こんにちは。

 

わしは自己紹介等でも書いてる通り、聖書から学びそこに示される神のあらゆる掟を実践すべく励むキリスト者です。これまでも聖書の内容について書いたり、聖書の内容についてわかりやすく教えてる有益な記事等を何個か紹介したりしてきましたが、やはり我々人間にとって「神」という存在への認識がずれてしまっちょってはそもそも聖書の真理を理解できんままだと考えました。

人間にとって「神」という存在は目に見えず、その声が直接人間の耳に聞こえてくることもありません。それゆえ、よく「神様が~」だの聞きはするけど神の存在を特に信じていない、あるいはその存在を否定はしないとしても神という存在が一体どげなんかがはっきりわからず曖昧に捉えてる人が多いと思います。確かに世の中では「神」という存在に対する色々な見方や概念みたいなのがあってどれが正解なのかもわからないようにされてると感じますし、普段「神」を意識して生きていない人であればそういった認識がはっきりしちょらんくても仕方ないんかもしれません。しかし、皆さんはいったい誰が本物の神であるのか、神とは本当はどげん存在なんか気になったことはないでしょうか。確かに、世の中には色々な人間が作った宗教があり、中には特定の人間を神のように崇めさせるものまでありますね。しかし、聖書は人間の抱く誤認識を打ち壊し唯一で本物の創造主なる神やその御計画(その中でも特に人間が知っておくべきこと)や真の希望等ありとあらゆることを教える書です。

実は、「神」への認識は人間それぞれにとって運命が分かれるほど重要なことです大げさだな~と思われるかもしれませんが、ぜひとも聖書から学び、人間にとっての唯一の創造主なる神の存在を確信し、その偉大なる御計画を知っていただきたいです。今回の記事で皆さんのご認識が変わるきっかけになれたら幸いです。

 

聖書からわかる創造主なる神の性質

神は創造主で、文字通り万物を創造した方です。それは当然のことながら、聖書では、神からの御言葉を受けた預言者たち(預言者による諸書)や主イエス・キリストの御言葉(現代の新約聖書の中に含まれる福音書)等で至るところに主なる神を証しする記述が見られます。聖書の真理について理解しようと試みても、そもそも神のことをよう知らんかったら当然真理に辿りつけず話にもなりません。

 

一、人間とは見方が異なる

主は正義によって世界を裁き、公正をもって諸国民を審判する。

詩編 九章九節(拙訳)

 

主なる神は全知全能な創造主であり、当然全ての人間のいかなる行いや言動をも把握しておられます。主イエス・キリストとして受肉して地上におられた際にも、主なる神御自身が「各自の行いに応じて報いる(マタイによる福音書 十六章二十七節ほか参照)」と明言された通り、各自の行いが神の定めた秩序(律法など)に適ってるかで客観的に判断なさることがわかります残念ながら世の中では冤罪が起こったり不当な判決がなされたりしてる現実がありますが、神には人間の内面にあるような余計な情や醜い欲なんぞは一切持ち合わせちょらんので、全てにおいて判断基準は公正です。

また、人は相手の性質を見た目や肩書きや社会的地位といった表面的な基準で判断することが結構あるかと思いますが、一方で神が人間を判断する上でご覧になるのは「人間が見るようには見ないからだ。人は外見を見るが、主は心を見るからである。」(サムエル記上 十六章七節より(拙訳))という御言葉から精神面品性であり、神の御前で見せかけは一切通用しません。

 

二、計り知れない力

主なる神はまさに全知全能であり、その御力の大きさは人間には究めがたいものです。

ただ、世の中には本当に「偶像」として崇拝やあこがれの対象になるものが数えきれんほどあり、その対象となるものに囚われる人がむしろほとんどです。旧約聖書の預言者による書では至るところに偶像崇拝について嘆かわしく思う神の御言葉が記され、神の御力や御業と比較してそれらの無力さや存在は神にとっては一瞬でしかないただの物体、被造物にすぎんことが明示されており、主なる神と偶像の比較にもならん程の差が強調されよくわかります。偶像のうち、特に物体なんかは目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても喋らない、力があるのでも人間を助けるのでもないという普通に考えたら当たり前のことです。

わしが聖書から学びを得るようになって考えるに…どうして人間の作った物や特定の物体に神が宿るでしょうか。人間が作った物、構造物については人間が手入れをして維持管理していかなければいずれ朽ちていくものにすぎません。それに、人間が手を加えないもの、例えば何百年もそこで生きている大木であれいずれ寿命が尽きてしまえば枯れてしまいます。大きな災害が起きた場合もそげでしょう。かつてわしが聖書に出会う前、「神様」の認識も曖昧であった頃、神社へ行って「ここに神様がおられる」みたいな説明を聞いたこともありました。その当時は「へー、ここに…。」と深く考えるわけではなかったです。ですが今となっては、じゃあ極端な話その神社を管理する人が誰もおらんくなって放置され荒廃してしまった場合や辺り一面が災害で大きな被害を受けて壊れてしまった場合、そこにおられるとされる「神」というのは一体どこへ行くのかと思います。普通に、多数の「神」とされてる存在が偽りであると考える方が自然です。聖書を読み、そのことを確信できるようになりました。

 

三、計り知れない慈愛

主なる神による多大なる慈愛については過去の拙記事でも触れたと思いますが、この慈愛も他の「神々」として崇拝されているものや宗教の教祖(人間)には絶対に無い要素です。古代イスラエルの民の多くが背信を繰り返した故に国が滅ぼすことを許可されたりして様々な災いによって懲らしめることはあっても決して完全に見捨てることはせず、正しい者にもそうでない者にも恵みの雨を降らせる(マタイによる福音書 五章四十五節参照)ことをしてくださったり公正に人間を裁いたりされることからも人間を分け隔てはなさらない、真に慈愛に溢れたお方であることは聖書の至るところで示されています。放蕩息子のたとえにもあるように、神は御自身に立ち返る人間を大いに喜んでくださいます。更には敵をも(隣人の一人として)愛し悪で報いないことを教え、主イエス・キリスト御自身で(人間と同じ性質を持ちながら)遵守し手本となってくださったほどです

一方で神の義から外れることを許されないことからも徹底的に義を重視されることがわかります。神の律法についてもきちんと守ることは(十字架の贖いにより不要になった諸項目を除き)今も必要であり、そこから外れた行為すなわち罪を悔い改めない者はいかなる理由であれ赦されることはないようです。しかし、「キリスト者」「クリスチャン」を名乗る人であっても都合よく神の愛だけを見て義については見て見ぬふりをするかのような人が想像以上に多いことには驚きました。律法の内容は人間が悪から離れて正しい行いをするようになるために必要でかつ人間にとって有益となる項目が制定されてるということを、わしは自発的に真剣に守ろうとすることで気づいたんですが、残念ながら律法を無視したくてしょうがないんだろうかと思わせられる人を本当によく見ます。そがな人は、神社や寺にお参りに行ってただ好き勝手に自身の願いを唱える人と大差ないなと思わされます。その考え自体が聖書とは外れた人間の勝手な教えであり、そして御利益をひたすら求めるだけだからです。神というのは人間を温かく見守ってただ祈るだけで願いを叶えてくれるとばかり思うんでしょうか…それではただの甘やかしでしかないし、親で言えば自分の子供を甘やかすだけで子供が間違ったことをしてもしつけずに基本的に好き放題させることを許すようなものではないでしょうか。そがな育て方では子供が将来ろくな人間にならんのは容易に想像がつきますし、それと同様のことを求めるような人間が後ほど言及する真の正義に満ちた新しい天地に入れていただけるはずがないです。

むしろ、以下の文言にあるように、主なる神は愛する人々のために聖書の御言葉で励まし幸せにしながらも、人々を様々な試練に遭わせながら鍛錬させます。

 

わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を憎むな。主は愛する者を懲らしめられるからだ。息子を喜ぶ父親のように。

箴言 三章十一節から十二節(拙訳)

 

まさに、「獅子の子落とし」という言葉の通りですね。また、「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がある通り、品性が清められるためにも色々な苦難も時に必要なんだと思います。わしも、必要な試練には真心から忍耐していきたいです。

聖書を理解するほど、主なる神のことがわかっていきます。知り尽くすことはできませんが、知れば知るほどその性質にはもちろんいい意味で驚かされたりするばかりです。

 

(余談)

ごくたまに聖書を表面的にだけ読んで真意まできちんと理解せず勝手な思い込みで聖書の内容や聖書を信じる人を中傷する者もおりますが、そがな人こそ主観的な言い分によって逆にキリスト者らを差別してることに気づいてください。また、さすがにそこまではせんとしても、しかしどうしても神を頑なに否定するのであれば、それは個人の自由であり責任ではありますが、ヨブ記三十八章以降にある主なる神による問いかけの内容や預言者の書等で証されてる神の御業を読んでみてはいかがでしょうか。そして、少しの間現れては消滅する霧である(ヤコブの手紙 四章十四節参照)生命にすぎない人間には一体どれほどのことが可能であるか、と考えたりしてみてください。

 

神による新しい世界

先ほどまでは聖書の本文で証されている神の性質等について、いくつか聖書を引用しながら考察いたしました。

特に世の中に絶望してる人にとっては、この項目は非常に喜ばしいものだと考えておりますわしが聖書から学びを得る上で、神の御計画の中で特にその偉大さを感じ、最も印象に残ったのが、現在の世の中での平和の実現ではなく永遠なる新しい世界が実現することです。その様子はもちろん聖書に書かれています。

 

そして、新しい天と新しい地を我は見た。最初の天と最初の地は消滅し、海はもはや無いからである。また、聖なる都市、新しいエルサレムが、自分の夫に飾られた花嫁のように用意され天から、神から下るのを我は見た。さらに、天から言っている大いなる声を我は聞いた。「見よ、神の幕屋が人々の間に(あり)、そして彼らと共に住まわれ、彼らは神の民となるだろう。それで神御自身が彼らと共におられ、彼らの神となるだろう。そして、神は彼らの目から全ての涙をぬぐい去り、死はもうなく、悲しみや喧騒や苦痛ももうないであろう。最初のものは消えてなくなったからである。

ヨハネの黙示録 二十一章一節~四節(拙訳)

 

ここからわかるのは、義なる神が人間とともにおられ、この新しい天地の世界に入れた人は、現世での辛いこととかも全て忘れて人間にとって望ましくない要素が一切ない永続する真の平安を得るということです。ここで「喧騒」とした原語「κραυγή」は、騒動、乱心、抗議、怒り、悲嘆といったものごとによるという意味が含まれています。人類の歴史をみても、たびたび様々な原因によって騒動が起こってるし、社会に動乱が起こったり争いも絶えず起こったりしてますね。また、好ましくない状況故に乱心する人もおると思います。しかし、新しい世界ではわざわざ人々が立ち上がらなければならないような不正も決してなく、まさに静穏でまことに平和であると考えられます。

神が再創造を予定しておられる新しい世界についての記述は、黙示録に限らず例えば旧約時代に生きた預言者イザヤが遺したイザヤ書にも書かれております。一世紀よりももっと前ではるか昔の預言書にも主なる神は預言者を通して御計画を明らかにしておられたんですね。ちなみに、該当箇所は六十五章十七節~二十五節です。そこからわかる様相を抜粋して以下に挙げてみようと思います。カッコ内は参照箇所です。

  • とこしえに神の民は喜びに満ち、神も御自身の民である彼らをお喜びになる(十八節~十九節)
  • 嘆き悲しんで泣く声、(怒り、嘆き、恐怖、苦痛等から)叫ぶ声もなく平穏である(十九節)
  • 死が存在しない(二十節)
  • 作ったものが誰か他の者に盗られることがない(二十二節)
  • 無駄な労苦や労働も一切ない(二十三節)

第二項や第三項は上記引用の黙示録の箇所でも明言されてますね。悲嘆や苦痛等がないのはもちろん、それ以上に神によって入ることを認められた人は、そこで現在の世界で生きてる時とは比べ物にならん程幸い、平安に包まれると考えられますまた、この世では多くの人が会社員といった身分として雇われ一日のうちのかなり長い時間を拘束されたり余計な社内規則や規定によって縛られて自由を失いながらまるで会社の奴隷のごとく働いている人が多いのではないでしょうか。そもそも現代社会ではもはや生活の糧としての何かしらの収入が無ければ生活をしていけず、金銭による強い支配がありますが…。また、場所によるとはいえども会社の意向に逆らえば悪い待遇を受けるといった話も聞いたことがありますし、最近ではコ□ナワク チンの職域接種があって、決して接種は義務ではないものの不当な同調圧力があったり、マス ク着用の強要とかもあったりするでしょう。さらに、こちら(太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)))からは現在まであたかも「標準」かのようになってる太陽暦の下で年俸制や月給制といった詐欺的な給与制度が堂々と行われれることも知りました。しかし、新しい世界ではこがな余計な不義や苦しみも無く、心身をすり減らすこともないわけですね。

 

その(主の)約束に従って新しい天と新しい地を我々は期待する。そこには正義が宿る。

ペトロの手紙二 三章十三節(拙訳)

 

十二使徒の一人であるペトロも主なる神の御計画の一つである新しい世界の実現を待ち望んでおり、そこが正義で満ちていることを示し、人をやって書き残しました。やはり新しい世界は確かな希望の一つと言えるでしょう。

 

わしは、聖書に出会う前から一方では豊かな生活を満喫してる人がおる中で一方では生きるのもやっとなほどに貧しい人がおったり差別が横行したりしてるのを見聞きして世の中の理不尽さや不公平な状況を感じるようになり、更には(世間一般では広く言われてないけど)権力者がろくでもない数々の不正な行いをしてること、その他警察や司法界の実態、科学技術が悪用され食の安全も脅かされてる状況、金の為なら手段を選ばない人も少なくないことを認識するようになっていきました。その中で、世間的に言われる「天国」についても考えるようになりこの世で人間は何のために生きて死んだらどこへ行くのかと疑問に感じ、漠然と人間にとって幸せで平和に満ちた世界は訪れることはないんだろうかと思い、そがーな世界を求めるようになっていったと思います。

わしは元々、ドラマやアニメや漫画といった物語の中で悪人が成敗されるという展開が好きでした。悪者が好き放題しても、最後はしっかりと懲らしめられて倒され、善が勝つというのは見ていて気持ちがいいと思います。しかし、それとは比較にもならんくらい大いに、主なる神はその正義がことごとく悪に打ち勝つことを実現させてくださる予定であると聖書から知ることができました。全ての不義、苦しみや悲しみ等の負の感情といった要素を全て消滅させて正義と喜びで満ち溢れた素晴らしい世界を新たに創造しようとされちょーことの素晴らしさを感じ、自分自身にとってこれまでにない希望が湧きました。

 

東京大学合格よりも難関であろう「真に神の民として認められること」(神からの「合格」)

先ほどまで神によって再創造される世界について考えてみましたが、あまりに現世とは様相がかけ離れており本当に人間側が必死に神に近づくことをせないかんことが薄々感じられるんじゃないでしょうか。この世において社会を形成してるのは人間であり、その人間がありとあらゆる欲望や自我に従って身勝手に生きてきた結果が平穏や幸福には程遠い人類史と現代社会ですので…。しかし、内面を清めて神の品性に近づくのは容易なことではないし、そもそも内面を心から必死に悔いて改めるべく励もうとする人すら滅多におらん気がします。

まず、神から神の民と認められる人間の割合と、例として日本の最難関の国立大学である東京大学への合格者の割合とを比較してみたいと思います。東京大学への最終合格者数は三千人程度(東大塾 河合塾 (kawai-juku.ac.jp))であり、太陽暦二千二十年一月まで行われてたセンター試験の受験者数はだいたい五十万~六十万人(大学入試センター (dnc.ac.jp))のようです(大多数は共通の一次試験を経て一般の二次試験を受験すると思われるので、母数をこちらとします)。センター試験を受けた人のうち、東京大学への合格者の割合は五厘~六厘(5~6%、だいたい百六十人から二百人に一人くらい)という計算となります。一方で聖書には「千人に一人という男はいた(コへレトの言葉七章二十八節参照)」とありまして、目安として神から義と認められる人間が千人に一人であってもやはり東京大学合格者数よりはかなり少ないことが明確です。それに、数字の面だけでなく大学への合格は極論勉強を必死に頑張ればどなたでも目指せますが、信仰生活では自身にあるうまれつき持ってる罪に弱い性質(自我やあらゆる本性)に打ち勝っていかなければならず、世の中にある正しくないあらゆる欺瞞をも見破る必要があり、信仰の兄弟(仲間)は非常に少ないですし単純に分厚い聖書の内容を学ぶのみではどがーにもならんこともあります。あと、前提として神からの憐れみと選びがなければ続かないというのもあります。

ただ、正直今の状況を見てると割合的に「千人に一人」よりももっと少ないんじゃないかと思ってしまいます。というのも、そもそも特に日本では聖書関心がある人すら珍しい感じもしますが、世界中で「自分はクリスチャンだ、キリスト者だ」と名乗ってる人のほとんどが聖書に依拠してるとは到底言えんけんです。聖書をきちんと読んで理解すれば、カトリックやプロテスタントといった諸教派やその他「キリスト教系」を看板に掲げたカルト宗教がいかに聖書にある神の掟等からはずれたことをしてるか見破れるんですが、現在「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」で偽使徒パウロに関する欺瞞が論証されるようになってから主イエス・キリストの御言葉を蔑ろにしてパウロの言葉を大いに重用し、パウロの反キリストぶりな実態と向き合わずにその事実を指摘したことに狂ったように噛みついてるのが多く見られるからです。他の書を十分に理解してかつ色眼鏡で見ずにパウロの書簡と他の書の記述を丁寧に読み比べれば普通にわかるはずです現に、(お世辞なんか微塵もなく)「偽使徒パウロの反キリスト教義 六(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))」をはじめとして客観的に論証されちょーのに…。一度でも冷静に客観視したらどげかいなと思うばかりですが、このように聖書に真理があると確信しても自分にとって都合の悪い箇所は無視したり曲解したりする人が残念ながら大勢おるようです。しかし、たとえパウロを盲信してなくても、悔い改めずに律法から外れて罪を犯したりして、行いが神の御目に正しくないのであれば容赦なく断罪されることになりますそこに例外は無いでしょう。わしも、自分自身の余計な自我のしつこさを実感し、人間がいかに神に適う品性と遠いかを感じる日々です。我々がすべきこと、してはならないことはもちろん聖書からわかります。

 

聖書を学び、真の人間にとっての希望を知ろう

「わたしは自分だけを信じるのだ」と自慢げに主張して譲らん人もいます。確かに、この悪い世の中で大衆も無意識に悪い支配層らの方になびくのもあり(大多数が客観視せずに内容ではなく「誰が言ったか」に重みをおき主観的な判断をしますよね)、他者を無条件に盲信することはできません。また、現在のような高度な情報社会の中で騙されんようにするには自発的にいろいろと調べて吟味して思考することは重要ですし時に自分の直感とかがあてになることもあったりはします。ですが、皆さんが今までの自身を振り返ってみて、神を無視してまで頑なに自分やその他の人間だけの考え、望み、自我を押し通した結果全く悔いのない結果になったでしょうか。また、果たして自分自身が今後ことごとく後悔なき選択ができるという確信はあるでしょうか。今は良心があって世の中を憂い悪に抵抗する意気があるとしても、近い将来ますます世の中の状況が悪化したとしたらどうでしょうか。「いや、世の中良くなることを期待する」と意地でも考える人も少なくないでしょうけど、大多数の人間がこの世で権威付けられちょーものに弱く、政治や社会にも強い関心を示さず結局テレビなどの報道機関を盲信するし、「誰が言ったか」に重きを置いて安易な判断をするし、結局は世俗的な生活で手一杯な人ばかりでしょうし…こがな状況でどうして世の中が良くなると過度に期待できるでしょうか。もちろん悪い支配層の行動に抵抗することは必要ですが、やはりこのまま聖書通りに黙示録の預言や主イエス・キリストによる終末の預言が実現する方向に向かってるなと感じる次第です。新世界秩序(N W O)について知ってる人もおると思いますが、世界中で、悪魔の最大の代理人たる□ーマ教 皇(獣)を筆頭として支配層が世界中に求める秩序の形成に向かっています。それに伴い彼らがますますやりたい放題している世の中に絶望して「ああ、やっぱ神なんていないんだ」と考えてしまう人もおるでしょうけど、この世における平和の実現が神の御計画ではないことを聖書や当拙記事を通してあらかじめ知ってもらるんならこの世の中がいくら凄惨な状況になろうとも打ちひしがれることは無いはずです。そして、最後まで屈さずに生涯を全うできるのは主なる神(主イエス・キリスト)へのゆるぎない信仰を持って神の掟を守り忍耐できるまでに強められた人だけです。民族、信仰の度合い、年齢性別等も一切関係なく。神を信じないから自分には関係ないや~という主張も通用しません。邪悪な支 配層の悪事を恨んでばかりおるくらいなら、または世の中を良くしようとばかり思って無駄に躍起になるくらいなら、自分自身がその邪悪な者らと同じ運命を辿らんように内面の向上に努めてはいかがでしょうか。

それで、今はコ□ナ脳の人らを笑っていられるとしても、いざ自分自身の生活や命が脅かされるような状況になったらどうでしょうか。はるか昔から人間を見てきてその本性も知り尽くした狡猾な悪魔とその力を借りた支配層は、間違いなく多くの人の弱みにつけ込んで無理やり彼らの定めたことに従わせるように仕向けてくるでしょう。ヨブ記二章四節のサタンの言葉からも、自分の身に何か危機等が降りかかったりした時に本性が顕わになることも熟知してることがうかがえますし。もっとも、そがなことが無くても既にこの世には悪魔が人間を地獄行きの道連れとするために仕掛けた数多くの罠があるのですが(それらのことも全て聖書を基準に正しいか否かを判断できる)。わしも以前は「別に悪に抵抗するなんて、そがに難しいことじゃないでしょー」と高を括ってましたが、本当に学びを深めるたびに、そうではなく悪魔は人間よりもずっと狡猾で頭は良く、こちらは確固たる信念が必要だという認識が強まるばかりです。

↑神に従順でない人は例外なくこれ

 

人間にとっての救い主は主イエス・キリストだけであり、主イエス・キリストの再臨、死者の復活、不朽で永遠の神による新しい御国(新しい天地、世界)こそが希望です。この世の中支配層側が用意した工作員が数多くおったりもしてますます色んなことが信用できんようになってる人もおると思います。それで、聖書についてもその書かれちょー事柄が正しいという確証は何なんだと疑う人も多いかと思います。確かに、神も悪魔も霊的存在で人間の目には見えないですし、わしが目に見える形で証明なんかはできません(偽り者らが目に見えるしるしで人々を惑わすことはあっても)。過去の出来事については史実をご自分で調べたりしてはいかがでしょうか。それ以上に、我々は人間の無力さや儚さを知り、人間中心的な思考を捨てんかったら恐らくいつまでたっても確信が持てないままです。そういった面では人の無力さや生涯の儚さを強く感じてた古文の筆者たちの方が現代人よりも賢明と言えますね(もちろん彼らが「仏」というのを拝んじょったことについては真似てはなりませんが)。以下の引用元でも、人間に主権は無く、人間は「生かされてる存在」であることについてわかりやすく説明されています。

同様に、この現実の世界も、万物を造られた創造主であり全知全能の主なる神がすべて決めておられ、被造物に過ぎない人間には何ら決定権はないのです。すべて神の主権下にあり、すべてが神の御心や御計画に基づいて起こるべくして起こっているのだということです。神の民となる人は神の自由な選びによって選ばれ、選ばれない大勢の人は頑なに不信仰のままか間違った信仰の故に滅びます。すべての人間がこの仮の世においてどのようなことをするかも定められているのです。(中略)すべての人間は自分の将来がどうなるか、何歳まで生きるか等は確実には分かりません。ただ何となく「こうなるだろう」といった憶測か、「こうなりたい」と勝手な思いを抱くこと位しかできません。あなたがたはまだこのことが分からないのでしょうか。あなた自身が今後どうなるか、家族がどうなるかなんて正確に分からないでしょう。それは私たち人間に主権がないことの証明です。なぜなら、人間は主なる神によって造られた被造物だからです。だから、人間がこの世で最高の存在といった人間中心主義を捨てなさい。どう考えてもそれは間違いだからです。

引用元:主権は神にあり、人間にあらず(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))

 

既存の宗教団体を疑うのは良いとしても、唯物論・無神論・人間中心的な考えに陥ることもまた人間を神から引き離して高慢にさせるための悪魔による罠の一つなのは間違いないです。

御自身で聖書にこそ人間に必要な事柄や真理が詰まってることを確信する人が新たに現れ、既に聖書への確信を持つ人がますます正しい信仰を強めて高められるように。