第2章 規範倫理学に批判的な立場からの社会適応についての検討
2-1倫理的利己主義
この節では、まず、ジェームズ・レイチェルズ著『現実を見つめる道徳哲学』の第6章「倫理的利己主義」をもとに、①倫理的利己主義とはどのような主張か、②その主張の正当化の根拠は何か、を説明する。次に、それを踏まえたうえで、③倫理的利己主義の立場では社会適応はどのような位置づけになるか、を考えていく。
倫理的利己主義とはどのような主張か
レイチェルズ(2003)によれば、倫理学的利己主義とは、人はもっぱら自分の利益を追求すべしとする立場である。我々がいかにふるまおうとも、我々自身にとって最善のことを行う以外に義務などない、と倫理的利己主義は説くのである。レイチェルズ(2003)は、倫理的利己主義が正確にはどのようなことを言っているのかについて、以下の3つの点を挙げて説明している。
(1)第一に、倫理学的利己主義は、人は他人の利益と同じように自分の利益をを促進すべしだとは言っていない(中略)そうではなくて倫理学的利己主義は、各人の唯一の義務とは自分自身の利益を促進することだ、という過激な意見なのである
(2)しかし、倫理学的利己主義は、他人を助けるような行動を避けるべしだとも言っていないのである。(中略)倫理学的利己主義は、そうした行動を禁じるものではない。(中略)そうした場合においても他者への恩恵がその行動を正しくしているのではない、と主張しているだけなのである。行動を正しいものにするのは、そうすることが自分の好都合になるという事実なのである。
(3)最後に倫理学的利己主義は、人は自分の利益を追求することにおいて、やりたいことや、手っ取り早く最も多くの快を与えてくれることを常にすべきである、とほのめかすものでもない。(中略)人間は長い目で見て、本当に自分の好都合になることをすべきであるというのである。
倫理的利己主義の主張の正当化の根拠
以上が倫理学的利己主義とはどのような主張かについての説明である。では上記のよう
な倫理的利己主義の主張はどのようにして正当化されるのか。レイチェルズ(2003)は、この主張を支持するために議論がなされる場合、一般的には三通りの理屈付けが行われているとして、倫理的利己主義を支持する3つの主張を挙げている。その内容は以下のようなものである。
(その一)第一の主張にはいくつかのバリエーションがあるが、いずれも同じ一般的な論点を挙げている
1 我々は誰しも、自分が個人的に欲しているものや必要としているものについては直によくわかる。さらにこれらの欲求や必要を効果的に追及するようにできている。だが、他人の願望や必要物については不完全にしかわからないようになっている。そのため、それらの追及についてはあまりうまくいかない立場に置かれている。それゆえ、仮に我々が「我々の兄弟の守護者」たらんとすると、しばしば失敗して挙句の果てに善より害を与えてしまう。
2 また同時に、「他人のために」という方針は他人のプライバシーへの過剰な介入である。それは本質的に大きなお世話なのである。
3 他人を自分の「慈愛」の対象にすることは、彼らの品位を下げることになる。それは彼らから個人としての尊厳と自尊人を奪うことになる。実際、慈悲を与えることは、彼らが自分でやっていけないということを示すことなのだ。いうべきは自力更生である。それなのに、彼らは独立独歩たることを止め、消極的になり他人に依存するようになってしまう。このことが、「慈愛」を受けるものが感謝よりもよく憤慨する理由なのである。
(その二) 第二の主張はかなりの程度、アイン・ランドAynRandによって推し進められた。(中略)私が思うに、これらすべての言葉は次のように要約できる一連の議論の部分であろう。
1 一人の人間には一つの生しかない。もしわれわれが個人に価値を置くならば‐つまり、個人に道徳的価値があるとするならば‐この生にこそ至上の価値を認めなければならない。結局、それこそ一人の人間が持つすべてであり、一人の人間のすべてなのである。
2 利他主義の倫理は、個人の生を他人の善のために進んで犠牲にせねばならないものとみなしている。
3 それゆえ、利他主義の倫理は個人としての人間の価値を真剣に受け止めていない。
4 各人が自分自身の生を究極の価値を有するものとすることを認める倫理的利己主義は、個人としての人間を真剣に受け止めている。実際、倫理的利己主義はそのような唯一の哲学である。
5 したがって、倫理的利己主義こそ受け入れられるべき哲学なのである。
(その三)倫理的利己主義の第三の理由付けは幾分異なるやり方を取る。
第三の主張は、理論と言う観点からすると、基本となる原理の数が少ないほど、その理 論は優れていているから、一番いいのは基本的理念がひとつだけで、それから他のすべてが導き出せることである。そうすると、倫理的利己主義とは我々のすべての義務を究極的には私益という単一の基本的原理から導き出す理論であり、常識の道徳、を驚くほどうまく説明し組織化できる。
倫理的利己主義における社会適応の位置づけ
以上で述べてきたように、倫理的利己主義における唯一の義務とは、自分の利益を追求するために最善の行動をとることである。したがって、社会適応が義務であるかどうかは、人によって異なるということになるだろう。社会適応がその人にとって利益になる場合は、その人にとって社会適応は義務(広義の義務)であるし、利益にならない場合は、その人にとっては社会適応は義務(広義の義務)ではないということである。
2-2文化相対主義
この節では文化的相対主義について参考書をもとに文化的相対主義について説明した後、文化的相対主義において社会適応はどのような位置づけになるかについての私の見解を述べることとする。
文化相対主義とは
すべての文化に共通する客観的・普遍的・絶対的な正しさの基準は存在しない。したがって私たちの信奉する伝統的な価値体系は一つの特殊な文化の産物であり、それ以上ではないとする立場が文化的相対主義である。
文化相対主義の前提:異なる社会は異なる道徳規範を持つ
文化相対主義の前提は、異なる社会は異なる道徳規範を持つということである。宗教学者や文化人類学は、道徳規範が時代と社会によって異なることを発見した。たとえば、アラスカ原住民には新生児殺しの習慣があった。イスラム教徒には一夫多妻制がある。ユダヤ教徒は肉を食べないし、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べない。現在では、世界中の様々な慣習が知られている。(「現代倫理学」)そうした事実から、すべての文化に共通する客観的・普遍的・絶対的な正しさの基準は存在しない。唯一の基準がないのだから、すべての文化における規範はすべて同等に正しいとみなされるべきであるとするのである。
相対主義の正しさへの見解の特徴
多様性にかんする見解や、絶対的、客観的、普遍的、な真理(正しさの基準)を知る可能性を否定するという点は相対主義だけではなく、懐疑主義も同じである。しかし、相対主義は懐疑主義に対して、正しさの基準を知る可能性を否定するよりも、むしろ多くの正しさの基準が存在するという方針を採る。唯一の客観的真理を確認するための基準が欠けているからといって、正しさの基準の基準がまったく存在しないということにはならないのである。そうではなく、各々の社会が、それ自身の正しさの基準の基準をもっているのである。
相対主義における正しさの基準と、その根拠
文化相対主義ではある一つの社会の道徳規範が、その社会において何が正しいかを決定すると考える。その行為がその社会の規範と一致しているかを問うことで、行為が正しいか間違っているかを判断できるのである。したがって、文化相対主義における正しさの基準とは、その社会の道徳規範に見出される個々の具体的な正しさの基準である。
では、この正しさの基準の正当化の根拠は何だろうか。ウィリアム・グラハム・サムナーは以下のように述べている。
「正しい」やり方とは祖先が用い、これまで伝えられてきたやり方である。伝統こそその保証なのである。それは経験によって立証されるものではない。正義の観念は人々のやり方の内にある。正義の観念は人々のやり方の外にあるのではなく、独立した起源をもつものではなく、だからこの観念は人々のやり方を検証するためにもたらされたのではない。人びとのやり方においては、何であれそこで行われていることが正しいのである。というのは、これらが伝統的で、それゆえそれら自身のうちに祖霊の権威を含んでいるからである。人々のやり方に至ればそれで分析は終わりである。
文化相対主義における行動指針
文化相対主義は、絶対的・普遍的な正しさは存在しないが、どの社会も、どんな道徳的信念や道徳的実践がその社会にとって正しいかを見出すことはでき、それゆえ、それに従って生きるべきであるとしている。
また、他の社会に対する態度としては、自らの主観的な基準を正当化する客観的で普遍的な基準、つまり絶対的な基準がない以上、他の社会の基準を客観的に批判することはできないし、そうするための客観的、普遍的な資格や権利はない。他の社会の道徳観念はその社会にとって正しいとみなすべきである。つまり、「各社会がそれ自身の価値、信念、理想によって理解されるべきである」とする。
文化相対主義における社会適応の位置づけ
社会に適応するということは、その社会の規範に従った行動をすることである(その社会の個々の具体的な基準に一つ一つ従うことでもある)。文化相対主義においての正しさの基準は、その社会に見いだされる個々の具体的な正しさの基準であるから、それに従った行動である社会適応は、正しい行動であり、義務(広義の義務である)と言える
2-3懐疑主義
懐疑主義とは
懐疑主義とは、平静心(幸福)を得る事を目的とし、その手段として判断保留を行う立場である。
懐疑主義の目的
懐疑主義者の目的は、平静心(幸福)を得ることである。懐疑主義を生むことになった動機を、セクストスはこう書いている。「懐疑的な生き方をはじめさせることになった原理は、平静心(アタラクシア)を得たいという願望である。すなわち、才能ある人々は事物の不規則性によって心が乱れ、そうした事物のうちのどれに同意すべきか当惑した」。
どういうことかというと、懐疑主義が生まれた時期はことのほか混乱の激しい時代であった。ギリシア人たちがそれまでその全生活において依拠していたポリスは崩壊していたし、アレクサンドロスの領土拡大によって、異国の知恵や風習がギリシアに押し寄せてきた。ギリシアにおいて善いことが他国においては悪であることが判明する。要するに巨大なカルチャー・ショックギリシアを襲い、人々は真偽・善悪の判断の基準を失ったのである。こうした状況にあって人びとが望んだのは幸福すなわち平静心であり、この期待に応えようとしたのである。
そこで、懐疑主義者は初めは諸々の表象を判定して、そのいずれが真であり、いずれが偽であるかを把握し、その結果として平静心に到達することを目指して、哲学を始めたのであるが、けっきょく、力の拮抗した反目の中に陥り、これに判定を下すことができないために、判断を保留したのである。ところが判断を保留してみると、偶然それに続いて彼を訪れたのは、平静心であった。
なぜ判断を保留すべきなのか
では、なぜ判断を保留しなければならないのか。セクストスによれば、「懐疑的論争の原理はもっぱら、あらゆる意見にたいして同等の意見が対置されるということ」だからである。ここで「同等の」という言葉の意味は、説得力が同等だということである。そして、この「同等の力」を論証するのが、「方式」の議論である。
アイネシデモスの十箇条の方式
第一方式:動物相互の達いを論拠とする方式
「殼で覆われた動物、肉で覆われた〔柔らかい皮膚をもった〕動物、そして羽毛あるいは
鱗をもつ動物が、同じ触覚的感覚をえると、どのようにして言えるだろうか。あるいは、
非常に狭い耳道をもった動物と非常に広いそれをもった動物、もしくは毛で覆われた耳を
もった動物と剥出しの耳をもつ動物は、音を同じように把握すると、どのようにして言え
るだろうか」(PH.I, 50) 「香油は人間にとって非常に好ましいけれども、黄金虫や蜜蜂に
とっては堪えがたい。オリーブ拙は人間にとって有益である。しかしこれをふりかけられ
ると、スズメバチや蜜蜂は死ぬ」(PH.I, 55 )
第二方式:人間相互の達いを論拠とする方式
「人間の知性における大きな、そして無限の違いをもっともよく示してくれるのは、さま
ざまな事柄に関する教義哲学者たちの論争、とくに何を選び何を避けるべきかに関する論
争である」(PH. 1, 85)
第三方式:感覚相互の違いを論拠とする方式
「絵画は目には立体的に現われるが、触覚にはそうではない」(PH. II 92)。「生まれつき触
覚と嗅覚と味覚はもっているけれども、聞くことも見ることもない人のことを考えてみよ
う。この人は、そもそも見えるものとか聞こえるものがあるなどとは思わずに、自分が捉
えることのできるあの三つの種類の性質だけがあると考えることだろう。それなら、五つ
の感覚器官しかもっていないわれわれもまた、林檎の性質のうち、われわれが捉えること
のできる性質だけを捉えているが、しかし、それ以外の性質も本当は存在しているという
こともありうる」(PH.I,96-97)
第四方式:さまざまな状況の連いを論拠とする方」
「自然にかなった状態にあるかそれとも自然に反した状態にあるかに応じて、事物は相異
なるものとして現われる。なぜなら、気の狂った人や神懸かりになった人は、われわれに
は聞こえない霊の声を聞いていると思っているからである。……われわれにはぬるく思わ
れる同じ水が、炎症を起こした部位に注がれると熱いものとして現われる。……自然に反
した状態にある人たちにはある種の[悪い〕体液が混入しているがゆえに、彼らは本当に
存在するものから不適切な印象を受け取っているのだ、と言う人がいるのなら、彼には次
のように言い返そう。すなわち、健康人の体液だって混合しているのだから、この混合し
た体液のせいで、外側に本当に存在するものが健康人には〔その本当にある在り方とは〕
別様に現われているのであり、かえって逆に、自然に反した状態にある人々に現われる在
り方のほうが、外側に本当に存在するものの本性上の在り方だ、ということもありうる」
(PH.I, 101-102)
第五方式:位置と距離と場所を論拠とする方式
「同じ船は遠くから見ると小さくて止まっているものとして現われるのに、近くから見る
と大きくて動いているものとして現われる。そして、同じ塔が遠くからは丸く現われるの
に、近くからは四角く現われる」(PH.I, 118)
第六方式:混合を論拠とする方式
「たとえば、われわれの肌の色は暖かい空気のなかにあるときには、寒い空気のなかにあ
るときとは違って見える。そして、われわれの肌の色は本性上いかなるものであるかを語
ることはできず、肌の色が空気と一緒にその都度どのように観察されるかを語ることしか
できない」(PB. 1, 125)
第七方式:量と組成を論拠とする方式
「砂粒はばらばらになっているとざらざらしているが、一箇所に集められて塊になると軟
らかく感じられる」(PH. 1, 130)
第八方式:「何かに対して」[相財性〕を鍮拠とする方式
「この方式によってわれわれは、すべては相対的であるがゆえに、事物が絶対的かつ本性
上いかなるものであるのかに関して判断を保留せざるをえないと結論する」(PH.I, 135)
第九方式:頻繁に出会うか滅多に出会わないかを論拠