な差別が続き、今まで「兆」という桁が付く程の莫大な金を嘘でしかない「コロナ」というものの「対策」の名目に使われてきてしまいました。更にこちら(msnニュース)のように、ありもしない「第八波」に向けて追加で無駄な大金(血税)が使われています。そして、こちら(朝日新聞デジタル、Yahooニュース)のように、平気で全体主義的な発言をする都道府県知事も絶えません。決して自分たちの「自粛要請」というのが有害無益なものだとは認めず、改めず、多くの日本人よりはまだマシな行動をとっている外国人側を非難しています。これについて当然否定する意見も見られるのですが、彼に賛同するような意見も少なくないのは本当に気持ち悪いです。

 

昔から世の中に正義がないとはいえ、特に近年のこのような善悪がひっくり返っているかのような異常事態において、自ら主体的に情報を得て悪事に対しては不服従や抵抗をしている人々にとっては生きづらさを感じるでしょう。この状況を何とか変えられないか考える人もおられると思います。今後に備えるという意見も見かけられますが、それらも最低限自分が生活できるようにするといった物質的なものがほとんどであるとインターネット上での人々の発信等を見て感じております。もちろんある程度の食料や生活必需品や防災用具の備蓄を常備するに越したことはなく、自分の置かれた環境に応じて比較的安全な場所へ生活の拠点を移すことも選択肢としてありです。しかし、昨今ではスマートフォン等の電子機器から個人情報や位置情報が漏れたりしていますし、顔認証や監視カメラ等の監視管理社会に向けた技術が導入されていますね。政府や行政が本気になれば様々な科学技術を悪用して人の居場所を割り出したりすることも容易いかもしれません。

もはやこの世の中に絶対的な安全は無く、最終的にどんな目に遭っても悪に屈さない選択ができるのは、聖書から学んで実践して非常に高潔な品性を形成した真のキリスト者だけです。最後は内面に関する備えが最も重要になってきます。神は、世の支配層が崇拝する悪魔に対して先手を打っておられ(←マタイ 十二章二十八節 参照;神は創造主で悪魔は所詮被造物であるから当然)悪魔や悪霊が、神の霊たる聖霊に導かれた人間の邪魔はできません。また、神でありながら受肉して人間と同じ本性まで取られ、そんな人間の弱みに打ち勝って神の秩序(律法含めたあらゆる掟)を生涯守り続け、全人類の罪の贖いのために十字架の贖いの御業を成し遂げられ、全人類の模範となった主イエス・キリストに倣うことがとても重要です。主イエス・キリストを模範とすることは、本来の人間が実行すべきものです。こちらもそれを目指して励んでいる次第です。その理由や意義を一人でも多くの人に実感してもらうべくキリストの行いから学べると考えられることを幾つか簡潔にまとめました。

 

一、悪魔(サタン)の狡猾な誘惑を聖書の御言葉で退ける(マタイによる福音書 四章一節~十一節、ルカによる福音書 四章一節~十三節 参照)

二、弱者を憐れむが、敵対者には臆さず率直に厳しく非難する(マタイによる福音書 二十三章ほか 参照)

三、人々から罵られても感情を乱さず仕返しもしない

 

一における悪魔の誘惑は、食欲、名誉欲、といった人間にある欲につけ込むものと言えます。「むしろ、すべての人が自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑されるんや。それから、欲望が孕んで罪を生み、罪が成熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙 一章十四節~十五節 引用元:罪について(真の聖書福音と預言))で言われるように、悪魔はあらゆる人間の欲につけ込んで神の律法に違反して罪を犯させ、神の怒りを買わせるように仕向けています。しかし、主イエスが適切に聖句を用いながら悪魔の誘惑を退けたことから、聖書の御言葉が真理でありそれらの理解(実践)が誘惑等に打ち勝つ源になることが現れていると思います。また、悪魔が聖書を巧みに引用しつつ騙そうとしている点にも注目です。確かに丸っきり嘘ばかりであればバレバレであることくらい悪魔は知っているであろうし、不信仰者やパウロ狂信者といった反キリストも自覚の有無関わらず同じような手口を用いています。特に、パウロを盲信する自称キリスト者らは、「イエスを救い主だと信じれば、福音の三要素を信じて祈れば救われる」というお手軽な偽教義の援用として聖書を用いますが、自分たちにとって耳触りの良い言葉だけ擁護するばかりで他者を聖書の真理から引き離しています。彼らと同様に聖書を信じることによる利益を欲する者らが引っかかっています。まさに、イエス・キリストに従って生きるにはまず自分(特に自我、邪な欲望)を捨てる必要がある(マルコによる福音書 八章三十四節ほか 参照)ことの所以がここでも明らかで、そう仰せになった御自身が手本となられたと感じます。

二、三については、聖書だけが教える「敵を愛する精神」が示されていると考えます。主イエスを神(の御子)でありメシア(救い主)だと信じなかった当時のファリサイ派や律法学者といった人らが特に敵対者となっていました。主イエスは、容赦なく彼らを「偽善者」等と厳しい言葉を用いられましたし、十字架の直前で人々から散々侮辱や暴力を受けても神の御意志のために忍耐されました。敵対者に対して率直に、論理的に、丁寧に指摘するのは正しい理解と知恵はもちろん必要であり、加えて恐れがあってはできることではありません。まあ、多くの悪人には頑なな人が多いため改心の見込みのある人なんて滅多におられませんが、指摘によって相手にここが間違いでこう改めるべきだと諭して悔い改めに導けるかもしれないという視点を受けた時は、大いに納得がいきました。また、惨い扱いを受けてもその場でやり返し等せず(キリストの場合はすぐに天使の大軍を呼び寄せることも可能だった)、神の御計画のままに行動することは相当な程度でないとできません。人間は自分の身に危険を感じると本性が出ます。そのような経験はありませんか。そのため、今の平和なうちは威勢の良いことを言えても、いざ人権や自由が実質消滅して命すら脅かされるようになっても尚理性を失わずに保身にも走らずにいられるのか、「自分は絶対に支配層に従うことはないのだ」とやけに自信満々な人たちを見ると正直疑わしく思います。

このように、現代では忘れられた高潔な精神を主イエス・キリスト御自身が行いで体現されました。我々も、キリストが罪を犯さず神のことを何よりも第一に考えて生きたように、品性が彼に似た者になれることがわかります。良心ある人であれば、主イエス・キリストの生き様も、神の秩序たる律法にも何らおかしな点はなくむしろ人間にとって益ばかりと気づけることを願います。

 

また、少し話が変わりますが、以下のいくつかの聖句もご覧ください。

 

主は御自身の目的のために全てをつくられた。悪人までも、災いの日のために。

旧約聖書 箴言 十六章四節(拙訳)

 

人間の心に多くの計略がある。しかし、主の御計画、それが実現する

旧約聖書 箴言 十九章二十一節(拙訳)

 

身近でも悪さをしている人に限ってよう平然と生きていけーもんだなと思ったことは何度もありました。特に世の中の支配構造や支配層の忌まわしい実態を知ってからは、どうして彼らは庶民をいいように扱って悠々自適に暮らしているのか疑問で、許せないし何だか不平等な世界だと思っていました。聖書全体を読めばわかるように、主なる神が全人類を各々の行いに応じて裁くことは何度も言及されており、黙示録をはじめとした聖書預言の結末も神に逆らう悪人は滅びるというものです。決して神は悪を御赦しになるわけではないのですが、悪人の行動も御計画の妨げにならないものなら敢えて利用されるということを知りました。この旨の内容は新約聖書のマタイによる福音書十三章でも、神の律法に反する不法者が「毒麦」として喩えられています。邪悪な人らの悪事を肯定する意図では全くありませんが、これらが神に従う人々にとっては試練となり、自身が如何なる状況でも第一に聖書の真理に基づいて行動することを行いで証明する機会となります。そして、「どの矯正も、当面の間は喜びではなく悲痛であると思われる。しかし、後になって、それを通じて鍛錬された者たちに平和な義認の実りをもたらす」(ヘブライ人への手紙 十二章十一節 拙訳)の通り、試練を乗り越えることで鍛えられて父なる神への心からの信頼と確信がより強くなると感じています。そんな気づきを通して、神は御自身の定めた時までは悪人や悪事をそのままにしておかれるのかと、なるほどなと思った次第です。

それと、聖書の内容と歴史を照らし合わせると、世の中が聖書に書かれた通りに動いていることがわかり、神の御計画に反する人間の思惑は成就しないことが何となく感じられると思います。約八十年前、米国をはじめとした敵国から憎まれ潰されそうになって、大戦で凄惨な被害を受けながらも日本が滅びなかったのは、日本国内に三~四割程度存在する古代イスラエルの末裔への憐れみがあったからのようです。ただし、現在の終末に近い艱難期において、一層堕落の極まった日本人に対してはもはやその限りではないです…。さらに、いくら悪魔が多くの人を道連れにしたいとしても、人間が神への強い信仰に基づき獣を拝むことを断固拒否できれば、それ自体を無理にでもさせられて獣の刻印を押されることは無い(神に許されていない)でしょう。もちろん、いずれは彼らの悪しき秩序に断固従わないことによる肉体の死(この時点では魂は滅びない)をも覚悟することにはなりますが。確かに人間含め被造物には思い通りに望みをあれこれ実現させる権限はないですが、「神の御意志ならば聖書を学んで信じる前に犯していた罪(律法違反の行為)は神を第一に愛して神のあらゆる掟を最期まで守り通すことで赦される」という福音だけでも、わしにとってはもう十分すぎる程で恐れ多いです。まあ、「自分は生まれながらに善良な民で罪は無いのだ」と勘違いする人にとっては到底理解できないかもしれませんね。ここで、以下に掲載する人は、まさに自分こそ正しいと考えている人なのかわかりませんが勝手な妄想と主張を繰り広げている見本としてご覧ください。この人は、ツイッターでは数千のフォロワーがおり、コロナの実態や世の中の支配構造等については役立つ情報を発信しておられたりするみたいだけど、聖書やキリストに対しての見方の偏りが酷すぎる。

まず、創造主なる神のことが個人的に大層気に食わないのか知りませんが、神を悪魔と同一視しています。一言で言えば、何様のつもりなのでしょうかね。ヨブ記 三十八章以降にある、神がヨブに語り掛けた御言葉からは、理解力のある人であればいかに人間の力も知恵も限られており、ちっぽけで儚い存在であるかを認識するに至ると思います。わしもただの一人の塵のような人間にすぎず、無力な存在です。しかし、「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言 一章七節 引用元:偽使徒パウロの反キリスト教義 一(真の聖書福音と預言))の言葉の通り、聖書を学んで実践に努めてきたからこそ、知恵を頂いて以前よりは冷静に物事を客観視したり確信に基づいて判断したりすることができるようになってきました。むしろ、聖書をまともに読みもしない人々こそ、感情に支配され、主観的で、世の「常識」からは外れる真実を正当な理由もなく拒絶し中傷しています。エゼキエル書 二十八章にあるように、悪魔(サタン)はその美しさと高い程度の知恵と力といった要素から自惚れ、神に反逆して地に堕ちて地獄行きの運命が決定づけられました。そんな惨めな元天使なる悪魔ですが、自分の分や立場を弁えずに神を中傷する有様は、まさに悪魔の行いそのものであり、自ら悪魔の仲間であることを証明しているかのようです。

神は人間に恐怖で従属させているとあるが、聖書では「神に無理にでも従え」と書かれた記述は一切ありません。主イエス・キリストが神への愛が律法の中で最も重要な項目であると教えられた(マタイによる福音書 二十二章 参照)ように、神への愛と信仰に基づいた自発的な行いが求められます。「我はいけにえではなく慈愛を求める」(ホセア書 六章六節 参照)と書かれているように、義務感丸出しではなく愛こそ根底に求められるということです。

「敵を愛せよ」というのは、四福音書のうちマタイによる福音書 五章やルカによる福音書 六章に書かれていることです。文脈から、父なる神が分け隔てなく雨の恵みを与え養うといった情け深さが続いて示されています。相手を問わず福音伝道や周知活動を積極的にする、臆さず敵対者にも間違いを率直に指摘して正しい方へ軌道修正することを勧める、敵対者にも同じような悪で報いないといったことが求められると考えられる内容。まさに、上で主イエス・キリストからの学びに書いたような内容です。人間は自己愛から臆病になりがちであり、かつ悪さをされたら腹立たしく思って仕返ししてやりたいと思う傾向にあります。しかし、本当の意味で慈愛に溢れた人なら相手のことを考え、悪で返して自らも傷つけ同類となろうとなんぞ決してしないと思います。また、後に示す箴言 二十四章十九節~二十節の内容を理解していれば尚更です。知る限り、隣人愛に基づいて「敵を愛する精神」という極めて高潔な精神を教えられた方は他に存在しません。人間の自我は非常に厄介ですし、十分にその精神まで到達するのは難しいです。しかし、この人は限りなく悪魔に近い品性の故、そんな高潔な精神を理解せず妬ましく恨めしさを抱くのだと考えられます。まさに、「闇は光を理解しなかった」(ヨハネによる福音書 一章五節 参照)の言葉通り。他にも、聖書ではただ祈ることが教えられるのではなく、むしろ信仰に基づいた行いが求められますし、生を謳歌する異教をひがんでいるというか、世の中の慣習や価値観や文化などに悪魔崇拝由来が多いからそれらを避けるというだけです。むしろ、西洋の異教(悪魔崇拝)由来のものを含めてそれにかぶれて正常な感覚が麻痺している多数派が異常と言えます。それに、こちらはカトリックでもプロテスタントでもなく、新興宗教を含めた既存の諸教派は実質パウロ教というカルトであり、パウロ教徒の内面は神への愛ではなく自らが救われたいという自己愛が甚だしく、自我を捨てられていないし、(先の話題で引用したヤコブの手紙に書かれた通り)欲につけ込む悪魔によってつけ込まれて罪を犯している実態があります。西洋人の植民地支配とかも、偽り者らが隣人愛の欠片もない醜悪な野望を強く抱いていたことによるのだろうと考えます。そんな彼らやその他のインチキなあらゆる宗教団体を嫌悪するのは間違っていません。ですが、世の中の様々なことに関心を持っても、聖書に関する歴史や背景への理解や探求心がまるでなく、結局肝心な点では多数派と全く大差ないことが明らかです。愚かな人間中心主義の反キリストであり、客観的に見ればとても惨めですね…。もちろん、この人に限らず、このような愚かな発信を「いいね」したりして賛同する同類の悪人も少なからずおることが窺えます。そんな人らは自らが悪魔によって弄ばれているだけですが、そのことに気づいて内面と行いを改める人がおれば幸いです。また、賢くて良心のある方々は、彼らの自己中心的な振舞いから離れてください。

 

悪を行う者たちにいら立ってはならない。邪悪な者たちを妬んではならない。悪人に後世は存在せず、邪悪な者たちの灯は消滅するからである。

旧約聖書 箴言 二十四章十九節~二十節(拙訳)

 

医療をはじめ、支配層が自ら原因を作って自らその解決方法を作って大衆をその罠に嵌まらせて儲ける「マッチ・ポンプ」の方法、戦争等での金儲けの実態とかをご存知の方であれば、彼らがいかに巨万の富を得ているかもおわかりかと思います。日本でも、国益ではなく欧米の偽ユダヤ人ら支配層のために売国しまくる政治家が、国民から搾取しまくって求められる仕事をしないのに高い給料を得ており、中には彼らをどこか羨ましいとさえ思って心を燃やす人もいるのではないでしょうか。所得税とか固定資産税とか消費税とか、生きているだけで罰金かのように税としてむしり取られ、自分たちは必死に仕事しても生活が厳しいのにどうしてあいつらは…みたいに。一般的に、良心を持つ人なら悪事や悪政に怒りの気持ちを持つのは当然ではあるけど、怒ってばかりいても事態は何も変わらないですね。不満は感じつつも、何も変えようと行動しない人が周りでもネット上でも大半だと感じます。「勤勉な手は支配し、怠慢は奴隷となる。」(箴言 十二章二十四節 拙訳)の言葉通り、大衆が聖書の真理や政治や法や社会に無関心すぎて怠惰かつ臆病であるせいで、見事に支配層の支配に雁字搦めとなり、自らの首を絞めています(「高負担」とした原語(מַֽס)は、他に「(骨の折れる)仕事、税、重荷、負担、強制労働、奴隷」という意味があり、まさに日本を良くしようともしない人々だらけなことにより重税、大変な労働をする羽目になっている現実に当てはまっている)。悪を許さず適切に不服従を貫く姿勢は必要ですが、まずはご自分の価値観や生き方を聖書から学習して清めていくべきだと思います。神(主イエス・キリスト)こそ、世に打ち勝っているからです(ヨハネによる福音書 十六章三十三節 参照)。

 

悪人の滅びについて、先ほどまで触れたりしました。この因果応報的な結末を聞いて喜ぶ人はある程度おるなと、聖書の内容について語ったり福音伝道したりする時に感じます。演劇(ドラマ)や漫画や小説でも、勧善懲悪の展開で読み手や視聴者はすっきりとした気持ちになります。ところで皆さんは、自分自身は死んだらきっと天国へいけるはず…と考えていらっしゃいますか。自分は法律違反をして「犯罪者」になったことはないし、悪魔崇拝者の支配層に服従するつもりは今後も一切ないのだから大丈夫と思っているのでしょうか。正義感やある程度の良心を持ち合わせてはいても、自分たちの運命について「なしてそげ他人事なんだ」と思わせられる人々が多いです。もちろん、あらゆる悪事を拒絶し、他者や社会全体のために人目を憚らずに役立つことを実行する方は立派だとは思います。しかし、支配層の人間たちの背後にいる悪魔の一番の目的は、一人でも多くの人を地獄行きに道連れにすること。これは疑いようもないことです。だから、ご存知の方は既にご存知の通り、似非科学である進化論や地動説といった反聖書的な教え、クリスマスやハロウィンといった異教(悪魔崇拝)行事、先祖や死者も含めた人間を拝むこと、仕事や娯楽やその他日々の生活でいっぱいになること、生活の身近な至る所に人間を神から引き離すための罠があります。以前、世の実態にある程度気づいた人でもほとんどの人が知らないであろう欺瞞の一つとして、「太陽暦」とそれに伴う世界的な詐欺の実態についてかみ砕いて論証し、同時に日本にはつい百何十年前まで聖書通りの秩序に比較的近いものが残っていたことをより認識する機会にもなる記事(太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度(真の聖書福音と預言))を紹介したことがありました。こちら、二年前に書かれたブログ記事ではありますが、残念ながら強く関心を持つ人が未だ極めて少ないです。たとえこのような事実を認識しても、「生活に直接悪影響を及ぼしているという自覚がないからな~」という理由で関心が湧かないのだろうか…と考えました。派遣会社等の中抜きに対しては批判するのに…。決して、暦に限ったことではないですが、わし自身も様々な学びの機会を頂いたお陰である程度の知恵が得られたにすぎないとは言え、正直申し上げると皆鈍感すぎると思います。

それで、聖書を読もうが読まなかろうが関係なく、キリストを信じようが信じまいが関係なく、天地創造の時から神の秩序である律法に反する者は犯罪者であり、心を新たに入れ替えてその罪を悔い改めることをしないならば悪魔と共に地獄行きになります。これは脅しではなく、我々が知っておくべき不変の事実の一つです。「自分はクリスチャンではなく他の宗教を信じているから」「聖書なんか知らない」と言っても、神の視点ではそのような人間の事情など知ったこっちゃなく、神の御意志や人間自身の置かれた立場や生かされている意義等に目を向けず認めなかった報いがあるのみでしょう。現在では、日本の税負担の大きさは世界有数の水準でありながら北欧諸国辺りと比べて国民に対して十分に還元されない実態なのに、最近では新たにこちら(Yahooニュース)にあるように「走行距離税」という理不尽極まりないものが検討されているくらいです。特に現代の日本では著しく人間性の悪い人の多いゆえに。腐った世の中において嫌々でも悪政に従って苦しんだ挙句、後の世でも現世での罪のために苦しむのは本当に悲しいことです。かといって、「地獄に行きたくない」という恐怖心から義務感で信仰を持とうとするなら、決して持続しません。これまでもそんな信仰者を見てきてよくわかります。一般的に皆さんも経験しておられるはずですが、例えば勉強でも好きな科目や分野こそ喜んでコツコツ学んで成果を上げるでしょうし、趣味についてもそれが心から好きだからこそ究められますね。反対に、自分自身、やらされているものに関してはやる気なんか続かないし、自身の成長にも繋げられたことはありませんでした。当方としては、まず公正な神の慈愛と義を知るに至り、善を行う者にはこの上ない恩恵を、神に逆らう悪人には相応の報いをお与えになり、贔屓目とかは一切なくすべて公正に人間を見る姿勢に心打たれました。冤罪や偽証が蔓延る世間とは真逆です。また、悪魔や死を徹底的に滅ぼして後に平和で苦しみも無い永続する世界を創造し、この仮の世において肉体の死を迎えてもこキリストの再臨時(世の終わりの時)に復活して、主イエス・キリストに倣う生涯を貫いて弁護を頂いて罪を赦されればその素晴らしい世界に入れていただけるという希望が、生きる上での余計な煩いと絶望感と将来の不安を幾分か除いてくれました。インターネット上を見ても、世の中の動きを見て一喜一憂する人が多いですが、本物のキリスト者は聖書の真理と言う一つのブレない軸に沿って歩むため、世の動きに翻弄されずに俯瞰できて自分自身を弁えて確固として正しい道を歩めるのだと聖書から確信しています。そんな強い動機から、誰に頼まれるでもなく自ら偉大な神の御計画が成就するため、その一翼として微力ながらも役に立ちたいと考えられるようになりました。以前のわしの神社等で願掛けして一方的に願いを要求するような利己的な態度とは全く違う思いです。クリスチャンとかキリスト者を自称するパウロ教徒のように主イエス・キリストを信じるだけで救われる、携挙されるとかの自己愛に満ちた利益信仰とも決して相容れません。自身の度重なる失敗に嫌気が差すことも多いですが、同時にそれによって自分の弱点を把握できるいい機会になれると考えることができるようになったことも幸いであり、挫けて諦めたりせずに前向きに進んでいけます。

この世で生きる人間の種類とは、ごく少数の神に従う人間と悪魔に従う(間接的にでも)大多数の人間です。後者は、世俗社会の洗脳から結局は脱しきれず様々な欲や自分自身の弱さに勝てずに遅かれ早かれ悪に屈してしまいます。いくら「悪魔崇拝とか気持ち悪~い」と心では拒絶したとしても、世の中のいたるところで悪魔崇拝の支配層側に与することに繋がる欺瞞があるからです。それらは社会的地位欲、物欲、性欲、金銭欲、自己愛、自己保身といった世俗的な欲や思考につけ込むもの、人間の本能に直結するものでもあります。そんな世俗的な欲求や肉なる思いを捨てるように勧告する聖書から学びキリストに近い品性にまで到達させていただくことを目指すなら、もはやいかなる欺瞞にも惑わされることはありません。

 

わしも、皆さんも、自分の一度きりの人生について決して誰のせいにもできません。後悔の無い生き方の選択ができる後押しの一つとしての役割を果たせるのであれば、非常に喜ばしいことだと思っております。何も強制はしませんが、もし今からでも本気で聖書を学んで主イエス・キリストに倣って正しく生きたいと思う方がいるのであれば迷わず行動してください。人間の性質上、内面の成長にはそれなりの月日を必要とし、躊躇する理由は何も無いと思います。また、巷にある建物の教会に通う必要は全くありませんが、同じ信仰を持った兄弟との交流が無ければとてもじゃないけど正しい信仰の姿勢を維持できることはないです。是非とも「神のイスラエル教会」(キリスト道)を勧めたいと思います。それと参考までに、よろしければわしが以前から勧めている事柄をまとめた「「神のイスラエル教会」での学び」もご覧になってください。