8月の盛夏の最中にお仕事のご依頼をいただきました。

内容は農地(畑)だった土地の

1.地上物(コンクリート杭、コンクリートブロック、フェンスなど)を撤去して処分

2.草を刈ってほしい(処分も)

3.整地してほしい

でした。

 

①着工前です、結構生い茂っています。

 

②草を刈りました、草刈りは得意です。

 

③地上物を撤去処分して重機で整地しました!

 

うーんさっぱり!良い仕事をした気がします。

それもスゴイお値打ちにさせていただきました。

8ボーンの仕事の自慢話でした。

 そうなのだ、やっと人生の灯りが見えた気がするのだ!

 

 柳ケ瀬のお化け屋敷を企画、立案、実施した時もそうだった。

地域の子どもたちが、あんなに歓んでくれた・・・それが一番うれしかった!

 

 今回はお年寄りの為に働きたい!2025年問題(団塊の世代が全員後期高齢者になる)を間近に控えてニーズの高まりをヒシヒシと感じる、同時に法も曖昧に営業する業者が跋扈する現実。

 

 やはり対象者の幸せを第一に考え、与えられたルールを守り、この現代の社会問題の解消に貢献したい!

 

 そう願っているのです! 

 

 こんな私ですが、あれから4年間、支援してくれた方々、励ましてくれた方々の御恩に報いるようにラストランを走っていきたいと願っております。

 

 色んなご相談にのらせていただきたい!困っている人の力になりたい!そう願って起業したと信じています。

 

 8Bornをよろしくお願いいたします。

人の最期のために働く・・・私にふさわしい仕事だ! と、思った

 

資格のための遺品整理士認定協会の教材で学んだ!

 

スピリット(精神)のこと

スキルのこと、マナーのこと、ルールのこと、非常に為になった、この認定協会のことを色々言う方がいるが、世の中の4tトラック一杯いくらみたいな方法で営業している業者さんの存在を見ると、この認定資格のフィルターは通らないと、スピリット

スキル、マナー、特にルールが曖昧模糊で営業している業者を抑制できないのでは?

と感じた。

 

横道にそれたが、机上の学習は資格修得の中である程度できた。 が、実地を積まなければ・・・・

 

私を受け入れてくれる所を探した

 

東京に見つけることができた2022年のゴールデンウイーク過ぎからお盆前の約3か月間、世田谷区の遺品整理部署で研修させてもらえることになった!

生まれて初めての東京暮らしに胸がトキめいた! しかし、そんな甘い幻想をすぐに打ち砕かれた!

作業は厳しくかった!あまり労働とか作業とかを経験していない私には本当にきつかった、同時に不器用な私は手際も要領も悪く、教えてくれた先輩たちにも迷惑をかけた・・・・申し訳ない、先輩たちは本当に親切にしてくれたし、仲良くしてくれたことにも感謝している、感謝だ!

 

東京にいけたおかげで、孤独死やゴミ屋敷の現実を垣間見ることが出来た、また作業することもできた。

現代の日本が抱える問題を体験できた。 寂しく孤独なゴミの中で暮らし、そして死を迎える人がいる!という現実を知ることが出来た。

 

これは私がこの仕事を始める上で貴重で必須な経験だったと思っている。

 

人の最期のために、地域と人の幸せのために働きたい!そう確信した東京研修でした。

 

また、書きます。

 

 

 2021年には会社の整理も終わり個人としても復権させてもらうことができた。

懺悔と感謝の連続であります。

 

 そうしているうちに2022年が明けた、2019年からの様々な出来事が色々な気づきを与えてくれた。

 

 サラリーマンの適性がないこと。

 人を使うことも(リーダーシップ)上手でないこと。

 あきらめが悪いこと・・・

 

 2022年に私は58歳になる、還暦カウントダウンである。もう一度立ち上がって人の世に立ち、人と地域のために働きたい!そう思うようになった、ラストチャンス、ラストラン、もう自分に残された時間は多くない!と感じていた。

 

 そんな時に遺品整理についてのTVを観た。

戦後のベビーブームに生まれた、いわゆる団塊の世代が2020年から後期高齢者になる、戦後の核家族化の浸透もあいまって、ゴミ屋敷、孤独死という問題が社会問題となってきていると、、戦後日本を支えた、いわばこの国の功労者の人たちが悲しい最期を迎えている現実、

 

      そういう人たちの「良い最期」の為に働く!

 

      遺品整理を自分のラストランの仕事にしたい!

 

 そう考えるようになったのです。   続きはまたです。

 全く上手くいかない私だったが、それでも2021年の初頭に引っ張ってもらえる会社があり再就職となった、今度は建築設備関係の会社だ、この会社もとても良い会社だった、会社の皆は親切で仲良くしてくれ、居心地が良かった。

 

 しかし、申し訳ないのです、56歳の私は細かいことや作業が苦手なのです・・・・

そんな間に合わない私にイライラしてキツイ言葉を言う人もいました(会社外の人です)

 むいて無いのだ、サラリーマンの適性が無いのだ・・・・ようやく自分自身に気づき始めた・・・・遅ればせながらの気づきだった。

 

 苦し紛れに今さら勉強を始めた私、やはり建築系の資格を取ろう思った、、、、

資格試験には苦い経験がある、若いころ一級建築の試験にすべり続けたのです、いや言い訳になりますが一次試験(学科)は通るのです3回も通りました・・・しかし二次試験(製図)が苦手で6回も落ちてしみました、結局、一級建築士は所得できずに挫折してしまいました、全く不器用なのです。

 2020年から2021年にかけて、一級建築施工管理技士、インテリアコーディネーター、福祉住環境コーディネーターの試験に合格することができました!

頑張りました!そして2022年にもう一つ遺品整理士という資格を取得しました。

 

 また、この続きを書きますね。

 8月19日の続きです。

そんな2019年も終わり2020年になって、私も働かなければ・・・と思い

1月に職業安定署(ハローワーク)に行きました、岐阜は気が引けたので愛知県一宮の職安に行きました、ちゃんと背広着てネクタイ締めて履歴書をもっていきました。

なにしろ初めての職安なので要領を得ずウロウロしていると係りの人が「どうされましたか?」と尋ねてくれたので私は「はい、仕事をさがしています。」と言うと、少し驚いた様子で「はい、ではこちらへどうぞ」と面談ブースに案内してくれました。

履歴書に基づき自分のことを説明すると、優しい面持ちで「こちらはどうですか?」と愛知県の建設会社を紹介してくれました、私はその日のうちに本社に面接に行きました。

 本当に親切な面接の人でした、社長だったこと、倒産したこと、破産したこと、先月に父を亡くしたこと・・・包み隠さず話したら・・・うちで働いてくれる?

と言ってくれて採用してくれました55歳の再スタートです。リース建築(アパートとか)の営業です、地域の訪問営業です(飛び込みです)それでも張り切って毎日飛び込みました・・・・・2020年の3月にコロナがきました・・・・あの3密などと言い混乱した状況ではなかなか訪問もうまくいきません、消毒液を噴霧されたこともありました・・・・それでも訪問を続けるうちに見込み客に出会うことができました。

かなりの大口で内心は『やった!!やった!!!さすが俺❕』と思いました。

順調にお客さんとの打ち合わせも進み、さて仮契約!という段階で話が急に無くなってしまいました、詳しくは言えませんが仕事が無くなってしまったのです。

 その時の上司の人が私の状態をひどく心配してくれました。毎日のように私に

「気にするな、今回は運が悪かっただけだ、お前は実力がある!次頑張ろう!大丈夫」と励ましてくれました、今まで、人に慰められたり、励まされたりすることは無かったので変な感じでしたが、ううれしくもありました。

 

 少し、メンタルがやばくなってきて、せっかく入った良い会社でしたが2021年の初めに退職することになりました・・・申し訳なかったです。

 

 それからまた再就職をすることになりました。

 

 また書きます。

 今日は8月19日です。

4年前の2019年の今日、私が社長をさせていただいた会社が事業停止つまり倒産した日でした。

 その頃のことを思うと今でも迷惑をかけた自責の念で苦しくなります。

思えば、同時に多くの困難が降りかかった時でした。

恥ずかしいのですが、私は対外的には「不退転の男」などと嘯きタフな男を装っていました・・・今も書きながら苦しくなってきています。

 

 8月19日以前のことを書くのは迷惑をかけた方に申し訳ないので書きませんが。以後のことを少し書きます。

 

 私は精神的な重圧と不規則を極めた生活で身体を壊してしまいました、絶えず咳をしてヒューヒューという変な呼吸をしていました、体重減少がおきフラフラでした。

何よりも心が痛み嘔吐と下痢が続きました・・・・しかし『このまま死んでしまいたい』と思っていた私は心身の悪化をむしろ喜んでいるようなところがありました。

人の目が絶えず気になりビクビクと怯えていました。

 

 2019年の後半はそんな風に生きているだけの状態でした会社の片付けと弁護士さんと会うこと、あと生きるために働く仕事をするぐらいの日々でした、そんな年末に会社の創業者である私の父が亡くなってしまいました、そんなに忙しくないので父の最期にいられたのは良かったです。 

父の葬式は立派にしたい!と以前から思っていたのですが、状況から近親者だけの葬儀となってしまいました2019年の12月の出来事です。 どん底だな・・・・と感じた日々です、しかしこんな状況の私を励まし助けてくれた人たちが何人かいてくれたのは幸せなことでした、 でも大抵の人は噂好きなのでしょうか? 彼は計画倒産した、とか財産を隠したとか、偽装離婚したとか・・もっと書きたく無いような事を言っていたようです。

本当に一文無しになって貯金も家も車もなくなってしまいました、妻とも離婚などしてないし、生きるために何かを隠したら生きていけないと思っていたのです。

 

 それでもそう言われても仕方ない・・・と感じてもいました。

 

 そんな風に2019年が終わっていきました。

 

 なんかしんどくなってきたので一旦書くのをやめます。

 

 例えば、プロ野球の選手って大抵25歳ぐらいで引退してセカンドキャリアが始まる、大相撲とかサッカー選手とか、プロスポーツ選手に共通した環境です。

 

プロになるほどの人はアマチュア時代には華やかな誇るべき実績があるわけで、そこからが苦しいのじゃないかな?

 

 それに似た感じです。

 

 日々是好日という禅の言葉があります、昔に読んだ本に書いてあった言葉なのでうろ覚えではありますが概ね、

  

      良い天気の日を知っているから雨の日を嫌だと思う。

 

雨の日しか知らなければ雨の日も良い日だと思える、ってことかな?つまり人は絶えず比較の中で優劣を規定して一喜一憂しているのだろうか・・・・

REBORNとBORNの差はそんなところなのだろう新たに生まれたなら過去の自分との差に苦しむことは無い!と私の大切な友は社名を決めるとき言ってくれたので、頭の鈍い私は1年半の時間を要して、ようやく意味を理解できたのです。

 

 余談ですが、昭和39年生まれの私は巨人の星世代とでもいうべきか?あの現代では決して認められることは無いハングリー感を幾度となく繰り返された再放送を観ることで洗脳的刷り込みがされてしまっているようです。

「獅子は我が子をせんじんの谷に落とし、這い上がった子だけを育てる」

「ならばなぜ、あえて遠まわりをせなんだ飛雄馬!」

「とうちゃんは日本一の日雇い人夫です!」

などの言葉に少年時代激しく共感しながら観ていた私には達観したかの言いようも怪しいものですが、気づきとはそういうもので少しづつ毎日の営みの中で育てていけば良い、と少し楽に考えています。

 

偉そうな事を言えるような人間ではありませんが人を応援して励ませる人間になりたいと願っております。

 

 脱線気味ですが「社名」からの話でした。

 

 

 

 久しぶりの投稿になります。

弊社の社名は8born(エイトボーン)と言います。

社名を決める時に協力してくれた本当に大切な仲間と話しあっていました。

私は8ReBorn(エイトリボーン)にしたいと考えていました、しかし彼はReは必要ない!頑として主張しました。

私は親から引き継いで倒産させてしまった八創建設をもう一度再生する!との想いをこめて8リボーンにしたかったのでしたが、彼は譲らないのでした。

その時は押し切られるように社名を8Bornにしましたが、その後も社名については正直言って釈然としませんでした。

 

 話は変わります。

私は今から4年前に会社を倒産させる時に異常なプレッシャーから嘔吐と下痢を繰り返すようになってしまいました。それからもその時の出来事を思い出すと同じように嘔吐と下痢に苦しむようになってしまいました・・・・・(本当に苦しいです)

 

 何が苦しいのか?

 

突き詰めて言えば以前の自分と現在の自分のギャップが苦しいのです。

 

倒産とは色んな人に迷惑をかけます・・・・迷惑をかけてしまった人に会うと心が痛みます。

 

また、以前は社長だったし、立場やステイタス(好きな言葉ではない)があったので倒産以降の自分とのギャップに苦しんだのだろう。

リベンジ、リマッチ、リグレット・・・・リボーン・・・・何かやり直すとかやり返すとか?

やはりそれは以前の自分に対して、以前の出来事に対しての行動や言動だと思うのです。

 

 話が戻ります。

だから、生まれ直すとか、生まれ変わるとかじなく

過去の栄光も失敗も無く「新たに生まれたBORN」という解釈ならばビフォーアフターのギャップに苦しまずに生きることができる。

それでいいのか?それでいいのだ!と感じ彼のリボーンでなくボーンが正しいのだと感じられました。 もちろん過去を消せる訳ではないので背負っている訳ですが

気持ちは新しく生まれたBORNという意識で生きる!

そう感じるこの頃、8Bornにして良かったと思っています。

 

わかりにくい話で申し訳ないです。

突然だが私は岐阜市で生まれて岐阜市で育って岐阜市で生活しています。

今日は土曜日で少し時間があるので自転車で少年時代の記憶を辿ってみました。

↓は私の生まれた場所です。

この場所で生まれて高1まで暮らしたのです、その後、父の会社が手狭になり会社社屋のみとなり、最近まで会社があったのですが人手にわたり、久しぶりに尋ねると

誰かの家が建っていました。

近所のカシワやさんがあった場所です(今は調剤薬局です)よくここでコロッケや手羽先を買い食いしました(お使いにもいきました)ここらへんは商店街でした、八百屋さんや豆腐屋さん床屋さん喫茶店などが軒を並べていました・・・・が、今は寂しいですね。

↓この場所は昭和には存在した「ただの空き地」でした、学校が早く終わると子供たちが集い草野球をしました、今は駐車場でした。

放浪癖のある私は夏休みとかは昼から一人で放浪します。

この場所には確か古本屋があり街(柳ケ瀬)にいく中間地点にあたるので休憩がてら立ち読み(たまに購入する)していました。

あと、熱帯魚が好きな私は熱帯魚屋に立ち寄りました。

水槽の中の様々な熱帯魚に心が躍りました(たまに購入します)

そして街にあるレコード店(まだCDは発明されていない)でレコードを眺めます。

(たまに購入します)

LPは2500円したのであまり買えませんでしたが・・・・

随分と変わってしまった我が町ですが、いい思い出がいっぱいです。

ノスタルジックな良い気持ちです。いろんな出会った人たちをおもいだします。

これからも我が町「岐阜」のために頑張りたいです。

では!