こんにちは。

現代ではもはやほとんど世界中で当たり前のように洋服、特に英米由来の衣服が着られています。日本でもそげだね。仕事や何かの習い事や観光や特別な行事など限定的に和服(着物)は着られていますが、日常的に着ている人はほとんどいません。なぜ、明治維新以降に洋服が日本に入ってきてから今までのたった百何十年で和装が廃れて洋服が当たり前のように着られるようになってしまったのか考えたことはありますか。おそらく、ほとんどの人は考えたことないでしょう。自分自身も元々考えたことはなかったのですが…「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」を書いておられるミカエルさんの記事を読んで、この洋服が「当たり前」であることが実はとてもおかしいということに気がつきました。真の聖書福音のいくつかの記事で解説があるため、引用させていただきます。

 

 

まず、日本に洋服が広まった経緯です。

 

(引用ここから)「江戸幕府という当時の政府を転覆させた反逆分子である旧薩摩、長州藩が中心となって国を乗っ取り、着物を捨てて進んでスーツをはじめとする洋服を取り込んで役人に服装規定を設けて洋服を指定し、日本に古くからある文化を消滅させようとしました。そして、徐々に庶民でも着物を着る人は減り始め、大正を経て昭和になってから戦争に負けた勢いで更に日本人の着物離れが促進されました。これは、GHQの戦略でもある日本人に自虐史観を擦り込み、日本文化が西洋文化に劣るという印象を植え付けた結果です。」(引用ここまで)(引用元もっと気楽に生きよう | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

このように、決して良い所以ではなかったのです。実際、明治時代になってから、それまであった本来の文化が廃れていき、西洋文化が広まり新しい文化や習慣も生まれていきました。庶民は恐らく文化の破壊という意識というよりは、学校教育の影響や意図的な西洋文化押しが進められたこと等によって西洋文化の虜になったのだろうと考えます。安易な気持ちで取り入れた人が多かったのでしょうね。現代でも、洋服しか着ないことについて特になんとも思わない人がほとんどでしょうが、それは問題です。以下の引用文を読み、どういうことか考えてみてください。

 

(引用ここから)

服装も同様で、欧米人による文化の侵略です。戦前までは和服(着物)を着る人が一定数いましたが、戦後に激減して今では和服を普段着で着ている人は絶滅危惧種になりました。軍服由来のスーツを礼服や正装だと思い込み、普段着も洋服を愛用し、英語ができないと頭が悪いと言う欧米かぶれの愚かな日本人もいる始末です。

(引用元正月と日本人の現実 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))」

欧米人らは日本に押し寄せ、日本人を懐柔し、内部から破壊し、日本文化を捨てさせ西洋文化に塗り替え、和服ではなく洋服を定着させ、白人に憧れさせ、完全に身も心も支配するまでになりました。日本人よ、いい加減に目を覚ましなさい。いつまで奴隷でいるのですか。(引用元キリスト者の勝利と日本は英米の植民地という事実 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))」(引用ここまで)

 

多くの人は、まさか洋服の定着も白人による支配の一つだったとは思いもしないでしょう。しかし普通に考えれば、正装がスーツ等の洋服にすり替えられ、多くの学校では洋服の制服を着せられ、被服業界でも一般的に洋服が広く売られるようになってもともとの文化として存在してきた和服がほとんど着られなくなったというのは、一つ重要な文化が奪われたということと言えるのではないでしょうか。多くの和服業界も無駄に高額な価格設定をしたり良くない販売の仕方をしたりして人々を和服からかえって遠ざけてしまったというのがありますが、もしかしたらこれも実はサタンによる策略の一つではないかと考えています。「別に和服が絶滅したわけじゃないし、着られることもあるよ」という問題ではありません。実際、特に戦後以降洋服が急速に普及したのは洋服のほうが扱いやすいからだとか、また、世界中で大多数が洋服を着ているけん別にいいと思う人が少なからずおるでしょうが、数が問題ではありません。むしろ「なたは多数側に従って悪をしてはならない。(出エジプト記 二十三章二節前半 私訳)」という聖句もありますし、大多数の人間が滅びることになるのは聖書からわかる通りです。どうしても、数が多くなればなるほど、人間は周囲と同じなのを見て安心する傾向が強いですが、決してそうではありません。とはいえこの人間の心理につけ込んでなのか、悪魔は多数決を用いて多数こそ正しいというように見せかけます。しかし、それでは騙されるばかりですので何が正しいかを聖書から見極める必要があります。洋服のほうが、特に現代に出回るものは着脱がしやすく洗濯もしやすいため扱いやすいのが多いのは確かにそうです。しかし、自分も実際普段着として和服を着て一年程になりますが、とりわけ不便だと感じたことはありません。おかしな振舞いや着方でもせん限り袖は別に邪魔にはならないですし、炊事、掃除、排泄等の際に袖が邪魔になる時にはたすき掛けをし、わしは男なので足捌きを良くするために袴を穿いたり作業用等に下に作務衣のズボンを穿いたりします。それで十分に普段の活動はできます。和服が不便だというのは後付けの理由にすぎないと思われます。

 

 

もちろん西洋かぶれや西洋の内部的な支配から脱するために洋服から和服に回帰するというのはありますが、なぜ和服が重要かというと和服は古代イスラエルで着られていた衣服の形にとても近いからです。

(引用ここから)

これまでに幾度か和服(着物)について言及してきました。これを推奨するのは日本文化を推すだけの意味ではありませんでした。それだけだったら、世の物を愛していることになるので私のうちに真理はないです。しかし、実際は神の律法に関係するから述べたのです。それは民数記15:38と申命記22:12に書かれているとおり、衣服の隅に青い紐を使用した房を縫い付けることです。これは祭司服ではないので廃されていません。また、主イエスも房付きの衣服をまとわれていました。その証拠は、「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。」(マタイ9:20)と「その服の房にでも触れさせてほしいと願った。」(マタイ14:36)と複数箇所に渡って聖書に書かれているとおりです。マタイ14:36は新共同訳では「すそ」となっていますが、これは誤訳であり「房」が正しいです。主イエスはこのように服装についても神の律法を守られ、模範となるように房付きの衣服を着用されていました。洋服に房を付けるのは不自然ですし、半袖の衣服に房をつけることは不可能です。そもそも、洋服は異邦人の服装なので、モーセの律法を守るために作られたものではないのです。聖書の読者には、このような細かい点にも気付いて欲しいものです。心や行いが重要なのであって、衣服が重要ではないと思っている人が多いかもしれませんが、主イエスが模範を見せられたとするなら、この点を軽く考えてはいけないでしょう。これをどう考えるかであなたの信仰が分かるというものです。①の箇所でパウロの発言を引用したとおり、食べ物と衣服が最低限必要な物なのです。だから、衣服の重要性を肝に銘じるべきです。」(引用元主イエスを模範として従う生活 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

もっと堂々としましょう。自らの出自を振り返り、独自の言葉や服装等の文化も大事にしましょう。日本語という言葉も古代ヘブライ語に由来し、和服(着物)も衣服に房をつける等が神の律法にあることが分かります。何もかも異教由来のものが多い西洋文化に合わせる必要はありません。日本と古代イスラエルとの関係、秦氏といった原始キリスト教徒らが日本の根幹に関わる多大な貢献をしてきた事実、聖書やキリストの教えが西洋のものではなく古代イスラエルから、そして日本人に受け継がれているが隠されてきたことを知りましょう。」(引用元正月と日本人の現実 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

 

ちなみに、いくら和服を着ようとも、上記の引用箇所にも書かれている通り律法の規定通りの房を付けたものでなければ無意味だと学びました。それでは洋服を着ているのとなんら変わらんと。房付き和服が、主イエスが着用されていたのとも類似したものであるのなら、キリスト者を名乗る者、着ないわけにはいきません。聖句にも、「主のいけにえの日が来れば わたしは、高官たちと王の子らを また、異邦人の服を着たすべての者を罰する。(ゼファニヤ一章八節)」にもある通りですので、やはり服装は蔑ろにできません。和服が古代イスラエルで着られていた服の形に近いのは、日本と古代イスラエルのつながりを知ればより確信できるのではないでしょうか。そして、日本が現代のイスラエルと呼べるところであることも。学校やメディア等では教えられることがないために、にわかには信じがたいことかもしれませんが、興味のある方は調べてみてください。

 

 

もはや現代では和服を着ている人がほとんどいなくなったがために、街で和服を着て歩けば恐らく色々な意味で目立つでしょう。わしも最初は変に緊張して周りを気にしてしまいましたが、実際は思うよりはそんなに他人から気にされることは無く、きちんと着付けていれば(但し、がちがちにマナーに縛られる必要はないはずです)決して恥ずかしくなどなかったです。ですが、キリスト者ならどんな目に遭ってもそれが信仰を貫くゆえのものであれば耐え忍び、むしろ喜ぶべきなんでしょう。主観的でしょうもない反対意見は気にしてはなりません。自戒を込めて申し上げます。

神に立ち返り、古代イスラエルの服装由来でかつ律法にかなう服装の一つである房付きの和服を信仰ゆえに当たり前のように着る人が現れれば幸いです。もし、当記事をお読みくださる人で聖書やキリストの教えには興味がないという考えをお持ちでも、西洋(特に英米)文化に吞まれ心も支配されないという気持ちを見える形で表すというような理由で和服を普段から着るようにするといいと思います。わざわざ日本人が自国の伝統的衣服を捨てる正当な意味はないはずですので。ただ、揃えようとお思いでしたら、このご時世企業の倒産や災害が起きて必要な物の購入が突然できなくなることが十分に考えられれーけん、特殊なやむを得ない事情でもない限り早いうちに揃えることを勧めます。

 

 

 

ブログ記事一覧|真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)には、上記で引用した箇所の他にも、和服について、そして現代の西洋かぶれ(支配)の酷さについて言及されている箇所があります。もちろん第一に、聖書の真理を理解するうえで、隅々までよく読むことを勧めます。

聖書は西洋のものという誤解が広まっていますが、そのような中でも事実を知ってより聖書を身近に感じていただけたらと思います。