中央大学卒論第三章続き | 女性発達障害アラサー中央大学とシューレ大学卒税理士試験受験生ASDと高次脳障害のハリネズミのブログ

女性発達障害アラサー中央大学とシューレ大学卒税理士試験受験生ASDと高次脳障害のハリネズミのブログ

アラサー中央大と卒とシューレ大学卒の発達障害(asd)と高次脳障害のハリネズミです。ラップファシリテーターと日商簿記2級の資格を持っています。今は税理士を目指して勉強中です。
これまでの経験や通っている障害者の生活介護pでの様子などを書いています。

<精神面>

 ・上手く合わないものに合わせようとする努力(7章2-1)

 

・結局なおらなかった場合の失望や自らに対する否定(7章1-3)

・過去いくつかの「療法」が流行した。(中略)後に、結局のところ「効かない」ということになって、(中略)本人とそして親の多くの時間が消費され、期待や失望や自らに対する否定が積もり、そしてその後に徒労感が残った。

 (『自閉症連続体の時代』)

 

 

・できるようになったとしてもむしろ精神的負担が強くなる場合もある

 なおすことがむしろ本人にとってみればよくない場合もある

 

『発達障害の再考』

・自閉症とか発達障害の人たちというのは、独特の世界があるので、それを無視して社会に適応しようとか、健常のルールばかりを覚えさせると、本当につらくなってしまいます。

・健常のルールばかりを教えてしまうと、その子の個性だったり、発達障害らしさというものを奪ってしまい、それが二次障害を引き起こしたり

・当事者たちも健常の文化に一生懸命合わせている部分もあるのですが、その合わせているところで評価されてしまうと、一方通行になってしまうのです。本人にとってそれが本当に良いことなのかどうかユーザー視点に立つことも大事だと思います。

 

 『アスペルガー症候群のある子どものための新キャリア教育』

・アスペルガー症候群の人たちは、多数派である一般の人たちと異なる感性や興味を持ちます。

・アスペルガー症候群の人たちは、ただでさえ学校や職業生活を通じて一般社会への統合を常に求められる存在です。一般社会の中で周囲との違いを感じながら、一方的に合わせることだけを求められ続けて育った場合、その人の心の健康はどうなるでしょう。アスペルガー症候群の当事者によって書かれた自伝から、その心中をうかがい知ることができます。

・(アスペルガー症候群の人たちの不便さは、人とのコミュニケーションや社交のスタイル、興味や価値の持ち方など、生活全般にわたって、また人生を通じて、続きます。そして、このことで当事者がどれだけ苦労をしているか、身近な家族でさえ、十分に理解することが難しいのです。)

 

『私たち発達障害と生きてます』

 <普通の人の振り>をする勉強

・知識を得たおかげで「普通の人の振り」が得意になりました。

・ですが、認められる代償は大きかったのです。もし、私が“人間のにせもの”だとお客様にバレたら会社に迷惑がかかると思い、ますます恐怖はつのりました。また、社会に受け入れるためには、<内側の世界の私>を否定し、抑え込まねばなりませんでした。

・仕事や日常で、<人間ごっこ>をしている<外側の世界の私>がますます認められるようになるにつれ、“本来の私”は否定されていると被害的に思い込むようになり、虚無感と生きることをおしまいにしようという気持ちがさらにつのりました。

 

 

なおすためのコストは見られない・できる限りとされやすい

 

・本人にとっての正負が見られない・考慮されない(前述のような~)

 →できる限りとされやすい

『なおすことについて』『自閉症連続体の時代』から引用

 

片側しか見られない/問題の所在自体感じられていない

『なおすことについて』『造反有理』から引用

 

・仕組みのもとではデメリットも必然的におこる

・社会も大きく関与している

 

 

 あまり結果の期待できないものに労力を費やさなければならないという負担

・多くの場合に上手くいかない

・7章1-2

・ただ大勢としては苦労することになる。だから支援もされそれには一定の効能がある。しかしそれは多く、その障害に応じた場ということである。それはそれでよい。ただそれは上手く合わないものに合わせようとする努力の場であり、そしてそれは、もとから不得意なのだから当然のことなのだが、そうそううまくはいかない。

(7章2-1)

 

(・関係性の影響)

 

 ・不利益は本人だけに残される

・なおすことの過剰について。(中略)病をなおすことは、別の人たちにとっては、まず、できることを確保できないことを減らすためになされる。それはとりわけできないことをなおす場面に起こる。それがよいことであり、一番のことであるとされ、それ以外のことは次善であるとされる。出来ないことの多くは代替可能であるとはいえ、なかなかそうはいかないこともあるから、それが本人自身にも求められる場合があることは認めよう。ただそうでないこともある。本人においてなおすことが不要である場合、すくなくとも益の少ない場合がある。だが、そのための支払い、種々の苦痛は顧慮されないことがあって、そのことによって、合計すると本人は不利益を被る。それでもなおすことがなされるのだが、それは多くの場合に上手くはいかない。その不利益は結局のところ本人だけに残される。

・ただ、ここでことをやっかいにしているのは、病にしても障害にしても、すくなくとも期待されるその時点では、なおす技術が成功をもたらす可能性がまったくないわけではないということである。

 

 

当然かどうか

・規則・価値の正当性

 

・社会との関係(見方/負担の配分)

 以下のような考え方もある

 

『自閉症連続体の時代』

病や障害のある人々を生きにくくまた生きやすくさせることのある部分、しかし大きな部分に関わっているのが社会である

 

 

『自閉症連続体の時代』

・第一に、二つ(以上)の世界についていずれかの優劣を言えない。(232)

・そして第二に、無理にある型を当てはめるべきではない。(232-233)

 

・そのうえで実際に何を言うか、すうるか。時に難しくはある。だが近づくことがそのまま望ましいことでも正当なことでもないという認識は基本に置かれる(233)

 

・摩擦は間に起こっているのだが、そこでより大きな負担を与えられているのは多くの場合に本人とその近い周囲であり、そうである限りそれは-そもそも等しい負荷など正確には規定しようがないのだが-公平を欠くので、是正されねばならないということになる。(233-234)

・それを成り行きに任せれば多数派に有利になる。そのことを計算しながら按配がなされることになる。(233)

 

 

・「なおすことがよい」について

・障害全般を考えてみてもよい。たとえば、知的障害にしても、それ自体としては苦しいものではないだろう。とすると、その状態をなくそうとすること、改善しようとすることはどういうことなのだろうか。(『なおすことについて』)

 

・つまり、すくなくともそれらの行いを、本人の苦痛を除去・軽減するものとしての「治療」と混合すべきではない。(『造反有理』)

 

・当然とされていることによってなぜ当然なのかの理由が問われない

・問題が意識されない・見られない

 

 

3-4 負担:まとめ

この社会の規則と価値のもとでは、必然的に負担の偏りが生じる

規範は平均からずれる人への負担が大きい

負担自体だけでなく、負担が当然・正当とされることによる負担も生じる

 

 

 

本文準備:3-5 規範に伏在する暴力性

 

規範に伏在する暴力性

以上の議論から、社会適応が規範であるとされる場合、障害者の社会適応において、規範の暴力性の問題が発生すると言うことができる

 

価値の設定による暴力性

・道徳的な「善さ」「正しさ」を定めることは逆を定めることでもある

・そのため、障害が単に不便なだけでなく、道徳的によくないとされてしまうこともあ 

 る

 

負担の正当化

・この社会の規則と価値のもとでは、必然的に負担の偏りが生じる

・しかし、この社会の規範が当然、正当とされていることによって、偏った負担が意識されなかったり、正当化されたりする

・その結果、負担自体だけでなく、負担が当然・正当とされることによる負担も生じる

 

 

規範に伏在する暴力性の特徴

今までの議論から考察すると、規範の暴力性には次のような特徴があると言うことができるのではないか。

 

・規範が規範であるがゆえに暴力性はより強力である

・規範が規範であるがゆえに、その暴力性は正当化されやすく、その問題点は自覚されにくい

 

また、以下にあげる例からもその特徴が確認できるだろう。

 

・発達障害者の体験談にはよく、小学校のときのクラスの反省会での「つるし上げ」の話が登場します。そこでは、クラスの基準から外れているとされる子供が同級生によって指摘され、その子はクラス全員に反省と謝罪をさせられる、という光景が繰り広げられます。「学級のメンバーとして達成すべき課題が達成できていない」「あるまじき行動をとっている」「果たすべき役割を果たしていない」などが、指摘の理由になります。しかし、この学級活動にはかなり問題があります。(中略)能力的に不利を抱えた子どもも、クラスの基準から外れているという理由で標的にされる危険性が高いと言えます。【高森明(2010)『漂流する発達障害の若者たち』ぶどう社、p94-95】

 

・私たちはここに、学校でのいじめを含む暴力の原形を見ることができます。一般的に言われていることとは異なり、暴力は集団の基準に反した行為ではありません。むしろ「集団の基準」を最大限に利用して行われる行為なのです。(中略)このように集団の基準を利用して繰り広げられる暴力のことを、私は「道徳的暴力」と呼びたいと思います。道徳的暴力では「あいつにはこれこれの問題がある」という正当化がなされます。能力にでこぼこのある発達障害者なら、口実となる集団の規準からの逸脱点を探し出すのは簡単でしょう。【高森明(2010)『漂流する発達障害の若者たち』ぶどう社、p96】

 

 

結論

・社会適応が規範であるとされる場合、障害者の社会適応において、規範の暴力性の問題がある

・規範の暴力性の問題が発生するのは、障害者における社会適応の場合に留まらない

・そもそも規範には暴力性が伏在している

・規範が規範であるがゆえにその暴力性はより強力である

・規範が規範であるがゆえに、その暴力性は正当化されやすく、その問題点は自覚されにくい

 

 

 

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