随分とご無沙汰となってしまった社長のブログだが・・・年始一発目を悪びれずに書こう!

 テーマは『偉くなるって』である。

 

 文春なるゴシップ誌は8年も前のダウンタウン松本氏のスキャンダルを同誌に掲載した、その結果、真偽はさだかではないが、松本氏は窮地に立たされており吉本興業も同様である。(昨年のジャニーズ事務所に続いてTV業界にとって大きな存在がはからずともピンチである)

 

 私は松本氏の一歳下なので同世代であるので共感する部分は多いのだ・・私の話もかぶせながら書こう

 

 彼は兵庫県尼崎で生まれ育った、貧しい家で暗い内向きな子どもだったがお笑いと出会って変わっていったという・・・私もそうだ、外で遊ぶより家で本を読んだり空想にふけったりするのが楽しい子どもだった・・・・だから理解できる、その方が頭の中が育つのだ!松本の天才はそのようにして育まれたのだと。

 

 少年時代に浜田という生涯の盟友に出会いお笑いを志す。二人でNSCへ入学する。

一期生だそうだ、それまでは誰かのお弟子さんになって修行を積み世にでるのだった

笑福亭とか島田とか明石家とかだ。

 だがダウンタウンは師匠を持たない、故に型にはまらない独自の漫才を創作したのだろう。 そして想像だが師匠を持たないが故に自由奔放であり悪く言えばしつけられていないのか?

 

 NSCの一期生なので先輩はいない!後輩ばかりである。彼らの抜群の実力とカリスマは後輩たちに大いに憧れられ若くして用意された王座にすわり長く君臨した、しすぎてしまった・・・・

 

 彼は良いことを沢山した、間違いない!お笑いの裾野を拡大した、ドリフからひょうきん族と移り変わるお笑いの形を発展させ拡大した!偉大な男だ。

 

 だが、どうなのだろう?文春記事の気持ち悪さは・・・記事の詳細な真偽はさておき、彼の後輩に女性を段取らせホテルで合コンを開催したのだかもしれな屋でやればよいのに)

 偉くなった!実績も金も名声も手に入れた、文字どおりお笑いの王になった・・・

のに偉くないことを下部たちに命じていたのか?

 もうゴシップ誌と争ってもしょうがない、自分が事実である部分を認めて詫びて改めて償うだけだ。

 

 彼のなした偉大な業績は不滅だ心配はいらない。

休業するという松本氏、戻ってきて欲しい(ナイーブなのはわかる、俺もだ)そして今度は立派な王になってほしい、戻った時は王じゃないかもしれないな?でも王じゃなくなっても立派な人間であってほしい!

 

 こいいう世の中だし浮き沈みは常だ、失ったらまた0からやればいい!

 

 この後味の悪い出来事だけど、これを機会に何かが良くなってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐突ですが私は音楽が好きです。

なので今回は音楽のことを書かせていただきます、題は「フィンガー5の話」です。

 

 まずはフィンガー5をご存じない方のために簡単な説明をいたします。

 

 フィンガー5=沖縄がまだアメリカ統治下だった頃に沖縄で結成された兄妹5人組のボーカルダンスユニットです、沖縄での活動を経て東京に移住し下積み活動(しばらくは売れなかったみたいです)を経験し1972年にメジャーデビューしました。

写真の5人組でフロントは4男の晃と長女の妙子となります。

上のお兄ちゃんたち3人は下の二人を優しくサポートする感じの優しさに包まれたアットホームな雰囲気のグループでありました。

そんな中でもフィンガー5の特徴であり最大の武器は晃(写真下段の右端サングラスの子)の楽曲の最も重要な部分で炸裂する少しハスキーなボーイソプラノのハイトーンボイス♪ は今聴いても鳥肌ものであります。 晃は大人気でした・・・

私たちの周りは全員、男子も女子もフィンガーファイブが大好きでした!

 

「フィンガー5」というグループ名はかのマイケルジャクソンたちのジャクソン5にあやかる形で命名されたユニット名ですが

日本では本家を凌駕する人気を誇ったフィンガー5!(その点がビートルズとずうとるびの関係と異なる点です)

 

1972年(昭和47年)に「個人授業」でデビューして以来フィンガー5の快進撃が始まりました「恋のダイヤル6700」(写真のヤツですね❤)「学園天国」(小泉今日子がカバーしてましたね、彼女もフィンガー5世代かな?)と立て続けにミリオンヒットを連発しました!本当に小学校でも近所でも大人気でした。

 

フィンガー5に関する少年時代の思い出があります、、、、その時は「恋のダイヤル6700」がヒットしていました、紅一点の妙子がイントロで「ハローダーリン❤」とかわいい声で囁き、その後に♪リンリンリリン・・・と歌が始まるノリノリの歌で近所で「ハローダーリン❤」という言葉が流行語となっていました。

 

私と近所の子どもたちは地域の習字塾に通っていました、その習字塾は教室の中に電話がありまして電話が鳴ると塾生が「はい〇〇習字塾です」と受け答えして電話の出方を学ぶようになっていました(良いことです)しかしそんなある日、習字塾に電話が鳴った時でした! 2歳年上のヨシ君が敢然と鳴る電話をむしり取るように取り、、あろうことか・・・・「ハローダーリン❤」と言ってそのまま電話をブチ切ってしまったのです!/////

 

なっ!? なに?という驚きの後に経験したことのない笑いが爆発しました、、みんな腹筋をやられて横たわって苦しみながら笑いました、遠ざかりゆく意識の中で塾の先生が狂ったように「あんた!なにやっとるの~( ゚Д゚)!」と叫んでいるのが微かに聞こえました、私たちはその後も断続的に襲ってくる笑いに耐えながら習字を書きましたが誰かが「ハローダーリン❤」と言うたびにリフレインの笑いが始まるのでした・・・

でも、なぜか、その日をさかいにヨシ君は2度と習字塾に来なくなってしまいました・・・・・

 

本当に大好き大人気だったフィンガー5でしたが終わりは突然くるものなのです・・・・・

 

                      晃の変声期

 

10歳か11歳だった晃は大人の階段を昇っていたのでした声変わりしてしまった晃・・・・かわいいボーイソプラノで

♪で~きるな~ら個人授業ぅを受けてみたいよHA~HAHAHA~⤴という晃のパートが1オクターブ下でオッサンの声に変ってしまっていたのでした・・・・私は『何が起きたんじゃ?』と理解できませんでしたが・・・・とにかくフィンガー5が劣化してしまったことは幼心にも理解するしかなかったのでした。

 

 レコード会社やプロダクションは成長を抑制する薬の投与を晃に薦めたようでしたが晃は拒否したそうです。

エンタメの為に人の成長を犠牲にすることは無かったのでした・・・・少し救われる話です。

 

 私が育った昭和という良い時代のヒーロー「フィンガー5」の話でした。  では。

 

 

 

 岐阜高島屋が来年の7月31日(この日は私の60歳の誕生日だ・・)に閉店するそうだ。

 1977年に開店した岐阜高島屋だ、この地域で生まれて育った私はその時のことを良く覚えている、中学校1年だった、「柳ケ瀬に髙島屋という超一流百貨店が来る!」と家族と近所のオバちゃんたちが噂話に花を咲かせていた!

 

 行ってみた!地上階にはバラの広場というオープンスペースがあって川が流れていたレストランフロアが上の方にあって岐阜の田舎街では食べたことの無い洗練された

食べ物がいっぱいあった、おもちゃ屋や本屋や、オシャレな服やも沢山あった、

 

 髙島屋の廻りには映画館やゲームセンターも沢山あってまさに昭和の賑わい!

その中心にそびえ立つのが岐阜高島屋であった!

 

 思い出も一杯だ青春から青年期へ~ 大人になってからも私は『柳ケ瀬お化け屋敷』という中心街区活性化プロジェクトに関わっていた関係で町の人たちや髙島屋の店長さんたちとも接点があった、、、もう10年以上前のことだが、その頃から運営に苦しんでいたのを記憶している。

 

 さびれゆく柳ケ瀬の本当に最後の砦だった髙島屋・・・が閉店する。

 

 先日ダウンタウンのTVを観ていたら日本の商店街で一番シャッター商店街(閉店比率が高い)に柳ケ瀬商店街が選ばれた、悲しいばかりの現実である。

 

 私が、みんなが愛した柳ケ瀬が加速度を増して寂れてゆく・・・・

 

 もう、時代の流れはとめられないのだろう・・・ただただ悲しい。

 

今年の7月に施工させていただいたお仕事のお話です。

 

工場の安全対策として作業場の床開口を墜落、転落防止のために鉄製の蓋を取り付ける工事をさせていただきました。

 

作業員が安全に作業できるように、という社長の思いからの仕事でした。

鉄の蓋も総長さに対して5分割して容易に取り外せるように工夫しました、また良く認識できるように黄色の塗装をしました。

 

このようなお客様と共同しておこなった仕事を元請けさんにアピールしていただいた結果、表彰していただいたそうです。

 

一緒にお客様と仕事の成果を喜びあえる!!なんと工事屋冥利に尽きる事でしょうか?

こういうのが一番うれしいです。

 

前回の投稿で上げさせていただいたガンプラについてです。

私が以前、住ませてもらっていた家は私が住む前は義理の親の家族が住んでいました。

私の義理の弟がガンダム好きでガンプラを沢山集めていたようだ

そんな関係で出土?したガンプラ!私はガンダムに詳しくないので、それぞれの個体について不明だが、なるほどカッコイイ!

作りかけで終わっているヤツも完成させてあげたいが・・・・・プラモは生まれつき苦手なのである。

誰かもらって作って欲しいです。

ガンプラの話でした。

 

 

今、自分が住んでいた家の片付けをしています。

正しくは私のカミさんの親の家なのですが以前、好意で住ませていただいていたのです。

私は仕事として遺品整理、片付けをさせていただいているのですが、、、、、

自分の住んでいた家の片付けとなるとやはり少し要領が違うのです。

家族の写真や読んでいた本やCD・・・などなど手が止まってしまって捗らないのです。

私たち業者が整理片付けをする理由の一つはコレだなって思いました。

『思いを込めて手際よく!』ですね。

つくりかけのガンプラがありました・・・誰かにさしあげたい。

 

昨日は8Born初めての特殊清掃のお仕事をさせていただきました。

特殊清掃とは亡くなられて時間の経過したご遺体の跡を清掃するお仕事です。

今回の詳しい経緯はあえて書きませんが倉庫で亡くなられた後片付けです。

以前に東京の研修先でも経験しましたが夏場の人の腐食は早く、同じ匂いがしました。

しっかりと防護服を着用し感染防止に配慮しながら消毒、消臭、片付けの作業をさせていただきます。

もちろん仕事を始める前には線香を炊いてお経をあげさせていただきました。

亡き人の御霊に寄り添って作業を行う、遺品整理という仕事の中でも、この特殊清掃は一番大事な仕事だと思っています。

キレイになって匂いも消えて仏様も喜んでもらえたと感じました。

 

 

 

 

before

樹木が元気に育ち過ぎて電線に届きそう・・・・なので剪定させていただいております、痛いだろうけど我慢してください、少し枝を掃うだけだから。

after

樹木には景観を良くする他にも色んな役割があります、明治神宮の森の件も慎重に考えなければいけない問題ですね。

 

 

before

after

 本日は春日井市での生前整理でありました。

 

 やはり仕事の醍醐味はお客様の喜びの声を聞く時です。

 上のビフォーアフターいかがです? 我ながらなかなかだと思います。

丁寧に、段取り良く仕事を進めたので仕事も早く終わりました。

 

 うれしくもありがたい一日になりました。

 

 

 

 

 

 以前、ブログに書いたが、私は少し前に建築営業の仕事をしていたことがある。

リース建築の営業である。

 

 その時の上司に言われた言葉を最近よく思い出すのです。

「お前は営業の結果を急ぎすぎる!お客様にNGを出されそうになったなら出される前に退散しろ!営業とは対象者の分母を広げてゆく事が大事で、お前みたいに1件1件勝負していたらダメだ!」

 

 と言われた・・・・なるほど金に困った経営者だった私は実に性急な結果を急いだ営業をしていたのだと・・・・その染みついた癖が抜けないのだな。

 

 反省することが多い、もっとゆっくりしたい、余裕をもって、お客さんの立場でじっくりと仕事をしたいと感じる今日この頃です。

 

 スピードは大事だが、相手にまでスピードを求めたらアカン・・・・

 

 いろんな体験が自分を見直す機会になっているのだと感じます、ますますお客様の意見を傾聴して、じっくりと最善と思われる判断をしなければ。

 

 仕事の自慢じゃない話でした。